/////////////////////////// 雨よ、君の呼び声よ /////////////////////////// <序> 空は曇天。今にも降り出しそうなほど垂れ込めた雲が、頭上に広がっている。 風の中には、わずかに雨の匂い。 ――降るか。 洋室の開け放した窓から曇り空を見上げて、緋芽宮総一郎はそう思った。 溜息一つ、気分転換のために開いていた窓を閉めて、樫の机に向き直る。 机の上には書きかけの手紙。総一郎は椅子に座り筆をとるが、一文字も書かぬうちに置いてしまう。そしてまた、溜息をついた。 手紙を書くのは苦手だと心の中で呟いて、また窓の外へと目をやる。 空に垂れ込める灰色の雲と同じく、自分の心持も暗いと総一郎は溜息を零す。 今日何度目の溜息かと考えていると、部屋の扉が叩かれた。 「はい、どうぞ」 「よう。進んでいるか、我が弟」 開いた扉と同時に顔を出したのは総一郎の兄、左近だった。 明るい笑みを浮かべた青年はずかずか部屋を横切ると、無遠慮に樫の机の上に座った。そして、放置された手紙を奪うと覗きこんで、一言。 「……なんだ。先程から一文しか進んでいないじゃないか」 「苦手なんだよ。手紙は」 言って総一郎は左近の手から便箋を奪うと、頬杖をついた。 緋芽宮総一郎は今年、十九となる。 周囲の教育の賜物か。緋芽宮子爵家嫡男としての自負も大分と備わってきた所だが――その行動はどこか幼さも感じさせる。 それは、年頃の男性にしては活発な少年めいた顔立ちのせいか。はたまた、彼自身の気質のせいだろうか。 洋服を着て机に座るよりは、胴着を着て竹刀を振るっているほうが似合いそうな、凛々しい少年の風である。 「手紙がか。嘘をつくな、総一郎。お前が苦手なのは、婚約者の桜子姫だろう」 一方、総一郎の兄、左近は今年二十九となり、どこか獣めいた力強さと妖しさを感じさせる風貌の男だった。 擦れたようにも見えて、華族としての気品は損なっていない雰囲気。洋服に包んだ体は大きく引き締まり、腕を少し動かしただけでも派手な動作に見えた。 「あの可憐な姫の何処が気に入らんのだ。変わり者め」 言って笑いながら、左近は総一郎の頭をかいぐった。 整っていた黒髪が、あっという間に指の間で乱れる。 「ああ、もう。やめてくれよ、兄さん。これでも一生懸命なんだから」 声を上げて、総一郎は自身の頭を動かす手を振り払い、左近を睨みつける。怖い怖い、とおどけながら、左近は机から立ち上がった。 「はいはい分かりましたよ、総一郎様。もうお邪魔は致しません」 両手を挙げて、左近は笑う。その笑顔をねめつけながら、総一郎は再び便箋へと視線を落とすが、書くべき文句が思いつくわけではなかった。 ――桜子が嫌いなわけではないのだが。 文字を書く振りをして、総一郎は婚約者の顔を思い出す。 総一郎が生まれた緋芽宮家には、古くは明治から大正の今の世に至るまで懇意にしている一族がいる。 それが、朱鷺宮子爵家。同じ華族の家柄で、姻戚関係にある一族である。 総一郎にとって婚約者の桜子は従妹にあたり、幼い頃からともに育った間柄であって。 ――妹のようなものだと思うのだ。 そんな彼女と結婚せねばならぬ未来を思うと、総一郎はただただ、気が重くなるのであった。 彼女に対する想いは、男女の恋や愛とは流れを異にする、家族への情だと常々感じている。 家族と婚姻出来る者がはたしているだろうか、と疑念を抱くときもあるほどだ。 「ところで、右近兄さんはまだ?」 筆を休める振りをして訊ねると、左近は先程総一郎がいた窓際にもたれかかり、曇天を見上げていた。総一郎の問いに視線を下に戻すと 「ああ。父上と共に、華族院だ。――すぐ戻ってくるといっていたのだが、遅い」 顔にかかった前髪をなで上げ、左近は息を吐いた。そしてまた、顔を上げる。 「雨が降らなければよいが」 左近の双子の兄、右近は、将来は子爵家を継ぐ長子として現当主である父親の京一郎に付き従い、屋敷に戻ることは稀であった。 しばらく顔を見ていないと思うと、総一郎もまた、帰りを待ちわびている左近兄の気持ちが分からなくもなかった。 「……そうだな」 つられて、総一郎も顔を上げた。 空の灰色は、つい先程見上げたよりも濃くなっている気がする。 雨は確実に降る。そんな予感がした。 「馬車だから大丈夫だろう」 「そうといえば、そうなんだが……」 言って、左近は洋装の襟元を握り締めて呟く。 「なんだか、な」 左近の掠れた呟きが空気に消える。その刹那。 荒い足音が総一郎の部屋に近づいてきた。はっとして振り向くと同時に、扉が乱暴に開く。 「左近、総一郎」 声を荒げながら、部屋に転がり込んできたのは―― 「右近」 今、二人の口に名の上った男だった。左近とよく似た整った顔立ち。姿もまた、左近の纏っている服とは色違いの様相。 だが顔色は蒼白となり、表情は震えて歪んでいた。 「どうした、右近。久しぶりの再会をそんな」 「死んだ」 「は?」 左近の言葉を遮り、右近が声を上げた。 震えを無理やりに押さえ込んだ掠れた声。右近の様子に、左近と総一郎は顔を合わせる。 「父上が、死んだ」 静かに部屋に響く、右近の声。沈黙が部屋を支配する――そのとき。 ぽつ。ぽつ。ぽつ。 三人が立ち尽くす空間に、柔らかな雨音が響いた。 「……雨」 思考とかけ離れて、総一郎の唇から言葉がついて出た。 顔を動かすと、窓には水滴。暗い空から、雨が降っていた。 「……父上が、死んだんだ」 もう一度呟き、崩れ落ちる右近。その彼の肩を、震えた手で左近が抱きしめる。 雨音は次第に強くなり、やがて、帝都を深く水の檻へと沈めるのであった。 <第一章> その日は、朝から雨であった。 全ての音を食らいつくすほどの唸りを立て、天から雨が降ってくる。 ――雨だ。 ふり来る雨に打たれながら、総一郎は中庭に立ち尽くしていた。 父である緋芽宮京一郎子爵の葬式は、恙無く執り行われていた。 朝から右近兄が喪主として弔問客の対応に当たっている。左近もまた、彼を手伝って客への応対に追われていた。 喪服の群れを見ていると、父が死んだのだと実感が湧いてきて苦しく、総一郎は庭に出ていたのだが――どこにいても、何をしていても胸を覆う苦しみは変わらなかった。 父、京一郎の死因は、不慮の事故であった。 華族院から帰宅しようと馬車を待っていた折、事故にあったのだという。 『……父上が、死んだんだ』 死亡の知らせを持ってきた右近の言葉が、耳に蘇る。 京一郎は医者の到着を待つことなく、力尽きたのだと。右近はそう言った。 右近はただ医者を呼ぶことしか出来ず、己の無力を後悔しているようだった。 いつまでも後悔していても仕様がない、と励ます左近の明るさで葬式を執り行うまでに漕ぎつけたが、突如として大切な家族を失った虚脱感は如何ともしがたかった。 それはきっと、兄二人も同様であろうが――。 僕は、何をしているのだろう。 総一郎は雨で濡れた手のひらを握り締め、俯いた。 苦しいのは、悲しいのは、誰も同じなのに、逃げている。 それが分かっているのに、何もしないでこんなところにいる自分は卑怯だ。 言葉だけが頭を回るが、体が動かなかった。雨に打たれて、立ち尽くし、止め処もないことを考えることしか出来ない。 ――僕は馬鹿だ。 総一郎はふと、母が死んだときのことを思い出した。 母が亡くなったときはこうではなかったように思う。それは、幼かったからであろうか。 あの日も雨が降っていて、父も兄二人も黙り込んだままだった。それでも、子爵夫人である母を訪れる弔問客に精一杯、応対していたように思う。 あの時も、今も。失った悲しみは同じなのに、自分だけが何もしていない。ただ、大切な人を失ったという現実から目を背けているだけだ。 戻らなくてはと、総一郎が顔を上げたそのとき。 「……総一郎様」 雨音に紛れて、涼やかな声が響いた。続いて、ぱしゃりと水を弾く足音。 振り向くと、そこには雨に濡れた婚約者、朱鷺宮桜子が立っていた。 「桜子」 「……ここで何をしてらっしゃるのですか。濡れますよ」 そう言って口元に浮かべた笑みはとても優しく、総一郎を気遣う心に溢れていたが――その瞳は、悲しげに歪んでいた。 「桜子こそ。こんなところで何をしているんだ。濡れているじゃないか」 言って、桜子の喪服へと目を落とす。漆黒の着物はべたりと露に濡れ、烏の濡れ羽もかくやの様子であった。 彼女の姿に総一郎は、桜子が今ここに来たのではなく、ずっと前から立っていたのだということに気づいた。 「風邪をひくぞ」 「総一郎様こそ、こんなところで立ったままだと風邪をひきます」 わずかに苦笑して、桜子は総一郎を見やったが、やがて表情を曇らせると 「……この度のことは、本当に……」 頭を下げた。肩まで伸びた髪が、ゆるりと落ちる。 「朱鷺宮の叔父上たちも来ているのか?」 「……はい。今、右近様とお話されています」 顔を上げぬまま、桜子は言った。 「そうか。なら……僕も顔を出さないとな。桜子、屋敷に戻ろう」 「……はい」 頷いて、顔を上げる桜子。その顔は、くしゃりと歪んでいた。顔を濡らすものは、雨か、涙か。総一郎には判断が付かなかった。 ……おそらくは。 自分も同じ顔をしているのだろうと。 「ごめん……なさい。総一郎、様」 視線を合わせた途端。桜子の瞳がみるみるうちに雨ではないもので溢れた。口元を押さえ、また頭を下げる。 「ごめんなさい。ごめんなさい。総一郎様……総一郎様のほうがお辛いのに。私……私が、本当は……」 「いいんだ。桜子」 いいんだよ、と総一郎は言いながら、幼い桜子の肩を抱いた。 桜子にとって、京一郎は叔父に当たる。緋芽宮は男兄弟ばかりであったので、姪に当たる桜子への、京一郎の可愛がり方は尋常ではなかった。 桜子が京一郎から受けた愛情は、実父を越えるものかも知れぬ。 そんな大切な人を失って桜子が泣くのも当然だと、総一郎は思った。 「叔父様が……こんな……なんで。なんて、ひどい……こと!」 泣きじゃくる桜子を抱き寄せて、そっと頭を撫でる。髪も体も全て濡れ、腕に抱いた少女はひどく冷たかった。 涙する彼女の姿に――やはり父は死んだのだ、この世にはもういないのだと、総一郎は感じた。知らず、目頭が熱くなる。 泣いてしまおうか。感情を全てぶちまけて、桜子と二人で。 総一郎は桜子を抱き寄せる腕に力をこめた、が。 ふと、視線を感じて彼女の肩口から顔を上げる。 「!」 視線の先。中庭の入り口に、青年が一人立っていた。ふり来る雨を割って、彼は佇む。 ただそれだけなのに、総一郎は目を離せない。 それは、青年の姿があまりにも――美しいせいか。 眼鏡越しに真直ぐに総一郎を射抜く瞳の色は黒ではなく。また雨に濡れる髪も、異質さを感じさせた。 彼がそこに立っているだけで、ただ彼を見るだけで肌が粟立つ。 総一郎は息を呑み、青年を見据えた。 誰かに対して、今腕の中にいる桜子に対してすら、総一郎はそのような感覚を覚えたことはなかった。 誰かを、美しいと思う感覚を。 「……総一郎、様?」 総一郎が固まっていることに気づいたのか、桜子はつと顔を上げる。そして、総一郎の視線を追って振り返り、小さく息を呑んだ。 「ど、どなた?」 「っ」 桜子の呼びかけに、総一郎は意識を取り戻した。奪われていた言葉を口に出す。 「誰だ!」 弔問客のようだが、そうであるならばこんなところに居やしないであろう。もしかしたら父の葬儀の隙を狙った無頼の輩かもしれない。 総一郎は桜子を庇うようにして、青年の前に立った。 しかし、青年は総一郎の態度にも表情一つ動かすことなく、歩み寄ってきた。 ぱしゃりと、地面がぬかるんだ音を立てる。 「……緋芽宮子爵家の者か」 彼は、短くそう言った。声音には感情すら感じさせない。それは、動くことのない彼の表情と同じく。近くに来ると、青年の異質ぶりが明らかになった。 色素の薄い髪はわずかに柔らかな弧を描き、髪に隠れた瞳の色は明らかに黒ではなかった。だが何よりも特筆すべきは、その姿。 人をぞくりとさせる幽鬼めいたものを顔立ちに秘めている。 「そうだ」 青年にやや圧倒されながらも、桜子の存在に支えられ、総一郎は声を張った。 しかし、青年はやはり表情一つ動かさない。まるで、総一郎の強がる心のうちを見抜いているかのように。 「現当主の代理はどこだ」 「貴方は誰ですか」 「……」 総一郎の問いかけに、青年は口を開こうとしたが、桜子の姿を見止めて口を閉ざす。わずかに目を伏せると 「……緋芽宮京一郎、縁の者だが」 「父の?」 このような青年と父が何の知り合いだというのだ。 総一郎はそう思い問い詰めようとしたが、彼もまた濡れており、何より桜子を濡らしたままにするわけにはいかないと気づいた。 雨はまだ、降り続けている。外で話をするのは得策ではない。 「……分かった。とりあえず、屋敷へ」 言って、総一郎は桜子を促し、歩き出す。青年は頷き、総一郎の後をついてくる。無言のままの青年を、総一郎は肩口からそっと見やった。 雨に濡れた睫の下の瞳は、深く暗い森の色をしているように思えた。 「……それで、一体何の用だ。君は、誰だ」 数分後。 食堂に総一郎、そして左近と右近が集まっていた。 桜子には席を外してもらい、また、この青年を応対している間、朱鷺宮叔父たちに弔問客の相手を頼むように伝えた。 雨音は、よりいっそうひどくなっているように思える。 白い布のかけられた長い机の上には温かな紅茶が並んでいるが、誰も手を出さない。それは、青年も同様であった。 問いかけに、青年は伏せていた瞳を開き、右近を見つめた。 緊迫した空気に、総一郎は拳を握り締める。だが、緊張しているのは右近も同様のようで、横顔は強張っていた。 左近はといえば、右近を気遣っているものの、この状況をどこか楽しんでいるようにも見えた。 それは、何をしなくとも軽薄に見えてしまう彼の顔立ちゆえかもしれないが。 「……あんたが右近で、その隣にいるのが左近。で、後ろにいるのが総一郎、か。なるほど。京一郎が言っていた通りの面だな」 「なっ……」 どういう意味だ、といきり立つ右近を左近が制する。 「どういう意味か、図りかねる。話に入る前に、名を聞いておきたいのだが」 「……時田英臣」 呟くように、青年は名を告げる。右近はその名を復唱するが、思い当たる節はないらしい。 京一郎の秘書代わりとして働いていた右近が知らないのだ――彼は一体、誰なのだろうと総一郎は息を呑んだ。 だが、自分が口を出せる空気ではない。出来るのは、兄と青年のやり取りを見つめることだけだ。 「それで? その時田氏が何の御用か。まさか、緋芽宮子爵家の財産を狙ってやってきた親父の隠し胤とでも言うか」 「左近!」 不謹慎だぞと声を荒げる右近に睨まれ、左近は苦笑して肩を竦める。だが、英臣青年の表情は真剣そのものであった。 そして。明瞭な言葉で続けた。 「……そうだ、と言ったら。どうする」 「は?」 英臣の返答に、間の抜けた声を上げたのは右近。しかしすぐさまに己を取り戻し、英臣を睨み付ける。 右近の視線を受け流し、す、と英臣は口元に笑みを浮かべた。 「……いや。それよりもお前たちにとって、もっと性質の悪い者ならばどうすると」 それは人に怖気を起こさせる、どこか冷たい微笑だった。 「どういう意味だ」 英臣の笑みに気圧されまい、と右近は訊ねる。英臣は服の懐から真っ白な封筒を取り出し、机の上に置いた。 「これは?」 「読めば分かる」 「……」 言われるままに、右近は封筒を手にして裏返した。 『遺言書』 封筒の正面には、そう書かれていた。 ぎょっとして顔を合わせる右近と左近。後ろに立っていた総一郎も息を呑み、英臣を見る。 「これは」 「――我が息子達へ。余、緋芽宮京一郎が死して後、此れを持ちて現われたる者の世話を不自由なく見ることを願う」 英臣は口ずさんで、封筒を開けるよう促した。促され、右近が封筒を開き便箋を取り出すと、そこには英臣が口にした文言が一字一句間違いなく綴られていた。 「これは、父上の字だ」 左近の声がわずかに上ずる。 「……お前達に余は隠し事をしていた。それはお前達の母、百合華の死後、慰みを求めて百合華ではない者を愛してしまったことだ。此の事どうか許して欲しい」 「……父上に、愛人が」 左近の読み上げる遺言書に、右近はぽつりと呟いた。その表情には隠せない衝撃が走っている。右近の様子を見ながら、さらに左近が文章を読み上げた。 「だが、その者を愛したことは今となれば真実の心……なれど、公に出来ぬことが悔しくてならぬ。 生きているうちは余が目をかけることも出来ようが、死してはそれは叶わぬこと。故に、余が死して後は余の代わりに世話を頼む。その者の名は」 「時田……英臣だと」 「そんな」 思わず、総一郎は声を荒げていた。 「嘘だ」 そして、目の前に座る青年を見る。英臣は涼しげな風貌に、総一郎たちを嘲笑するような笑みを浮かべていた。眼鏡の奥の双眸が嗤う。深き暗い森の色をして。 「……お前は」 震えた声で、右近が口を開いた。白皙の顔には、現実を拒否する体がありありと浮かんでいる。 「お前が、父上の……愛人?」 「そうだ」 事も無げに英臣は言った。己が身分に矜持を持っているかのように笑みを崩すこともなく。 「だから、京一郎の遺言どおり、あんたたちに面倒を見てもらおうと思ってね。一人だと、中々と大変なもので」 「嘘だ!」 どん、と。強く机を叩き、右近は椅子から立ち上がった。 拳をふるふると握り、英臣を睨みつける。表情には、英臣への強い拒絶があった。 だが、そんな視線にも動じず、英臣はあざ笑うような笑みを口元に形作るだけだ。 「緋芽宮右近子爵殿。約束を違えるか」 「そもそもがありえるか。父上に愛人だと――そんな馬鹿な話」 「ならば! 証明せよとでも言うか。聞きたいならば好きなだけ聞かせてやろうが……まあ、耳にするのも毒であろうよ。清廉潔白な子爵様にはな」 楽しくてたまらないと笑い、英臣は椅子の背もたれに体を預けて脚を組んだ。まるで、目の前で慌てる右近を弄ぶような態度だ。 「お前の知っている緋芽宮京一郎が、彼の全てというわけではない。一番近くで、右腕として働いていようが――京一郎も一人の人間。……情欲には勝てまい」 「くっ」 再び、どん、と机を叩いて右近は食堂を飛び出した。 「右近兄さん!」 「……驚いたな、これはまた」 はあと溜息をついて、左近も歩き出す。 「兄さん……」 「総一郎。後は頼んだぞ」 「え?」 何故と問いかけると、左近は面倒くさそうに前髪をかきあげて、真剣な表情になる。 「……どちらにしろ、俺たちに父上の遺言を裏切ることは出来ない。それに」 総一郎の耳に顔を寄せ、左近は囁く。 「……ここで拒否すれば、あいつが何をするか分からない。父上が死んだからとて、このような問答で緋芽宮の家を潰すわけにはいかぬのだ」 「!」 左近の言葉に総一郎は声を上げそうになった。 予想とはいえ――兄の口からもたらされたことはあくまでも現実問題なのだ。自分たちの代で、家を取り潰すわけにはいかない。 総一郎は背後にいる英臣の様子を伺った。 自分は勝利者だと言わんばかりに、英臣は優雅なしぐさで紅茶に手をつけている。二人の会話に気づいているのか、いないのか。横顔からは計り知れない。 「子爵家に関わることであれば、俺たち一族の者で片付けるのが得策だ」 「……それは」 「俺は右近を追いかけて説得する。戻ってくるまで、頼んだぞ」 言って、左近も食堂を飛び出す。広い食堂には、総一郎と英臣のみが残った。 「……」 「……」 沈黙が降りる。頼んだぞ、といわれても英臣と何を話せばいいのか分からない。 総一郎はとりあえず、先程まで右近が座っていた椅子に腰を落としたが――視線は惑うばかりだった。だが、いつまでも黙っていられないと口を開く。 「……あの」 「何か?」 右近とやり取りしていたときとは落差の激しい、柔らかな受け答え。その声音に総一郎は拍子が抜けるほどであった。 「年齢は」 「……十八。それが?」 「いや……その。本当にお前が、父上の?」 愛人だったのか、と続けることが出来ず言葉を飲み込む。総一郎は英臣を見たが、やはり信じられない。 人を惹きつける魅力に溢れた容姿であることは確かだが、本当に父が――?そんな気持ちが、強かった。 総一郎の問いかけに、英臣はカップを置いて 「聞きたいのか。お前も」 ぴしゃりと、拒否するかのように言った。その声音は、右近とのやりとりに聞こえたもの。 一つ前の受け答えとは明らかに異なる――いや、これこそが彼の常なのかもしれない。 冷たく、人を受け入れることのない口調こそが。 「別に、聞きたいわけでは。……でも、信じろというほうが無理な話だ。父上は、男色家ではない」 「……俺もそうだが」 「では、何故」 「……さてね」 弧を描く前髪を撫で付けて、英臣は肩を竦める。そして、総一郎を見据えた。 伏せ目がちの双眸から覗く視線に、ふるりと総一郎は寒気を覚える。 目の前にいるのは、自分たちとは異質な生き物。そう思えてならなった。 「……面白かったんじゃないか。浮浪児を自分好みに育て上げて、虐げて玩ぶのが」 「父上はそのような外道ではない!」 思わず声を上げる。机こそ叩かなかったが、この言葉に、総一郎は先の右近の気持ちがはっきりと分かった。 英臣――父の愛人という存在そのものに、父を愚弄されている。そんな気分になるのだ。 子爵としての誇りは高く、また雄々しく強き、尊敬すべき父を、彼が貶めているかのような。いや、彼が父を堕落させたのではないかとさえ思えてくる。 大切な父を汚す、憎むべき敵だとすら。 しかし、英臣は総一郎の叫びを受け止め、さらりと受け流す。 「外道であろうがそうでなかろうが……真実は真実。嘘ではない」 「っ……」 「……騙りだと思うか。ならば、京一郎の遺言書は偽書だとでも? そう思うならば好きにすればいい。その瞬間から、お前たちは京一郎を裏切ることになる」 「!」 口元に、またあの酷薄な笑みを浮かべて英臣は続ける。 「それに、あの左近も言っていただろう? 俺が何をするかわからないと」 「……聞こえていたのか」 「ここで帰ってもいいが……後のことは知らぬぞ。子爵家の噂となれば、これはまた格好の話の種だ」 「脅すか」 「脅す? まさか」 くっくっと笑って、英臣は紅茶に口をつけた。 その態度には――緋芽宮子爵家への、嘲笑が混じっているように総一郎は思えてならなかった。 「僕は、認めないぞ」 余裕綽々の英臣に、総一郎は吐き捨てる。勢いをつけて席を立ち、机に両手を付いて叫ぶ。 「お前なんか、絶対に認めない」 幼き少年の顔に激しい怒りを燃え立たせ、総一郎は英臣の顔を覗き込んだ。 烈火の如く怒るその眼差しを、英臣はどこか涼しげな表情で受け流し――その唇に柔らかな笑みを浮かべた。 「認めてもらわなくて、結構」 にらみ合う両者。張り詰めた緊張が食堂を走る。外に降る雨の音だけが、辺りに響いた。 ――やがて。 「待たせたな」 緊張の糸を切るように、左近が食堂へ入ってきた。 「……どうした。総一郎」 と、にらみ合う二人の様子に左近は目を瞬かせる。普段は滅多に怒ることのない総一郎の様子に驚いているのだろう。 総一郎ははっと己のしている行動に気づいて、恥ずかしさをごまかすように左近に歩み寄った。 「いえ、何でも。それより」 「……ああ。右近に話をつけたよ」 頷き、左近は英臣に向き直った。 「時田英臣殿。貴殿の申し出、受けるとする。いつ何時でも、緋芽宮子爵家は貴殿を保護し、また父の約束を違わぬこと、ここに誓う」 「……本当に?」 「緋芽宮左近の名にかけて」 「――そうか」 瞬間。総一郎は、英臣が今までとは違う表情を見せたような気がした。 それは、子供がするような、柔らかな安堵の顔。だが、それも刹那。 再び、彼が総一郎たちを見据えたときには、嘲笑じみた笑みを浮かべる英臣になっていた。 「ならばお言葉に甘えるとしようか」 しなやかな脚を伸ばし、英臣は立ち上がった。 迷うことなく左近の傍まで寄ってくると 「また後日」 涼やかな笑い声とともに、そう言った。そして、そのまま歩き出す。振り返ることもなく、まっすぐな足取りで。 思わず、総一郎は彼を追いかけた。 玄関ホールには、朱鷺宮叔父と桜子がいた。だが彼らに目をくれることなく、英臣は歩き去る。まっすぐな背中に、総一郎はかける言葉がなかった。 あれほどの啖呵を切ったというのに、罵る言葉さえ浮かばなかった。 「……」 何故だろうか。 総一郎は、拳を握り締め、俯く。脳裏に、まるで陽炎のように英臣の姿が立ち上った。 「……総一郎様」 と、桜子が総一郎に気づいて走り寄ってきた。軽やかな足音に、総一郎は顔を上げる。 「桜子」 「応対のほう……終わりました。そろそろ式が」 「ああ、ありがとう」 見ると既に朱鷺宮叔父夫婦が、後ろからやってきた右近たちと話し込んでいた。 葬儀が始まるのだ。行かなくては。 「……体は、大丈夫かい。濡れていたけれど」 「はい。拭きましたから。……ありがとうございます」 総一郎の言葉に、桜子の頬がわずかに赤らむ。しかし喜びもつかの間、桜子は不安げな表情になると、英臣が消えた玄関のほうへと視線をやった。 「先程の方は? 一体、何の御用でいらっしゃったのですか」 「それは」 桜子の無垢な眼差しに、総一郎は言葉を飲む。 彼が父の愛人だと言えようか。いや……言えない。 総一郎は必死に頭の中で単語を捜すと 「父の……友人の息子さん、だよ」 機械的に呟いた。だが、桜子は総一郎の答えに納得したらしい。こくりと頷くと 「そう、ですか。葬儀に参列していかれればよいのに」 と残念そうな顔をした。桜子の横顔に、総一郎はふと気づく。 あれだけあけすけと物を言っていた英臣が、桜子の前で愛人だと名乗らなかったのは――彼女に気を遣ってのことではないだろうか。 話す前に、桜子を見ていたようであるし。 「……まさか、な」 そんなことはあるまいと総一郎は首を振る。 あのような男に限って、そんなことがあるまいと。 だが。これからあの男は、自分たちに深く関わってくるのだ。 そう思うと、総一郎は気が重くなる一方だった。 「さあ、参りましょう。総一郎様」 「……ああ」 桜子に促され、総一郎も歩き出す。別宅へ作られた葬儀会場へ向かう。 外には、まだ雨が降っていた。暗く暗く重い雲。冷たい雨は止む様子を見せない。 水の檻をくぐりながら、総一郎はふと思った。 英臣は、この雨の中を濡れて帰ったのだろうか、と。 ……それは、ほんの何気ない瞬間の、心の慰みであったが。 雨はまだ、止まない。 <第二章> 自室で桜子への手紙に向かう総一郎の元に来客が告げられたのは、葬儀が終わって、十日後のことであった。 外は今までの雨が嘘だったかのように清々しい晴れ。心地のよい風が踊る午後のこと。 「客だと?」 総一郎の問いかけに女給が頷き 「はい。右近様と左近様は既に応接間に」 総一郎様もお急ぎください。そう続けて、女給は頭を下げて部屋を出ていった。 父の葬儀も終わり、諸々の事は終わったと思っていたのだが、と総一郎は首を傾げる。 自分と兄二人が総出で出迎える人間が果たしていただろうか。朱鷺宮叔父たちや桜子であるならば、女給はそのように伝えるであろう。 だが、相も変わらず苦手の手紙から離れるにはいい切っ掛けと、総一郎は机の上を片付け、自室を飛び出した。 二階の自室から階段を下り、一階の奥、客を迎える応接間へと向かう。そして、扉を叩いた。 「総一郎ですが」 「入れ」 扉の向こうから返ってきた返事は、左近であった。