//////////////////////////// *現代/伝奇風味 *男主人公視点 /////////////////////////// 最初に目に入ったものは、真紅の糸だった。 細く細く、まるで血の筋のような赤い組紐が、白い手に巻きついている。 幾重にも。 上から、下から、右から左から。 ぎちぎちと。 締め付ける音が聞こえてきそうなほどに、赤い組紐で戒められた右手。 その厳重さは――真白の手に握られた無骨な日本刀を死しても離すまいと――誓っているようにも見えた。 似合わない。あまりにも武器の似合わない白き少女の手。 その手と日本刀が赤い組紐で繋がれている。 夜。暗いはずの街で、その赤はとても綺麗に見えた。 やがて、視界が開けていく。小さい俺の視界が開けていく。 幼い手を戒める右手から、腕へ肩へ。やがて全身、顔へ。彼女を包む見慣れた街の風景へ。 闇夜に生々しく輝く日本刀。非日常を手にした少女と目が合った。 その顔は、よく知った顔だった。大きな目が驚きと侮蔑で光っている。 ナンデソコニイルノ? 彼女は言葉なく、そう語っていた。語って、俺を外へと追いやろうとしていた。 だが俺は一歩も動けず、その双眸を見つめ返すしかなかった。そこに佇む見知った少女は、もはや俺の知っている彼女じゃなかった。 深くて重い宿命を漂わせて、剣を握り締めている――。 いつもの微笑みはどこへ行ったのか。苦しくなり俺は口を開いた。だが渇いた喉は声を成さない。掠れた声が、あ、あ、と無意味な単語を紡ぐ。喉を押さえた。苦しい。息が詰まる。 その様子に落胆したのか。少女の唇から溜息が漏れた。 瞬間。 ぐん、と少女の姿が遠くなる。手が届かなくなる。 その場から踏み出せぬ俺をあざ笑うかのように。 目の前から消え去ろうとするその背中に、俺は壊れた喉で悲鳴をあげた――。 「律花!」 「――っ!」 落下の感覚と同時に目が覚めた。全身ががくりと震えて、シーツに沈む。胃の裏にすっとしたものが走って、呼気の塊が無理やりに吐き出された。 「あ――あ、夢?」 呼吸を一つ置いて、自問する。少しばかり呼吸が荒い。 「夢……か、なんだ」 荒れる呼吸をなんとか整えて、俺はベッドサイドにおいた時計に目をやった。六時半。セットした時間よりも早く起きてしまったようだ。目覚ましのスイッチを切ると、ベッドの上に転がる。まだ体には夢から覚めたときの落下の感覚が残っていて気持ち悪い。頭を掻いて気を紛らわせる。もう一度寝ようかと思ったが、時間通りに起きる自信もなく、俺は不快感を押し込めて立ち上がった。 空気の冷たい廊下を歩いて、居間への扉を開ける。 「あら、おはよう周。今日は早いのねえ」 居間に入ると台所のほうから母親の声がした。その手元では朝食を作っているのだろう包丁が動く音が聞こえる。テーブルには既に親父が出勤の準備をして座っている。新聞を読みふけり、こちらに顔を向けようともしない。いつものことだ。 「またパジャマのまま出てくる! 着替えてから来なさいといつも言ってるでしょ? 顔は洗ったの? 顔は」 「はいはい」 口うるさい母さんにあくびで返事を返すと、父さんの向かいに座る。 そこへ――。 「おはよう、シュウお兄ちゃん」 ひょこっと、イレギュラーが顔を出した。小首を傾げると肩まで伸びた髪がさらりと音を立てて肩を滑る。 「ん、おはよ。律花」 「おはよう。朝食待っててね。今作ってるから」 お茶を机においてにこやかに微笑む。彼女は妹……ではない。断じて。妹のような存在ではあるが。 天根律花。 俺のお隣さんで、年の離れた幼馴染の少女である。 その少女が何故にこんな朝早くから俺の家にいるかというと、彼女の家庭事情に理由があった。 幼い頃……多分、俺が12歳からそこらだったと思うが、律花の両親が二人揃って蒸発したのである。突然。何の前触れもなく。近所では「借金取りから夜逃げした」だの、「怪事件に巻き込まれた」だの、まことしやかに噂が流れた。誹謗中傷交じりのものまで。 しかし、何よりも最大の被害者は律花だ。彼女は幼稚園児にして広いマンションに一人、置いてけぼりになったのだから。 それを見かねたのが俺の両親だった。昔から律花の家と懇意にしていたせいもあるのだろう。一人放置されてしまった律花を可哀想に思い、朝昼晩と目をかけてきたのだ。 それは、彼女が高校生になってもなお続いている。母さんは「娘が出来たみたいだ」と嬉しそうだし、父さんはそれを無言のまま了承している。俺も――文句を言うつもりなどない。律花は大切な家族。寝床は別でも、十年以上共に生活してきた。だからこそ、家族として彼女を自負できる。そんな気持ちが俺の中にあった。 しかし、律花も黙って世話をされ続けているだけではない。今日のように食事の準備を手伝い、母さんに頼まれれば買い物に走る。幼い頃に世間から冷たい目で見られるという  ひどい経験をしているのに、曲がったところのない、いい子だった。 ――こう思うといつも、まるで自分が律花の父親のような気分になってしまうのだが。七つしか年も離れていないのに。 「シュウお兄ちゃん。どうしたの?」 ちなみに俺の名前は志方周。しかた・あまね、と読む。律花が何故俺をシュウと呼ぶかといえば彼女の苗字のあまねと重なるからだ。それを面白がって、律花はあえてシュウと言う。 「え? あ、いや。別に」 「そう? じゃあ、すぐにご飯持って来るね。待ってて」 言って律花はエプロンを翻し、台所へ戻った。制服のスカートがひらりと舞う。似合うなあ、と思っていると 「……いい」 向かいからドスの効いた低い声が、にやけていた。 ……バカ親父。 「ごちそうさまでした!」 明るい律花の声が響く。手を合わせて挨拶一つ。食べ終えた朝食の食器をさっと重ねると、台所へと持っていく。洗い物は母さんの役目だが、片付けは律花の役目らしい。俺は手を出すことも出来ず素早い律花の動きを見ていた。 「律花ちゃん、ついでにお茶のお代わり頼めるかしら」 「はーい」 母さんに言われ、律花は手際よくお茶を淹れていく。 「シュウお兄ちゃんは?」 「俺も」 「はいっ」 快活な返事。その声が曇る日はあまりない。彼女にもつらいことがあるだろうに……と何となくと思っていると 「行って来る」 親父が席を立った。居間のソファにおいてあったカバンを手にとって玄関へ向かう。 「あ、おじさま。お茶はいいですか?」 新しい湯飲みにお茶を注ぎながら言う律花に小さく首を振る父さん。そうですか、と確認すると 「いってらっしゃい」 娘のようなかいがいしさで手を振って送り出す。その姿を見ていると―― 「俺、この家の息子だっけ」 思わず呟く。 「律花ちゃんが娘ならいいのにね」 向かいから、母親の冷たい視線が俺を見据えていた。本気だ。本気に違いない。 「はい、おばさま。シュウお兄ちゃん。お茶」 「ありがとう、律花ちゃん」 「サンキュ」 熱いお茶を受取り、口をつける。ほっとした気持ちになると同時にまた今日も仕事だ、とう気持ちになる。 「じゃあ、シュウお兄ちゃん。また後でね」 「あれ、律花は?」 お茶を飲まないのか、と聞くと律花は頷いた。 「学校行く準備しないと。昨日は遅くまで起きてたから、手が回らなくて」 苦笑する律花。そして、エプロンを椅子にかけると 「ごちそうさまでした」 母さんに笑みを向ける。母さんも嬉しそうに手を振って「今日の夜ご飯は任せてねー」と言っている。いつものことなのに、いつも嬉しいらしい。 ……俺、本気で邪魔? 「なら俺も準備するかな」 何だか座っていられず、お茶もそこそこに席から立ち上がると律花を見送る。 ちなみに俺の仕事は、日本史の教師……非常勤講師をしている。律花の通う清条高校にて。高校はこのマンションから歩いて十五分ほどの高台にある。行く場所が同じだから、と俺と律花は一緒に登校していた。 「夜更かしもそこそこにしろよ、律花」 靴を履く律花に声をかける。 「分かってるよ、シュウお兄ちゃん」 またも苦笑する律花。そして意地悪げな表情になると 「だったら、シュウお兄ちゃんは寝坊しないでよね。今日は珍しく自分で起きてきたみたいだけど、いつもは私のシゴトなんだから」 「む。今日は――」 言いかけて。 夢の光景を一瞬だけ思い出す。 赤い糸。 輝く刃。 白い手。 ――律花。 「シュウ、お兄ちゃん?」 きょとんとした表情で、律花が俺の顔を覗き込んでくる。子供のような大きな目が俺を見つめていた。その顔に、夢の中で見た重苦しく冷酷な表情は……ない。浮かんでいる表情はまるで純粋な子供そのものだ。 「なんでもない。ほら、行ってこい」 言うと同時に、律花の額にデコピン一発。 きゃう! と変な悲鳴を上げつつ、律花は俺を睨みつけると玄関を勢いよく出て行った。 洗面所に立ち、顔を洗って歯を磨く。いつもなら、今日の授業はどう進めて行くだの昼飯は何にするだの考えるのだが、俺の思考は今日見た夢の光景で占められていた。 気にするものでもないだろうに、と思うのだがやけに付きまとう。 何が気になるというのだろう。あの冷たい表情か。それとも刃物か。あんなものを持っていたら銃刀法違反もいいところだ。あるわけがない。 「今日も一日、いつもと同じ……でいいよな」 まるで人を殺した夢を見たあとのような不快感が離れなかった。 呟きは、頭を切り替えるために。 俺はもう一度顔を洗い、学校へ行くための身支度を始めた。 三十分後。俺は学校へ行く用意を整えて、律花の家のチャイムを鳴らす。はーいという声がしてしばらく、律花が出てきた。 「お待たせ。行こう」 下駄箱の上に置いたカバンをとって彼女は通路に踏み出すと、鍵をかける。この鍵を、律花は一人で閉めて、一人で開けるのだなと何となく思った。教師と生徒が仲良く並んで登校、というのもおかしな風景だと思うのだが律花の顔を見ていると「一緒に学校へ行くのはやめよう」とは言いづらい。 それが何だかんだと一年、続いている。 マンションを出て、学校へ続く道を歩く。