促され取っ手を握り、扉を開ける。 「失礼しま」 ――す、と。 総一郎は、最後までそう続けることが出来なかった。 室内のあまりにも張り詰めた雰囲気にたじろいたのもあるが、何より。ソファに腰をかける人物に目を奪われた。 昼の空気の中ですら異質さを感じさせるその姿。秀麗な容貌に似合わぬ、冷たき眼差し。 「時田、英臣……」 どうしてここに、と思わず声を上げる。すると、英臣は口元に薄い笑みを浮かべ 「……言っただろう。また後日、と」 「だからといって、どうしてここに――何だ、それは」 詰め寄る総一郎の視界に、英臣の足元に置かれている大きめの鞄が入った。 輸入されたものであろうか。何処かで見たことのある、洋風の、格式の高さを感じさせるがっちりとした鞄である。 何を訊ねるのだと言いたげに、英臣は肩を竦めて言った。 「荷物だけど。俺の」 「何を。まさか、ここに住むとでも」 「言うんだよ。総一郎」 いきり立つ総一郎を止めたのは、左近であった。 「兄さん」 「……住んでいたところを引き払ってきたそうだ。ここの一室に住まわせてくれと、そういうことだ」 「そんな。それで兄さん方は納得したのか」 「――するわけない」 苦々しげに言ったのは、右近だった。左近の隣で、唇をかみ締め苦しげな顔をしている。 その顔を見れば、英臣の申し出を拒絶したいという気持ちがありありと分かった。眉根を寄せ、拳を膝の上で握り締めた姿は、どう見ても英臣を歓迎してはいない。 右近は、声を喉の奥から無理やり搾り出すかのように続けた。 「だが……父上との、約束がある。当主たる私が……それを、破るわけには、いかない」 京一郎を失い、右近は緋芽宮の名を継ぐ者となったのだ。双肩には、見えぬ責任が載っていることであろう。総一郎は言葉を失い、右近を見つめた。 「……まあ、そういうことになったら仕様がない。前を向いて物事を考えるほうが建設的だ」 ぱんと手を打って、左近は場の空気を変えようとするかのように明るい調子で言った。 「部屋はすぐに用意させる。時田、しばらくここで待っていろ」 「……それは助かる」 頷いて、英臣はソファにもたれかかり脚を組んだ。その姿は、自らの権利の正当性を主張するかのようだった。 「右近」 左近は項垂れる右近を促し立たせると、背中を押した。 「総一郎。しばらく、応対頼む」 「え? あ、兄さん」 またか、と。出て行く兄二人を止めることも出来ず、総一郎は再び英臣と二人きりになってしまった。総一郎はのろのろソファに座り、英臣を見据える。 「……よくもまあ、恥知らずな」 気づけば、総一郎はそのような言葉を告げていた。膝の上で拳を握り、呟いていた。 「遺言があるとて、何を考えているのか」 己の世話を見ろと、暮らす部屋をよこせと、そんなことが言える立場か。貴様は。 別段、英臣に対する激情や確固たる憎しみがあったわけではない。 しかし、座っているのが当たり前だといわんばかりの彼に、兄の代わりに何かを言わねばという意識が働いていた。 だが、総一郎の言葉に、英臣は口元に冷ややかな笑みを刻んで 「恥か」 と言った。 「恥だ」 返す総一郎。しかし、英臣は平然と 「それがどうした」 言い放った。 「何を言うか」 「……お前たち華族は、そのような感情のために死ねよう。だが、生きていく上で恥のために死ぬというのは愚かなことだ。生きるということは、そういうことだ」 もたれていたソファから身を起こし、前屈みになりながら英臣は呟いた。膝に肘つき、指を組む。 「生きていくのに、恥など言っていられない」 「……お前」 「最初から全てを持っているお前たちに、何もかも失った者の心など分かるまいさ」 「……」 この言葉に、ふと。総一郎は英臣の年齢を思い出した。 このようなふてぶてしい物言いが多く、失念していたが――まだ、十八なのだ。昔ならば元服した年齢とはいえ、自分より一つ年下の青年ではないか。 「……すまない」 とっさに、総一郎は呟いた。英臣の年齢を思い出した途端、自分の言葉があまりにも酷いものだったのではと総一郎には思えたのだ。 そんなに邪険にしなくてもいいのではないか、とさえ感じてしまう。 だが、総一郎の謝罪に英臣は目を瞬かせると、可笑しいと言いたげに声を立てた。 「はは、先には罵っておいてすぐに謝るか。馬鹿な奴だ」 英臣のあまりにもあどけない笑みに、総一郎は胸を突かれる思いがした。慌てて顔を背け、 「う、煩い。悪いと思ったから、謝っただけだ。お前を認めないのも、気に入らないのも、変わらないぞ」 と言い放っては見るが、英臣にとっては可笑しいことに変わりないようだった。 「ふん、それでいいさ。俺も、お前たちと家族遊びをするつもりはないからな」 くっくっと楽しそうに笑う顔は――やはりあの雨の日に見た―― 「時田英臣殿。貴殿の申し出、受けるとする。いつ何時でも、緋芽宮子爵家は貴殿を保護し、また父の約束を違わぬこと、ここに誓う」 「……本当に?」 「緋芽宮左近の名にかけて」 「――そうか」 ――安堵の顔だ。 「住む場所と食事があれば、それで」 「……」 笑う英臣の口から紡がれる言葉に、総一郎は俯く。 頭の中を、時田英臣は単なる父の愛人ではないのかもしれない、という考えが回る。 自分の知っている言葉や考えだけでは、彼を推し量ることは出来ないのではないかと。 突き放していいのか、同情で近づくべきなのか。それとも、父を貶めた汚らわしい存在として扱うべきなのか? だが、そもそも人間をそんな風に見ていいのか。答えが見つからぬ。 果たして彼は、どのような人間なのだろうか。 ぼんやりと総一郎が考えていると、応接間の扉が開いた。 「時田。部屋が用意できた」 顔を出したのは左近のみであった。 「来い。案内してやる」 「それはどうも。子爵家のご子息直々とは、恐悦至極」 「はっ。毛の先程も思っていないくせに」 英臣の態度を笑い飛ばし、左近は言う。 どうやら左近は――本当に建設的に英臣と付き合うことを決めたらしい。そこで笑う左近の態度は、豪胆ないつもの彼そのものだ。 「まあ、いいさ。お前が親父の愛人と言うのが騙りではなく、本当であると分かったし、お前が本当に父に愛されていたなら――」 す、と。左近は目を細める。 「見目だけではなく、愛すべき性格をしているのだろうよ」 「……ふん」 左近の言葉に、英臣は微笑み、立ち上がった。大き目のあの鞄を手にして。 「兄さん」 「総一郎はどうする。ついてくるか?」 「いや……いい」 「それじゃあ、また後で」 言って、左近は英臣を連れて廊下へ出た。 総一郎は一人、応接間に取り残される。そして、左近の今の発言を考える。 どうして愛人であることが本当だと分かったのだろうか。 そこでふと、総一郎は英臣の持っていた鞄のことを思い出す。舶来のあの鞄。どこかで見たことがあると思ったら……あれは。 「父上の……」 右近兄が幼少の頃に、父に欲しいとせがんでいた鞄のはず。 「……鞄か」 日用品を与えられるほどに、心もまた与えられていたのか。 そう思うと、総一郎は亡き父をとられたかのような思いにとらわれ、胸にちりりと痛みが走ったような気がしたのだった。 「……これで、よし」 最後の文字を書き終えて、総一郎は安堵の息とともに筆をおいた。便箋につづられた文字を確かめて、よく出来たと自分で頷く。 総一郎の自室。穏やかな太陽の光が、静かに降り注いでいる昼下がり。その光を背に受けながら、総一郎は机に向かっていた。 緋芽宮邸から少し離れた場所に暮らす桜子から、通う女学校の近況報告や総一郎への気遣いの言葉をのせた手紙がよく届くのだが、総一郎は常に返信が遅くなるのであった。 ――文章を書くのは苦手だ。こと、内容が思いつかない場合には。 だが、可愛い桜子の想いを無下には出来ない。その一念で、手紙をようやく書き上げる。 文字が乾いたのを確認すると、便箋に入れて封をする。あて先を最後にもう一度確認し、総一郎は部屋を出た。 階下に降り、玄関ホールを歩く女給を掴まえると、出すように頼む。 「はい、分かりました。総一郎様」 頷く女給に手紙を任せ、総一郎はふらふらと中庭へ向かった。 日中、右近は庶務で出払っているし、左近も私用で外出していることが多い。 別段何もすることのない総一郎は、自室で本を読むか帝都を散策するか、することはそれしかない。 いつもならば、屋敷には一人なのだが――。 中庭に差し掛かり、総一郎は足を止めた。 緑萌える中庭に面したポーチに、座っている人間がいる。それは、すっかり緋芽宮家に馴染んでしまった時田英臣の姿だった。 設えさせた椅子に座り、優雅に本を読んでいる。傍らには紅茶。本に夢中になっているのか、総一郎に気づく風も見せない。 「ふん、それでいいさ。俺も、お前たちと家族遊びをするつもりはないからな」 英臣はそう言っていたが、まさしく、彼は言葉通りに行動していた。 多くのことで右近や左近、総一郎に迷惑をかけることもないし、特別な用件がない限り、食事を一緒にとることもない。 金をせびることもなければ、ただ黙って与えられた部屋に居座っているだけである。 時には外出もしているようだが、気づけば帰宅していたりして、総一郎にとって英臣は、同じ屋敷に住まう別の住人という感が強かった。 右近は彼を毛嫌いし近づくことも喋ることもしないが、左近は英臣の性格が気に入ったらしく何くれとちょっかいをかけているらしい。 屋敷の給仕たちに、英臣の世話をしっかりするよう頼んでいるのも彼だ。 ――総一郎はといえば。 右近兄のように嫌うことも、左近兄のように近づくこともせず、英臣との距離は宙ぶらりんのままであった。 じっと、英臣の姿を見る。 真白のシャツも色素の薄い髪も陽に透けて、どこか透明じみた雰囲気を醸し出している。 あの雨の中で見た姿以上に――ぞくりとしたものを感じると総一郎は思っていた。知らず、己の右腕を掴んでしまう。 それは、見入っていればこの男に吸い寄せられてしまうのではないかという危惧ゆえかもしれない。 総一郎自身が、そのことに気づいているとは思えないが。 「……そこで何をしている」 と。本から顔をあげることもせず、面倒気に英臣が口を開いた。 「突っ立っているだけなら邪魔だ」 「別に、邪魔をしているわけでは」 「あんたがそう思わなくても、こっちがそう感じたなら、それは邪魔なんだよ」 「……そんなこと。お前の勝手ではないか」 総一郎が言い返すと、英臣はようやく本から顔を上げた。 「……まあ、どうでもいいが。よければどうぞ」 言って、顎で隣の空いた席をしゃくってみせる。 ここで踵を返すのもいいかと思ったが――どうせすることもないのだから、と英臣の向かいに荒々しく座った。 しかし、そんな行動も英臣は気にならないらしい。用意された紅茶を空いたカップに注いで、総一郎の前に出す。 「あ、ありがとう」 「……」 英臣は答えない。彼は再び本に視線を落としてしまった。 「……」 淹れてもらった紅茶を飲み、中庭に視線を向ける。天気はいい。庭は美しく整えられており、過ごすには贅沢なほどに素晴らしい午後の時間。 だがともに過ごす相手は、気まずい相手である。 「……」 「……」 沈黙が続く。風の吹く音が、柔らかに流れていた。 ――僕は、何をしているのだろう。 総一郎は小さく溜息をついて英臣を見たが――反応はない。静かに、本を読んでいる。 その静謐な姿からは、彼が父の元愛人であったと言う事実は感じられない。 愛人という単語から感じられる淫らな雰囲気は少しもない。本をただ読みふける姿は、書生か学生といったものだ。 かけた眼鏡が昼の光に輝く。どきりと身じろぐと、英臣は本を閉じ、総一郎を睨んだ。 「何をじろじろ見ている。やはり邪魔をしに来たのか」 「別にそういうわけじゃ。……暇だったから」 「暇! 子爵家の未来は暗いな。することぐらい、幾らでもありそうなものだが」 溜息をつき、英臣は本を机に置く。 「本ぐらい、読んだらどうだ。京一郎の書斎には溢れるほど本があるのに、それも読まないのか」 英臣が読んでいた本は、どうやら京一郎の書斎から持ってきたものらしい。 総一郎はその茜色の表紙を見た記憶があったが、手に取ったことはない。それを悟られたくなくて、思わず言い返す。 「ほ、本は読む。今日は……たまたま」 「ほう。たまたまか」 口元には皮肉の笑み。先程まで静謐を讃えていた瞳が、牙を剥く。 「下らん奴だ」 「く、下らないとはなんだ! 僕だって本ぐらい読むと」 「……婚約者に送る手紙さえ苦労しているくせに。どうせその頭は正常に働かないのだろう」 英臣の口から漏れた言葉に、ぎょっと目を見開く総一郎。 図星を突かれた表情が楽しいらしく、英臣はくっくっと笑った。 「左近から聞いた。朱鷺宮嬢は大変だな。お前のようなぼんくらが将来の結婚相手とは」 「う、煩い。お前に言われる筋合いはない」 拒絶するように机を叩くと、英臣は肩を竦める。 「確かに筋合いはないが、心配ぐらいはするさ。あのお嬢様の将来をね」 「……馬鹿者が。そんなこと、お前がすることじゃないだろう」 お前こそ馬鹿だ、と総一郎は疲れるとばかりに溜息をついた。 「なんだ。随分と楽しそうだな」 会話の隙間をぬって、背後から大きな声が聞こえた。 振り向くと、そこにはいつの間に帰ってきたのか。左近と右近がいた。 「……お帰り。兄さん」 まずいところを見られた、と顔をしかめる総一郎。だが、左近は二人のやりとりの経過を全て見通しているかのように笑っている。 「英臣も、総一郎と馴れたか」 「馴れたわけじゃないさ。あんたの弟も大概だと思ったまでだよ、左近」 唇に笑みを刻み、英臣は嗤う。そんな英臣の様子に、確かにな、と左近が付け加えた。 「兄さんまで……そもそも、何故、僕の手紙のことをこいつに言うんだよ」 「別にお前を馬鹿にしていたわけじゃないさ。話の種にちょっと」 「ね」 言って、左近と英臣は目配せをする。 二人の仲の良さを感じさせる仕草に、総一郎は少し、違和感を覚えた。 いつの間に二人は仲がよくなったのだろう。自分の知らない二人の時間があったのだろうか。 大体――と、総一郎は気づく。 今、左近は英臣のことを名前で呼んだ。最初出会ったときや、屋敷に住まってしばらくは、時田と呼んでいたのに。いつの間に。 しかし、その違和感を覚えたのは、総一郎だけではないようだった。 「おい、左近」 今まで黙っていた右近が、不愉快そうに口を開いた。 「どうした、右近」 「いつまでそれと馴れ合っている。私は忘れ物を取りに戻ってきただけだ。無駄口を叩いている暇はない」 右近の嫌悪に溢れた眼差しが、英臣を睨む。しかし、英臣はそれを真っ向から受け止めて、不敵に微笑んでみせた。 まるで、だったらお前だけでもさっさと行けばいいと言わんばかりに。笑みの意図に気づいてか、右近は続けた。 「――私は。お前がこの屋敷に住まうことを許可したが、それは父上の言葉あってのこと。でなければ、お前みたいな輩など一秒たりともここに居ることは許さん」 「右近」 おいおい、と苦笑する左近。だが、右近は二人を取り持とうとする左近の態度に怒りの視線をぶつけ、さらに眉根を寄せると 「いいか。私は、お前の存在を認めはしないし許しもしない。必ず――お前から、この屋敷に住まう権利を奪ってやる」 「おい」 あまりにも真剣な右近の言葉に、左近は表情を変える。口元に浮かんでいた軽い笑みが消えた。張り詰め始めた空気に、総一郎は息を呑む。 「言い過ぎだぞ、右近」 「左近。……私は、お前に話したことを未だ諦めたわけではない」 低く静かに告げる言葉。総一郎はその兄の姿に、寒気を覚えた。 兄は、本気で英臣を嫌っている。諌める左近の言葉も届かないほど。 「その証を必ず手に入れ――」 右近のぎらついた双眸が。 「お前を殺す」 しっかと英臣を射抜いた。 「右近」 もうやめろと声を荒げる左近に、右近は踵を返して自室へと向かった。背中はあっという間に見えなくなる。 「に、兄さん……一体、右近兄さんは、何を」 右近が消え去り、緊張の糸が切れて。総一郎はようやく言葉を発した。左近は苦虫を潰したような顔をし、前髪をかきあげる。 「お前には関係ないことだ、総一郎。それこそ、下らないことだ」 「……」 「……大丈夫だ、英臣。お前は、ここにいていいんだから」 左近の言葉に、英臣はああと呟く。 感情の変わらぬ声音。秀麗な横顔はあいも変わらぬ冷たさを湛えている。 その顔からは何も感情を感じられなかったが、総一郎は、英臣が内心、傷ついているのではないかと思った。 右近の露骨な激情。兄が何を隠しているのかはわからない。けれど――。 英臣が父の愛人であった以上の驚愕すべきことはあるまいと、そう思った。 「……英臣」 ぽつり、と総一郎は彼の名を呼んだ。 「何だ」 総一郎に名前を呼ばれたことに、瞳がわずかに瞬く。 だが、あくまで穏やかで冷たい英臣を見つめて総一郎は言った。 「僕も……左近兄さんの言うとおりだと思う。ここにいればいいさ。……僕も、あんたは嫌いだけど」 「何を」 英臣は苦笑し言う。 「矛盾している」 「ああ。矛盾している」 そんなことは分かっている。けれど――実兄の苛烈な憎しみを受けた英臣が哀れで――何より。 彼はここを追い出されれば、生きる場所が無いということに気づいていた。 住まう場所と食事さえあれば、と告げた英臣の言葉。 与えられるのならば、与えたいと総一郎は思う。それに。彼自身の本当を知らないまま、英臣を手放すことなどしたくはない。 知らぬ人間を、一方的に己の価値観で決めつけ、邪険に扱うことなどしたくはない。 総一郎は、そう思っていた。 <第三章> 「これ、読んでみた。意外と面白かったぞ」 読み終わった本を片手に、総一郎は中庭のポーチへとやってきた。 穏やかな午後。 総一郎が向かう先には設えられた椅子と机と紅茶。座っているのは、中庭の主と化した英臣。離れた場所から述べられる総一郎の感想に、英臣は眉をひそめて 「芸のない感想だな」 とつまらなさそうに、短く素っ気無く、呟いた。 ――あの日。中庭で右近と問答のあった日から。 総一郎は極力、英臣に声をかけるようになった。右近が華族院の用事で一日外出する日には、ともに食事をするように誘いもする。 別段。それは英臣への憐れみでも同情でも、何でもない。 総一郎は、この日に「もっと英臣のことを知ってみたい」という気持ちが己の中にあることに気づかされたのであった。 確かに、父親の愛人であったということには拒否感が多い。だが、先入観を除いた彼はどうなるのだろう。その先はどうなのだろう。 そう思うと、気づけば声をかけていたし、昼間、彼がこうして本を読んでいる所へ足を運んでは会話をしたりする。 左近兄は総一郎のこのような行動を好意的に見ているらしく、たびたび背中を押してくれたりもした。 また総一郎は、英臣の嫌味なほどにまっすぐな物言いは彼の生来の性格ゆえだと分かると、こんな人間も世の中にいるのだなという程度の認識しか感じなくなったのである。 言うなれば、総一郎は、英臣という異邦人が住まう日常に慣れてしまったのだった。 一方の英臣といえば、総一郎に関わられることを最初は嫌がっていたようにも見えたが、現在に至るまで明らかな拒絶を言うこともなかった。 「……芸がないとはどういう意味だ。まさか、本の内容が芸術的だっただの、文章が緻密で実に良いだの、言えというのか」 「そのまさかだ。……まあ、その感想もどうかと思うが」 眼鏡の奥の瞳が、呆れを浮かべて総一郎を見る。 「もっと感じるものもあるだろうに」 「……じゃあ、お前はどうだったんだ。読んだのだろう、この本を」 総一郎は空いた椅子に座ると、憮然とした顔で英臣を睨みつける。言って彼の前に差し出した本は、以前英臣がこの席で読んでいた、茜色の表紙の本だった。 英臣が返却したと聞いて、総一郎もいざ読んでみたのだが――。 「俺の感想を聞いてどうする。倣って同じ事を聞かされても、嬉しくないぞ」 「さ、参考にしようと思っただけだ」 「どうだか」 ふんと鼻で笑い、英臣は空いているカップに紅茶を注ぎ、総一郎に出した。 「……そういえば、お前はよく紅茶を飲んでいるけど、好きなのか。これ」 英臣の淹れた紅茶に口をつけながら、総一郎が問う。 緋芽宮家で紅茶を飲む人間といえば右近だけであるが、余程凝っているらしく海外から新しいものが出ればまめに買い付けているらしい。 ちなみに英臣の飲んでいる紅茶の出所は……本人が聞けば烈火のごとく怒るかもしれないが、右近の紅茶缶からである。 「ああ。嫌いか。お前は」 「別に嫌いというわけじゃないが――飲みなれた物の方がいい」 「……ふうん」 そうか、と英臣は頷いて、カップに口をつけると 「京一郎が、教えてくれたんだ」 柔らかく告げた。 「紅茶が美味しいと。来るたびに茶葉を持ってきてくれて、淹れてくれた」 「父上手ずから?」 「ああ。好きだから、自分で淹れるとも言っていた」 右近の紅茶好きは父の京一郎から遺伝しているが、まさか英臣にもそれが受け継がれているとは。驚いて、総一郎はカップの水面を見る。 「……英臣も、淹れられるのか。紅茶」 「ああ。……京一郎ほど、上手ではないけれど」 言って、英臣は目を伏せる。そのしぐさはどこか、昔を懐かしんでいるようでもあった。 「なら、今度淹れてくれないか。一度飲んでみたい」 俯き、前髪に隠れた英臣の横顔を見ながら、総一郎は言う。すると彼は顔を上げ、皮肉まじりの笑みを浮かべると 「お前に味が分かるのか」 ――と、いつもの悪態をつくのであった。 「総一郎様」 会話に沈黙が降りたちょうどそのとき、女給が廊下より顔を出した。 「どうした」 「桜子お嬢様がおいでです。お通ししてもよろしいでしょうか」 「あ、ああ。通してくれ」 言われて、総一郎はしまったと言う顔になる。今日、桜子が顔を見せるのを忘れていたのだ。 総一郎のいかにも失敗をしたと言わんばかりの顔に、英臣は溜息をつき 「呆れた奴だな」 と呟いた。 「う、煩い」 とにかく桜子を出迎えよう。そう思い、玄関へ歩き出したとほぼ同時に 「総一郎様」 と、女給の後ろから桜子が歩いてくるではないか。 「ああ、桜子」 「お約束の時間より、少し遅れてしまったのですけれど……お待たせしてしまい、申し訳ありません」 言って丁寧に頭を下げる。わずかに上気した頬も初々しい桜子。レースのついた洋装がとてもよく似合っている。 「いや、大丈夫だ。僕のほうこそ気を遣わせてしまってすまない」 「そんなことありません。私は大丈夫……あら」 言葉を止めて。桜子は、総一郎の背後にいる英臣に気づいた。 「貴方は……京一郎叔父様のお葬式で……」 「……」 ちらりと桜子を見つめ、英臣は手にしていた本を置く。その動向に、総一郎は息を呑んだ。 ――総一郎がしまった、と思ったのには理由が二つある。 一つは、単に出迎えるのを忘れていて申し訳ないという理由からだが、もう一つはこの英臣であった。 桜子には、英臣がこの家にいる理由を何一つ話していないのだ。それどころか、桜子への返信の中にも、英臣のことは一つも触れていない。 京一郎の愛人と知って、桜子がどれだけ傷つくだろうか。それを想像すると下手に英臣に触れることが出来なかったのだ。 己の文章が下手だということは嫌と言うほど知っている。上手くごまかすことは出来ない。 だからこそ――隠していたのだ。なのに、ここで出会ってしまった。 総一郎は英臣を凝視しながら口ごもる。 初対面のときに、桜子に真正面から父の愛人だと名乗らなかったのだから、今度も。 念をこめて英臣を睨む。 「そ、総一郎様、どうなされたのですか。そのような怖い顔をなさって……」 「いや、その。彼は」 「時田英臣と申します」 総一郎を遮り、英臣が口を開いた。 「ご挨拶が遅れてしまい、まことに申し訳ありません」 「いえ、そんなことは。わ、私は朱鷺宮桜子と申します」 慇懃な総一郎の挨拶と微笑みに、桜子の頬がさらに上気する。整った英臣の顔に見蕩れているようでもあった。 「お噂はかねがね聞いております。このように綺麗な方だったとは本当に驚きました。お会いできて嬉しいです」 「そんな……こちらこそ」 立て板に水。英臣の言葉に桜子はますます顔を赤らめ、照れて俯いてしまう。 「英臣」 このままではずっと俯いたままになってしまうのではないか、と総一郎が手を入れる。すると英臣はまるで今気づいたかのような振りをして 「ああ、すいません。立ったままもなんです。ゆっくり、座って話しましょう」 と桜子の顔を上げさせた。 それからしばらく。新たに紅茶と菓子が運ばれてきて、中庭の茶会が始まった。 英臣は、いつもの皮肉屋の姿はどこへやら。桜子に対して紳士として振舞っている。 「そうですか……京一郎叔父様の、ご友人の息子さんなのですか……」 「ええ。諸事情により、こちらに滞在させてもらっています」 総一郎が心配したことを英臣は理解しているのか。さらりと笑顔で嘘をつく。 あまりの変貌振りに総一郎は内心呆れていたが――同時に、助かったと思った。 「どれほどこちらに滞在なさるのですか」 「当分……しばらくの間は。ですので、機会あればまたお会いできるかと」 「……はい」 英臣の答えににっこり微笑む桜子。その姿がどこか微笑ましくて総一郎もつい口元が緩む。 やはり、桜子は笑っていた方が良い。幸せそうな桜子が一番だ、と。 「……でも、その。失礼ですけれど」 「はい。何でもどうぞ」 「少し、変わった瞳の色をしてらっしゃるのね……黒ではないのではなくて」 言って、桜子は英臣をそっと覗き込む。 「ええ。よくお気づきになりましたね……。実は、父方に異国の血が混じっておりまして」 「まあ……」 嘆息をもらし、桜子は英臣の瞳を見つめる。素敵とうっとりしているようだ。 「――さて。そろそろ私はお暇しましょうか」 そんな桜子を柔らかい笑みで見つめつつ、英臣は席を立った。 「いつまでもお二人の仲を邪魔してはいけませんから」 英臣の瞳が総一郎を見る。その一瞬に覗いた目は、普段の冷静な彼のものだった。 桜子への対応が、あくまでも表面上の取り繕いであることに総一郎は少し切なくなったが、それよりも、真実を話さないでいてくれた彼に感謝をしたくなっていた。 「では、失礼」 「ああ」 「ごきげんよう」 立ち去る英臣を見送り、中庭に桜子と二人になる。 「素敵な方ですね。とても、綺麗な方……」 桜子は未だ夢心地といった風に言う。おそらくは、英臣の容貌や血の流れに果てない異国の姿を見ているのであろう。 だが、現実は彼女の想像よりも冷たい。 知らないほうがいいこともあると思いながら、総一郎はそうだな、と桜子に同意した。 「時田様とは……親しいのですか? 総一郎様」 「いや、そういうわけでは」 ――事実。顔を合わせてはやり込められてばかりで、嫌味なことばかり言われて。まだまだ苦手の感がある。 しかし、桜子はそうは思わなかったらしい。 表情を曇らせて、そうなのですか? と逆に問い返した。彼女の言葉を不思議に思いながら 「どうしてそう思うんだ。桜子」 と問うと桜子は 「だって……時田様とお話されていた総一郎様は、とても楽しそうだったんですもの」 と言う。そんな顔をしていたのだろうか。桜子の言葉に、総一郎は思わず自分の顔を触った。 「少し……羨ましいと思いました」 「桜子……」 「あっ、嫌ですね。私。はしたないことを……申し訳ありません」 顔を赤らめ、またも俯いてしまう桜子に慌てて、総一郎は違うんだと言う。 「いや、桜子がそんなことを言うなんて意外だと思ったから。