道中の話題は、昨日見たテレビの話だとか夕食は何にするだとか。母さんの仕事がないときは、持たされた弁当の話題も出てくる。何の糧にもならない会話だが、気を使わなくていい間柄というのは……楽なものだ。 「そういえば律花、お前数学の宿題忘れてただろ。昨日、鹿山先生が怒ってたぞ」 「うう、ちょっとね……。今日はきちんとやってきたもん」 「昨日の徹夜はそれか?」 「うん……まあね。あ、見たいテレビもあったから」 放っておいて、と頬を膨らませる律花。そして俺のほうをみると 「何でお兄ちゃんに言うかなあ……」 とぼやいた。 それは、俺だって聞きたい。いくら同じマンションで隣同士に住んでて一緒に登校してて、朝も夜も一緒に飯を食う間柄だからといって俺と律花は親類ではない。言われる筋合いはないはずだが……いや、言われてもしょうがないのか。これは。 やがて、学校へ続く坂道に差し掛かる。 ここら辺になると清条高校の制服を着た生徒が増えてくる。 「オハヨー、シュウちゃん先生〜」と自転車に乗った生徒が俺たちの横を駆けて行く。おう、と返事を返すが少しばかり気が重い。 この清条高校で俺を「志方先生」と呼んでくれる生徒は少ない。慣れてしまったが、「シュウちゃん先生」「シュウちゃん」「シュウ先生」その他もろもろ。もちろん「あまね」と呼ばれることはほとんどない。 ……原因は、隣にいる律花だ。着任当日に受け持った授業に律花がいたのが運のツキ。 「あ、シュウお兄ちゃん!」 あまりにも無邪気な笑顔で、あまりにもキツイ一発。養鰻池に投げ込まれる麩のごとく、年頃の高校生はエサに食いつき……この日以来、清条高校での俺の名前はしかた・シュウなのである。幾度と咎めてみたが、効果はない。 ザ・諦めの境地。……そのうち改名するかもしれない。 「シュウお兄ちゃん? どうしたの?」 視界に入る律花。明るい微笑みに「お前のせいでからかわれているんだよ」と言えず、俺は生返事を返した。と、そのときだった。 「すんません。ちょっとええかな?」 聞きなれないイントネーションの声が届く。振り向くと、人懐っこい笑顔の女の子が立っていた。来ている制服は、清条高校のものではない。これは確か……。 「邦凛学園って、ここからどういったらええのん? 道に迷うてしもて困ってるんですわ」 そうだ、邦凛学園の制服だ。 私立・邦凛学園は俺たちの学校とは反対側、山の手にある清条から駅を挟んだ閑静な住宅街にある。品行方正で学力も高い、私立の伝統高校だ。……情けない話だが、清条に勤める前に非常勤講師の採用試験を受けたが落ちた記憶がある。 ちなみに、この街には清条高校、邦凛学園、統湖宮学院の三つの有名な高校がある。清条は公立として、邦凛は私立として、そして統湖宮は……学費と敷居の高さで、それぞれ有名なのだ。地図上で見ると、この三つの学校は綺麗に三角形を描いている。三角形の頂点に当たる清条の辺りでは、邦凛学園や統湖宮学院の制服を見ることは滅多にない。 「……だよね? シュウお兄ちゃん」 「は?」 などと考えていると、律花が少女に道を説明していたらしい。俺に確認を求めてくるが……会話の中身なぞ聞いちゃいなかった。 「あー、うん。多分」 と返事を返すと、少女はにっこり笑って 「そか。ほんなら、おおきに」 と軽快に走り出していく。 「いえいえ、気をつけて」 陸上でもやっているのだろうか、去っていく足音はとても軽かった。 「関西弁、だよね? テレビ以外で初めて聞いたかも」 嬉しそうに笑っている律花。だが律花は、あの少女になんと言ったのだろうか。 止めていた足を学校に向かって動かし始めながら、俺は訊ねる。 「なあ、律花。お前今、あの人になんて説明したんだ?」 「え? あ、ここから駅のほうに行けばいいって言ったんだよ。駅まで行って、噴水広場に向かって左の方向ですよって。邦凛ってすごいよね。校舎にエレベーターがあるんだって」 「……左」 これまた抽象的な説明があったもんだ。しかも……。 「間違ってるぞ、それ」 「ええっ!」 律花の言った方向にある学校は、統湖宮である。邦凛とは見事に逆方向だ。 「ど、どうしよう!」 慌てて振り返る律花。しかしそこに少女の姿はない。少女は、反対方向へと走り出してしまった後だった。 「どうしようも何も……言ってしまったんだからしょうがないだろ?」 「……自信がなかったからシュウお兄ちゃんに聞いたのに。役立たず」 ぼそっと呟く律花。だったら説明するなよと思うが「自信がないなら人に親切にするな」とは……教師として言えず。俺は聞かぬ振りをしてそっぽを向いた。 「途中で道の間違いに気づいてくれればいいけど……ちゃんと辿りついて欲しいな。知らない人……」 子供のようにぶつぶつ繰り返す律花。浮かんでいる表情は本気で困っている。 ……律花は、悪意という心を持っていないかのような人間だ。そんな生き物はこの世にいないとどこか分かっている。しかし律花は人に対しても自分に対しても正直だと……「兄」であるところの俺はいつも思う。今のことだって、よかれと思ってやったことだが……。 少し抜けてるんだよな。何かが。というかはっきり言って、律花は……まぬけだ。 「はいはい、もう気にするな。辿りつくって、あの人も」 あのフットワークならきっと素早い行動が出来るだろう、と何の慰めにもならないことを言うが 「そ、そうかな?」 と律花には効いたようだ。 「じゃあ、大丈夫だよね。……うん。そうだよね」 そして笑う。見知らぬ少女には申し訳ないことだが、その笑顔にほっとした。いつまでも暗い顔の律花は……見ていていい気持ちがしない。だとしたら、今日見た夢の不快感も、そこから来ているのだろうか……? ざわめきが次第に大きくなる。学校に着いたのだ。 おはよう、とあちこちで声が飛び交っている。律花も通り過ぎるクラスメイトの何人かと挨拶を交し合っていた。そこへ。 「天根」 低い声が届く。声のしたほうを見ると、背の高い男子生徒がこちらへ向かっていた。 「あ、高遠先輩。おはようございます」 律花は満面の笑みを浮かべると小さい会釈した。 「……おはよう」 3―A、高遠総司。三年生。俺よりも頭一つ分、身長が高い。がっしりとした体格は武道で鍛えられたものだろう。彼は律花の所属する剣道部の主将を務めていた。 律花曰く「かっこいい先輩」だそうだ。真面目で堅い彼の性格は今時の高校生には珍しい。浮かんでいる表情も精悍なもので、どこか芯の強さを感じさせる。 「志方先生、おはようございます」 俺がいることに気づいたのか、高頭は頭をぺこりと下げた。 「ああ、おはよう」 背筋の正しさに思わず俺も頭を下げてしまう。……礼儀正しいな、高遠は。ちなみに彼は、俺をシュウと呼ばない数少ない生徒の一人でもある。 「それで先輩、どうしたんですか?」 「すまない。今度の遠征の件でミーティングをするのだが……準備を手伝ってくれないか」 「あ、はい。分かりました」 頷く律花。そして俺を見ると 「じゃあ、シュウお兄ちゃん。行って来るね」 と高遠のほうへと身を向ける。 「すいません。お借りします」 またも頭を下げる高遠。い、いや、借りると言わなくとも……。 「ん、授業には遅刻するなよ」 「はーい」 「はい」 ほぼ同時に返ってくる気持ちのいい返事。そして二人は武道場のほうへと歩いていった。律花はあまり言わないが、もしかしたら剣道部内では信頼されているのかもしれない。主将じきじきに手伝ってくれといわれているのだから。……それ以外の関係があるかも、しれないが。 「さてと、俺も行くか」 二人の背中を見送った後、俺は職員の下駄箱へと向かう。靴を履き替え、職員室へ向かおうとするとその職員室の前に生徒の姿があった。 「おはよう、六路。どうした?」 呼びかけると、きびっとした動作で彼は振り向いた。 「先生。おはようございます」 六路戒。これまた3―Aの生徒である。高遠と同じクラスだ。俺はこの学校の生徒全員の名前がさっと出てくるほど記憶力がいいわけではないが……逆に彼を知らないものはこの学校にいないだろう。 六路は生徒会長である。しかも、ただの生徒会長ではなく「学校始まって以来の秀才の」という言葉の冠がつく。品行方正・成績優秀・文武両道と彼を褒める言葉は多い。しかも……同性の俺から見ても中々の男前である。顔もよく成績もよく運動も出来るとあれば傲慢でとんでもない奴かと言えばそうでもなく、人当たりは実によい。教師の中でも彼を貶す人間を見たことがない。 三年生の彼が現行で生徒会長をしているのも、今期の生徒会の人間に乞われてのことだ。 その信頼の深さは推して知るべし。 「この間の授業のときに、次の時間に使う資料を取りに来いといわれていたのを思い出したので。先生をちょうど探していました」 言って微笑む六路。 「ああ、そういえば一限だったか。悪かったな、今持ってくる」 「すいません」 「でも、大丈夫か? プリントもあるが、使うパネル結構でかいんだけど……」 「任せるがいい、僕がいるッ!」 ――俺の問いに答えたのは、六路ではなかった。 唐突に響く、大きな通る声。同時に六路の体が大きな腕に抱きとめられ、彼の肩口から声の主が顔を出した。 「藤島!」 「通りかかった船だからな、持って行ってやろう。さっさと持ってきなさい、アマネ君」 人好きのする笑顔で、さらりという彼は藤島来須。クラスは3―A。六路、高遠と合わせて目立つ三人衆だ。六路は完璧な生徒会長として、高遠は希少価値のある堅物主将として、そして藤島は……発言通りの変人として。 「まあ、あれだね。藤島来須には常識が通用しない。注意したほうがいいよ、先生」 3―Aクラスの授業を担当する初日に、他の教師にそう言われたものだ。そして俺自身もその言葉の意味を身に染みるほどに理解した。おそらく、根本の性格は度量の大きいいいヤツなのだろうが、紡がれる突飛な言葉が藤島の本質を隠してしまっていた。付き合いももうすぐ一年になるが、未だに性格が分からない。 「藤島、離れてくれ。