僕は……そんな顔をしていたか?」 「ええ。何となくですけれど」 桜子の無垢な瞳が総一郎をじっと見つめる。 「とても楽しそうでした」 ――夜。 自室に戻っていた総一郎の元に、夕食が出来たと給仕が呼びにやってきた。 「ああ、今行く」 と椅子から立ち上がったが、ふと、食堂へ向かおうとする給仕を呼び止めて 「二人分。用意しておいてくれ」 と言いつける。そのまま一階へ降りると奥にある英臣の部屋へと向かった。 二階にも空き部屋は幾つかあったのだが、右近兄が同じ階に住まうことを断固として拒否し、一階に用意させたのだった。 使用人の部屋に近い場所だが、日当たりがいいとのことで、英臣から不平不満が出たことはない。 周囲は夜の静寂に包まれ、しんとしている。その中に、木の扉を叩く音が鋭く響き渡った。 「はい」 返事がある。しばらくして、扉が内側から開かれた。 「――なんだ。お前か」 廊下に立っている総一郎を見て、英臣の表情が歪む。あまりにも露骨な態度に総一郎は文句を言おうとしたが、何とか言葉を飲み込んだ。そして言う。 「夕食の準備が出来たみたいだ。……兄さん達もまだいないし、食堂で一緒にどうだ?」 「お前と夕食?」 眼鏡越しの瞳が、疲れると言いたげに伏せられる。だが、総一郎は引き下がるわけに行かなかった。 彼を夕食に誘うには、きちんとした理由がある。 「昼間のことで、話したいことがあるから」 「……」 双眸がすっと見開かれる。 「だから」 「……分かった」 小さく頷いて、英臣は一度部屋に戻った。そして、しばらくして廊下へと出てくる。どうやら本を片付けてきたらしい。 英臣の部屋から食堂は中庭を挟んで向かいにある。 食堂に入ると、夕食はきちんと二人分用意されていた。無言のまま、互いに席をつく。 「お待たせいたしました」 席についてすぐ、夕食が運ばれてきた。用意が全て整えられて、給仕が出て行くと総一郎は口を開いた。 「今日は、ありがとう。助かった」 「何をだ」 本当に総一郎の言葉の意味が分からず、英臣は眉根を寄せた。総一郎を尻目に、箸を手にして、勝手に食事を始める。 「桜子に……その。お前の本当のこと……言わないでくれて」 「……」 「桜子は父上が大好きだったから……もしも本当のことを知ったら」 「傷つく、とでも」 「……かもしれない」 英臣にとっては、この言葉は気分を害することかも知れぬ、と総一郎は発言してから思った。 しかし、桜子を傷つけないでくれたことに対する感謝をどうしても伝えたかったのだ。だからこそ、今日の夕食を共にとろうと誘った。 沈黙が降り、食器の音だけが響く。話を続けようと、総一郎は慌てて会話を次いだ。 「最初に会ったときもそうだったよな。お前、桜子が僕の後ろにいたから……話すのをやめたのだろう」 「……当たり前だ」 総一郎の必死さとは対照的に、静かに英臣は呟いた。 瞳が真っ直ぐ総一郎を見据える。英臣の真剣な声音に、総一郎は思わず背を正した。 「京一郎の他人に、わざわざ自分のことを言う理由はない。それに、子供を無闇に傷つける真似は趣味じゃないからな」 「子供って……桜子は十七だぞ」 「子供は子供だ」 鋭く言い放ち、英臣は口の端に自虐的な笑みを浮かべた。 「初対面の人間の私的領域に、何の躊躇いもなく踏み込む」 それは、と総一郎は言い淀む。英臣の血の流れのことを言っているのか。 「……英臣。お前が昼間に言っていたことは……全て、本当なのか」 「……」 「お前の父方に、異国の血が流れているというのは」 箸をおき、英臣は溜息をついた。やや荒いその仕草はどこか、この話は食事時にしたくないと言いたげである。 意図を汲み取り、総一郎はまた慌てて言った。 「気に障ったなら、言わなくていい。僕の話はこれで仕舞いだ。とにかく、桜子に気を使ってくれて有難うと言いたくて」 しかし。 「ああ、そうだ」 誇るように。総一郎の慌てた言葉を遮り、英臣は言った。 「英臣」 「だから目の色も違うし、髪の色もやや薄い。皆と違う」 「そう、か」 食事の手を止め、つい英臣を見てしまう。視線がぶつかって、総一郎は反射的に目をそらした。 「すまん」 「別に。好奇の視線は慣れている」 置いた箸を手にして、英臣は食事を続ける。総一郎も手を動かす。 また再び、食器の音だけが鳴り響いた。 黙々と食事をとる総一郎の脳裏に、昼間の桜子の言葉が蘇る。 ――とても楽しそうでした―― 続けてその後、桜子は言ったのだ。 ――それに、英臣様もとても楽しそうでしたから、お二人とも仲がよろしいのかと思って。 「なあ」 「何だ」 今度は食事の邪魔だと言わんばかりの眼差しをぶつけられるが、怯まず総一郎は訊ねた。 「お前、僕と話していて……楽しいか?」 「――は」 語尾とほぼ同時。英臣が鼻で笑う。 「寝言は寝て言え」 「寝るにはまだ早い」 強く言い返す。そして、これ以上話をするつもりはないと小さな音を立てて、英臣は箸を置いた。 食事を完全に食べ終えたらしい。食器を端に寄せると、机に肘をつく。 蝋燭の橙色の明かりに照らされて、英臣の顔が幻想的に浮かび上がった。 肌がじんわりと夕焼け色に染まっている。 「お前の下らない戯れに付き合うつもりは毛頭ないが、時間があるから話している。それ以上でも以下でもない」 「……」 椅子を引いて立ち上がると、英臣は食堂の入り口へと歩き出していた。総一郎が食べ終わるまで待つつもりはないらしい。 「でも」 食堂の扉の取っ手を握り締め、英臣は立ち止まった。背を向けたまま、口を開く。 「……嫌なことをし続けられる程。忍耐があるわけでもないさ」 「それって」 ゆっくり、英臣が振り返った。肩口から見えた顔は少しだけ、微笑んでいた。 「お休み」 総一郎の問いに答えることなく、英臣は食堂を出て行った。 扉が重い音を立てて閉まる。 食堂に一人取り残された総一郎は、今の英臣の言葉と微笑みに思考と動きを奪われていた。 ああ、と総一郎は息を吐く。 こみ上げてくる何かに、たまらず右腕を引き寄せた。 あの雨の日に。光差す中庭に。そして今。英臣を見た瞬間、感じる衝動――総一郎はその正体に気づいた。 彼は。時田英臣は。 ――ひどく、綺麗な存在であると。 時田英臣という人間がどれほど冷たく、どれほど嫌な人間であっても。 それは覆しようのない事実であるということに気づいてしまった。 「……馬鹿な」 もう一度。 呼吸を整えるように深い息を吐いて、総一郎は残った食事にとりかかるが、思考は今の笑みに奪われたままだった。 馬鹿だ。愚かだ。下らない。 生まれた感情を必死に拒否し、食事に集中しようとしたが、先程まで分かっていた味が分からなくなっている。 「馬鹿だ……」 箸を置き、総一郎は唇を噛み締める。 英臣の仕草一つに遊ばれている自分が苛立たしかった。けれど。だけれど。 今までの自分が少しでも英臣に受け入れられているということが、嬉しくもあった。 総一郎はゆっくり目を閉じる。 ――もっと彼に近づきたい。 浮かんできた感情が、じわりと胸に広がった。 「なんだ。まだ飯を食っているのか」 そのとき。酩酊を霧消させる、現実に引き戻す声が響いた。はっとして振り返ると、食堂の扉のところに左近が立っていた。 「兄さん、お帰りなさい。仕事、終わったのか」 「ああ、今な。右近はまだかかるらしいが……っと」 靴を鳴らし、左近は先程まで英臣が座っていた席に腰を下ろした。そして、片付けられているもう一人分の食器を見て 「英臣か」 と言った。 「あ、ああ。……ちょっと、話があって」 「はは。そんな罰の悪そうな顔をするな」 総一郎の顔を覗き込みながら、左近はからからと笑う。僅かに、酒の匂いが漂った。 「俺はな。あいつがこの家に馴染んでくれればと思っているさ。右近は――まあ、置いておくとしても。お前が英臣を好きになってくれれば、兄としては冥利だよ」 『すき』 その単語に、総一郎は胸を掴まれる思いがした。英臣のことをそのように、好意の対象として見たことがなかったからだ。 気に入らない。嫌いだ。 彼に対する感情を、そのような言葉でずっと飾り続けていたのだから。 「家族の仲がいいことは、楽しいことだ」 「……左近兄さん」 人懐っこい笑みを浮かべ、左近は総一郎の飲みかけのお茶を取り上げると飲んでしまう。そして、冷めかけた急須からさらに茶を注いだ。 「……兄さんは、さ」 ようやく夕食を食べ終え、総一郎は箸を置いた。そして、左近を見つめる。 「最初から、英臣に優しかったな。あいつが……父上の愛人だといっても気にしていなかった。どうしてだ?」 「あ――あん? 総一郎。お前、そんなこと気にしていたのか」 総一郎の問いに目を瞬かせる左近。どこか子供のように無邪気な驚きを覗かせる。 「そ、そんなことだと」 「ああ。そんなことだ」 左近は大きく頷いて続ける。 「右近はやたらと怒っているが……人間を見るのは、肩書きじゃあない。中身さ。英臣の中身がもう目も当てられないほど嫌な男なら、俺だって家を追い出すよ。 大したことのない人間を養うほど、暇ではないしな」 「じゃあ、英臣のこと……兄さんは」 「ん。気に入ってる。見目も綺麗で中身も面白い。父上が愛でる理由もよく分かるさ。だから俺は、反対しない。英臣がいいからだ」 愛でる――左近の物言いに、総一郎は息を呑む。 脳裏に見たこともないはずの英臣の姿が浮かんだ。白い敷布の上でのたうつ、英臣の姿が。 瞬間、かっとしたものが体に走り、総一郎は想像を振り払おうと頭を振るう。 「……どうした、総一郎」 総一郎の唐突な行動に、左近は目を見開く。 「え。ああ、いや。なんでもない」 落ち着けと心の中で呟き、総一郎は息を吐く。その動作をじっと見ながら 「だから、総一郎」 静かな声で左近が告げた。 「英臣の味方でいてやってくれよ」 「え――」 今までに聞いたことのない、真摯な兄の声。聞き間違いかと問い返す総一郎。 だが、見るとそこに座っている左近は、もうすっかりいつもの明るい兄であった。 「じゃあ、そろそろ俺は寝る。おやすみよ、総一郎」 椅子から立ち上がり、腕を伸ばして総一郎の髪を乱暴にかき回すと、左近は食堂を出て行った。彼と入れ違いに、女給が入ってくる。 「総一郎様。お食事、よろしいでしょうか」 「あ、ああ。有難う。ごちそうさま」 礼を言って、総一郎も立ち上がる。 食堂を出て、向かいにある英臣の部屋の扉を見据えた。 味方でいてやってくれよ、といった左近の言葉が耳に残る。 同時に響くのは、いつか遠い日の右近の罵る声。あの時は、同情に近い思いでいた。 けれど、今は。 「違う……な」 喉の奥から零れた想いが言葉になる。左近の、英臣に対する好意に同調している自分が、心の中にいた。 「おやすみ。英臣」 呟いて、総一郎も部屋に戻る。 明日の朝も食事に誘おう。右近兄がいようといまいと、もう構うものか。 総一郎はそう思うと、体の奥から高揚した気分が湧き立つ思いだった。 翌朝。 総一郎が寝台の上で目を覚ますと、とても良い天気であった。 窓から見える青空は、心地の良いほどに澄んでいる。寝ぼけた頭を、真白の光が覚ましていった。 「……朝食に行くか」 寝台から起きるとさっと着替え、総一郎は自室を出た。 食堂へ向かう途中、昨夜、英臣を誘おうと思っていたことを思い出し、足を英臣の自室へ向ける。 「……起きてるかな」 ぼんやりと考えながら、総一郎は考えなしに扉をノックする。 「はい」 返事は意外なほど、すぐに返ってきた。そして、近寄ってくる足音。 「僕だけど、朝食――」 一緒にどうだろうか――。 そう言おうとしたが。総一郎は言葉を呑む。 開いた扉のその向こうにいたのは、英臣ではなかった。 「……左近。誰」 「ああ、総一郎か。おはよ」 そこにいたのは上半身素肌のままの、左近。その後ろには、寝台の上に身を投げ出している英臣が気だるげに総一郎を見つめていた。 「――は?」 <第四章> これは、どういうことかと考える。だが、頭が正常に働かない。 「兄、さん?」 廊下に突っ立ったまま、総一郎は室内の光景を見つめていた。素裸の左近。寝台の上の英臣。寝間着はまとっているが、寝起きゆえか、前が肌蹴ている。 「こ、れは、一体……どういう」 失語状態になり、戸惑う総一郎に、意地悪く左近が笑うと 「どういうって……なあ」 奥の寝台で転がっている英臣に視線をやった。その姿に、いつか見た、二人の間の親しげな仕草が重なる。 一瞬にして、外野へ追いやられたような気分になって、総一郎は顔を背けた。英臣の顔が見られない。 もし、そこで。英臣が肯定するかのように。いや。 いつものように嗤っていようものならば――。 「こういうこと、だ」 顔を合わせる自信を根こそぎ奪われる予感がした。 「おい、左近」 左近のどこか高慢めいた調子に英臣が口を開く。だが、総一郎はそれを皆まで聞くつもりはなかった。 「悪かった」 「は?」 何かを話しかけた英臣を遮り、総一郎は言った。名のつけられぬ感情に声を震わせ、体の奥から噴出してくるそれらを必死に押さえ込みながら、言葉を続ける。 「朝の、時間の、邪魔をして……すまなかった」 「おい。お前」 寝台から、軋みをあげて英臣が立ち上がる。 歩み寄ってくる気配を感じて、総一郎は扉から離れた。 「では」 「おい、まっ……」 英臣が詰め寄ってくる瞬間、扉を無理やりに閉めて、総一郎は歩き出した。背後の物音を無視して大股で無為にずかずか歩き、手近な部屋に飛び込む。 そして――今まで止めていた息を吐いた。 同時に、今まで張っていた緊張の糸が切れたかのように、手足が力を失った。どたりと、その場に座り込む。 「な……ん、なん、何だったんだ……今の」 己の目で見たものが信じられないと頭を振るうが、明るい日差しの下で見た光景が離れない。記憶に焼き付けられた一枚の写真のように。 兄と、英臣が。 「嘘だ……」 言い聞かせるように、呟く。 「……嘘だ」 だが、言葉にすればするほど、今見たものが現実であると突きつけられる。 震える手で、総一郎は口元を押さえた。必死に平静を取り戻そうとするが、しかし、頭は混乱してまともに働いてくれない。 「……どうして」 言って、総一郎は項垂れた。 もしかすれば。一晩、何やら話し合っていて、いつの間にか一緒に眠ってしまったのかもしれないではないか。 だが、その必要性が総一郎には見つけられない。 どう考えても、二人の間に何かがあった。そんな雰囲気であって。 左近の行動は、秘密を共有するものの仕草であった。 昨夜見た、英臣の笑みは嘘だったのか。受け入れられているという感情は驕りだったのか。 事の真偽は定かであれ、考えれば考えるほどに、浮かれていた自分が余計に惨めに感じられる。 自分は、何を思っていたのだと。 しかし。それよりも何よりも――。 父の愛人だと言っていた彼が、左近の手にも抱かれていたのだと思うと悪心すら感じる。否。強い嫌悪を確固と感じる。嫌悪、嫌悪だ。 ――なんたる不道徳。なんたるおぞましき事! 総一郎は床を拳で叩き、顔を上げた。 彼に近づきたい。彼と少しでも、親しくなれれば。 そう思った言葉に偽りはない。 けれど、彼自身が、抱く手全てに身を委ねるような不埒な人間であったのならば? もうこれ以上、自分は彼には近づけない。近づきたくない。 未だに震える己の手を見つめ、総一郎は深い息を吐いた。体を震わせるこの感情の名を知り、少しは思考が落ち着いてくる。しかし。 「――馬鹿だ」 口をついて出るのは、罵る台詞だった。 それは、愛人という名をもつ相手の心を知りたいと思った自分がか。 それとも、その名をもろともせず明け透けとしている兄がか――その手に抱かれている英臣がか。 ぽつりと漏らした自嘲じみた言葉は、晴れていた心に暗雲をもたらしていった。 窓の外の朝は、美しき空であるのに。 総一郎の双眸は、暗い色を湛えていた。 ――許せない、と。 昼になっても、朝の光景のせいか。総一郎の気持ちは全く晴れなかった。 窓の外から見える空と帝都は晴れ渡り、眩しいほどに美しい。外出すれば気分も晴れるかと思ったが、外を歩き回る気分にもなれなかった。 同じ屋敷に住まう英臣と遭遇することを避けて、自室で眠ったり、庭をふらふらしていていたのだが、やることがとうとう無くなり――総一郎は父の書斎に来ていた。 少しばかり薄暗いこの書斎は、本の匂いに満ちている。 英臣が来るまではあまり立ち入らなかった場所であるが、近頃は世話になっている。 それは、英臣の影響であることは確かであった。今の己の心境では、不愉快な思いではあったが。 「……」 書棚にもたれかかり、適当な蔵書を手にする。ページをめくるが、しかし、内容が頭に入ってこない。 (このままだと読めないな) そう感じて総一郎は本を元に戻した。改めて書棚を見上げる。 大きい木の棚に隙間無く詰められた書物。専門書や洋書、巷で流行っていた物まで、幅広く揃っている。 おそらく、全てを読み終えるには何年もかかるであろう数。 この並んでいる本一つ一つに、父・京一郎の思い出がこめられているのだろうと考えると、触れることさえ大切にしなければと総一郎は思った。 何とはなしに、目で本の背表紙を追う。その視界に、茜色の背表紙が入った。 どきりとして動きを止める。 しばらく背表紙を睨んでいたが、やがて手を伸ばして、それを取り出した。 「……」 以前、英臣が読んでいて、興味を持って自分も読んでみた本だ。 中身は大したことのない、外国の詩集を日本語に訳したものだった。 言葉が作り出す想像の世界の良さなど、本当のことを言えば総一郎には分からない。ただ、英臣が読んでいたから読んでみたという簡単な理由で読んだだけだ。 だから、特に感ずるものがあるわけではなかった。 ――けれど。 総一郎はゆっくりと最後のページを開く。 硬い表紙の裏側。広がる空白の端にはこう書かれていた。 『京一郎様へ。愛をこめて』 そのたおやかな文字を見つけたとき、最初は誰の字だろうかと考えた。まさか英臣か、とも思ったが、それにしては古すぎる字である。 書いた主は一体誰か。筆跡を眺めていて、総一郎は誰か思い当たった。 京一郎の妻――総一郎の母である。 おそらくは二人が婚姻を結ぶ前、母から父へ送った本であろう。 そう思うと、この本は両親にとっての大切な思い出であり、それを大切にしまっている父は母を本当に大事にしていたのだと、総一郎は思い知る。 そして同時に。 そんな父が愛していたこの本を、英臣がどのような思いで読んでいたのだろうかと考える。 思いを馳せるが、想像がつかない。 だが、その英臣が左近とした行為は、明らかに、彼を愛した父を裏切る行為だ。 「……っ」 今朝のこと、英臣のことを考えると、かっとしたものが急に込みあげ、総一郎は手にしていた本を書棚に乱暴に直した。 ――出かけよう。歩いていれば、この苛立ちだって紛れるはずだ。何処へだって行ってやる! 大きく溜息をついて呼吸を整えると、総一郎は顔を上げて、入り口に向き直った。 そこに。 「っ!」 いつの間に立っていたのか、気配も感じさせず、英臣が立っていた。 「ひで、おみ」 薄暗い中でも映えるその姿。眼鏡越しの瞳はいつものように冷ややかで美しい。 彼の手には、書物が一冊あった。おそらくは本を返却しに来たのであろう。 英臣はたじろいた様子の総一郎を一瞥すると 「珍しいな」 と馬鹿にしたような声音で呟いた。そして彼の横を過ぎ、目当ての本棚に向かうと持っていた本を直した。 「……」 「……なんだ。いいたいことがあるなら、言えばいい」 英臣の姿をじ、と睨む総一郎。構わず、英臣は新たな本を探しにかかる。 「お前に言いたいこと、か」 「言いたいことだ。そんな風にちらちら見られていると、気味が悪い」 はっきり言え。 言い放ち、英臣は本を一冊取り出すと、総一郎に踵を向けた。 「何の用だ」 「何の用……か。はっ、僕が言いたいことは分かるだろう」 「……」 挑発するような総一郎の言葉に、英臣は軽く吐息をついて、続きを促した。 双眸が、総一郎を見つめる。 「どういうつもりで……どういうつもりで、兄さんと」 脳裏によぎるのは、英臣。敷布の上の気だるげな姿。なんと―― 「あんなことを……したんだ」 なんと、淫らな。 口にするのも嫌だと総一郎は顔を背ける。唇を噛み締めながら呟いた言葉に、英臣は首筋を撫で付けながら小さく溜息をついた。 何もいわず、どこか総一郎を鬱陶しげに見ている英臣。 彼の態度に総一郎は苛立ちが湧き上がる。 「お前のしたことは……ふ、不道徳だ。許せない。男同士で、あんな。信じられない。愛人とはいえ、お前の中に道徳というものはないのか」 だが、英臣は弁解一つもしない。冷ややかな視線で、どこか図々しいまでの態度。 総一郎はこみあげる感情に任せて、さらに英臣に言葉をぶつける。 「それだけじゃない。お前は、僕も……いや、僕のことなんてどうでもいい。お前は、父上も裏切ったんだ。お前のことを大切に思っていた父上までも裏切ったん」 「待て」 総一郎を遮り、英臣が言い放つ。刃を思わせる鋭さに、総一郎は動きを止めた。 「……いつ、俺が京一郎を裏切った」 「い、いつとは。痴れたことを……今朝の」 「裏切っちゃいない。俺は京一郎に対して今まで一度たりとも、裏切るような行為はしていない」 きっぱりと。揺るぎないほどの強さで、英臣は告げる。 「俺は、京一郎を裏切らない」 眼差しに宿る熱に、総一郎は息を呑んだ。 そこに立っているのは、今まで総一郎を疎ましげに見ていた英臣ではない。 それだけの怒りがどこに隠れていたのかというほど。彼は総一郎の言葉に、本心から怒っていた。 深い森の色をした瞳が爛々と暗闇に輝いている。 「京一郎が、今まで一度も俺を裏切らなかったように。俺も、これからもずっと裏切るような真似はしない」 「ならば」 「……想像だけでよくもそこまで言えるな。お前は」 口の端に嘲笑を浮かべ、英臣は言った。そして一歩、総一郎に近づく。 鬼気迫る英臣の姿に、総一郎は思わず一歩、後ろに退いた。 「!」 だが、背中に本棚が当たる。逃げ場はない。 「想像だけで怒るのは貴様の勝手だが、それを俺にぶつけられるのは不愉快だ。とても」 真正面から睨む英臣の視線から、総一郎は思わず逃れた。顔を背ける。 自分から彼へぶつかっていったというのに、返されたその視線が怖くて――怖い? 総一郎は、己の中に生まれた感情にどきりとした。 英臣の何が怖いというのだ。 「大体……いつ俺が左近と寝たというんだ」 「ねっ……」 率直な物言いに、総一郎の頬に朱が走る。かっとして振り向くと、すぐそこに英臣の顔があった。 ぞくりとするような、整った顔立ち。男であるということを一瞬忘れる。 近づいてくる顔が綺麗で。いつのまに眼鏡を外したのか、英臣の真直ぐの眼差しと総一郎の視線がぶつかりあった。 ああ、そうだ。 総一郎は英臣の顔を見据えながら気づいた。 「真実も知らず、己の想像だけで現実を決め付ける。馬鹿だよ、お前は」 その顔は、怖いほどに、綺麗なのだ。 怒りに燃え、鋭く総一郎を責めたてるその顔が。 「愚かだな」 「英お……みぃ……っ」 言葉の途中で、ぎゅ、と手を掴まれた。 指と指を絡めて、総一郎の手の甲に爪を立てる英臣の指先。自分のものではない、熱い他者の存在。 見かけより熱い手に総一郎は頭がくらりとする思いだった。 己を必死で立たせるが、熱くなり始めた思考は震えて定まらない。 逃れればいいというのに、逃れられない。動けない。 「お前の言う不道徳なこと、とは、こういうことか」 「!」 低く囁かれる声。掠れたそれが紡ぐ問いに答えようとするが、総一郎の喉は渇き、言葉を発することが出来なかった。そんな総一郎を英臣は嗤う。 「……俺がいつ。お前を裏切った」 爪を強く立てられる。指の付け根にぎりりと食い込む痛み。 だがそれは、憎しみ故の行為ではなく、どこか愉悦の篭った行動。逃げようとする総一郎を追い詰める楽しさのような。 爪を立てる。しかし、すぐにその痕を柔らかく撫でる。艶かしい動き。 「俺に、裏切られたと感じるような想いすらも持っていない癖に、勝手な言葉で俺の中に踏み込んでくるな」 「!」 「何が、許せない、だ。空虚の癖に。俺に何も感じていない癖に。形だけの道徳を振りかざして俺を断罪するつもりか」 ぎりりと英臣の口の端が歪んだ。その行動が、総一郎が不愉快だと言葉なく語る。 「子供だな。お前も。あの女と同じように、子供だ」 「なん……!」 突きつけられる言葉に耐えられず、総一郎は口を開いた。 瞬間。 言葉を発する唇を、塞がれた。 何が起こったのか分からず、総一郎は動きを止める。 唇に触れる、生暖かな感触。ほのかに頬に触れる柔らかな髪の感触。 家族ですら近づいたことのないすぐ近くに他の誰かがいる感触。 近づきすぎてぼやける視界に、英臣がいる。その瞳は開いたまま、責めるように総一郎を睨んでいた。 「ん……ぅっ」 塞ぐ唇が深く、もっと深くと総一郎を侵す。 動くたびにふと香る、英臣の匂いと、二人の交わりで聞こえる衣擦れ。 唇と手と、その二つで他者と繋がっている感覚に、総一郎は足が震えた。耐えられず、思わず目を瞑る。視界の全てを瞼で遮る。 だが、それは現実からの逃亡にはならない。口付けをされているという、余計な実感を起こさせるだけであった。 水音が響く。こじ開けた唇の隙間から、舌先が割り込む。口内を蹂躙する。だが、それも刹那。 唇を薄く離し、鳥のような啄ばみの口付けを繰り返したかと思うと、今度は強く貪る。その動きはまるで、余裕のない総一郎を弄ぶかのように。呼吸する暇も与えない。 「……は」 やがて。唇をそっと離し、英臣は息をついた。肌を震わせる英臣の吐息。 今まで、呼吸を止めるほどに唇を会わせていたのだと思うと、総一郎は羞恥に身を捩りたい思いだった。 「あ……」 唇が離れていく感覚に、総一郎は恐る恐る目を開く。 ぼやけた視界には、英臣がいた。冷めた色の、まっすぐの双眸のままで。 「――っ、どういうつもりだ!」 その瞳に我を取り戻し、総一郎は英臣を突き飛ばそうと腕を振るった。 だが、それよりも早く、英臣は総一郎の腕から逃れる。 軽やかな足で書斎の扉まで飛んでいた。 「別に。……お前が気に入らなかっただけだ」 ぽつりと呟いて、英臣は嗤う。自身の気づかぬ、総一郎の罪を嘲笑うかのように。手にしていた眼鏡をつけると、涼やかに金の鎖が揺れた。 「……戯れも大概にしろ」 言い放ち、英臣は荒々しく扉を開けて書斎を出て行った。 英臣が飛び出したと同時に。 「あ……はあ、あ」 体の力が抜けて、総一郎はその場に座り込んでしまった。 情けない、と思う余裕もない。ただ、今あったこと全てが信じられなかった。 英臣とのくちづけ。 総一郎は思わず、自らの唇に触れる。湿った感触が心臓の鼓動を高める。 「な、なん……何なのだ、あいつは」 噴出す混乱を抑えられない、と床を殴る総一郎。だがそんなことをしても、動悸は治まらない。よりいっそう強くなるばかりだ。 ――男色家でないといいながら、父上の愛人で、こんな――こんなことを。 「ああ……くそっ」 落ち着けと唇をきつく噛み締める。 ――落ち着け。落ち着け。こんなことぐらいで……うろたえるな。 目を瞑り、言葉を繰り返す。同時に何度も深呼吸を繰り返し――息を整えるうち。ゆっくりと澄んだ思考が戻ってきた。 総一郎は床に座り込んだまま、ぼんやりと今のことを考える。 『俺に、裏切られたと感じるような想いすらも持っていない癖に、勝手な言葉で俺の中に踏み込んでくるな』 頭の中に英臣の罵りが蘇る。言われたとおりだ、と総一郎は苦笑した。 自分は、英臣に対して何か感じていたかというと、本当は何もない。 最初は英臣が父親の愛人だという現実への嫌悪。けれど、彼の事情を知り、右近に罵られる彼に哀れみを感じ。彼の人となりを知りたいと思ったのは、好奇心ゆえだ。 時田英臣という人間が好きだから知りたい、というわけではなかった。知らずに彼を放逐するのは、したくないと思ったからだ。 そこから少しずつ、彼を知り始めた――直後、なのだ。今という時間は。 けれど、今朝見た左近兄との光景で、消えたはずの嫌悪が再び蘇ってきた。 これは彼自身への嫌悪ではなかったのか。――分からない。 英臣と兄が戯れているという現実が気に入らなかったのか。――分からない。 もしこれがこの感情の根本だというのならば、己は英臣か兄に嫉妬をしているということになる。そうではない。 『何が、許せない、だ。空虚の癖に。俺に何も感じていない癖に。形だけの道徳を振りかざして俺を断罪するつもりか』 結局は、そういうことなのだ。 自分が感じた感情ゆえに、彼を許せないと嫌悪を燃やしたわけではないのだ。考えても分かるはずがなかった。答えが、己の中に存在しないのだから。 己の親族が他の誰かとふしだらな関係になっているのではないかという現実が、単に嫌なだけだったのだ。 嫌だと感じた衝動のまま行動し、事情を何一つ、見ようとしなかった。二つの目から見える視界で起きたことが、全てだったのだ。 『子供だな。お前も。あの女と同じように、子供だ』 桜子がどうというわけではない。ただ、事情も状況も何一つ知らず、己が感情のままに振舞うことは子供だということだ。 しかし、こうして考えて、「よし、じゃあ今からこうしよう」と態度を変えるのもまるで子供のすることだ。 上から物を言われて、右向け右としなければならないのは礼儀作法ぐらいなものだろう。 ――あいつは分かっていたのか。僕のことが。 総一郎はぼんやりと思う。 膝に肘をつき、手の甲を見つめた。わずかに英臣の爪跡が残る皮膚。だが痛みよりも、撫でられた瞬間の甘い震えだけが頭に残っていた。 「は……」 ぞくりとした感覚がこみ上げてきて、吐息をつく。右腕を引き寄せ、頭を振るう。理性は忘れろと命令を発するが、感覚は忘れられそうに無かった。 「……馬鹿馬鹿しい」 このままじゃだめだ、と総一郎は立ち上がった。 気づけば、書斎から差し込む光は夕焼け色をしている。英臣と言い争っていたのはほんの一瞬だと思っていたが、それなりに時間が経っていたらしい。 総一郎は座り続けてわずかに痺れた足を引きずりつつ、父の書斎を出た。と、同時に。 「ああ、総一郎。そんなところにいたのか。見つけたぞ」 階下から左近の声がした。階段の縁に寄ってみると、一階の玄関ホールに左近がいた。人懐っこい無邪気な笑みを浮かべると 「ちょっといいか」 と走り寄ってきたのである。 「こうして、ここから空を見上げたのは――ほんの二ヶ月ほど前だったんだけどなあ」 言って、左近は総一郎の自室の窓を開けて、もたれかかった。いつかと同じ体勢をして、夜の迫る茜色の空を見上げる。 総一郎といえば、やはり、いつかと同じ体勢で机に向かって座っていた。違うのは、机の上に広がっている便箋がないことだけ。 あの雨の日。父が死んだ日以来だ。 「あれから、色々変わったなあ。うん」 一人で頷いて、左近は視線を総一郎に向けると 「お前。朝のこと、本気だと思うなよ」 と言った。直球の言葉に、総一郎はどきりと胸を突かれる。今しがた、そのことで英臣と言い争ったばかりなのに。 「朝のこと……英臣との?」 「ああ。お前、最後まで聞かずに飛び出すから、あの後、英臣はお冠だ。手加減なしで蹴られたぞ。腰を」 ただでさえ痛いのに手加減無しの零距離攻撃――と愚痴り、左近は前髪をかきあげた。 「子供のお前のために、順序だてて話してやろう。まず結論だが俺と左近はいかがわしい関係じゃあない。 朝のあれは……ほんの冗談だ。お前と英臣が、最近仲がよさそうだから、兄としては……まあ、少しからかってやろうかと思ったんだが…… お前が冗談を真に受けるなんて俺も想像しなかった」 まくし立てて溜息をつき、左近は続ける。 「おぼこのお前には悪い冗談だったな。本当に悪かった。……正直。昨夜は酔っ払っていてな。帰る部屋を間違えたんだ」 言われて、総一郎ははっと昨日の食堂でのことを思い出す。昨夜確かに、左近からは酒の匂いがしていた。 「それでいつものように寝ていたら、部屋には英臣。俺も正直驚いた。――奴に聞いたら、俺は床で鼾をかきながら寝ていたらしいよ。 起こしても俺は気づかなかったと。我ながら寝癖が悪いと思うがね」 馬鹿だ俺は馬鹿だと呟いて、左近は窓を閉めた。 風が涼しくなっている。もうすぐ、夜がやってくるのだ。 「で、今朝に繋がるわけだ。あいつも朝は低血圧だとかで、頭が働かないらしいよ」 「……そんなこと」 「む」 「そんなこと、英臣は言っていなかった」 左近から明かされるあっけない真実に、総一郎は軽い虚脱感とめまいを覚えながら、呟いた。 なんだ。こんな簡単なことで、言い争って、挙句――。 思わず、総一郎は唇に手をやった。 「どうした」 目を瞬かせる左近。何でもないと総一郎は答えるが頭の中には、忘れていたはずの感覚が蘇ってくるのだった。それを抑えながら、総一郎は左近を見据える。 「そんなこと、英臣は一言も」 「なんだお前ら。喧嘩したのか」 「!」 総一郎の言葉尻から何かを感じたのか。 左近はわずかに目を細めて、笑った。総一郎の座る机に腰掛け、総一郎の肩を叩く。 「何を言われたんだ。兄様に言ってみなさい、総一郎君」 「……」 いえるか、と総一郎は口を噤む。一方的な言葉で罵ったはいいが、確実な言葉で反論され、接吻されたなど。親にだっていえない。 「なんだ、言えないような卑猥な言葉か」 「兄さん……あのな」 「悪い悪い。これも冗談だ」 明るい笑顔。毒気のないそれに、総一郎は憮然として溜息をつく。 「なんだな……互いに誤解をとこうとしないんだな。お前たちは」 総一郎の態度に顔をくしゃりと歪めて、左近は総一郎の頭に手を伸ばした。そのまま、強く髪をかき乱す。 「止めてくれよ、兄さん」 「一言、訊ねればいいんだ。英臣、お前は緋芽宮左近とただならぬ関係にあるのか、とな」 わずかに芝居がかった口調で、左近は言う。何を言い出すのだと総一郎は兄を無言で見上げた。 「そうしたら屹度、英臣はこう言うだろう。俺にはそんな趣味はない、とな。これで解決。何を喧嘩することがあるんだ」 「……それは」 あっさりと解決策を打ち出してしまう兄に、僅かな嫉妬を抱きながら、総一郎は唇を尖らせた。 「それは……兄さんだから」 「そうだな。これは、俺だからだな。お前だったら――ん。そうだな……どういうつもりで、兄さんとあんなことをしたんだ。これだな」 「!」 左近の唇から紡がれた言葉に、総一郎はぎょっと目を見開いた。総一郎の様子に、図星か、と左近は笑った。 兄のそんな姿に、総一郎は自分の視界の狭さを思い知る。俯いて、己の手を見る。英臣の爪痕は、気づけばなくなっていた。 「周りの状況や事情を知ろうとせず、最初から疑問を問いただそうとする。お前の悪い癖だ……まあ、可愛いところでもあるんだがな。兄としては」 けれど、と左近は言葉を次ぐ。 「大人としては、まだまだだ。不要な争いの元になる」 その通りだ、と総一郎は顔には出さず心の中で頷いた。 左近は総一郎の頭から手を離し、椅子から立ち上がると 「英臣も、似たようなものだ。売り言葉に買い言葉。お前相手だからかな――あれもお前と話すときは年相応の子供だ。 どちらも、自分から折れて相手を受け入れることを良しとしない。それでは、何時まで経っても駄目だぞ、総一郎」 「兄さん……」 「自分の気持ちを伝えることは大事だが、それよりも前に、相手の言葉を受け入れるのも大切だ。……そんな顔するな、総一郎。 今回のことで気づいたなら、それでいいじゃないか。次から、生かしていけばいい」 柔らかな兄の笑みに、総一郎は――それこそ、幼児のようにこくりと頷いた。求めていた言葉を、受け取ったような。そんな温かい満足感を得たような気がする。 扉が小さく開く音がした。総一郎が顔を上げると、左近は部屋を出て行こうとしていた。足を半歩、廊下へと出している。 「まあ英臣と、お手手つないで仲直り、しろとは言わないが……言っただろ」 「何を。兄さ……」 「お前が、あいつの味方になってやれと」 肩口から振り向いた左近の顔には、今まで見たこともないような暗い影が落ちていた。来るべき災厄を予期しているかのような、そんな顔。 いつもは陽気な顔の左近の様子に、総一郎は疑問の声を上げようとしたが、それは届くことは無く、左近は外へと出て行ってしまった。 「……味方、か」 同じ言葉を、左近は前にも繰り返した。一体何があるというのか。……それは分からない。 けれど、今度、英臣と接触するときには――もう少し、まともな受け答えが出来るようにしておかなければ。 今、総一郎の心の中には、先程まで抱いていたはずの嫌悪も何も無かった。 あるのは真っ白な始まり。英臣のことを知りたいと思ったあの日のままの心。 総一郎は、再び、始まりの地点に立ったのだった。けれど、その心の中に抱くものは違う。 彼は始まりに立ったと同時に、一歩、踏み出したのだ。英臣の下へ。 窓の外はいつのまにか夜。そこに、夕焼けの名残は一筋も残っていなかった。 <第五章> ――英臣と和解をする。 総一郎の目標は明確ではあったが、その契機が訪れることは少なかった。というのも、普段は外出し続けの長兄右近が、珍しく家に長く留まっていたからであった。 右近にとって英臣は、未だに憎しみの対象であったから、彼が英臣を構うことはなかったが――それでも英臣の方が気を遣っているのか、日中、屋敷の中に英臣の姿はなかった。 故に、総一郎は英臣と会うことができなかったし、食事に誘おうにも右近がいるため、実質不可能だったのである。 左近だけであるならば、まだ契機はあったのかもしれないが。 夕方の食堂。食事をとるのは右近、左近、そして総一郎である。もちろん英臣の姿はない。 会話は無く、食器の小さな音だけが広い食堂に響き渡る。 「右近兄さん」 「なんだ、総一郎」 夕食をとりながら、総一郎はふと頭に浮かんだことを訊ねる。 「近頃はずっと家にいるけれど、仕事は休みなの?」 総一郎の問いに右近は頷き 「ああ。少し、な。私用で休暇をとらせてもらったのだ」 と口元に嬉しそうに微笑を浮かべた。 「あと僅かで、王手だからな」 「右近」 しかし、弾んだ右近の声とは対照的に、左近の声はひどく冷静だ。表情も心なしか固い。 「なんだ。左近」 左近の様子に、右近は首を傾げる。 「いや……別に」 何かを言いかけて、口を閉じる。左近兄にしては珍しいことだ、と総一郎は思った。 総一郎にとっての兄である右近、左近兄弟は双子である。 その顔はどこか対称的。同じ切れ長の目、少し高い鼻梁をしていても、浮かべる表情はまるで違うし、態度や性格などは全く違う。 簡単に言えば、右近が硬派であるのに対し、左近は軟派だ。 二人の姿は、総一郎が物心ついてから変わらない。 何事にも軽い態度の左近を、真面目一徹の右近がたしなめる。それが日常の風景である。 しかし。 今、この二人の間に流れる空気は、いつもとは全く違うものであった。 どこか。張りつめている。逆転している。 「兄さん……」 「どうした。総一郎。何か気になることでもあるのか」 総一郎に柔らかな微笑を返し、右近は箸を置いた。 「いや、兄さんがこんなに嬉しそうな顔しているのが……その、久しぶりだから」 「ははは。そうかもしれないな」 常に京一郎の右腕として気を張っていたのだから当たり前かもしれない。 だが、それを抜きにしても、右近の様子は高揚しているようだった。その分、左近の表情は戸惑いを浮かべているけれど。 「右近様」 と、そのとき。扉がノックされ、給仕が顔を出した。 「どうした」 「右近様にお客様です。応接間にお通ししておりますが……」 「……ああ、分かった」 客が誰かとも聞かず、右近は全て分かっているかのように頷いて席を立った。その横顔は、先以上に嬉しげである。 「総一郎」 と。食堂の扉の前で足を止めて、右近は言った。 「はい……なんでしょう、右近兄さん」 「もうすぐだぞ」 「は?」 ゆっくりと振り向いて、右近は口元に深い深い、笑みを浮かべた。それは―― 「もうすぐで、全てが戻ってくるんだ」 寒気を起こさせる、幽鬼の顔。 「み……っ」 「では、失礼する」 声をかけることができず、総一郎は言葉を呑んだ。総一郎の惑いも知らず、右近はさっと部屋を出て行く。その背中を見送って、総一郎は箸を置いた。 食事はまだ残っていたが、一瞬にして喉が詰まったような思いがしたのだ。 「に、い、さん」 今までに見たことのない右近の様子に、総一郎は思わず左近に救いを求める。だが、左近は顔を沈めたまま、総一郎を見ない。 「どういう、こと」 「……総一郎」 「はい」 左近の問いかけに、総一郎は恐る恐ると頷く。何を言い出すのか、とその唇を見据える。 「……気にするな」 しかし、唇から出た言葉は、総一郎の想像とはかけ離れたものであった。拍子抜けをして、総一郎はぽかんと口をあけてしまう。 「え、兄さん?」 「ご馳走様。……総一郎」 左近も箸を置き、席を立ってしまう。そしてそのまま、食堂を出て行こうとする。 「兄さん」 強く呼びかけると、左近は足を止めた。だが、振り向こうとはしない。 「時期がくれば、分かる。だから、今は、気にするな。総一郎」 「……!」 左近の言い回しに、さらに疑問がわきあがる。今は気にするな、だと。 しかし右近同様に、左近も総一郎の疑問に答えることなく外へ出て行ってしまった。 総一郎は一人、残される。 「どういうことだ……?」 胸にはただ、小さな引っかき傷がついた。 それからしばらく経っても、右近左近兄弟間の張りつめた空気は変わらなかった。 右近は休暇といいながらもあちこち飛び回っているし、名前も知らぬ訪問客は足しげくやってくる。 くわえて日にちが経つにつれ、興奮の入り混じる態度をとるようになった。 逆に左近は、日が経つにつれて重い顔をするようになっていく。総一郎が話しかけると笑っていつもの態度をとるが、どこか嘘じみた態度だ。 一体どういうことなのか。これは。 頭を悩ませるが、総一郎には答えを見つけられない。ただ、状況に流されるばかりである。 そんなある日の午後。 「今から、少し出かける」 右近はそう言い残して、行き先も告げずに馬車で飛び出していった。 左近はといえば前日からどこかへ出かけて行方不明であったが、右近にとっては拘泥することではないらしい。 片割れの名を口に出すことも無く、興奮のままに彼は出て行ってしまった。 「いってらっしゃい」 右近が出かけるのを見送り、総一郎はぽつりと玄関に置いていかれる。 そこで、ふと気がついた。 今、屋敷にいるのは自分と……英臣だけであると。 「……英臣」 総一郎はゆっくり振り返り、玄関ホールから中庭に続く廊下を見据える。 「英臣」 そして、総一郎は惹かれるように歩き出した。扉を潜り抜けて、中庭へと向かう。 右近が外出するまで、英臣の姿は屋敷になかった。だから、今もこの屋敷の中にいるという保証はない。もしかしたら、外出しているかもしれない。 けれど、確証があった。 ――彼は必ず。 「……英臣」 中庭に続くポーチ。太陽の光を浴びるように設えられた席。薫る紅茶と、小さくページをめくる物音。 ――そこにいると。 声をかけると、ポーチに座っていた英臣が顔を上げた。 金縁の眼鏡越しの瞳が、総一郎を射抜く。暗い森の色をした瞳は、久方ぶりに見たせいかとても美しく見えた。 「……なんだ。お前か」 離れていた時間と距離を一瞬にして縮める英臣の言葉。思わず、総一郎は笑ってしまう。 「なんだとは、なんだ。失礼だな、お前は」 言いながら、空いている英臣の隣の席に腰を下ろす。それを英臣は咎めたりはしない。 読んでいた本を置いて、空いたカップに紅茶を注ぐだけだ。 それは、無意識に相手を許す行為。 「……兄さんが出かけたから、ここに?」 差し出された紅茶に口をつけ、総一郎は訊ねる。だが英臣は答えることなく、伏せた本を広げなおした。 「俺が何処で何をしようと自由だ。答える義務もない」 涼しげな態度を崩さぬ英臣。目線は本の上を追い始める。総一郎の存在など、気にかけていないかのように。 けれど彼の行動には、起きた事件で離れた二人の距離を縮めてしまう親しみがあった。 総一郎もまた英臣の態度を気にすることなく、紅茶を啜る。 鳥の鳴く声がした。沈黙が訪れ、紅茶を飲む音と本をめくる音だけが響く。しばらく総一郎は無為に紅茶を飲んでいたが、やがて口を開いた。 「……この間は、すまなかった」 総一郎の言葉に、英臣はめくる指先を止める。そして、ゆっくりと顔を総一郎に向けた。 「何を」 本を再び伏せる。英臣の見つめる眼差しを感じながら、総一郎は言葉を続けた。 「ひ……左近兄さんとの、ことだ。勝手な早とちりの挙句、お前を罵ったりして悪かった」 己の発言が恥ずかしいのか。総一郎は顔を伏せ、指を強くくみあわせ握り締めた。 「事実を、確かめず……一方通行なことを……本当に、す、すまない」 しかし、総一郎の謝罪にも英臣は表情を変えない。ふうん、と小さく頷いて紅茶を飲んだ。そして言う。 「……些細なことは忘れる」 「英臣」 意外な返事に総一郎は目を見開く。顔を上げると、英臣と視線がぶつかった。 そこにある英臣の双眸は変わることなく鋭く、冷たいけれど。 「もう忘れた。どうでもいいことに拘るほど、俺は暇じゃない」 総一郎を許していた。 「……そう、か」 「貴様が気にしているなら、もう忘れることだ」 「む……」 口調は変わらないが、話している内容は総一郎を気遣うものだ。 遠まわしに気遣われて、総一郎はくすぐったい思いであった。つい顔を背けて 「それなら、いいが」 とぶっきらぼうに呟く。 「それでいい」 英臣もそう言った。 再び、二人の間に沈黙が訪れる。しばらく総一郎は黙っていたが、組んでいた手を離すと、甲に残された爪痕を思い出し口を開いた。 「なあ、英臣」 少しだけ赤くなっていた皮膚。三日月の小さな痕。その上を、他人の指が這いまわる熱を思いだし、総一郎は体の奥からこみ上げる感覚に肌を震わせる。 そのことを悟られぬようにと総一郎は英臣を見た。 「なんだ」 「――お前は、どうして、あんなことを僕に」 「は?」 言っている意味が分からない、と英臣は眉をひそめる。 「その……この間の、夕方……父上の書斎で」 これ以上は言えない、と総一郎は唇を噤んだ。 総一郎の指先は、既に消えてしまった痕をさすっている。その様子に―― 「あ、ああ」 英臣も、彼が何を言わんとしているかに気づいたようだった。白皙の顔に刹那、朱が走る。 「ひで……おみ」 そのとき総一郎が見た英臣の顔は、今までに見たことのないものだった。 朱は一瞬だったが、わずかに顔を俯かせ、自分のした行動を恥じているようなそんな顔。 眼差しは、虚空を見ていた。 「お前……その、男色家では、ないのだろう。なら……ええと、あれは」 どういう意味だ? と目で訊ねる。総一郎の視線から、英臣はさらに逃れた。 「英臣……」 「……」 もがくように息を吸う、戸惑っている英臣。だが、やがて表情を変えて 「……はずみだ」 と言い放った。 「はずみ」 「そう。はずみだ」 英臣の言葉に、総一郎はまたも目を瞬かせる。何を言い出すのかと。 続きを促す総一郎の視線に、英臣は目を閉じた。問い詰める眼差しからの完全なる遮断だ。 「……貴様があまりにも……ふざけたことを言うから。少し……」 「馬鹿にしてやろう、とでも」 「……」 また黙り込む英臣。 あの口付けに、彼が戸惑うほどの深い意味があったのかと総一郎は思ったが、英臣に限ってそのようなことはないだろうと考え直す。 でなければ、その「深い意味」の意図を、彼に問いたださなければならないからだ。 その行為の意味は――鈍い総一郎にも分かる。 英臣の総一郎への真意を。想いを、訊ねるということだ。 「……忘れた」 しかし。英臣は総一郎の言葉をはぐらかすような答えを出した。 「忘れただと」 英臣の答えに、総一郎の眉が跳ね上がる。語尾に怒りが篭る。 「そうだ……忘れた。あんな、どうでもいいことは」 「どうでもいいことだと」 総一郎はぎりと拳を握り締めた。 人を散々悩ませておいて、どうでもいいことだと――? 「ひ、英臣」 今までの自分の中の逡巡はなんだったのかと総一郎は悔しくなった。机の上に拳を叩きつけて立ち上がり、英臣を睨みつける。 「どういう意味だ、それは。貴様、お前のせいで、僕がどれだけ悩んだか……っ」 爪を立てられた痛みも。初めて合わせた他人の温もりも。這い回る手の熱さも唇の感触も。 ふとした瞬間に蘇り、今も自分を悩ませているというのに。 「どうでもいいと思うようなことなら、しないでくれ!」 心を締め付ける怒りに、総一郎は叫んだ。その叫びに、英臣ははっと目を見開く。 「ぼ、僕は……あ、のせいで、色々と考えることが出来たんだ……どうしてくれる」 搾り出す総一郎の言葉。二度と、感情に任せての罵倒はしないと総一郎は決めていたが、これだけは言わずにいられなかった。 「お前のせいで……僕は、めちゃくちゃになった!」 英臣は顔を伏せ、目を閉じる。薄く開いた唇がああ、と吐息をついた。悩ましげに眉根を寄せる。 「……」 英臣は何も言わない。はたから見れば、ただ総一郎が英臣を罵っているだけのように思える。 しかし、罵っているはずの総一郎すらも苦しげに見えた。 「……」 降りる沈黙。総一郎は叫んだことで力を失ったかのように、椅子に腰を下ろした。がたん、という物音が場違いにすら思える沈黙。 しばらく二人は黙っていた。 それは、天にあった強い日差しが姿を消し、薄い茜色の美しさに染まり始める頃まで。 「……本当は」 やがて、ゆっくりと英臣が口を開いた。 「何?」 総一郎は俯けていた顔を上げて、英臣を見つめた。英臣もまた顔を上げている。 夕日に透ける髪の美しさ。肌はわずかに橙色に染まり、見た瞬間、総一郎は胸を締め付けられた。 ――桜子にすら感じたことのない、人は美しいのだという感覚が心に蘇る。 「……本当は、俺は」 瞬間。総一郎には、英臣がひどく弱弱しく見えた。見目には変化は無くれっきとした男性のものだが、その内に幼い子供がいるかのように。 「ん……」 机の上におかれていた英臣の手が、のろりと動いた。 「英臣……?」 どうするんだ、と総一郎が息を呑んだ、次の瞬間。 玄関から大きな物音が聞こえた。 「っ、なんだ」 反射的に立ち上がる総一郎。そして、玄関に向かって歩き出す。そのあとを、英臣もついてきた。 「あ、総一郎様、時田様……」 玄関ホールに二人が顔を出すと、女給が困った顔を総一郎に向けてきた。 その視線を受け止めて、前を見つめると、そこにいたのは二人の男性だった。 厳つい体と眼差し。着ている洋服はわずかに擦り切れた風情。男の強い目に射抜かれ、総一郎は言葉を失った。 「時田英臣はいるか」 片方の男が口を開いた。野太い声にびりりと空気が震える――ように、総一郎には思えた。はっとして意識を取り戻し、総一郎は訊ねる。 「時田英臣ならここにいるが――貴様らはなんだ。一体、誰の許しを得て、この屋敷にいる」 「私だ」 間髪いれず、返答が響いた。二人の男の後ろから現れたのは―― 「右近兄さん……!」 外套を纏い、帽子をぬぐ兄の姿であった。靴音を鳴らして、右近は男と肩を並べると視線で促した。それを受けて、もう一人の男が懐から何かを取り出した。 「時田英臣。右の者を、緋芽宮京一郎子爵殺害容疑で逮捕する」 「は……」 何を、と総一郎は息を吐いた。 突然の言葉に頭が真白になる。慌てて後ろにいる英臣を振ると、英臣もまたその目を見開き、総一郎と同様に男の言葉が信じられないようであった。 「どう、いう……兄さん、これは一体どういうことだ」 総一郎の問いに答えたのは、令状を持っていない男だった。 「彼は、緋芽宮子爵が死亡した際に現場にいた。そして――子爵の死亡の原因を故意に作ったとされている」 「げ、原因……だと」 たじろぐ総一郎に、右近が静かに続けた。 「父上は華族院にて帰りの馬車を待っている際、後ろから暴走してやってきた馬車の馬に轢かれて死んだ。その馬を暴走させたのが……」 「俺だというのか」 今まで口を開かなかった英臣は口を開いた。その表情にはありありと怒りが浮かんでいる。いつかの日に総一郎が見た怒りの表情だ。本気で、怒っている。 「俺が、京一郎を殺したと。そんな馬鹿なこと」 「馬鹿なことではない。証拠あってのことだ」 令状をたたみ、男が英臣に向かって歩き出す。 「貴様が子爵に殺意を持っていたことは明白だ。貴様が馬車をけしかけた現場を見た者がいる」 「嘘だ! 俺は、京一郎が死んだときのことも、原因も、知らない――どうして俺が、京一郎を殺さねばならないのだ」 「……父上が、邪魔だったからであろう」 叫ぶ英臣とは対照的に、やはり冷静な声音で右近が言った。だが、ひどく高揚している。総一郎には、その目が獲物を追い詰めて悦ぶ獣の目に見えた。 「この家の財産を乗っ取ろうなどと不埒な事を考え、父を殺害したのだろう!」 「違う! 俺は……ぐっ、何を」 反論も半ばに、英臣は腕をひねり上げられた。 「さあ、来い。署で話は聞かせてもらう」 言って男は英臣を引っ張った。 英臣は抵抗しようとするが、無理やりに歩かされる。 「ちが……俺は、京一郎を……っ」 「英臣!」 連れて行かれる、と総一郎は手を伸ばした。 だが、その手は英臣に届く前に右近に叩き落とされる。 「邪魔をするな。総一郎」 「兄さん……」 地獄の底から響く低い声。冷たい声音。右近の言葉が、総一郎の足を縛り付ける。 見たことのない兄の姿に恐怖を覚えた。 屋敷に足を踏み入れてからずっとずっと静かな兄。 それは、いつも見慣れた兄の姿であるけれど――兄でない。 「ようやく準備が整ったんだ。これで――」 くっ、と。右近の瞳が見開いた。 「あいつを排除できる」 その顔は、取り憑かれた悪鬼の顔。息を吐こうとして、総一郎の喉がひきつれた。 「……連れて行け」 呆然とする総一郎を尻目に右近は外套を翻し、男たち――刑事に命令する。二人の刑事は右近に恭しく頭を垂れて、屋敷から出て行った。その手に、英臣を連れて。 「英臣!」 呼びかける。両脇を刑事に挟まれた英臣は哀れな敗残者に見えた。おそらくは、打ちひしがれているのだろう。愛した京一郎を殺した、などと言われて。 顔だけをのろりと総一郎へ向ける。 ――ころしてない―― 英臣の唇がそう呟いた。途端、頭を刑事に無理やり押さえつけられる。人形のように英臣の体が揺らいだ。 「英臣……英臣!」 右近の呪縛に、体が動かない。足を動かそうと思ったがまともに動かず、総一郎はその場に崩れ落ちた。突然の現実に、足が震えて動かない。 「英臣!」 だが、総一郎の言葉は届かない。彼の目の前で扉は閉められた。重い軋みをあげて、何も出来ずに這い蹲る総一郎をあざ笑うかのように。 「……っ、これは、一体……どういうことだ」 絨毯の上で握り拳を作り、総一郎は唇を噛み締める。突風のような出来事に、頭の処理が追いついていない。 英臣が父を殺した? そんなはずはない。彼は、形はどうであれ京一郎を愛していたのだ。 