重い」 後ろから寄りかかられていた六路が苦しそうに呟く。肩口に顔を出していた藤島はニヤニヤ笑いながら六路から離れた。 「華奢だなあ、戒ちゃんは。僕は重くないぞ。健康診断で痩せ気味といわれたんだからな」 笑う藤島の耳元で赤いピアスが光る。ピアスは校則違反だといっても、藤島は隠す様子も見せない。それどころか注意すればするほど自慢するように耳を触るのだ。そして言う。耳に穴を開けて、誰か迷惑するのか?――と。 今彼を注意する人間は古株の教師ぐらいだ。まあ、授業を妨害するだの暴力を振るうだの迷惑行為はないから……俺もいいと思うのだが。 「そういう意味じゃない。あの、先生。資料を」 「あ、ああ。分かった。待っていろ」 言われて、俺は慌てて職員室の自分の席へ向かった。ひとまず、机に立てかけておいた大きなパネルをがたがたと運びだす。プリントは後で渡そう。ふと、六路が職員室に入らなかったのは藤島が一緒にいたからではないか、と思う。あいつがいるとうるさいこと限りない。声が通る上に大きい音量で喋るからだろう。六路の気遣いが少し有難かった。 そんなことを考えながら、俺は職員室の扉を開ける。 「あ、先生。ありがとうございます」 扉を開けると、藤島と六路は何かを話しているようだった。 会話を切り上げ、六路はパネルに手を伸ばす。 「じゃ、また後でな。プリントは俺が持っていくし」 「ありがとうございます。では、失礼します」 六路は会釈すると、パネルを運びながら歩き出す。その姿をちらりと横目で見やって、藤島は笑っていた。大き目の唇に深い笑み。 「どうした?藤島」 問うと、藤島は笑みを崩すことなく 「ふふ、なんでもない。いやいや、そうかと思ったのだ」 「――は?」 何を言っているんだ、お前は。思わず口に出しそうになるが、喉のぎりぎりで止める。 「先生」 それに気づいたのか、藤島は顔をこちらへ向けた。細い目。切れ長の目が俺を見る。開け放ったシャツの襟から小さく輝くロザリオが見えた。 「嘘じゃないぞ、それは。真実だ。きっと来る」 そして、笑う。どういう意味かと問いただす前に藤島はかかとを翻し、戒ちゃーんと気楽な声をあげながら、軽い足運びで六路を追いかけていった。 「……真実?」 思わず、呟く。何を言うんだか……やはり変なヤツだな。 俺は予言めいたその言葉に苦笑して、職員室に戻る。ちょうど、チャイムが鳴った。軽くミーティングをして、授業が始まる。 今日もいつもの一日だ。 俺はゆっくりと自分の机に戻った。 チャイムが鳴る。今日一日の授業を終えるチャイム。俺はそれを職員室で聞いていた。非常勤講師の俺は担任のクラスを持っていない。副担任として律花のクラスを受け持ってはいるが、この担任がまた頑丈な人間で、俺の出る幕はほとんどないのだ。 授業が終われば、特別なことがない限り五時には帰れる。テストもないこの時期は、ゆっくりと過ごせる午後だった。明日進めるべき授業の予習のために軽くノートを見ていると、やがて廊下が騒がしくなり始めた。 ホームルームを終えた生徒たちが部活や帰宅へ向かっているのだろう。七歳ほどしか変わっていないが、高校時代がつい懐かしく思えてしまう。俺も何年か前まではあの輪の中にいたのになあ……。 「さてと、どうするかな」 予習ノートを閉じて背を伸ばしかけたそのとき、失礼しますと聞き慣れた声が耳に入ってきた。 「シュウお兄ちゃ……あ、先生」 他の先生の手前、呼びなおす律花。目が合うと俺の机まで小走りでやってくる。 「おう、律花。どうした?」 「あ、あのね。今日の朝、高遠先輩たちと話してたんだけど」 周囲を気にしているのか、律花は身をかがめて俺の耳に顔を近づけてくる。そんなことするから、余計にからかわれるネタになるというのに。俺は律花から少し体を離した。 「今度の遠征のミーティングが遅くなりそうで……。今日は一緒に帰れそうにないんだ。おばさまにも食事はいらないって、言っておいてくれるかな?」 「了解。何時ごろになりそうだ?」 夏ならばまだしも、この頃は日が落ちるのも早い。ひとまず訊ねてみる。時間によっては迎えに行けといわれるだろう。それに、律花の帰りが遅いと母さんがひどく心配する。 以前に同じようなことがあったとき、「何で時間を聞いてこないの、馬鹿!」とこっぴどくしかられた経験があった。 まあ、そのときは高遠が送り届けてくれたようだが……。 「んー……早くて七時には終わると思う。部活が終わった後から始めるから」 「そっか。気をつけろよ」 「ありがとう、シュウお……こほん。先生?」 にこっと笑う律花。家族の笑顔に少しばかり疲れを癒される。 「じゃあ、またね」 そして律花は来たときと同じように小走りで職員室を出て行った。 「よし、それじゃあ……」 と時間はまだ早いが帰り支度を始めたそのとき、入れ替わりで職員室へ教師が一人入ってきた。そして俺を見るなり、嬉しそうな顔で笑うと 「ああ、よかった先生。ちょっといいかな?」 と言ったのである――。 ただいま、午後七時四十七分。 俺は空腹と戦いながら、図書室で借りてきた本から目を上げた。時計が指す時間はすっかり夜。もちろん、窓から見える景色も夜闇に包まれている。 早く帰れるはずだったのに……と愚痴っても仕方がない。 最後の生徒が出て行った学習室の扉を閉めて、今度こそ帰宅するために俺は職員室へと向かった。 夕方。帰宅準備をしていた俺の元にやってきたのは、同じ日本史を教える先輩教師だった。 ――ちょっといいかな? 柔和な笑みを浮かべながら手を合わせ、しかし、俺に反撃の隙を与えることなく彼はまくし立てた。 ――さっき連絡があってね、娘が学校で熱出しちゃったらしくて迎えに行ってあげなきゃならんのよ。奥さん、今修学旅行の付き添いで海外行っちゃっててさ。誰もいないの。 ――でも困ったことにボク今日、自習室の担当なんだよね。 ――早く帰らなくちゃいけないんだけど……。 そこまで聞いて、ようやく彼が何を言いたいのか分かったが……。 逃げ道はもはや封じられていた。 ちなみに学習室とはこの時期から解放される受験生のための自習教室のことで、授業終了後の放課後から夜遅くまで静かな環境で勉強できるとあって、一分でも時間の惜しい受験生には中々好評のようだ。俺も監視の担当をしたことがあるが……。 ――今度替わるからさ、今日、担当替わってくれない? というわけでNOとはいえず、俺は図書室で本を借りると受験生たちと一緒に学習室にこもっていた。すっかり遅くなったなと思いつつ、職員室に入る。明かりの落とされた職員室は少し不気味だ。人気がないから寒々しくも思える。恐らく、校内に残っているのは俺一人……だろう。学習室の担当とはすなわち、学校から最後に出る人間になることでもある。 まあ、最後の戸締りは守衛さんがやってくれるのだが……。 廊下も職員室も、全てが静寂と群青色に染まっている。 動くたびに衣擦れが、足音が、呼吸が、大きく響いた。 ……正直、怖い。 ナニがいるというわけではないが、怖いものは怖い。成人男性だろうと怖い。 「か、帰るか」 思わず声を張って、俺は室内の施錠を確認して職員室を出た。がらがらと、扉を閉める重い音が誰もいない廊下に響く。 ふと……俺は律花のことを思い出した。 剣道部のミーティングはまだやっているのだろうか? もしやっているのであれば少し待って、一緒に帰ったほうがいいだろう。また戻ってくる手間が省ける。 俺は廊下から中庭に抜けると武道場へと向かった。剣道部・柔道部と揃っているだけあってしっかりとした構えの武道場が、体育館の近くにある。 遠くから見ると、武道場にはまだ電気がついていた。いるのかもしれない。 少し小走りで近寄って、入り口から中を覗く。少し押すと、きぃという小さな音を立てて扉が開いた。道場の中は煌々とした明かりがついている。夜闇の中にいたせいか、余計に眩しく思えた。 板張りの道場。だが、辺りは静まり返っている。中にいるのは―― 「先生。どうしましたか」 『心技一体』と書かれた額の下で正座をしている、高遠ただ一人だった。 閉じていた目を開き、高遠は問う。低めの声が、道場の中に柔らかく響いた。 「すまない、邪魔したか?」 悪い、と手で謝ると 「いや……少し精神統一をしていただけだ」 と高遠は気にするそぶりもなく言う。そしてぐらつくことなく立ち上がると、玄関までやってきた。ぺたぺたと裸足の足音。 「それで、何か御用ですか」 「……いや、電気がついていたからまだ誰かいるかと思ってな」 律花のことは伏せておく。高遠が人をからかう人間でないことはよく知っているが、何となく「一緒に帰ろうと思って」とは言いづらく、話を少し迂回させる。 しかし。 「天根なら、もう帰りましたが」 高遠は察したらしく、静かな声で言った。……ばれてたわけだ。俺は苦笑して 「そっか。すまんな」 と付け加えた。 「にしても、遅くまでミーティングご苦労様だな。遠征はいつなんだ?」 「ミーティング?」 俺の言葉に、高遠はきょとんと目を瞬かせた。何を言うのだ、と視線で問う。 「は? 今日はミーティング、だったんだろ? り……いや、天根が言ってたから」 「天根が? ……いや」 高遠の顔が見る見るうちに困惑に染まっていく。一体どうしたんだ? 「ミーティングは……朝で終わったのだが」 高遠の口から放たれた言葉に、俺は一瞬動きを止めた。 律花が……俺に嘘をついた? 頭をがつんと小突かれたようなショック。よほど呆けた顔をしていたのだろうか、高遠は困った顔で続けた。 「放課後はいつもの練習メニューのみで、六時には終わったのだが……」 「そう、か。分かった。ありがとう」 内心の動揺をなんとか押し殺しつつ、俺は頷いた。カバンの中の携帯を探りながら、外へと足を向ける。 「お前も気をつけて帰れよ」 「はい。もうすぐ出ます」 高遠の言葉を背に、俺は武道場から飛び出すと携帯で自宅へと電話をかけた。律花が帰っていないかを確かめるためだ。 ……彼女が嘘をついたことは伏せ、武道場を見ていない振りをしてかける。 