京一郎を裏切ったのではないかという言葉に過剰なまでに反応したのだ。あのような態度を見せる英臣が、父を殺したはずはない……。 だが、刑事は言った。英臣が馬車を暴走するようけしかけた目撃者がいると。あれは、本当なのだろうか。 もしも、これが嘘だとすれば――いや、そもそも、公僕がそのような嘘をつくだろうか。 総一郎は必死に考えるが、唐突な事件に冷静さを奪われて結論が出てこない。 「そ、総一郎、様」 と、傍にいた女給が恐る恐ると声をかけてきた。いつまでも絨毯に這い蹲っているままの総一郎を気遣ってだろう。 総一郎も、自分がずっと絨毯に膝をついたままであったのに気づき、ようやく立ち上がった。 「す、すまない」 膝を払い、閉まった扉を見据える。今のは冗談だと開くことを願ったが、開くわけがない。右近は誰よりも冗談が嫌いな男だ。ならば、あれは本気のこと。 本気で、英臣を殺人犯だと思っているのだろう。 「……右近兄さんが、どこへ向かったか分かるか?」 控えたままの女給に訊ねる総一郎。女給は頭を横に振るって 「……分かりません。ただ、今日は戻らないと……おっしゃっていました」 「……そうか」 おそらく。近頃の右近のおかしかった態度の理由はこれであろう。 警察に英臣を逮捕させること――彼が休日を取ったのに、あちこち飛び回っていた理由はこれだったのだ。 「くそっ……」 止められなかった、と思う。しかし、止められたものではないとすら思う。 右近の頭の中で考えていることが露見しているならまだしも、彼は何も話していないし、そのような素振りも見せなかったのだ。 ――そもそも、英臣が京一郎を殺したという発想すら、突拍子もない。 左近がいれば止めようもあっただろうに、と総一郎は悔しさに唇を噛み締めた。 左近兄はどこへいったのだろうか。 「……左近兄さんの行方は」 「も、申し訳ありません。分かりません……。実は私たちも、左近様の外出に昨日気づいたものでして……」 「雲隠れ、か」 ときたま、こういうことをするのだ。あの兄は。 ならば左近を頼ってはいられない。自分で、どうにかしなければいけないのだ。 英臣が京一郎を殺すはずがないのだから、その事実を明らかにしなくては。 ……明日は、警察署へ行ってみよう。 総一郎は心の中で決意する。 今、馬車を走らせて追いかけることは出来る。しかし、今の時点であの右近を相手に問答が出来る自信がない。 落ち着いてくると、己の冷静さが未だ欠けていることが明確になってきた。総一郎は大きく溜息をつく。 「あ、あの、総一郎様」 「ん?」 「夕食、いかがいたしましょうか……」 すっかり縮こまってしまった女給に総一郎は苦笑して、「お前が気にする必要がないのだよ」と言って見せるが、彼女もまた今の光景に衝撃を受けているのであろう。 年老いた手が少しだけ、震えていた。 「……それじゃあ、少しだけ。部屋に持ってきてくれ」 「は、はい。かしこまりました」 頷き、女給は頭を下げると厨房へと向かった。その背を見送り、総一郎もまた歩き出した。 潜り抜けて開け放したままであった扉を通り、中庭に面したポーチへ出る。 夕焼けと夜の溶け込む時間。伏せたままの本と飲みかけの紅茶はあるのに、主はいない。 手をかけると、木の机は小さな軋みをあげた。虚しい音が静寂に響く。 「英臣……」 応える声はない。陽の温もりを忘れた風が、体を震わせる。 見上げた空には輝き始めた星。英臣は今、どんな気持ちでこれを見上げているのか。総一郎は思いを馳せた。 同じ空の下にいながら、遠く隔たった彼へ。 <第六章> 今日も空が晴れている。 朝の訪れをそう認識する間もなく、総一郎は寝台から飛び起きると着替えた。 英臣が連行された警察署へ行く。冤罪であると主張し、彼を釈放してもらう。そして、英臣に固執している右近を説得する。 総一郎は昨夜からずっと、そのことばかりを考えていた。 出来るかどうかわからない。だが、やらなければ英臣は冤罪に囚われたままだ。 英臣は何処にいるのか、それすらも分からなかったが、無実である人間を放置してのうのうと過ごすことなど、総一郎には出来なかった。 服を着替え、自室を飛び出す。 「馬車を。馬車を表に回せ」 朝の支度で忙しく走り回る給仕たちに言いつけながら、総一郎は階段を下りていく――が。その進路を、一人の執事に塞がれた。 「それは出来ません。総一郎様」 「何を言う。どうしてだ」 従順に言うことを聞くとばかり思っていた総一郎は、予想もしなかった言葉に足を止め、表情を変えた。どうして邪魔をする、と。 「……申し訳ありません、総一郎様」 「馬車を回せといっている」 だが、総一郎の苛立って乱暴な言葉にも執事は首を横に振るだけだった。沈黙を通したままの態度に業を煮やした総一郎は執事を押しのけて出て行こうとする。 「無理ならばもういい。そこをどけ」 「……申し訳ありません」 しかし、執事は体を張り、謝罪を繰り返す。あまりにも頑なな彼に総一郎は何故、と問い詰めた。 総一郎の問いかけに、執事は表情を苦しげに歪めながら、思いがけない言葉を続けた。 「本日よりしばらく、総一郎様を外出させるなとの右近様のご指示がございます」 「な――」 なんと。 総一郎は大声をあげそうになったが、慌てて言葉を飲み込む。 「どうしてだ」 「……分かりません。ただ、昨晩遅くに右近様がご帰宅なされ、その際に申しておりました。 何があっても総一郎様を屋敷に外に出すなと……その後また、右近様は外出されてしまいました」 ――英臣を容疑者ではなく、完全なる犯人に仕立て上げてしまうつもりなのだ。 総一郎は瞬時にそう思った。 あの右近が手を回し、自分が手出しできないようにするつもりなのだ。 「なんという……」 あまりのことに、総一郎は軽い眩暈を覚えた。 そこまでして、兄は英臣を――文字通り排除しようというのか。 総一郎は「なら、ごまかしておけ」と言おうとしたが、そうすれば被害を食らうのはこの執事だ。間違いなく、解雇される。総一郎は唇を噛み締め、踵を返した。 「総一郎様……」 「……分かった。部屋に戻る……朝食は要らない」 「かしこまりました」 頭を垂れて去る執事と同時に、総一郎は出てきたばかりの自室へ戻った。そして、鍵をかける。総一郎にはこのままずっと、部屋で過ごすつもりなど毛頭なかった。 玄関から出られないのならば、違う場所から出て行けばいい。 窓を開け、下を覗く。ここは二階。飛び降りても、さほどのことはないだろう。だが用心に越したことはない。 それに帰りの道も用意しておかなければと、総一郎は部屋を見渡した。敷布を使ってはしごを作るか、と思い立つ。 あるだけの敷布を結び、さらに柱にくくりつける。 それが緩まないかを何度か確認すると、総一郎は下を再び覗いた。 「――行くぞ」 誰に対してか。自分に対してなのか、それとも囚われの彼に対してなのか。 総一郎は小さく呟いて、窓から外へと飛び出した。そのまま、刈り込まれた草の上に着地する。 足にわずかな痛みがあったが、怪我をすることなく、無事に着地できたようであった。 総一郎は辺りを見渡し、誰にも見られていないことを確認すると体をかがめて屋敷を抜け出した。 人ごみにまぎれてしまえば、自分を追いかけてくるものもいないだろうと総一郎は早歩きになる。 いつもは自分を迎えてくれる、安らぎの人波が今は障害にしか思えなかった。 辺りは活気に満ちている。喧騒には目もくれず、総一郎はとにかく警察署を目指した。 だが。 警察署まで指しかかったところで、総一郎は大きな馬車が署前に止まっていることに気づいた。 「……兄さん」 ここらではまず見かけない大きな馬車。何よりも、以前父がそれに乗っていたことを総一郎は覚えていた。父の代わりに今、その馬車に乗る人物と言えば兄しかいない。 総一郎は息を呑んだ。 ここで見つかってしまっては不味い――。 しばらく何処かで馬車がいなくなるのを待つか。それとも、機会を改めるか。総一郎は警察署をじっと睨んでいたが――突然。 「おい」 肩を叩かれて、総一郎は悲鳴をあげそうになった。喉の奥がひゅっと変な音を立てる。慌てて振り返るとそこには 「よ。こんなところで何をしているんだ」 柔らかい笑みを浮かべた、左近兄であった。 「にい、さ……い、いったい、今まで何処に!」 悲壮じみた総一郎の声音とは対照的に、左近はとかく軽薄に笑っている。 「少し友人と遊びに行っていたんだ。その帰りなんだが……馬車から外を見たらお前がいるじゃないか。何を見ているのかと思って声を……」 言いかけて、左近は総一郎が見ていたものが警察署だと気づくと表情を変えた。 「お前」 「……どうしたらいいんだ。兄さん」 ようやく縋りつける相手を見つけたと、総一郎の表情が泣きそうに歪む。わずかに震える手で左近の服を掴むと 「英臣が――」 総一郎は、昨日に起きたことを話し出した。 「……なるほど」 それからしばらく。総一郎の話を全て聞き終わり、左近は頷いた。顔に浮かぶのは軽薄な笑みではなく、真摯な悩みである。 「どうすればいいのか分からなかったから……とりあえず警察署まで来たのだけれど」 「右近の奴、まさか本気でこんなことをするとはな……全く、冗談じゃないぜ」 舌打ちする左近。それは、片割れに対する嫌悪か苛立ちか。だが、総一郎にはそれよりも気になったことがあった。 「まさかって……兄さん。もしかして、右近兄さんが英臣を逮捕させようとしていたことを知っていたのか」 総一郎の問いかけに左近は沈痛な面持ちで頷いて見せた。 「だ、だったらどうして、止めようとしなかったんだ。知っていて止めなかったのなら、兄さんも同罪だ」 「まあ待て。……俺だって、全てを知っていたわけじゃないさ。知っていたなら、止めたが――でも、止められたものじゃない。 あれは、一度決めたら二度と覆さない。自分が誤っていると知っていても、だ」 吐き捨てるように呟く左近。脳裏には右近の姿があるのだろう。苦しげに目を伏せる。 だが、懊悩を見せるのも一瞬。左近は目を開き、警察署を睨み見据えた。 「だがこうなってしまったら、止めるしかないだろう。右近の行動を全て止めた上で、証拠とやらをひっくり返す。おそらくは……殆どが偽の証拠のはずだ」 「に、偽の? 兄さん、それじゃあ、警官たちは何をやって」 「……総一郎は、知らなくていいことだ」 総一郎の肩を力強く抱き、左近は弟の目を覗き込んだ。 「だから、お前は家に帰れ。後は俺が何とかして英臣を助け出す」 「でも!」 そんなことは出来ない、と総一郎は首を振るう。 「僕に出来ることは? 出来ることがあるなら、僕も」 「お前には無理だ。お前に、何が出来る」 だが。いきり立った総一郎を諌めるように、左近は冷たい声音でそう言った。その姿に、昨夜見た右近の姿が重なって、総一郎は言葉を失う。 「俺が来るまで何も出来なかったお前に何が出来るというのだ。今だって、俺を頼っている。 本当にお前が何でも出来るのならば、昨夜のうちにでも警察署に殴りこめたはずだ。右近と戦えたはずだ」 「そ、れは」 「……いいか、総一郎。お前は、英臣を信じてやれさえすればいい。あいつには、それが大きな救いになる」 厳しい声音から、柔らかい言葉へ。 左近は抱いていた総一郎の肩から手を離すと、頭を撫ぜた。 「だから、お前は家へ帰れ。後は俺が何とかするから」 「……」 「総一郎」 「…………はい」 長い沈黙の後。総一郎は、首を縦に振った。 納得はいかなかったが、兄の言葉は今の自分の弱みを全て突き刺すものだったからだ。悔しさに、総一郎は唇を噛み締める。 「よし。いい子だ、総一郎」 そんな総一郎を慰めるように、左近は彼の頭をさらに撫でるがふと表情を変えて 「……それにしてもお前が屋敷を飛び出してまで、英臣を助けようとするなんてな。何でそこまでするんだ」 と、問うた。 「え?」 唐突な問いかけに総一郎は言葉を失い、ぽかんとした顔になる。 「どうしてって……それは」 「二階から飛び出すとは、子爵家の嫡男としては実にはしたないぞ。桜子が聞いたら卒倒しかねない」 「それは……」 何が、あるというのだろう。総一郎は考える。 「……冤罪で捕まったなら……英臣が……可哀想、だから」 「同情か」 「いや……だって、そうだろう。目の前で困っている人間がいたら助けるのが普通ではないか、兄さん」 総一郎の言葉に左近はまあね、と肩を竦めた。それはそうだと続ける。 「まあよい。とにかく、お前は家に帰りなさい。動きがあり次第、連絡はするから」 「……はい」 「よし。なら、行け」 左近の言葉に背中を押されて、総一郎はよろよろと帰路につき始めた。後ろを覗くと、左近の姿はもうそこにはない。早速動き出したのだろうか。 そうして総一郎は屋敷へと戻ってきた。 幸いなことに、誰にも見つかることはなく無事に敷布のはしごも回収できた。寝台に転がり、天井を見上げながらぼんやりと考える。 なんでそこまでするんだ。という左近の問いかけ。確かにそうだ、と総一郎は思いなおす。今朝からの自分の行動を思い返すと、左近が首を傾げるのも無理はない。 「同情……ではない。困っている人を助けるのは当然のことだ……」 そうだと己を納得させる。だが、どうしても腑に落ちず、総一郎は寝返りを打った。 ――それは、今出した結論とは違う感情が己の内に存在することを、彼自身が気づいていなかったからだが。 「まあ……これでいい。これできっと、英臣は助かる」 左近がいるならば大丈夫だ、と総一郎は安らぎに目を閉じる。 自分が何も出来ないと言うことが悔しくはあったが、自分の感情よりも、先に現状を打破するほうが先だと言い聞かせて。 「後は……連絡を待っていよう」 総一郎は、確信していた。またいつもの日常が戻ってくるということを。憎まれ口を叩きあいながら、英臣と過ごす日々が戻ってくるということを。 確かに、今、この時点までは。 空は曇天。今にも降り出しそうなほど垂れ込めた雲が、頭上に広がっている。風の中には、わずかに雨の匂い。 ――連絡が来ない。 見慣れた帝都の空を見上げながら、総一郎は苛立ちに爪を噛んだ。 左近と警察署前で別れてから、二日経ち、三日、一週間、そして、十日。 十日経っても、左近から何の連絡も来ることはなかった。右近が帰宅することも、英臣が帰還することさえもない。 総一郎だけが事情の蚊帳の外に放り投げられてから、既に十日が経っていた。 「くそ……どうなっているんだ」 踵を返したのが間違いだったのかと悔やむ。 しかし、あのときに出来ることは確かに何もなかった。兄に対抗する術も英臣を釈放させる証拠もない。……悔しいが、それが現実だった。 執事たちに訊ねても、誰も帰宅していないらしい。くわえて、外出禁止令も引き続き敷かれたままだった。 総一郎は待たされるという苛立ちと不安に苛まれ、窓際で過ごす日々が続いたが――。 もう、耐えられない。 総一郎はやはりこのままではいけないと発作的に敷布を手繰り寄せ、はしごを作り始めた。 何も出来ることはない。それは明らかだ。 刑事たちが偽の証拠と分かりながら無辜の人間を逮捕している理由も、右近や左近兄たちの真意も、この袋小路を解決する糸口すらも分からない。 分からないといえば、自分が何故それほどまでに英臣を救い出そうとするのか、その理由すらも分からないままだったが、 けれど総一郎の心の内には以前と変わらず、このまま彼を放ってはおけないという正義感にも似た炎は燃えていたのだった。 「よし……いくぞ」 乾いた唇を舐め、総一郎は再び屋敷を抜け出す。 空はいつかの日にここを抜け出したよりも曇り、今にも雨が降りそうだったが、総一郎は構わず、再び英臣の下へと走り出した。 天気の悪さのせいか、街並みに人の影は少ない。 いつもの賑やかさもなりをどこか潜めているようだ。 やがて、警察署への道に差し掛かる。辺りに見知った顔はいないかと総一郎は緊張感に身を引き締めたが、どうやら誰もいない。 それどころか。 警察署の前に止まっていた右近の馬車すらもなかった。 「馬車がない、か」 では右近は何処に行ったのかと総一郎は不思議に思ったが、答えの見つからぬことを考えている暇はなかった。いないのならば、この隙を使って―― 「英臣と……会おう」 総一郎の脳裏に、すぐにその考えが浮かんだ。 会って何を訊ねればよいかなど分からない。けれど、会わなければと総一郎には思えた。 服を調え、右近の気魄に負けぬ表情を作ってみせる。「緋芽宮子爵」の名と作り物の態度が何処まで通用するか分からないが、と総一郎は警察署へと歩き出した。 扉をくぐり、横の受付に顔を見せる。受付に座っていた警官は一瞬、突然の客に驚いたようだがすぐに表情を厳しくさせると 「何の用ですか」 と低い声で問いかける。内心、冷や汗と緊張で頭が白紙状態ではあったが、総一郎は右近の表情の真似をすると 「ここに時田英臣が留置されているだろう。面会がしたい」 と精一杯の虚勢をはって見せた。 「――それは」 時田英臣の名に警官は、触れてはいけないものに触れてしまったかのような、ばつの悪い表情を見せる。おそらくは、上から関わるなとでも言われているのだろう。 ――好機だ。 周囲に、以前緋芽宮邸に訪れた警官がいないということを確かめると、総一郎は畳み掛けるように警官に詰め寄り、その耳元で囁いた。 「緋芽宮子爵家の者が会いたいといっている。取り計らってはくれないだろうか」 「……子爵」 ごくりと警官の喉が鳴った。さらに脅すように総一郎は言う。 「非礼があれば直ぐにでも上の者に言いつける。……緋芽宮子爵が会いたいと言っているのだ。取り計らってはくれないだろうか。誰にも言わず、極秘で」 「は――はい」 総一郎の言葉に、わずかに震えながら警官は頷いた。そして慌てて机から立ち上がると、鍵を手にする。 「こちらへ。すぐに連れて参ります」 言って、総一郎が通されたのは面会室だった。椅子と机があるだけの小さな暗い部屋。古びた椅子に座りながら、総一郎は思わず笑ってしまった。 自分は何をしているのかと。 気にしたこともなく誇りも持っていない家名と子爵の位を利用して人を騙して脅している。 こんなことするつもりはなかったのに――。 己の中に潜んでいた、気づくことも無かった激情に総一郎は自虐的な笑みを浮かべた。だが、笑みを消す間もなく、面会室の扉が開いた。 「お連れ致しました」 言葉に振り向く。そこには――十日前に別れたばかりの英臣が立っていた。 着るものはそのままだが、顔がひどくやつれている。 暗い緑の瞳を隠していた眼鏡もしていなかった。手は逃げ出さないように縄でくくられている。その先は、警官の手に握られていた。 「英臣……」 だが、英臣は答えない。警官に小突かれて、ふらふらと空いた椅子に座る。そのまま居座ろうとする警官に総一郎は目配せをすると 「すまないが出て行ってくれ。――緋芽宮家の名にかけて、貴殿の悪いようにはしない」 「は、はい」 「それから。他に緋芽宮家の者が来たら知らせるように」 「はい……か、かしこまりました」 新人なのか、それとも気圧されているだけなのか。警官はいともあっさりと面会室を出て行った。その姿に英臣は苦笑し 「……随分と。あくどい手を使うのだな」 と総一郎を見据えた。久しぶりに自分を射抜く瞳に、総一郎は安堵すら覚えた。 英臣の目は死んではいない。連行される前の、水晶にも似たまっすぐな輝きを放っているように思えた。 「別に……出来ることをしただけだ。お前が連行されるときに何も出来なかったから」 総一郎の言葉に、英臣はわずかに目を見開いた。だがそれも一瞬。英臣は目を伏せる。その目に気づいて、総一郎は訊ねた。 「眼鏡はどうしたんだ? かけていないなんて……不便だろう」 「別に」 気遣いは不要だ、と笑いとばす英臣。その言葉に、総一郎はやはり安堵を覚える。警察署へ連行されても、英臣は英臣のままだ、と。 「それで、何の用でここに来た」 英臣の問いに、総一郎ははっとした。 自分が英臣に会って何をしたいかなど考えていなかったからだ。 「あ、ああ……その。お前は……本当に父上を殺していないんだな」 とにかく、と聞きたかったことを口にする。英臣はその白い顔に激情を浮かべて 「殺していない」 と低く唸る。 「何度もそう言っているのに、右近も、警察の奴らも聞きやしない。俺は、京一郎を殺したりしない」 「……」 「京一郎を殺すくらいなら、俺が……死ぬ」 呟いて、英臣は拳を握り締めた。その姿はどこか祈りにも似ている。 総一郎は言葉を失って、英臣を見据えた。 ――このような真剣さを見せる英臣が、どうして京一郎を殺せるか。 妄執のようにそれを信じ続けている兄の神経を、総一郎は疑った。 「そう、だよな。僕は……信じているよ。お前の言葉が全て真実だと」 英臣が顔を上げる。一瞬、見せたその顔はあどけない子供の表情をしていた。 眼鏡をかけていないせいか、顔の端麗さが余計に強調されているような気がして、総一郎は思わず息を呑む。 異性ではなく、同性の顔に動悸を起こす自分が信じられなかったが、心の内に沸き立つ想いは総一郎を塗りつぶしていく。 ――ぼくは。 脈打つ心で総一郎は英臣を見据える。 「だから、必ず。お前を此処から助けてみせる。待っていてくれ、英臣」 英臣の祈りに誓いを立てるように。総一郎は真っ直ぐに彼を見つめ、その手を握り締めた。縄に囚われた腕が痛ましくて、総一郎は握る手に力をこめる。 自分の何処からこのような思いが沸いてくるのか分からない。けれど。けれど。 ――英臣を助けたいのだ。 「……」 英臣の唇から吐息が零れた。それは、安堵なのかただの溜息なのか。総一郎には判断が出来なかったが、嘲笑されるとばかり思っていたのに英臣は何も言わなかった。 だが。切なげに、ひたすらに。英臣は総一郎を見つめる。 ふと総一郎は、そんな英臣の顔に赤黒いものがこびりついているのに気づいた。 「英臣、何かついてる」 指を伸ばし、唇の縁に触れると、英臣はびくりと体を震わせて総一郎の手を振り払った。 「っ!」 「英臣」 「……っ」 顔をしかめて、英臣は舌で総一郎が触れた場所を唇で舐め、指で触れる。 ほぼ白に近い英臣の中で唯一明るい色彩を持つその舌に総一郎はぞくりとした感覚を覚えた。目が離せない。 だが彼の拒絶するような行動に、総一郎は思わず訊ねていた。 「英臣……もしかして、怪我をしているのか?」 総一郎の問いに、英臣の眉が跳ね上がる。だが押し殺し、顔を背けると 「別に」 と無愛想に呟く。 ――悟られまいとしているのか。 そう感じた瞬間、総一郎は反射的に、英臣に手を伸ばしていた。 ――何故そんなことをするのだ。 抗う英臣の肩を乱暴に抱き、顔を覗き込む。 何時にない総一郎の乱暴な行動に、英臣は目を見開いた。 「何を」 「……唇が、切れてる。英臣、もしかしてお前、殴られ……待て!」 上から英臣を覗き、総一郎はさらに気づいた。 英臣の隠された首筋に、青紫の薄い痕があることに。 「これは、なんだ……」 戦慄が走り、総一郎は首筋に手をやる。そのまま手を滑らせ、服の襟を割ると首には薄い縄の痕。鎖骨の下には痣があった。 「これはなんだ」 総一郎は構わず、英臣の服を脱がせた。本来着ているはずの下着はそこになく、英臣の姿は薄い服一枚を纏った、どこか哀れさを起こさせる格好であった。 ぞっとして総一郎は首筋から鎖骨へ、胸へ、腹へと視線を下ろしていく。その先には想像通り、生傷や痣が色濃く残っていた。 「これはなんだ!」 総一郎が悲鳴のような声を上げると、英臣は顔を背けた。答えるつもりはないと言いたげに。そんな英臣に、総一郎はまた苛立ちを覚える。掴んだ肩を揺さぶる。 「どうして言わない。何故、こんな……酷いことを」 「……右近だよ」 「何だと。何故」 「……さてね。俺が気に入らないんだろう」 他人事のように呟く英臣に、総一郎は馬鹿者、と罵った。 「どうして……どうしてこんなことをされて、お前は」 総一郎の頭の中を怒りの渦が湧き始める。頭がかっとなって目の前が赤く感じた。 「そんな平気そうな顔をする! 英臣!」 叫ぶ。びりりと空気を震わす声で叫ぶ。英臣はあまりの気迫に総一郎へ顔を向けた。眼差しがぶつかり合う。総一郎は今にも泣きそうな顔で、英臣を見つめていた。 「痛いなら痛いといえばいい。どうして、お前は何も言わないのだ」 感情の爆発。総一郎は心の中で膨らんでいた何かが破裂し、とろとろ零れ落ちていくのを感じていた。 これは――怒りだ。そして、悲しみであり同情であり、心臓を締め付けられるような悔しさである。 「平気そうな顔をするな、英臣。僕は……お前の力になってやりたい」 今まで己を突き動かした原動力の奔流。 そう。総一郎は今までこの心ゆえに動かされていたのだ。 「驕りだと言われてもいい。お前ならそう罵るだろう。でも僕は、お前を助けたいんだ」 ああ、そうだ、と。総一郎は言葉にしながら、今この瞬間初めて、己の本心に気づいた。――ぼくはひでおみに。 「……お前……」 英臣が信じられないものを見るような目で総一郎を見つめる。総一郎もその視線を受け止めた。逃げず、見つめる。やがて、英臣の表情が崩れた。泣きそうに、歪む。 張りつめていたものを失ったような顔をした。しかし、それを見られたくないかのように英臣は俯いた。そして、僅かな小さな声で何事かを呟く。 「英臣?」 聞こえない、と問い返した、そのときだった。 入り口のほうから扉を破るような音と、複数の男の足音が聞こえた。はっとして椅子から立ち上がったと同時に、取調室の扉が開く。 入ってきた人間を知覚する間もなく、次の瞬間に総一郎は激しい痛みを覚えた。 目の前に火花が飛び、抵抗できずにその場に倒れこむ。転げた拍子に、椅子で強かに肩を打ち、総一郎は呻いた。 「ぐ……あっ、な……」 「ここで何をしている、総一郎!」 それは。 仁王の如く顔を歪めた兄の右近であった。息も荒く、握った拳を震わせて、右近は叫ぶ。その姿を見とめた途端、今度は腹を蹴られて、総一郎は呻き声をあげた。 「家にいろと言っていたのに……こんな、こんな薄汚い場所で何をしている、総一郎。私の言うことが聞けないのか!」 癇癪を起こした子供のように怒りを迸らせる兄の姿に、総一郎は抵抗する言葉を奪われた。 右近兄といえば、冷静沈着で真面目な性格だと思っていたのに。まさか、こんな姿を見せるとは。総一郎は肩の痛みに体を震わせながら、何とか起き上がろうとする。 そんな総一郎に英臣が視線をやった拍子に、右近の怒りの矛先が英臣へと向かった。 右近の手の甲が英臣の頬を打ち鳴らす。 「っ」 小さな声をあげて、英臣は痛みを堪えた。それが気に入らないのか、右近の暴力は止まらない。 彼を蹴り飛ばし、床に転がすとその背を踏み躙る。英臣の頤が痛みに反り返った。 「兄さん、やめてくれ」 総一郎は何とか起き上がると、右近の腕にすがりついた。 しかし構わず、右近は英臣を足蹴にする。 「屑が……塵が、私の家族に触れるな。私の家族に触れるな私の家族に触れるな、触れるな!」 「兄さん!」 止めてくれと渾身の力で叫ぶ。弟の絶叫に右近は顔を動かすと、薄く笑った。その顔は、笑顔ではない。不気味な嘲笑だ。 「どうして止める。総一郎。こいつは父を殺したんだぞ」 「殺してない。英臣は、そんなことをする奴じゃない。兄さん、目を覚ましてくれ。英臣がそんなことをするわけがない」 「私がしたと言ったら、したんだ、これは!」 ――何てことだ。 放たれた右近の言葉に総一郎は寒気を覚えた。兄は、取り憑かれている。何に? ――英臣が父を殺したという妄執にだ。 