母親からの返答は「まだ帰っていない」だった。食事は律花と一緒に繁華街で食べてくると言って、俺は携帯を切る。念のため律花の携帯に電話をかけてみるが、やはり応答はない。お決まりの留守番メッセージが流れる。 「どこへ行ったんだ……?」 電話を切り、学校を出ると俺は足を自宅ではなく、駅のある繁華街の方面へと向けた。ここから駅まで15分程度。 清条高校の生徒が行く場所といえば、そこしか思い当たらなかった。 それに、律花個人が行きそう場所など……悲しいが、見当がつかなかった。 帰宅も登校もほとんど一緒。寄り道するにして一緒。俺の行く場所が律花の行く場所で、律花の行く場所が俺の行く場所だった。近すぎる距離に甘えて、彼女自身を知ろうとしていなかったのかもしれない。 だが何よりも、彼女が俺に嘘をついたということが……衝撃だった。 律花は17歳。難しい年頃だということは理解しているつもりだったが、俺の中ではまだ、小さな子供である。嘘をつくことも何度もあった。だが後ろめたさ故なのか、見ればすぐに分かるほどわざとらしく、俺は笑って彼女の嘘を黙認していた。 けれど、今日の――律花は。 嘘に一欠片の躊躇いもなく。 笑っていた。 楽しそうに。 いつものように。 もしも、律花に恋人や友人が出来て……それを俺に知られたくない、だから嘘をついたというのならば説教一つで済む話だ。別に構わない。 でも……。 「躊躇いもなく嘘をついた」律花のことが、やけに気にかかった。 やがて、人混みのざわめきが近くなる。車の通る音が夜の静寂を切り裂き、繁華街の明かりが昼間のような明るさを生み出していた。この時間でも人は多い。オフィス街や飲食 店、アミューズメントセンター、大型ショッピングセンターなど遊ぶ場所も多く、何より、駅に近い。帰宅する人も今から出かける人もいるわけで、人通りがたえることは夜中までないわけだ。 この中から律花一人を探すことは至難の業である。だが、探さずに帰れはしない。なんとしても、嘘をついた理由を明確にせねば。 ――繁華街に到着してから、約一時間。 律花が見つかる気配は……予想していたとはいえ、皆無だった。途中、寄り道をしている清条の生徒に注意がてら聞いてみるが、誰も律花の姿を見ていない。今までに律花と寄ったことのある場所にも顔を出してみたが、彼女は見つからなかった。 「まずいな……」 時計を見ると、もうすぐ九時になる。携帯にもう一度かけてみるが、やはり留守番電話のままだった。律花は夜遊びするような奴ではない……はずなのだが。 何か事件にでも巻き込まれているのか? 事故にでもあって連絡が取れない状況なのか? 嫌な考えだけが頭をよぎる。 こんなことではいけない。もっと、現実を見なければ。 俺は一度見て回った場所をもう一回、見て回ることにした。それで見つからなければ……さて、どうしたものか。 少しばかりの不安を胸に残したまま俺は踵を返し、隣の大通りへ抜けることにした。 細い路地を入り、大きなアミューズメント施設のある通りへ出ようとした――その瞬間。 「え?」 張り詰める、気配。 冬の夜にも似た冷たい空気があたりに漂っていた。 体を通る神経一つ一つに痛みが走るような、そんな感覚が襲う。 「なんだ……」 そして、胸にわく不安感。それは、見つからぬ律花を探し続ける焦燥よりもはるかに大きく、本能から来る恐怖にも似ていた。 コノサキニ、イッテハイケナイ。 第六感。 普段何気なく感じているそれが、警告を発する。この先に行ってはいけないと。 何があるというのだ? あるのは、いつもの大通りのはずだ。人の多い通り。シネコン、ボーリング場、ショッピングモールを備えた大きなアミューズメント施設があるだけだ。 だのに――。 引き返せと、体の感覚が言う。 「……馬鹿な」 苦笑して、俺は前に一歩進んだ。こんな感覚は不安から来るものだ。さっさとこの路地を通り抜けて、律花を探そう。未知の感覚に竦む足を無理やりに動かし、俺は路地を駆けた。 そして。 俺は、夢を見た。 誰もいない空間。その闇に疾る一条の光。 それは空で弾けて、新たな孤を描く。一方でその光を弾いた人間は、反動でビルの側面に着地すると、再び宙を舞った。 ――まさか。 俺は目を疑った。 人間が、空を飛んでいる? それどころか、ビルの側面を地面のようにしている……など! 学生時代、理系の成績は悪かったがこの世界に重力というものがあることぐらい、俺にだって分かる。しかし今、目の前で見たものはそれを無視していた。 重力を無視し、駆け上がり、宙を舞う。 高々と。 対する光の筋もまた、空を飛ぶ相手を迎撃せんと飛び上がる。 再び交わる光。 がきんっと重い音がして、一つになったそれが再び別れた。 小さな足音を立てて、両者は地面に降り立った。 「あほらし。あんときに仕留めとったらよかったわ。うちも耄碌したもんや!」 刹那に響き渡る声。それは特徴的なイントネーション。 一度聞いたら忘れられない声が、響く。