だがそれを考える時間も与えられなかった。総一郎はいきなり、腕が抜けるほど強く引っ張られた。 「来い、お前は帰れ」 「嫌だ。兄さん、僕の話を聞いてくれ」 「断る。お前の言葉など、取るに足らん」 有無を言わさず、右近に引っ張られる。取調室の扉が閉まる瞬間、総一郎は英臣を見やった。 彼はこうやって、あの傷を体に作ったのだ。そう思うと、苦しさが胸に押し寄せてくる。 英臣は床に転がったままだった。その姿は、子供に無茶苦茶にされた玩具のように見えて、総一郎は現実から眼を背けた。 警察署の扉が開くと同時に腕を離され、総一郎は階段から突き飛ばされた。 舗道に転がり、またもや強かに体を打つ。同時に、空から降ってくる冷たい物にその身を晒した。 痛みに喘いで総一郎が目を開けると、曇り空がさらなる暗さを見せていた。 雨。雨だ。帝都に、雨が降っている。いつかの父の葬式を思わせる激しい雨が降っている。 総一郎は水の洗礼を浴びながら体を起こす。そんな弟を、右近はただただ仇のように睨み付けていた。 「帰れ」 右近の唇から放たれたのは、たった一言だった。兄はそれだけをいって、総一郎の具合を見ることもなく、再び警察署の中へ入ってしまった。 扉の閉まる重い音がする。雨の中だのに、その音がやけに響いたように総一郎には思えた。 「あ――あつ」 立ち上がろうと地面に手をつく。だが、熱い痛みを感じて思わずその場に転がってしまった。突き飛ばされた拍子に手をすりむいたのか、掌は砂利と血で汚れていた。 血の赤さに、先の英臣の赤を思い出す。 そして――また何も出来なかったと、総一郎はその場に蹲る。兄の暴力に倒れる英臣に手を差し伸べることも出来なかった。 「く……くそっ!」 何のために。何のために警察署まで来たのか。 総一郎は悔しさに身を震わせ、怪我した手を地面に叩きつけた。 英臣は今日も明日も、いつか誰かに助けられるまで。ああやって言われなき暴力を受けるのだろうか。 そして彼はそのたびごとに苦しさと痛みを押さえ込んで何事でもないような顔をするのだろうか。 そんなことは許せない。 絶対に許せない――総一郎は立ち上がって、警察署を見つめた。 そんなこと悲しすぎるではないか。 総一郎は雨に打たれ、俯いた。脳裏に、英臣の顔が蘇る。 張りつめたものが切れた、あの崩れた表情。だのに何事もないかのように意地を張る顔。 今日見た顔だけではなく、英臣と過ごした時間が、無力な自分に流れ込んでくる。 あの橙色の蝋燭の向こうに見た顔。澄んだ綺麗な目。ふとした瞬間に笑い、悪態をつく。 人を馬鹿にする顔をするくせに、無防備な子供の顔すら浮かべてみせる。分からない。本当の英臣がわからない。 けれど。ぼくはひでおみに。 「英臣……」 ひかれている。 どうしようもなく憎いあの時田英臣に惹かれている自分がここにいた。 厳しき青年の隙間に覗かせる無垢な姿を忘れることは出来なかった。英臣が抱える二律背反。もっと知り、もっと近づきたいと思うのだ。 「英臣」 あの雨の日に出会った瞬間から、こう感ずるは運命だったか。総一郎はそれすら思う。 己の痛みを他人のものとして逃れようとしている英臣を思い、苦しくなる。助けたいと思う。切なく想う。 彼の心が父にあろうとも、己のうちに生じた感情を、総一郎は抑えることができなかった。 必ず、英臣を助けてみせる。 なのに――。 「また、何も出来なかった」 殴られるまま。兄に抵抗ができなかった。 明確になった心と無力さに総一郎は打ちのめされる。 雨に体を浸すように、落胆に心を落とす。この掌の痛みは、自分への罰だ。 次第にぼうっとし始めた頭で総一郎はそう思った。 雨で濡れた手は砂利を洗い流した。けれど痛みはじくじくと残っている。手の痛みだけではない。打ち付けた肩が今になって痛みを発し始めた。 「僕は、どうして」 こう無力なのだろう。 そして、総一郎は歩き出した。家に向かい、鈍い歩みで。 物を考えることが出来ない。雨で濡れたせいか、痛みのせいか、思考が濁っている。 それを理解している筈なのに、回路が動かない。心に浮かぶのはただ英臣のことだ。 ――助けなければ。彼を。 無為に足を動かす総一郎。その背中に馬車の音が近づいてきた。 「車上より失礼いたしますが、もし、そこの方」 雨を割る涼やかな声に総一郎は振り向く。後ろに止まっているのは瀟洒な、見覚えのある馬車であった。 「ああ、やはり。総一郎様ではないですか。こんなところで何をしているのですか」 「桜子……」 馬車に乗っていたのは、朱鷺宮桜子であった。柔らかな見慣れた少女の顔を見て、総一郎は一瞬の安堵を覚える。 だが、今、桜子の顔に浮かぶのは艶やかな微笑ではない。雨の中をずぶ濡れになって歩き回る総一郎を気遣う不安なものであった。 「こんなに濡れてしまって……さあ、お乗りになって。お屋敷に送りますから」 「桜子は……どうしてここに」 馬車に乗ろうともせず、総一郎は桜子に訊ねる。足は馬車に向かって動くことはなかった。 「私は、その。少しお休みができたので総一郎様のお屋敷へ……」 ほのかに頬を赤くさせる桜子。しかし総一郎は答えずにその少女めいた愛らしい顔を見つめる。 「総一郎様?」 桜子の姿を見ても、英臣に感じたような熱さを感じない。彼にぶつけるのはもっと激しく揺れ動くものだ。桜子へ、家族へ向ける穏やかなそれではない。 不思議と、総一郎はあるがままを受け入れていた。 もしかすると、開き直りに近いものだったかも知れぬ。 自身が惹かれているのは、何年と過ごしてきた桜子ではなく、半年にも満たない英臣であるという現実に。 だからこそ今、桜子の乗る馬車に同乗する気が起こらなかった。総一郎は首を横に振る。この雨から逃げることが許せなかった。 「でも……総一郎様」 「いいのだ。……それよりも、桜子。今は帰ってくれないか。……悪いが、君と話せる気分ではないんだ」 「総一郎様……」 「帰りなさい」 桜子を傷つけてしまったかもしれない、と総一郎は思ったが彼女を気遣う余裕はなかった。 止まりかけの思考回路を埋め尽くすのは己の無力感とただ彼のことだけだったのである。 「また、会おう。桜子」 「あ……」 言って、総一郎は馬車から離れ、再び家へと歩き出す。桜子が呼び止めるような声がしたかもしれないが、それは、雨に隠れて総一郎に届くことはなかった。 どうすれば英臣を助けられるのだ。 術も方法も知らず自分が歯がゆい。なんと愚かな自分。無知なる子供よ。 どうすればいいのだ。左近兄に任せればいい。けれど、この手で救い出したいと願っている。どうすればいいのだ、どうすれば。 雨に煙る向こうに、屋敷の姿が見えた。もう隠れて二階から出入りする気持ちなど、なかった。 右近にばれてしまったのだから、隠れる必要などない。歩く。歩く。歩く。 やがて、玄関の扉にたどり着く。その頃にはもう、総一郎は力を失っていた。 無力な自分に打ちのめされて。 「あ……ああ」 「では、そのように」 総一郎が手をかけたと同時に、内側から開く扉。反動で総一郎は体をぶつけて、ぐらりと倒れる。瞬間、世界が反転し、暗くなった。 「おい、総一郎」 どこかで聞いた声がした。だがそれを確認する余力もなく、総一郎は目を閉じ意識を手放した。 英臣。 己と現実を繋ぎとめる楔の名前を口にして。 <第七章> ――遠くで誰かが泣いている。 暗闇から浮かび上がった意識が最初に気づいたものは、細い細い泣き声だった。苦しいよ、辛いよと感情のままに泣きじゃくる子供の声。 どうか、泣かないでくれ。 総一郎は手を伸ばそうとするが、何時まで経ってもその子供には届かない。近づけば近づくほど、遠くなっているような錯覚を覚える。 どうか、泣かないでくれ。 僕が助けてみせるから。だから――だから。 どうか、僕に彼を助ける力を。 「英臣……」 薄暗い意識が、次第に明るくなっていく。 閉じていた目をうっすら開いて、総一郎は眠りから目覚めた。 外から聞こえるのは泣き声ではなく雨の音。屋根に当たりながら滴り落ちる雨の音だった。 見上げる天井は見慣れた自室のものだ。総一郎は首だけを動かし辺りを確かめる。 「……ここは……部屋、か。一体どうして……僕は」 起き上がろうと敷布に手をつくと、ひりつく痛みが走った。はっとして手を見ると包帯が巻かれている。誰が手当てをしたのだろうか。 自分の服を確かめる。寝ているものは寝巻きで、着ていた私服ではない。 窓の外を見るが、空は曇りで、時間を確かめることは出来なかった。そもそも、どうしてここに自分がいるのか。 「……そうか」 そうだ、と総一郎は眠りにつく前のことを思い出す。 英臣を救えず、右近兄に殴られ、桜子の馬車を断り、雨の中を歩いて帰ってきた。そして、玄関の前で意識を失ったのだ――。 「く、こうしている場合じゃない」 寝ている場合ではない。英臣を暴力から救わなくては、と総一郎は寝台から飛び出す。そして、適当な服を引っつかみ着替えると、自室を飛び出した。 左近兄を探さなければ。そして一刻も早く助けなければ。 部屋を飛び出し、玄関へ続く階段へ差し掛かったそのとき、ホールにて怒鳴りあう声が聞こえた。誰だと思い近づく。そこにあった姿は 「何故そんなことをする、左近」 「無駄だからだ。お前だって本当は分かっているのだろう」 言い争う、兄二人の姿であった。 「兄さん?」 総一郎の呼びかけに、二人同時に視線を送った。右近はどこか忌々しそうに、左近は嬉しそうに、それぞれ表情を変える。 「よう、総一郎。目が覚めたか」 「え、あ……ああ」 「雨に降られて風邪でも引いたか。一日ぐっすり寝ていたな」 「一日も?」 「ああ。よく寝ていた」 左近の言葉に、総一郎は焦りを覚える。自分が倒れているうちに英臣にはさらなる暴力が加えられていたかもしれないからだ。 「……でも、どこぞの乙女じゃあるまいし、気絶するとは情けない。しっかりしろ」 軽薄に笑う左近に総一郎はただ苦笑を返すしかない。だが右近の刺々しい視線に顔を曇らせる。 彼は総一郎を許してはいない。右近は暫く弟を睨みつけていたが、やがて視線をそらした。 「まあ風邪も引いていないようだし手の怪我も軽いから気にするな」 「……これは兄さんが?」 「したのは俺じゃないがね」 肩を竦めて左近は言う。だが、総一郎はそれに感謝するよりも早く、気にかかっていたことを口にして左近兄に詰め寄った。 「それよりも英臣を助けてくれ。このままだといけない」 「何を言う、総一郎。お前まであれの味方か」 総一郎の言葉に今まで黙っていた右近が牙を剥く。吼える兄の姿に総一郎は一瞬怖気づいたが、今度こそ引き下がるわけにはいかなかった。 「兄さんがなんと言おうと、僕は英臣の味方だ」 はっきりとした総一郎の言葉に苛立たしげに舌打ちする右近。それは、思い通りにならぬ肉親への怒りか。双眸にぎらつく光が不気味に浮かび上がる。 左近はそんな右近を見つめながら、静かな口調で言った。 「俺もだ、右近。俺も英臣の味方だ」 「何……だと、左近。お前」 「悪いが、お前の言う『証拠』は全て押さえさせてもらった」 片翼の兄弟から放たれた言葉に、右近は衝撃を受けたかのように顔を強張らせた。口の端がひくりと動く。 それは、右近の見せた隙。その刹那を左近は見逃さなかった。 すかさず踏み込む。その姿はまるで、英臣を追い詰めた右近を映す鏡の如く。 「金と権力で動かしていた警察も、偽の証拠も、英臣が殺人を行っていないという明確たる真の証拠を以って覆した。もはやお前に英臣を拘束する権利などない」 朗々と言い放つ兄の姿に、総一郎は息を呑んだ。名前を呼ぼうとするが、緊張と興奮からか言葉が出てこない。すると、それを見越しているかのように左近は頷きながら 「大丈夫だ。英臣は先程釈放させたよ。もう自由の身だ」 「左近兄さん……」 「遅くなって悪かったな。総一郎。待たせてしまったからこそ、昨日だって抜け出したんだろう? 約束を破って悪い子だ」 柔らかな笑みを浮かべる左近。しかし、すぐさま張りつめた横顔を見せると 「……平伏するよ、右近。よくぞここまでしたものだ」 右近に厳しい視線を向ける。そこに映る感情は――明らかな侮蔑だ。 「お前のしたことは餓鬼の駄々に過ぎない。見せ掛けの証拠だけで、人一人の人生を滅茶苦茶にしようとしたんだぞ、右近」 「あ――あれは、父上の人生を狂わせた存在だ」 左近の言葉に、右近は声を震わせながら叫んだ。 「汚らわしい――あまつさえ汚いのに、あれは父を殺して私たちをも壊そうとしている」 「汚い、か。英臣が父の愛人だからか? 可笑しなことを、右近」 口の端に笑みを浮かべ、左近は無感情に淡々と言う。その姿に総一郎はふと思った。 左近兄はこの事件の裏にあるもの全てを理解しているのでは、と。 「生きるために、汚いも綺麗もない。生きることは、ただそれだけで尊い」 右近の喉がひきつった声をあげた。追い詰められている。冷静沈着であった兄が取り乱している。 総一郎は繰り広げられる光景にただ息を呑むばかりであった。 「英臣も、ただ生きているだけだ」 「お前は何を。左近。お前は何を言っているのだ、私は」 「もう……いい。違うのだ、右近」 震えて、髪をかきむしり始めた右近の肩を抱き、左近は囁いた。 「父上が死んだのは、お前のせいではないのだ」 「――あ」 放たれた言葉に。右近はかくんとその場に崩れ落ちた。 糸の切れた操り人形のように、床に墜ちる。 「あ、あ、あ、あ……ああ!」 そして、震えた声をあげながら蹲った。まるで何も持たぬ胎児のように――。 左近は屈んで右近の背を撫で、慈しむような深い情を込めて微笑む。 「いいのだ。もう、いいのだ」 「兄さん……」 「こいつは俺に任せて、お前は英臣の下へ行ってやれ、総一郎」 背を撫でながら、左近は言った。 「落ち着いたならば全てを話させる。だから、お前は英臣を迎えに行ってやれ――お前は英臣の味方なのだろう?」 優しい言葉に背中を押される。総一郎は頷いて、踵を返した。 英臣を迎えにいかなければ。 左近の詰問や右近の告白に衝撃を受けなかったわけではない。だが、今、目の前にある己がしなくてはならないことをするのだと総一郎は思った。 馬車をすぐに用意させ、総一郎は乗り込む。そして御者に晴れやかな思いで告げた。 「警察署へ向かってくれ。客人を迎えにいく」 御者も頷き、馬車を走らせた。動き出した車窓を見ながら、総一郎は英臣が戻って来られるのだと心が沸きたつ。 外はいつかと同じ雨。けれど、この雨は違うのだと、総一郎は笑った。 ――しかし、その思いはすぐに不安の灰色へと塗り込められることとなる。 「もう、出て行った……だと?」 警察署へ訪れた総一郎を出迎えたのは、英臣ではなく困り顔の署長であった。子爵家の訪問だということで笑顔だった署長の顔は総一郎が用件を告げると一変した。 右近とのやりとりで疲弊したのか。もう時田英臣には触れたくもないと言いたげに、顔を歪めて肩を落とす。 「はい。左近様より達しを受けて、すぐに釈放させました……その後のことは、何も、私どもは知りません」 「何も、って……何処へ行ったのかもしらないのか。あれは酷い怪我をしていたのだぞ。雨も降っている。 拘置で弱っている人間を保護もせず、命令のままに放逐するとは何を考えているのだ、貴様らは」 語尾に怒りが混じる。それは総一郎が厭うた右近の口ぶりそのものだったが、気づくべくもない。署長は黙り、もそもそと吐息のような言葉しか口にしない。 弁解もしたくないのか、それともやる気がないのか。総一郎は怒りに体を震わせながら 「もういい!」 と彼を罵り、警察署を飛び出した。 何処へ行ったのだ、英臣。何処へ行くというのだ、英臣。お前に行き場はあるのか。 焦りを感じながら総一郎は御者に、英臣の旨を左近にすぐに告げるよう言いつける。馬車が慌てて走り出したのを確認すると、総一郎自身も走り出した。 英臣を探さなければ。 気は足を急かす。だが、何処へ行けばいいのか見当もつかない。自分は英臣が行きそうな場所の心当たりも知らぬのかと総一郎は唇を噛み締めた。 当然かも知れぬ。彼を深く知ろうとしなかったのだから。 雨は空から絶望的な暗さをもたらしていた。降り続いている。総一郎は足元で水を弾きながら走り回るが、当然のことながら英臣を見つけられない。 帝都に長く住んでいようと、広く歩いたことなどないのだ。 出かけることがあるならば、馬車に乗る。全てが御者任せ。地理にも疎い。 気づけば、総一郎は見知らぬ場所へと入り込んでいた。辺りの建物が迷宮にすら見える。 雨で濡れたせいか、寒い。鳥肌がたち、総一郎は思わず右腕を引き寄せた。 心が挫けそうになる。――もういいじゃないかおわりにしよう。 「……くっ」 だがここで帰ることは許されない。英臣を見つけるまでは帰れない。 もしかすれば、屋敷に帰っているかもしれないと思ったが、右近がいる状態で英臣が屋敷に素直に帰るとは考えられなかった。 「英臣……」 総一郎は息を吸い込んで、その名を呟いた。 それはまるでまじないじみた行為。名前を繰り返し呼ぶ。そうすれば英臣が見つかるとでも言わんばかりに。 「英臣、何処だ!」 通り過ぎる人々が大きな声に何事かと見るが、構うものかと総一郎は歩き回りながら、彼の名を呼び続けた。 足元は水で濡れ、体は溺れたかのように重い。こんなことで弱くなる自分が悔しい。総一郎はさらに強く唇を噛み締める。 「ひで……うわっ!」 進んだ拍子に段差に蹴躓き、総一郎はその場に転がった。泥水が弾け、服を汚す。 巻いた手の包帯までもあっという間に汚れ、惨めさと情けなさに、総一郎は思わず笑った。 結局、こんなときまで何も出来ないのか。暴力に晒されていた英臣を助けることも出来ず、今、雨の中に消えた英臣を見つけることも出来ない。 「馬鹿だな……僕も」 この悔しさは困っている人を助けられないという、明快な感情ではない。 心惹かれる彼を救うことの出来ない思慕に起因するものだ。愛する者を助けられない無力な現実が総一郎の双肩に圧し掛かる。 だが、総一郎は前を見据える。絶対に諦めてはならないと。 「英臣、返事をしてくれ」 天に向かって叫ぶ。雨の中、この声が聞こえるとは思わない。それでも。 「どこにいるんだ……帰ってこい!」 この想いがどうか届きますようにと。 しかし、返事はやはりない。総一郎は無言のまま立ち上がる。どこを探せばいいのか――途方にくれて辺りを見渡したそのときだった。 ぱしゃりと小さな水音がした。 雨音と聞き間違えそうなほどの細かい水音。だがそれは、体が水とぶつかる音だ。 「英臣」 振り向く。ようやく手に入れた手がかり。逃すものかと辺りを見渡す。 その総一郎の視界に、ほのかな白が映った。雨の檻の向こうにあるその白さは、まごうことなき―― 「英臣!」 路地の薄暗い隙間。総一郎は駆け寄り、そしてようやく、探し続けた彼を見つけることが出来た。 汚水の混じる塗装も剥げた裏路地。空の雲より深い闇を孕んだ暗がりに英臣は崩れ落ちていた。 傷だらけの肌。弧を描いた髪は服同様水に濡れ、色を変えている。白い頬には傷と泥。 「英臣……」 だが英臣は身動き一つしない。目も閉じたままだ。総一郎はぞっとして英臣の頬に手をやり、次に首に手を伸ばした。 肌は氷のように冷たい。しかし、肌の下はしっかと脈づいている。英臣は生きている。総一郎は強く英臣の頬を叩いた。 「起きろ、英臣」 ふり来る雨も構わず、総一郎は英臣を揺らす。外傷はないようだが、この十日間近くの生活が体に負荷をかけたのだろう。彼は気を失っているようだった。 「お願いだから目を開けてくれ」 肩を抱くと、ゆらゆら揺れた髪の先から滴が垂れおちる。どれほどか彼はここに蹲っていたのだろう。 こんな暗い闇の中、冷たい雨の中。高慢なほどに強い英臣が今はひどく弱い。 それを考えると総一郎は目の奥が熱くなった。 こみ上げ来る感情のまま、発作的に英臣を抱きすくめる。 「目を覚ましてくれ……英臣」 抱きしめた体は冷たい。だが、濡れて貼りついた服の向こうから伝わる肌の感触に頭が熱くくらくらする思いだった。 英臣は確かに此処にいる。もう二度と、離しはしない。 強く、強く抱きしめる。 「……ん」 と。痛みに意識が覚醒したのか。薄く開いた英臣の唇から吐息が漏れた。 「英臣」 目を覚ましたのか、と総一郎は英臣を引き剥がし、彼の顔を覗き込んだ。 総一郎の腕の中、英臣はうっすらと目を開ける。暗く深い森の色。その瞳から離れたのはほんの十日ほどであるのに、それがひどく懐かしく思えた。 もう一度呼びかける。すると、英臣は完全に目が覚めたらしく、双眸の中に驚きの感情が映った。 「お、まえ」 掠れた声が呟く。雨音に消えそうな声音。だが、総一郎はそれを逃すことはない。ああ、と頷く。 「目が覚めたのか」 「――何故、此処にいる」 だが総一郎の安堵とは真逆に、英臣の顔には不安が浮かんでいた。 「英臣」 「何をしている……右近に命令でもされたか」 皮肉るような視線。相変わらずの英臣に総一郎は心の奥でさらなる安堵を覚えたが、その手の中に英臣が収まることはなかった。 彼は後ろへ退くと、総一郎から離れようとする。だが、すぐさま背に壁が当たり、英臣は顔を伏せてしまった。 「俺を捕まえて来いとでも言われたか」 「まさか。僕は、お前を迎えにきたんだよ、英臣」 「何?」 「迎えに来たんだ。帰ろう」 言って、総一郎は手を伸ばす。だがその手を、英臣は間もおかず叩き落した。 「英臣」 「同情か、哀れみか。嘘をつくな」 薄い唇が引きつる。寒いはずなのに色は赤い。まるで濡れた薔薇のようだ。 「お前は……俺にそれだけの感情を持っていない。とってつけたような哀れみや家族ごっこは要らないと言ったはずだ!」 噛み付く瞳は爛々と輝いている。その鋭さに、身が痺れる思いがした。獣じみた双眸すら美しく見える。それすらも、英臣の美しさだ。 「……放っておけ。俺はもう……帰る場所なんて」 「要らないとは、言わせない」 英臣の淡々とした悲鳴を総一郎は受け止め、ひどく穏やかな声音で返した。 その心の内では熱い感情が猛っているというのに、話す口調は凪のように静かだった。 「お前には要らなくても僕には必要だ」 手を伸ばす。英臣に向かって。今の総一郎の全てを支配する、唯一の存在に向けて。 「英臣が必要だ」 「ど、う、して」 総一郎の言葉が信じられないと言いたげに、顔を背ける英臣。その姿を見ながら総一郎は続けた。 「お前を、もっと知りたいから」 「は――」 総一郎の明快な言葉に、英臣は顔を歪めた。それは呆れに近い。しかし、総一郎は臆することはなかった。もう、己の心を誤魔化して英臣に接するつもりはなかった。 そう接してきた過去の日々は英臣を失わせた。ならば、もう誤魔化すつもりはない。 「お前が助けを必要とするなら、助けたい。生きる場所を与えたい。辛いことがあるなら言ってくれ。 これは傲慢かも知れない。押し付けに過ぎないかも知れない。けれど、これが今の僕の思いだ」 手を伸ばし、総一郎は英臣をゆっくりと包み込んだ。英臣の濡れた髪が頬に張り付く。 それでもいい、もっと近づけばいいと総一郎は頬を押し付けた。 「跳ね除けてもいい。要らないというなら、そう言ってくれ。僕がかつてお前にそうしたように、罵ってもいい。けれど、僕は何度でもお前に」 この想いが惹かれ続ける限り。 ――手を伸ばしたい。 囁かれ、英臣は目を見開いた。 薄暗い瞳から静かに零れ落ちる滴。雨と混じってわからなくなるけれど。英臣の中から心が零れていく。 傷から目を背け続け、強くと誤魔化した思いが毀れていく。 そのことを総一郎は知らないはずなのに、彼の見えざる手が英臣の頑なな武装を剥いでいく。 彼が総一郎に隠し続けた真実の思いを守る、それらを。 「右近兄さんのことは、左近兄さんが何とかしてくれた。兄さんも英臣の味方だ。だから……っ」 言いかけて、総一郎は身を硬くする。背中に回される英臣の手の感触。おずおずと伸ばしたそれは這い上がり、総一郎を抱きしめた。 最初は遠慮気味に。だが、やがて強く。 総一郎は喜びに微笑む。 「……帰ろう、英臣。要らなくなれば捨てればいい……でも帰る場所はあるんだ。だから今は」 引き寄せられる温もり。触れた部分から、二人が一つになるように。 「帰ろう」 「……」 抱きしめられた腕の中、英臣は俯かせていた顔を上げた。総一郎の肩によりかかり、強く彼を抱きしめる。その耳元で。 「総一郎……」 掠れた薄い声が、名を囁いた。初めて出会ったその日から、決して口にすることのなかった者の名を。 その後。二人は支えあうようにして雨の中を帰路に着いた。 道中、二人の間に会話はなく、黙りこくったまま、緋芽宮家へと戻ってきた。 どうして彼があの場所に倒れていたのか、総一郎は知るべくもない。しかし、英臣が話したくないのならば決して聞くつもりはなかった。 「お帰り」 「……ただいま」 緋芽宮家の玄関ホールにたどり着いた二人を迎えたのは、ややしかめっ面の顔をした左近兄だった。 腕を組み、仁王立ちになって二人を睨みつけている。右近はいない。 「……右近兄さんは」 総一郎が尋ねると左近は態度を崩すことなく 「今は寝ている。明日、話せるようになったら謝らせて、きちんと話させるから待ってやってくれ」 そう言って、今度は視線を英臣へとやる。 「お帰り」 だが、英臣は俯いたままだ。その表情からは、ここにいてもいいのかという迷いが浮かんでいる。 総一郎は貸した肩を揺らし、英臣を促すが彼は顔を上げることはない。そんな英臣にいつもの軽薄な笑みを浮かべると 「全く。素直に帰ってくればいいものを、馬鹿だなあ。お前は」 明るい口調で言い放った。左近の言葉に反射的に顔を上げてしまう英臣。それが狙いだったらしく、左近はしてやったりと口に笑みを浮かべ 「話は明日だ。まずは濡れっぱなしの体をどうにかしろ。風邪を引くぞ。湯を用意してあるから総一郎も入って来い」 「あ、はい」 頷き、英臣を促すと彼もまた歩き出した。その背に、左近は静かに言う。 「悪いが、調べさせてもらった」 その言葉に、英臣の体が跳ねる。だが左近は咎めるつもりじゃない、と首を横に振った。 総一郎には何のことだか分からない。二人の間に流れる空気は張りつめたもので、総一郎は少し不安を覚えた。 「だが、お前は此処にいればいい。俺は許……いや。許すも何もないな。お前に肩を貸す弟もそう思うだろう」 「兄さん、何を」 「……さ、早く行け。本当に風邪を引く」 視線で総一郎と英臣の背を押す。結局、総一郎は左近の言葉の真意を、そして英臣の態度を問い詰めることは出来なかった。 二人で脱衣所にたどり着く。左近の言うように風呂は沸いており、体をすぐにでも温められそうであった。 総一郎は濡れてしまった洋服をかごに放り投げ、湯へと向かう。だが英臣は入り口で立ち止まったままだ。 「英臣、どうした」 近づくと、寒いのか英臣の体は小刻みに震えている。無理もない、と総一郎は思った。 雨の中濡れたまま歩いてきたのだから。季節は寒くないとはいえ、水に体を浸したままでは寒くもなる。 「何を遠慮している。さっさと着替えて体を温めろ。風邪を引いたら、それこそ迷惑だ」 わざときつい物言いをしてみる。英臣は一瞬はっとした顔になったが、またも俯いてしまう。 性格が変わってしまったかのような英臣に総一郎は溜息をつき、その襟に手をかけた。 「ほら、脱げ。行く気がないなら、僕が連れて行く」 言って、総一郎は英臣の服を脱がす。そのはだけた胸には――鮮やかなほど赤い傷跡が走っていた。 散るような青紫の痣も。どきりとして総一郎は手を止める。彼が右近に暴力を受けていたという明らかな証拠だ。 英臣が遠慮していたのはこれのせいかと、生々しい痕に総一郎は目を反らしそうになるが震える手を押し殺し、英臣の服を脱がした。そして、腕に触れる。 「体が冷えているな、英臣」 「……お前も、冷たい」 ぽつりと。英臣が呟く。顔を上げると英臣と目があった。冷たい水に滴った髪に隠れた瞳はどこか穏やかだ。綺麗だ、と総一郎は思った。 「よく言う。お前のせいだ。こんなにびしょ濡れになって寒いのは」 苦笑して、総一郎は英臣の傷跡に指を這わせた。まだ痛むのか、英臣の眉が跳ねる。 だが、総一郎は傷跡一つ一つに触っていく。自分の罪を確かめるように。 「……それよりもお前をこんな辛い目にあわせたのは……僕のせいだな。すまない」 英臣の肩に頭を預け、総一郎は呟いた。 今、総一郎の中では素直なままに英臣が見えた。彼に抱いていた困惑など何もない。心惹かれた相手への想いだけがそこにあった。 「総一郎……」 「さ、まずは風呂に入ろう。話は、温まってからだ」 英臣から離れ、総一郎は彼を励ますように笑った。そして、湯へと向かう。 踵を返し、風呂への扉を開けたそのとき、背中に冷たい英臣の手が触れた。そのまま、もたれかかってくる重み。総一郎は動きを止める。 「英臣?」 「……本当は」 聞き逃してしまいそうな小さな声に、総一郎は穏やかに返す。 「……何だ?」 しかしわずかな沈黙の後、英臣は総一郎から離れた。 「いや、何でもない……」 何を言おうとしたのか。だが、問い詰めることは止めようと総一郎は思った。 話したいことなら、きっと話してくれるだろうと思った。昔の英臣なら考えられぬこと。 けれど、今の英臣なら――絶対に。総一郎の中には、不思議な確信があった。 風呂からあがり二人は用意された寝巻きに着替えて脱衣所を出る。すると、左近に言いつけられていたのか、執事が待っていた。 『今日はお休みくださいとのことです』 言って立ち去る執事を見送り二人は立ち尽くしたが、総一郎は英臣を気遣い振り向いた。 「さ、今日はもう寝よう。お前も疲れているだろう……腹は、減っていないか」 「……ああ」 「自分の部屋で寝るのは久しぶりだろ。ゆっくり眠れ」 本当なら、このような同情じみたことを言われるのは嫌だろうと総一郎は思ったが、声をかけずにはいられなかった。 英臣は頷きもせず、ただ黙っている。その様子は、遠慮というよりは何事か考えているようでもあった。 「部屋は掃除させてあるからな。……じゃあおやすみ」 立ち尽くす英臣を置いて、総一郎は自室に戻る。 英臣と話したいこと、兄たちと解決したい問題、それらは山積みであったが、急ぐ必要はないと総一郎は自分を納得させた。 英臣は帰ってきた。だからもう、気が狂いそうになるほどに彼を追い求める必要はないのだ。 「……さて、寝るか」 総一郎は体を伸ばし、寝台へと倒れこむ。 部屋の扉が叩かれたのは、それとほぼ同時であった。 <第八章> 「……はい」 木の扉を叩く音が静寂に大きく響く。総一郎は跳ねるように寝台から起き上がった。 左近兄か、と総一郎は扉を開ける。 「どちらさ――」 ま、といいかけ、総一郎は語尾を飲んだ。そこに立っていたのは、英臣だったのだ。 「英臣」 「すまない……少し、時間をもらえるか」 「あ、ああ。もちろん」 断る理由などない。総一郎は扉を開けて英臣を招きいれた。 「何か飲み物でも頼むか」 「いや……いい」 首を振るい、英臣は寝台に座った。足を放り投げ座り込む姿は、少年のようだ。 部屋の明かりは蝋燭と月明かりだけ。光に映し出される英臣の姿はどこか、幻想的にすら見えた。 「どうしたんだ。こんな時間に……疲れてはいないのか」 英臣の隣に腰を下ろす。総一郎は英臣を気遣ったが、英臣は首を横に振るい 「……話が、ある」 優しげな声で言った。総一郎は頷き、聞くぞと彼を見据える。 「どうしたんだ?」 問いかけから暫く。英臣は戸惑っていたようだが、やがて深呼吸を一つ。 息を吸って、口を開いた。 「まずは……礼を言う」 「礼?」 「……有難う総一郎――迎えに来てくれて」 口の端に、小さな微笑を浮かべる英臣。その顔に総一郎の胸が鳴った。 綺麗な横顔。近くで見る英臣の顔に総一郎は意識せずとも見蕩れていた。 「……あのとき、お前の顔を見て……正直要らないことをすると思ったけれど」 英臣の双眸が総一郎を見る。真っ直ぐに。 「救われた」 「救われた?」 「――本当は何時もお前に助けられていた。お前が知らずとも俺は、お前の存在に救われていた、総一郎。あの雨の日、出会ったときから」 その言葉に、総一郎の脳裏に英臣と初めて出会った日のことを思い出す。 桜子を腕に抱きながらも、心は突然現れた青年に惹かれていたのだ。それが好意ではなく、例え戸惑いであっても。 「僕がお前に何かしたか?」 「……俺は、京一郎の愛人なんかじゃない」 「――は?」 放たれた告白に、総一郎は動きを止めた。言葉のなす意味を飲み込めず、英臣をただただ見つめ続ける。英臣の横顔に暗い影が落ちた。 「京一郎は愛人じゃない……俺の、命の恩人だ」 「恩人……だと? 父上が。待て……一体どういうことだ」 頷く英臣。薄い唇が開いて話を続ける。 「……俺は本当の父親のことなど知らぬ。おそらく、この目や髪の色からして異人だと思う……と母はそう言っていた」 「英臣の、母」 「……苦界に身を置いていた」 語られる英臣の告白。総一郎は静かに耳を傾ける。 「京一郎は母の客だった。どういった経緯で俺の母の馴染みになっていたかは知らない。 気づけば京一郎は部屋にいて、何くれと俺を構ってくれた。読み書きも、教えてくれた」 京一郎、父に母以外に愛した人がいたことは嘘ではなかったのだ。だが、明らかになった事実よりも、総一郎は英臣の語らんとすることが気になって仕方がなかった。 「それからしばらく、母は病になって、京一郎にこう言ったのだ。自分が死んだ後も、俺の世話を見てくれと。 そして京一郎が死んでも、俺の面倒を緋芽宮の力で見るようにと。……お前たちにとっては、迷惑だっただろうがな。でも、母は真剣だった」 英臣は脚の間で放り投げていた手を握り締めた。虚空を見つめる瞳に悲しみが映る。 「それからしばらくして、母は亡くなり、京一郎は俺の身元の保証人となって下宿を与えてくれた。 身を立てろ、その為の援助はすると――京一郎はいつも優しかった。 母の願いも聞き入れてくれて、死した後もその約束が効力を持つようにと、あのような遺言までも書いてくれた」 「お前が持ってきた遺言はやはり本物なのか」 「ああ」 京一郎の名前を口にすると英臣の表情が柔らかく解れる。それは、形は違えども京一郎、総一郎たちの父を愛しているという証拠でもあった。 そのことが嬉しく、総一郎は思わず微笑んでしまう。だが次の瞬間、英臣の表情が崩れた。 「……でも、京一郎は死んだ」 切れ長の瞳に涙が浮かぶ。彼の中には京一郎の死は未だ乾ききらぬ傷なのであろう。英臣は口元に手をあてる。 「京一郎が死んで、俺の周りからは全てが無くなった。下宿も本当は出てきたんじゃない」 「追い出された……?」 総一郎の言葉に頷く英臣。その仕草はどこか子供のようだった。純粋無垢な子供。総一郎は苦しくなって、英臣の肩に手をやった。 ちらりと英臣は総一郎を見つめる。瞳は有難うと言いたげに。 「だから……行く場所も無くなって。どうしようもなくなって……俺に残されたものは、京一郎の、遺言だけだった」 「ならばどうして愛人などと、あんな馬鹿げた嘘を」 「自分でもそう思うさ!」 初めて聞いた英臣の荒げた声。総一郎は思わず身を引いてしまう。 「京一郎の愛人なんて、冗談でも酷い。俺は、俺がこの世で最も敬愛する人を自分で貶めた! ……分かっている。何時も、何時だって、京一郎に心の中で謝っていた。けれど……けれど」 「……どうしたんだ」 ゆっくり顔を上げる英臣。拍子に瞳から涙が一筋こぼれた。 「施しを受けるつもりはなかったんだ」 「英臣……」 「迷惑をかけるのが嫌だった。俺なんかのために誰にも迷惑をかけたくなかった。なのに、俺では何も出来なかった……! 一人で生きていくことが出来なかったのだ」 力を失って英臣の体が崩れおちる。涙をこぼす英臣を総一郎は抱きとめ、肩を抱いた。せめてもの慰めと髪を撫ぜる。 「だからせめて、お前たちからの干渉を避けるために……嫌な人間を演じた。 そうすれば、お前たちは俺を捨て置くだろう? 迷惑をかけることが少しでも無くなればと思って……憎しみを受ける、真似をして」 なんと不器用な。総一郎は英臣を抱き寄せ、その頭に頬を寄せる。震えた肩。涙の告白を総一郎は黙って受け止める。 「どうしてそのような真似を……」 「……」 総一郎の問いかけに英臣は薄く口を開き、吐息を漏らした。 「英臣」 言え、と強要する。此処まで話したのだから言えと言葉なく命令する。促され、英臣は恐る恐ると口を開いた。 「……死にたくなかった」 「死にたくない?」 なんと。総一郎は目を見開いて英臣を見つめた。左近の言葉が耳に蘇る。 『生きるために、汚いも綺麗もない。生きることは、ただそれだけで尊い』 兄は知っていたのだ。 英臣が本当は父の愛人ではないことも、生きるためにこの家にやってきたことも。そして、生きるために己を偽っていたことも。 英臣の告白は続く。告白は、いつしか慟哭になっていた。 「こんな真似をしたくなどなかった! けれど、保証人がいなくなり、俺には住む場所すらなくなった。……このまま死んでしまおうかとも思った。けれど」 英臣の白い手が震える。その手を総一郎は咄嗟に握り締めた。 ほのかに熱い手。それは風呂に入ったせいか。それとも彼自身の体温か。総一郎は励ますように英臣の手を握る。 「……怖くて……どうしようも……なく、て。だから……俺は」 「……そう、か。英臣。もういい」 総一郎は震える英臣を遮って言った。 「話してくれて、ありがとう」 「総一郎……!」 英臣が叫ぶ。泣いたような声をあげて、英臣は総一郎を抱きしめた。 そのまま、勢いあまってか、二人は寝台へと倒れこむ。押し倒されたような形になって、総一郎は天井を見上げた。 英臣の熱さが服を越えて伝わる。心地いい、と総一郎は目を閉じた。ほのかに香る、己のものとは違う他者の匂い。 「英臣……」 「……京一郎は、繰り返すように、言っていた」 総一郎の肩口に顔をうずめたまま、英臣が口を開いた。 「何をだ」 「……私には三人の息子がいる。左近、右近という双子の兄弟と――俺に近い年の総一郎という息子がいると」 倒れこんだままの英臣が顔だけを起こした。眼差しが総一郎をまっすぐに覗き込む。月明かりに映って、英臣の瞳はわずかに光って見えた。 「いつか叶うのであるならば、私がお前を緋芽宮の家に連れて行く。 そこで――そこで、総一郎と手をとりあい、共に生きていければよい。お前の人生が孤独ではなく幸福に満ちることを願うと」 「英臣」 英臣の口から語られる父の望み。総一郎はあの優しき父ならば言いそうなことだと笑った。 そして、己の心境を今、明瞭に語る言葉でもあると思った。総一郎は言う。 「お前はどう思う」 「何を」 「そういう風に、生きたいか」 総一郎の問いに、英臣の目がすっと見開く。聞かれるとは思っていなかった顔だ。 しばらく英臣は逡巡したようだったが、薄く唇に笑みを浮かべた。 それは、いつかの食堂で見た彼の柔らかな微笑。総一郎の心をひどく惹きつける。 「……叶うのならば」 「そうか」 ならば――と総一郎は口にする。 「叶えるよ。僕が」 お前の望みを。 その言葉に英臣はうっとりとしたかのように目を閉じる。 そこに浮かぶのは何処か幼い少年の顔であり、人というものの美しさを感じさせる安らいだ顔だ。 総一郎は嬉しくなりつつも照れを感じ、英臣の髪を撫ぜた。雨に降られた髪は湯で温められたのか、優しい感触がする。 英臣もまた、それが心地よいのか暫く目を閉じていたのかやがて目を開け、すっと身を起こした。 そして、手を一歩前について総一郎に近づく。 「英臣?」 「本当に……いいのか。叶えてくれるのか」 それは確認なのか。それとも信じられないのか。 ――それもそうかもしれない、と総一郎は思う。 今までの己らの関係を考えれば当然のことだ。反目しあっていたにも近い関係だったのだ。 それを急に「望みを叶える」などといっても信じられないだろう。 「叶え……られるものならば。お前のいう施しにならず、お前が生きていけるように僕は――」 手伝う、といいかけた唇は、英臣のそれに奪われた。 書斎で交わした淫らなものではなく、柔らかく、ゆっくりと、相手の存在を確かめるように。 ぼやけた視界の向こうにいる英臣は目を閉じ、繋がる熱さに浸っているようにも思えた。 「ん……」 触れる唇が深くなる。敷布についた英臣の手は総一郎の手を探りあて、指を絡めた。 指と唇で繋がる感覚に眩暈を感じる。酩酊にも似た感覚。腕の中にいる人が愛おしく思えるほどに。 それは錯覚なのか、真実なのか。総一郎にも分からない。やがて、英臣の唇が離れた。止まっていた呼吸が再開する。お互いの吐息が混ざり合った。 「……男色家では、ないんだろう?」 総一郎から発せられた言葉は、思っているものとは全くかけ離れたものだった。 おそらくは英臣の話を聞いたときから浮かんでいた何気ない疑問が口をついただけかもしれぬ。 総一郎の問いかけに英臣は困ったような顔をして、また総一郎に口付けた。 「……でも、お前に惹かれている」 性の問題ではない。魂の問題なのだ。不可視の心が肉体を凌駕し相手を求めるのだ。 止めることは出来ない。そしてそれが、間違っていることもない。 繋がった一瞬こそが正しく、それを求めて人は生きる――其は、人を愛すること。 頬を撫でる英臣の手に、総一郎は身を委ねる。 このような気持ちがあることを、総一郎は知らなかった。心地いいとすら思える。 だが瞬間、視界にいる英臣に桜子がかぶった。 今まで存在すら忘れていた桜子。婚姻を約束された相手。けれど、彼女に感じなかった想いがそこにある。 「僕も」 ゆるりと総一郎は英臣の首へと腕を回した。桜子の姿が歪む。消える。彼女の影を払うように手を伸ばす。 腕の中にいるのは英臣だ。戸惑いながらも惹かれる青年――決して、長年共に歩んできた少女ではない。 「同じだ……」 そして、総一郎は目を閉じた。心の中に、不思議と後悔はなかった。選択するべき相手を選択したのだという思いが心の中にあった。 英臣の口付けが深くなる。彼の求めに応じるように、総一郎も唇を寄せた。 もっと近く、もっと強くと回す手に力を込める。呼吸を忘れるほど口付けを交わす。 そうするだけでも夜を越せる。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎった。 唇が離れ、篭った吐息が肌を震わせた。顔を上げた英臣と眼差しが交差する。 だがそれも一瞬。英臣は噛み付くように、総一郎の首筋に唇を落とした。 経験したことのない感覚に、総一郎の体がわずかに跳ねる。しかし、気にする風でもなく、英臣は愛撫を止めない。 襟を割り、開いた箇所から英臣の手が滑り込んだ。 「英、臣」 服を剥ぐ手を総一郎は思わず掴んだ。脱がされるという行為に羞恥を覚え、同時に、これから起こることに不安を感じた。 そんな総一郎に英臣は微笑む。艶やかなほどに。 その双眸には熱が宿っていた。 「……総一郎」 逆らえない――そうとすら思えた。 ぞくぞくとする感覚。総一郎は英臣をじっと見据えた。 すると、宥めるような口付けが額におとされる。ちゅ、と小さな音がした。 まるで場違いに感じられるほど子供染みた行為に、総一郎は少し震えた。 彼から零れ落ちてくる感情が愛しい。 開いた裸の胸を英臣の手が這い回る。その存在を確かめて掴みとるように、そこにある全てが欲しいと言いたげに。 唇と指先での肌への愛撫を続けながら、英臣の手は下がっていく。 二の腕の辺りに絡まっていた服が脱がされ、音を立てて床へ落ちた。 「ん……待っ、て。英臣……っ」 体を外気に晒され、肌が粟立つ。しかし英臣は総一郎の抗いを押さえ込むように、空気に晒された尖りを舌で撫ぜ、歯を軽く立てた。 熱い口内の温度と滑った感触、合間に感じる痛みに翻弄される。総一郎は声をあげそうになるのを必死で止めた。 だが、英臣の舌先は総一郎を追い詰めるかのようにあちこちを這い回る。 くすぐったいような、甘い愛撫に総一郎は英臣に手を伸ばした。 ふと指先に当たるのは、英臣の服。自分だけ脱いでいるのはずるいと総一郎は英臣の襟に手をかけた。それに気づいて、英臣は顔を上げる。 総一郎の意図に苦笑を浮かべ、釦を外す。そして、服を落とした。 「……これで?」 満足かと問う英臣。だが総一郎の目に映ったのは露になった英臣の姿ではなく、彼の肌に走る赤い傷だった。 風呂場でも見た、生々しい現実の傷跡。彼は本当に痛めつけられていたのだと切なくなり、胸が苦しくなる。 思わず身を起こし、総一郎は英臣の首筋に顔を寄せた。 「そう、いちろう?」 唐突な行動に英臣は目を見開く。だが言葉よりも先に、首筋に触れる唇の感触に眉根を寄せた。 首には縄の痕。右近兄に何をされていたのかと想像してしまう。 そう思うと、触りたくてどうしようもなくなり、総一郎は英臣の首筋に啄ばむ口付けを繰り返した。 「……っ」 「……英臣」 体に絡まる英臣の腕。熱く、強い感触に胸が高鳴る。総一郎もまた英臣を掻き抱き、首筋から耳朶へと唇を動かした。 舌先で撫ぜると体が跳ねる。意地の悪いことだと感じながらも、総一郎にはそれが面白く感ぜられて、口づけを繰り返した。 「や……めろ、総一郎」 「断る。僕に似たようなことをしている癖に」 互いの耳に響く牽制。しかし英臣もまた、いつまでも黙って愛撫を享受しているわけでもなかった。 総一郎を抱いていた腕をほどき、熱くなり始めた下肢へと性急に手を伸ばす。 服越しとはいえ、敏感な部分を触られ、総一郎は動きを止めた。その隙に、英臣は寝台へと総一郎を押さえ込んでしまう。腕と唇で、彼の動きを封じながら。 「……ん……」 離れる英臣。その乱暴さに苦笑する総一郎だが、完全に抗うわけではない。彼を確かめようとしている英臣をあるがままに受け入れる。 「熱い、な」 吐息を零しながら、英臣の手が再び総一郎への下肢へと伸びた。残された寝着のズボンに手がかかると総一郎は目を見開く。 「何、を、英臣」 だが、英臣は答えない。冷笑のようないつもの微笑を浮かべて、手をかけるのみだ。 「英臣!」 悲鳴に似た声をあげる。夜の静けさに響きはしないかと一瞬焦ったが、英臣は拘泥するそぶりも見せない。 無情な仕草で、服を下着ごとひき下ろした。 身に纏っていたものを全て脱がされ、羞恥に総一郎は腕で顔を隠す。守るべきものを全て奪われ、同性とはいえ英臣に晒していると思うとたまらなく恥ずかしい。 英臣の手が、総一郎の膝にかかる。そのままぐい、と脚を開かせると英臣はその間へと顔をうずめた。 「ひぁ……っ」 思いがけない感覚に堪えきれない声が漏れた。あまりにも情けない己の声に、総一郎は必死で口を押さえる。 だが、英臣は口淫を止める気配もなく、それどころか声を抑える総一郎を追い詰めるかのように、舌を動かす。 そういった行為があることを総一郎は知らないわけではなかったが、淫らな、ふしだらな行為だと思い、自分が触れることはないだろうと考えていたのに。今は――。 くちゃりくちゃりと響く水音に思考が奪われていく。体の芯を包む快楽に理性が奪われていく。 どうしようもなく逃れたくて腰を浮かすが、それはさらなる快楽を導くだけであった。 奥深くまで舐められて、総一郎は逃れようもないと目を閉じる。 だがそれもつかの間、次なる行為が総一郎を待っていた。 「っ……!」 体の最奥。決して人に触らせたことのない窄まりへ英臣の指が触れた。 侵入を硬く拒むそれを、唾液で滑った指先が押し開いていく。苦しさと悦びに攻めたてられる。感覚に神経をめちゃくちゃにされる。 「ひで、おみ……ぃ」 耐えられない、と総一郎は英臣の頭に手を伸ばした。柔らかな髪をくしゃくしゃに撫で付ける。 わざとらしい音を立てて、そこから唇を離すと英臣は顔を上げた。 「……いいのか?」 揶揄するような口調に、総一郎の顔がかっと赤くなる。 「それなら、声を出せばいい。我慢をするな」 そう話す間も愛撫を止めない。すりあげる手の熱さに眩暈がする思いだった。 「そん、な」 「ここには俺と、お前だけしかいない」 ぎゅうと雄を握り締められる。緩急をつけた愛撫に体が震えた。 同時に、窄まりをほぐす英臣の指は奥へ奥へと進められる。続く痛みと快楽の狭間で、総一郎は喘いだ。 だが苦しみは快楽に飲まれていく。高みへと次第に登りつめていく。 「……ひで、お、み」 「好きなだけ求めればいい、総一郎」 ――お前が俺を受け入れてくれたように。俺もまた、お前を―― 言葉はない。眼差しだけでそう語り、英臣は愛撫していたそれを再び口に含んだ。総一郎の感じる場所を突き止めた舌先は心得たように蠢く。 「ん……く、んんっ、ひで、ああ……っ!」 その一点。唾液でぬめった舌がそこに触れた瞬間、今まで耐えていたものが堰を切って溢れた。 背筋を駆け上がる快感と吐精の快楽に総一郎は酔いしれる。だが、同時に己のした行為に気づいてはっと我に返った。 「英、臣」 彼の口の中で達き、射精してしまったと身を起こしかけるが、総一郎は動きを止めた。 大して慌てる風でも、機嫌を悪くする風でもなく、英臣は淡々と滴った精液を舐めている。 あまりにも淫らで――綺麗な仕草に視線が釘付けになってしまった。 総一郎の視線に英臣が気づく。眼差しが交差すると、英臣は苦笑したように笑い、赤い舌先で己が唇もまた舐めた。 暗い森の色をした瞳に射抜かれて動けなくなる。 「あ……」 「ここで終わり、なんていうつもりはないよな」 唾液と精液に塗れた雄を掴まれる。放った直後で敏感になったそれはすぐさま反応を見せた。 腰が浮く。知らず、英臣に押し付けてしまう。英臣は微笑んで体を起こした。 その笑みがどこか悪魔のような笑みに見えて、総一郎は身を竦ませる。 そこへまた、宥めるような口付け。先程よりも触れる時間は短い。切なく思い、総一郎は口付けをねだり、腕を伸ばした。 「総い、ん、ぅ……」 押し付けた英臣の唇はどこか先程とは違う味がした。それは、己の放ったものの味か。 英臣は躊躇っていたが、総一郎は構わず唇を吸い、舌を絡ませようと彼の口を開かせた。抱きしめ口付ければ、繋がっている証となるかのように。 だが、口付けの途中も窄まりを開かせる行為は止まらない。 滑ったものが押し進んでくる気味の悪い感触に総一郎は腰を思わずくねらせた。圧迫感で息もやはり苦しい。 唇を離し、英臣は総一郎の首筋に口付けを一つ落とすと 「――力を、抜け」 と囁いた。その言葉の意味を考えあぐねていると、ふと腿の裏に熱い塊を感じて意味を悟る。 耐えられないと。英臣はそう言ったのだ。総一郎は言葉で返さず、頷いた。それと同時に、体内に埋め込まれていた指が引き抜かれる。 ずるりと抜ける感触に腰がまた震えた。 そして、押し付けられたのは英臣の欲望そのもの。肉を割るようにして、ゆっくりと総一郎を犯し始める。 「ぐ……っ」 指でほぐされたとはいえ、窄まりは異物の侵入を拒む。肉体の働きを無視して入り込むのだ。負担は大きい。 先程まで浸っていた快楽は消し飛び、今総一郎を支配するのはただの痛みだけだった。 「あ、う……ん、ああ」 「は……は」 だが、体を押し開く方の英臣もまた苦しげな表情を見せる。狭い肉の道を無理やりにこじあけているのが痛いのか。 英臣は唇を噛み締めて何かに耐えている。自分のされていることも忘れて、総一郎は気遣うように英臣の腕に手を伸ばした。 力を入れすぎて冷たくなった総一郎の指先に、英臣ははっとする。 「……総一郎」 「い、い、から……ん……しろ、よ」 ――止められると辛い。英臣の腕を掴み、挿入を促す。 このまま止められているのも、嫌だった。受け入れるのならば、きちんと受け入れたい、と。 英臣は総一郎の唇に口付け、分かったと体をさらに進める。無理やりに体を裂く感覚に総一郎は悲鳴をあげそうになったが、堪えた。 先端から括れが時間をかけてゆっくり呑み込まれていく。入り込んでくる熱と圧迫感に息が詰まった。 「っ……すまない」 小さな声。英臣は少しでも総一郎の痛みを和らげようと萎えかけた雄に触れる。 「あっ、あ!」 突然与えられた感覚に総一郎はその手から逃れようとしたが、体に半ばまで埋め込まれた楔がそれを許さない。 甘美な愛撫と苦痛の挿入に、思考がますます混乱してくる。けれど、そこから逃れることは出来ない。 「ん……く」 総一郎は鈍い動きで英臣の首に腕を回し、己の体へと引き寄せた。 少しでも助けになればと考えていたが、その行為は予想以上に英臣を促した。 ぎゅうと腕を回した瞬間、熱はさらなる奥へと侵入したのである。 「あ―――っ!」 抉り込むような突然の痛み。動けなくなって、総一郎はたまらず悲鳴をあげた。 英臣の首に縋りつきながら、総一郎はそれに耐えた。拍子に背中に爪を立てられ、英臣も顔をしかめる。 しかし、咎める真似もしない。ただ抱きしめるように、総一郎に顔を寄せた。 「あ……う、ん、は、はいっ、た?」 息もたえだえに問いかけると英臣は頷き、総一郎の頬に口付ける。 「……ああ」 英臣の手が、総一郎の腿の裏を這い回る。そして、わずかに手に力をこめると腿を押し、楔をわずかに揺らした。 「……分かるか?」 「ん……」 これで分からなければよほどの鈍感だろう、と総一郎は苦笑した。 己の体の中に英臣がいる。熱くて痛い、こりごりだとすら思えるのに、心はひどく満たされていた。 「ああ」 蝋燭の明かりに英臣が照らされている。その頬にはつうと汗が滴っていた。 自分もそのような顔をしているのだろうかと総一郎は思ったが、確かめる術はない。 確実なのは、今、英臣は自分の腕の中にいて、己は英臣の腕の中にいるということだけだ。 「……いくぞ」 「え、あ、あ――く」 次の瞬間。止める間もなく、英臣が体を動かした。 体の中のそれが肉を掻き回す。擦り付けられる痛み、抉られていく感覚。だが手で掴まれた部分からは快楽が広がっている。 分からない、と総一郎は息を吐いた。自分は何を感じているのか。答えを求めて、英臣を見上げる。だが、答えが教えられることもない。 けれど英臣の目はずっと総一郎を見ていた。気遣うように、愛しげに。だから、総一郎も無理を止めなかった。止めずに、もっとと腕を回して引き寄せる。 奥へ入れられ突かれたかと思うと、抜くように引かれる。 締め付けのせいか鈍い抽挿。抜き差しを繰り返される度に、苦しさに息をついたが、次第に違うものが神経を侵し始めた。 それは、愛撫され続ける自身から体へと滲む震えに似ていた。 「ん……ふ、あ」 口から漏れる息が、甘く鼻にかかる。自分の声とはとても思えない。総一郎はそう感じた。恥ずかしくなって顔を手で隠す。 「そう、いち、ろう」 わずかに掠れた英臣の声が、総一郎を呼んだ。 「な、に……ん」 返事を返したと同時に、顔を隠していた手を掴まれた。そして、口付けが降る。 総一郎もそれに応えた。唇を吸い、舌を絡ませる。英臣に掴まれた腕をほどいて、手を握り合った。 強く強く握り締める。繋がった掌は、とても熱かった。 「ん……あ、んんっ」 舌を絡ませ互いを求める。飲み込みきれない唾液がつう、と滴った。どちらのものともしれない。二人が一つになる。 「総一郎……」 「ん……何だ」 「……総一郎」 英臣が名を呼ぶ。今まで、堪えていた時間を取り戻すかのように。 同時に、揺さぶりが激しくなった。愛しさ故か。行動が次第に乱暴になっていく。 愛しいものを手にして、どうしようもならなくなる感情の発露。抱きしめる手腕に力が篭る。 それに応えきれず、振り回されるような形になり、総一郎は声をあげた。 痛いのか、気持ちがいいのか。結局答えが出ない。 ――それでもいいか。 総一郎は次第に明確になっていく快楽に身を委ね始めた。犯されるたびに生まれるのが痛みだけではなくなっていた。 「総一郎……!」 声が聞こえる。その声が聞こえる限り、手を伸ばそうと、ただ思うのだ。 体と心が一つの高みへと登りつめていく。比翼のように離れることなく、鼓動を合わせる。 「あ――あ、英臣……っ!」 その場所へたどり着いた瞬間、内から噴き出した悦びに総一郎は意識を手渡した。 次に目をあけると、外は何事もなかったかのように朝を迎えていた。 寝台横に置かれた蝋燭はすっかり溶け消えている。 「ん……」 起きようとした瞬間、体が軋んだ。痛みに思わず小さな声をあげたが、何とか身を起こす。 何故体が痛いのだ――と考える間もなく、昨夜の出来事が脳裏に蘇った。 この部屋で。縺れるままに英臣と抱き合って、そして。 「英臣……っ」 背中にいるであろう彼に向き直る。しかし、そこに英臣の姿はなかった。 敷布には僅かな皺がついていたが温もりはない。おそらく部屋を出て行ったのだろう。 そう思うと、総一郎は少しばかり寂しかった。だが、服は着せられ、乱れていたものは全て整えられている。 体に残されている英臣の気遣いが嬉しくもあった。 と、余韻に浸る間もなく外から扉が叩かれる。顔を上げると 「総一郎。起きているか」 と左近兄の声がした。ついで返事も待たずに開けられる扉。兄弟の間での無遠慮さだ。 「珍しいな。お前がこんな時間まで寝ているとは……ま あ、昨日は色々あったからな」 左近の言葉に、英臣の腕の中で演じた痴態を思い出す。拍子に、体がずくんと疼くような気がした。 勿論、左近が言及しているのはそのことではないが。総一郎は曖昧な笑みで受け流す。 「それより、朝食だ。着替えて降りて来い」 「あ、ああ。分かった」 「――それと、これからのことも話すから、な」 明るい左近の笑みに浮かぶ影。言わんとすることが分かって、総一郎はただ頷く。 「……ん」 早く降りて来い。最後にそう言って左近は扉を閉めた。 左近の足音が立ち去って後、寝台から起き上がり、箪笥へと総一郎は向かう。 体はだるくやや痛んだが、動かない程度ではない。足をなんとか動かして、服を着替えるために箪笥をあけて。はたと総一郎は気づいた。 英臣は、このことを予見していて部屋を先に出て行ったのではないだろうか。 寝台の上で男が二人、裸で眠っている。……どんな誤解をされるか分かったものではない。 それもまた英臣の気遣いか、と総一郎は笑った。 服を着替えて、部屋を出る。階下では女給や執事たちが慌しげに働いていた。 いつもの日常だ。それを横目に、食堂へ向かう。中庭の天気は晴れ。透明なほどの朝の光が満ちている。 毎日見ているはずの風景が、総一郎の視界にやけに美しく映って見えた。 それは、焦がれ続けていた人がこの手の中に戻ってきたから――かもしれない。 総一郎はふと浮かんだ考えに己を嘲った。 彼はそのような人物ではない。人の手の中にいることを良しとする人物ではない。甘えたりはしないのだ。昨日は、特別な夜。 刻まれた彼の感覚を思い出し、総一郎は肌が震えた。 今思えば、なんと言うことをしたのだろうと。 「……はぁ」 このままだといけない、と。総一郎は首を振るい、頭をもたげるものを振り払うと食堂の扉に手をかけた。 軋みをあげて開く扉。その向こうには、既に揃った左近と右近。そして、英臣がいた。 総一郎に視線をやるがそれも一瞬、すぐに伏せる。肌を重ねたからとて馴れ馴れしくしない、その潔さがどこか心地よかった。 「おお、来たか。そこに座れ」 言われるがまま、総一郎は英臣の隣の席に腰を下ろした。すると、食堂の扉が開き朝食が運ばれてくる。 「兄さん」 すぐに話に入るものだと思っていた総一郎は驚いて声をあげた。しかし、左近は当然だといわんばかりに 「まずは飯だ。食わなければ頭も働かない」 このような面子で食事とは、と思ったが左近はただ愉快そうに笑っている。 「俺たちは建設的な話し合いをしなくてはならないのだ。少しでも頭が働くようにしておくべきだろう」 今日の飯は上手いぞとわざとらしいほどに明るい声で左近は言う。 場を気遣ってのことだろう。隣に座る右近の顔は死刑囚もかくやの顔であったが、英臣は思わず笑みを零したようだった。 朝の日に綺麗な笑みが浮かび上がる。その笑みを横目に見ながら、総一郎は頷いた。 ――それから一刻ほど。 食事を終え、食器も片付けられた頃、左近が口火を切った。 「……英臣。この度のことは、謝っても謝りきれぬものではないが……本当にすまなかった」 真摯な顔つきで頭を下げる左近。そして、彼に続いて右近が頭を下げた。 「――私の。私の身勝手のせいで、貴殿を傷つけたことは……言葉でも、何をしても償えぬものだ。 許して欲しいとは言わない。けれど、私に出来ることがあれば何でもする。本当に……すまなかった」 机に手をつき、床であるならば土下座をしているであろう。 ひたすらに頭を下げる右近。総一郎は物心ついてから兄のこのような姿を見た覚えがなかった。 それほどまで真剣であるに違いない。総一郎は固唾を呑んだ。 英臣はというと頭を下げる右近をいつもと変わらぬ冷静な目で見つめている。その横顔に感情は浮かんでいなかった。 右近は語る。己の弱さを。己の歪んだ弱さゆえに、英臣を追い詰めたことを。 英臣はそれに反論するでもなく、口を挟むでもなく、ただ静かに聞いていた。 やがて右近は全てを語り終え、口を閉ざした。そしてもう一度、英臣に向かって頭を下げた。 「本当に、すまなかった」 「……ああ。そうだな」 苦しげに謝る右近。その彼に対して、英臣は冷徹なまでの視線をぶつけた。 眼鏡越しでない直の眼差しが右近に降り注ぐ。英臣の硬い声音に総一郎は息を呑んだ。 彼が次に発する言葉が、まるで想像できなかったからだ。 「英臣……」 「……俺は、忘れるとは決して言わない。けれど」 言って、英臣は自分の首筋を撫でた。 「許すことは……いつか出来ると思う」 服に隠された痣と傷とが残る肌。思い出して、総一郎は小さく嘆息をついた。 あれほどの痛みを甘んじて受けられるほど、人は優しくはない。 「……そうか」 しかし、右近にはそれだけでも十分だったようだ。顔を上げた右近は救われたような表情を見せた。 そこには、今まで兄が見せていた、妄執にとりつかれた鬼のような顔はない。本来の緋芽宮右近の顔があった。 「ありがとう」 「……俺も。本来ならばとるべきではない手段をとった人間だから。これは、報いなのかもしれない」 呟く英臣。右近の顔に疑問符が浮かぶと、左近が事情をかいつまんで話した。 やはり、左近は知っていたのだ。英臣が、父、京一郎の愛人でないことを。住んでいた場所を出てきたのではなく、追い出されてしまったのだということを。 左近の話を聞き、右近は己のしたことの重さをさらに思い知ったのか、再び顔を俯けてしまった。 「……その代わりと言っては何だが、一つ、俺の頼みを聞いてくれるだろうか」 英臣の申し出に、俯いていた右近の顔が明るくなる。出来ることがあるならと言いたげに机に身を乗り出した。 「あ、ああ。私でよければ何でも聞こう」 「ならば、いくばくかの金と、この街ではない場所の働き口を紹介して欲しい」 右近と左近の顔をまっすぐに見据えて、英臣は言った。その言葉に、二人は凍りつく。そして、隣に座っていた総一郎も。 「英、臣?」 「……いつまでも、甘えてはいられない。俺は此処を出て行きます」 「英臣!」 「けれど、このようなことになってしまうほど、俺という人間には力がない。……お金はいつか返します。……だから」 言って、英臣は頭を下げた。 「お願いします」 「あ、あ、ああ……分かった。すぐにでも手配させてもらう。だが、しばらく時間をくれ」 「はい」 お願いしますともう一度念を押し、英臣は椅子から立ち上がった。 もう話すべきことはない、ということだろう。一度たりとも総一郎を振り返ることなく、英臣は食堂を出て行った。 「ひ、英臣」 一瞬遅れて、総一郎も席を立った。そして、英臣を追いかけていく。 食堂を飛び出すと、もうそこに英臣の姿はない。 部屋にいるのだろうかと廊下を走り、扉を叩いて合図することもなく、英臣の部屋を開けた。 「どういうつもりだ、英臣」 部屋の中には、大して驚いた風も見せない英臣が立っていた。 今からどこかへ行くつもりなのか、片手に上着を掴んでいる。総一郎は部屋の扉を乱暴に閉めると、英臣に詰め寄って、その襟首を掴んだ。 「出て行くなんて、どういうつもりだ!」 「……そのまま、だが」 それ以外に何がある、と英臣は冷静な声音で囁く。総一郎を見つめ返す目にも感情はない。 「手を、離せ。総一郎」 襟首を乱暴に掴む総一郎の手をやんわりとおろし、英臣は溜息をついた。 「……何時までも、甘えたままでは駄目だと思ったんだ。だから、これは一晩考えた上での答えだ」 「……っ」 昨夜、自分が眠っている間に英臣はそのようなことを考えていたのか。 総一郎はそう思うとかっと体が熱くなった。置いていかれたような気分になって、悔しさすら感じる。 「そんな」 「……」 「お前は昨日言ったじゃないか……共に生きていければ、よいと。あれは、嘘か。嘘、だったのか」 子供のような駄々だと、総一郎自身思った。 大の大人がすることではない。旅立とうとする友の足を引っ張るような真似をするなど。 だが、言わずにはいられなかった。まだ昨夜の名残が体に残っているからこそ、余計に言わずにはいられなかったのだ。 それが分かっているのか、英臣は眉根を寄せた。 「総一郎」 「なん……ぐっ」 手にしていた総一郎の腕を強く握り締めて、英臣は何のためらいもなくそれを捻りあげた。 「英、臣っ……なに、を」 「一度体を重ねた程度で恋人気取りか、総一郎」 ぶつけられた言葉に、総一郎は顔を歪めた。何を言うつもりだと心が苦しく締め上げられる。 「違う、そうではなくて」 「……ずっと傍にいることが、共にあるということか。それは違うだろう」 捻り上げた腕をほどいてそっと撫ぜると、手の甲に、掌に、優しく触れていく。 指先から英臣の心を感じるように総一郎には思えた。温かい。せっかく手に入れたのだから、なくしたくないと、子供の自分が悲鳴を上げる。 「……よく考えるんだ、総一郎。これからもずっと俺と共にあるということが、どういうことか」 「どういう、意味だ」 「朱鷺宮桜子」 言われて、総一郎は動きを止めた。今の今まで忘れていたその存在が、急に重くのしかかった。 愛しく感じていた彼女の存在に、一瞬、苛立ちを覚える。 「彼女がいる限り、俺はお前の傍に今のままでいることは出来ない」 「どうして」 「……お前は彼女と結婚するのだろう。俺は……お前の愛人なんて真っ平御免だ」 遠慮のない物言い。しかし、それは事実だ、と総一郎は思う。 自分はいつか桜子と結婚する。だが心は違う人間の元へと飛んでいく。傍にいなければきっと我慢が出来なくなる――そして、傍にいることを強要するようになる。 愛とは、相手への束縛でもあるのだ。どのような言葉で繕っても、妻という存在以外に愛される者に冠せられる名が何になるか。分からないわけではない。 「英臣」 「……だから、これでいいのだ。理解しろ、総一郎」 言って、英臣は空いている手で総一郎の頬を撫でると、その唇にそっと口付けた。 宥めるような口付けに、愛しさがこみ上げてくる。 「お前の心を貰っただけで俺は十分なのだ」 柔らかく微笑んで英臣が離れる。総一郎が惹かれたあの子供のような安らかな笑顔だ。 言葉を失い立ち尽くす総一郎を横目に、英臣は上着を着込んで扉に手をかけると 「少し、出かける」 そう言って部屋を出て行った。彼を追いかけることも出来ず、主のいなくなった部屋の真ん中で、総一郎は逡巡する。 ――自分では、英臣を引き止めることは出来ないのか。 心の中にじわりじわりと不安が巣食っていく。そして、置いていかれるという寂しさが胸を締め付けた。 けれど彼を止めることは出来ない。何故ならば、英臣の言うことは明らかな真実だからだ。 「英臣……っ」 苦しさに総一郎は名前を呼んだ。応える声は何一つなかった。 窓から見える空は青空。昨夜とはまるで違う雲のない空は、まるで人の決意の色によく似ていた。 <第九章> 「関西になるが、秘書を探している者がいた。時田、お前を一先ず紹介しておいたが良かっただろうか」 それから数日後。全員の揃った朝食の席で右近はそう会話を切り出した。 総一郎は一瞬、右近兄は何を言っているのだろうと思ったが、英臣の横顔に全てを思い出す。 この家を出て行く。一人で生きていく。それは英臣が望んだことだ。もう止められはしないと総一郎は止めた朝食の手を再び動かした。 「……ああ。ありがとう」 右近の言葉に頭を下げる英臣。その行為に、右近の強張っていた表情がわずかに和らぐ。少しは償いが出来たと思ったのだろうか。 「今日にでも電報を出しておく。返事が返り次第、向かってくれるか」 「はい」 頷き、英臣は荷物を纏めて置きます、と言葉を繋げた。 「関西は遠いな、右近。もっと近辺はなかったのか」 一人朝食を先に終えてしまった左近は茶を飲みながら言う。どこか寂しげな口調と表情に、右近も困惑を浮かべた。 「ああ……手を尽くしたんだが、中々な」 「簡単に会えなくなるぞ、いいのか。英臣。一人は寂しいぞ」 どこか茶化したような口調だが、その言葉は総一郎の心に深く響いた。 疼く胸の内に朝食をとる手が再び止まってしまう。何も感じていない振りを、平気な振りをしろと叫ぶが震えた手はまともに動いてはくれなかった。 落とすよりはましだと食器を置く。総一郎は英臣の横顔を見た。 「……物理的には一人だが、精神的にはそうではないと思うから。構わない」 「ほお。思い人でもいるか、英臣」 左近の双眸は軽薄に笑いながら英臣を見ている。 恐らくは、彼の初心な、もしくはうろたえる態度でも楽しもうとしたのだろう。しかし英臣は鮮やかなほどの笑みを浮かべて 「ああ。いる」 と恥ずかしげもなく言い放った。あまりの潔さに、左近は継ぐ声を失い、硬直した。 「そ……そうか。いや、それだけ思って貰えると彼女も嬉しいだろうな」 固まった動きを解いて、左近は笑った。そしてお前もだぞ、総一郎。と話の矛先を総一郎に向ける。 「な、何が?」 「桜子嬢とのことだよ。お前に言っておかなければならないことがある」 「言うべき、こと」 もしや英臣への感情が露見したのだろうかと、総一郎は僅かに息を呑んだ。 己の中に有る英臣への想い。葛藤を乗り越えて手に入れた熱き友情かつ恋慕。だがそれは世間には決して明らかに出来ない背徳の好意だと理解もしている。 勘の良い左近兄のことだ。もしや何か感づいているのかもしれないと総一郎は固唾を飲んで左近の言葉を待ったが 「お前は此の頃、彼女を蔑ろにしているだろう。以前は手紙を出すのすら悩んでいたが今はその姿も見せない。桜子姫を忘れているかのような態度は感心できないな」 言葉は想像した物とも全く異なっていた。安堵が過ぎる。だが一瞬の安堵の後に浮かんだのは抱いてはならぬ、苛立ちに似た負の感情だった。 桜子。可愛い桜子。妹のような桜子。彼女を娶り妻とするが己の未来。 理解している。だが納得は別物だと総一郎は知っていた。 顔を俯かせる総一郎に左近はなおも 「数日、英臣の件があってお前も上の空なのは分かるが……よく考えろ」 続けた。左近にしては珍しい硬い口調は、彼の真剣な配慮なのだとも総一郎は知る。 そうして、自身がしていた事に気づかされた。 確かにこの数日間、別れを惜しむように、少しでも記憶を残せるようにと英臣を構っていた。 勿論英臣は平生の鬱陶しげな冷たさを持って総一郎に接していたが、英臣から受け入れられる温もりに総一郎は夢中になっていた。 今この瞬間、言われてからでないと思い出せないほど桜子を忘却するまでに。 やはりどうあっても心を注ぐ相手は英臣しかいないのだ。 「……はい」 答えるが意識は沈む。気をつけねばと総一郎は己を戒めた。 この想いを知られてはならない。だがそれ以上に、友の幸福なる旅立ちを見送らなければならないのだから。 依存するが望みではない。英臣が幸せであることが望みである。叶えると言ったのだ。約束を保護には出来ない。 何より、例え遠く離れた地でも心は共にあると言える、 その関係を手に入れたことこそが至福なのだから――これ以上欲するべきではないのだ。お互いのために。 「……と、兄貴面して言って見たがな。そう重い話でもない、総一郎。俺が言うのもなんだが、朝から暗い顔をするな。彼女も分かっているさ」 総一郎の沈む気配に、左近が取り繕うように言った。固い口調が再び砕け、 「英臣に、熱情が如く強い結びつきの繋ぎ方。教えて貰え、総一郎」 茶化すような色を持つ。 総一郎は抑揚ある言い方に笑い、ふと英臣を見た。英臣も苦笑している。やがて眼差しに気づいて英臣も総一郎を見た。重なる視線。 ああ、やはりこの男が大切だと、胸を突く痛みが広がった。 だが。その痛みを抱き続けるままに生きるわけには行かないとも総一郎は分かっていた。 関西から電報が返ってきたのはそれから数日後のこと。 英臣の出立を見送りに、総一郎は中央駅を訪れていた。 総一郎だけではない。左近も、右近も。英臣の旅立ちをこの目で見ようと駅に立っている。 周囲は人が多く、同じような見送り客がそれぞれの別れを惜しんでいた。 「本当に、ありがとうございました」 外套に身を包んだ英臣が、そう言って頭を下げた。風で微かに裾が揺れている。 「必ず、ご恩はお返しします」 「何水臭いことを。いつでも帰りたくなったらいいなさい。総一郎も俺も、右近も歓迎するさ」 言って、左近は英臣の肩を叩いた。彼のまとう外套を贈ったのは左近と右近だ。 貧乏くさい物を着て緋芽宮の名を潰してくれるなと左近は茶化していたが、英臣に何かしてやりたいと言う心の発露だろう。 仕立ての良い外套に英臣は出立間際まで困惑していたが、結局は右近が着させた。 「……そうだな。お前は辛くてもそう言わないと思うが」 「我慢の子か。わざわざ苦難の道を歩まなくても……なあ、総一郎。お前もそう思うだろう。せっかく得た友を失うのだから」 向けられた左近の言葉に総一郎は苦笑した。決着をつけたはずの心から、また寂しさが零れだしてくる。厳重に閉じた筈なのに。 慣れるまでに時間がかかりそうだと苦笑いして、総一郎は英臣を見た。 「便りはくれよ。僕も出すようにする」 「手紙は苦手なのだろう。わざわざ無理をする必要はない」 「無理じゃない。書く内容さえあれば手紙ぐらいすぐ書ける」 「つまらぬ物を読むつもりは無い。興味を惹く文章を書けるようになったら、読んでやる」 「修練するさ」 会話は、尽きない。眼差しが重なり合う。 ――ああ。やはり別れは寂しいものだ。 突き上げる悲しみに目が熱くなる。だが、決して泣きはしないと心に刻んだ。 今生の別れではない。だがこれからは、会う回数も少なくなる。 ならば逢うときにはいつも変わらぬままでいたいと思えた。 「……先に戻っているぞ。総一郎。汽車の時刻までまだ少しあるだろう。ゆっくりしていなさい」 「はい」 友と別れる弟への気遣いか。左近が言った。特別扱いされる方が困ると思うのだが、今はこの気遣いに甘えることにして総一郎は頷いた。 「気をつけていけ、英臣。また」 「困ったことがあればすぐに連絡を寄越しなさい。時田、君の力になろう」 「ありがとうございます」 そうして差し出された二人の手を、英臣は握り締めた。 最初で最後の握手を強く、強く。頑なな握手はほんのひと時。指を解いて笑みを交わすと、左近と右近はゆっくりその場を離れた。 停車場に消えていく姿。どこか名残惜しそうに英臣は見ていたが、やがて総一郎に視線を戻した。 「……京一郎は良い息子を持ったのだな」 らしくない殊勝な台詞に総一郎は苦笑した。すると英臣も己の発言に肩を竦める。 「思ったまでのことだ」 言い訳をするように英臣は言ったが、総一郎は首をふるってそれを否定した。 「お前も、父上の息子じゃないか」 遺された文。遺された鞄。分け与えられた想いを持っているくせにと言ってやる。 お前は、父の残した鞄、形として残ったもう一つの英臣への愛情と共に未来へ旅立とうというのに。 すると、総一郎の発言に心底驚いたようで、英臣は瞳を見開いた。 一瞬、崩れそうになる表情。俯く顔。微かに震える肩。だがすぐさま 「そうか」 嬉しそうに、微笑んでみせた。 甘い、晴れやかな微笑。総一郎の愛する表情。彼にいつもその微笑があるようにと願いながら総一郎は 「僕は、桜子と婚姻を結ぶよ」 はっきりと口にした。 「僕は、彼女を妻にする」 「……分かりきったことをわざわざ口にするな」 「口にしないと踏み切れないだろうからね」 分かっているくせに、と笑う。眼差しをやれば、面倒そうに英臣は顔を逸らした。 「子供だ」 「子供だよ」 僕はお前も欲しいが未来を蹴飛ばすだけの意気地がない、子供だよ。 総一郎は歌うように口にする。すると 「人間とはそう言うものだろう」 どこか慰めの温度を持って返事が来た。 「俺も、考えなかった訳じゃない」 「思い人との未来か」 「……そうだ」 英臣が頷く。 「例えばどんな」 言葉は止まらない。この会話を永遠に続けられればいいと、叶いもしないことを思いながら問いかける。 すると英臣もまた口を開いた。 「共に在る生活を。そいつはいつもくだらないことを言う。面白みのないことを言う。何の糧にもならないふざけたことを。だが、それを聞くのは――正直、嫌いじゃない」 「そうか」 「そうだ」 全てを持っていけばいい、と総一郎は思った。 この瞬間の全てが彼の心の支えになるように。僕はその姿を貰うのだ、と。 「そうして、くだらないことばかり話して夜を明かす。眠いと言いながら次の日も仕事をして、帰ればまたそいつの馬鹿面が待っている」 「馬鹿面は酷いな」 「綺麗事ばかり口にする甘えたの顔だ。けれど、俺はそいつの顔も嫌いじゃない」 「嫌いじゃないのか」 「――愛している」 唐突に零された告白。総一郎は次の台詞を失い、英臣を見た。英臣の形の良い瞳は総一郎にのみ注がれていた。 ゆっくりと。英臣は 「愛している」 同じ言葉を繰り返した。 「英臣」 「……そんな、未来だ。だが成らない未来は妄想だ。あくまで慰み。物語を読んで己の身にも同じことが起きて欲しいと願う程度の夢想だ。総一郎。忘れろ」 「……叶うといいな」 口にした言葉は、呆れるほど情けなくて。総一郎はたまらず俯いた。だが、決めたことなのだから覆すわけには行かないと震える唇を引き結ぶ。 「そうだな」 覚悟を決める総一郎の横顔を見ながら英臣も頷いた。だが眼差しを注いだのはほんの刹那。 「……朱鷺宮さんに構ってやれ。お前は見限られても仕方のないことをしているだろう」 声音は冷静さを取り戻した。 「あ、ああ。久しぶりに会おうと手紙も贈ったよ。言葉でも謝る。これからは彼女を大切にする」 「そうしてやれ」 「……英臣」 「何だ?」 俯いていた顔をあげ、総一郎は英臣を見据えた。英臣もまた総一郎の眼差しを受け止める。 あの日以来、英臣は眼鏡をかけていない。遮蔽物のない整った顔が総一郎を真っ直ぐに見ている。 美しい顔。だがその美しさを超えて、英臣の全てを総一郎もまた愛しているのだ。 そして、これからも共に在る未来を喜びたいと切に願った。 「口付けを」 「総一郎」 「これが最後だ。僕は、僕の道を行く。お前も、お前の道を行く。その選択に後悔はない。だがこうして、初めて人を愛したことを忘れないように。どうか」 子供からのお願いだ、と総一郎は茶化した。英臣の色素の薄い瞳が僅かに見開く。 だがそれも一瞬。英臣はすぐに目を伏せると、鞄を足元に置いて総一郎の肩を両手で掴んだ。 力のこめられた指先。骨ばった同性の手を、こんなにも愛しいと思うことはもう無いだろう。近づく顔に総一郎は目を伏せる。 薄く唇を開き、そこへ温かなものが触れるのをただ待った。 乙女のようだと笑う思考が一方にある。けれど、欲する衝動はごまかしようが無い。 「……総一郎」 近づく唇が、寸前で止まる。そっと総一郎が目を開けると英臣は真剣な表情で総一郎を見ていた。 こんなに近い距離で話すことももう二度とないだろう。思うと胸がまた痛くなる。 だがその痛みを思い出にするのも記憶にするのも自分次第なのだ。 これをただの記憶ではなく生きていく喜びを与える思い出にするのだと思うと、高揚感に笑みが浮かんで、総一郎は笑った。 「何だ?」 「俺も、忘れはしない。俺の心は、お前のものだ。いつもお前と共に在る。忘れるな」 僕も、とは言えなかった。言うよりも早く唇を奪われる。 優しい、触れるだけの口付け。互いの温度を確かめるだけのそれにうっとりと総一郎は目を閉じた。 ――最後の口付けがこんなにも幸福なら、もう何も怖くは無いだろう。 忘れはしない。遠く離れても共に在る、無二の友を得られたのだから。 やがて、英臣が離れる。もう一度と服を掴んでせがみたくなる甘えを総一郎は押し殺した。 「……忘れるものか」 絶対に。酩酊する頭ではっきり答える。小さく、英臣の笑う気配がして。目をあければ、そこには惹かれた幼い笑みがあるのだろうと総一郎は思った。 「英臣」 「総一郎」 「何だ」 「俺は、お前に出会えて本当に良かった」 顔も向けず、英臣はそう言った。口付け以上に嬉しい言葉に総一郎は破顔する。 今更何を言うのだと思ったが茶化すような口ぶりを総一郎はもてなかった。 「僕もだよ」 心からの言葉をただ伝えるのみ。その背中だけではない。揺れる髪の先から爪先までも。忘れるものかと総一郎は思った。 蒸気の音がいっそうけたたましくなる。発車の時刻を告げる駅員の声に、二人の世界はゆっくりと終わりを告げた。 ――発車の時刻はまもなくだった。 「元気で」 「お前も」 総一郎が差し出した手を英臣は握り締める。固い握手。また逢おうと言う思いをこめる。 ひと時も視線を逸らさずに見つめあいながら、ゆっくりと指をほどいた。 風が駅舎に吹く。柔らかな温度が心地よくて二人そろって目を細めた。 「では」 「ああ」 足元に置いていた鞄を持ち上げ、英臣が汽車に向かって歩き出した。 振り返らない、真っ直ぐに道を歩く英臣の背中が霞む。 「……」 冷たい水が頬を濡らした。 泣いてはならない。友の旅立ちを祝わない者がどこにいるものか。 (雨だ) そうだ。雨が降っているのだ。始まりの日のように。 雨の日に出会い、雨の日に別れるなんて。それもまた運命だ。 戯れのようなことを考えて、総一郎は笑みを零した。 雨の雫を拭う。 そして前を見据えて、雑踏の中に英臣の姿が無いことを見て取ると踵を返した。 帰ろう。日常へ。 心はいつも共に在る。その希望が背中を押した。 青く美しい空。平穏なる空。 この空の下で、迎えた別れは――幸福に、満ちていた。