そして――。 「……私も、同じ気持ちよ」 聞きなれた声が、それに応えた。 「あっ……」 目に入ったものは真紅の糸。 細く細く、まるで血の筋のような赤い組紐がその白い手に巻きついている。 幾重にも、上から下から、右から左からぎちぎちと。 締め付ける音が聞こえてきそうなほどに、赤い組紐で戒められた右手。 その厳重さは、真白の手に握られた無骨な日本刀を、死しても離すまいと誓っているようにも見えた。 似合わない。あまりにも武器の似合わない白き少女の手。その手と日本刀が赤い組紐で繋がれている。 夜。暗いはずの街で、その赤はとても綺麗に見えた。 そして、闇夜に生々しく輝く日本刀。非日常を手にした少女の横顔。 その顔は、よく知った顔だった。 「律花!」 思わず、声をあげる。対面していた両者が同時に振り返った。 「……っ!」 律花の瞳が大きく見開く。驚きで。だが次の瞬間、俺を忌々しそうにぎゅっと睨みつけた。 ナンデソコニイルノ?と。 それは……今朝見た夢の、光景。そのままだった。 「あれ、朝の兄ちゃんやないか」 律花と対しているのは――なんと。朝、俺たちに道を聞いていたあの関西弁の少女だった。 「なんや、あんたら知り合いか」 少女は、とんとん、と爪先を地面で打った。少し話をしよう、とでも言いたげだ。顔に浮かんでいるのは人懐っこいあの笑顔。しかし、その笑顔に反して彼女は今――人間にあらざる行動をしていた。律花も。 なんだ。何が起こっているんだ? 状況を把握できずに動けないでいると、少女はくすくす笑い 「それとも、あれか。エンコー、とか」 「馬鹿なこといわないで!」 すかさず、律花が言い返す。彼女は手にした日本刀をゆっくり構えた。会話するつもりはない、と律花は示していた。その態度に、少女の顔からゆっくり笑みが消えていく。 「まあ、ええか。あんたらの関係なんぞ、うちは知ったこっちゃない。少し話したろって思たのに、えらくせっかちやなあ」 代わりに浮かぶのは 「そんなにはよ死にたいんか――」 獲物を狙う、肉食獣の表情。 「それとな、そこの兄ちゃん。朝はようもうちに嘘を教えよったな。二人揃って性悪や。極悪や。うち、嘘と卑怯はこの世でいっちゃん嫌いやねん」 とん、とん。 地面でつま先を叩く音がゆっくり響く。少女は―― 「だから、二人揃ってお仕置きしたるわ」 人にあらざる速さで、走り出した。 その速さはまるで弾丸。一直線に俺たちに向かってくる。だが、律花はそれを捉えていたらしい。少女が飛び出すと同時に、彼女も飛び出した。手にした日本刀を容赦なく、少女に向かって振り下ろす。 先ほど見た一条の光の正体は、この刃の軌跡だったのだ。 「律花ッ!」 思わず叫ぶ。だが、律花はためらいもしない。それは関西弁の少女も同じだった。打ち下ろされる刃を恐れもせず、手にした石の礫で刃を牽制する。律花の刃が、それを撃ち落とす。しかし、少女は止まらない。身ごとぶつかっていく。 「り、つか……危ない!」 少女の狙っているものが、武器ではなく律花の肉体自身であることに気づき、俺は飛び出した。 「はあっ?」 律 花に目をやりつつも、俺が飛び出してくることも見ていたらしい。ぎょっと目をむいて少女は体を捻ると 「近寄んな!」 回し蹴りを放つ。たかが女の子の攻撃、防げる――そう思ったのが間違いだった。 「ぐあっ!」 彼女のスニーカーに包まれた爪先は、鉛のような重さで、俺の体に突き刺さった。防御した腕ごと空腹の胃を、強く蹴飛ばされる。目の前がちかちかして、軽い吐き気が食道を走った。そして、みっともなく――吹き飛ばされる。 「シュウお兄ちゃん!」 聞こえる律花の声。背中を強かに打ったらしい。痛みでかすむ視界に、律花が走ってくるのが見えた。彼女は、関西弁の少女の動きにも劣らず、素早く俺の前に回りこむ。 まるで、俺を守るかのように。 「アホやなあ。何もでけへんくせに、女守ろうっちゅうんか。意気だけは認めたろ」 言って、少女は拳を自らの手のひらに打ちつけた。ぱしっと景気のいい音が響く。顔にはいまだ、肉食獣の笑み。凶悪な表情だ。 「……この人には手を出さないで」 律花の表情は見えない。華奢な背中だけが見える。 律花――お前は一体、何に巻き込まれているんだ? 「この人は、何も知らないの」 「ふうん」 少女の目が、俺を見る。侮蔑の表情。そんな目で見られることがとても情けなかったが、彼女の蹴りに俺は未だに動くことが出来なかった。 腕が、痺れている。足が震えていた。 「……そんなら、仕切り直ししよか」 しばらく沈黙していた少女はふう、と息をついて俺から視線を動かすと律花を見た。 「弱いもんいじめは、好かんのや」 そしてにっこり笑うと 「ええわ。今日会ったのは何かの縁やし――仕留めるのは次にしたろか。あんたのトツカに二度目はないで」 トツカ? 彼女は何を言っているのだろうか。 「ようわかっとるとは思うけど、うちは今日から邦凛学園に転校しとる巳王寺千晴っちゅうねん。なんかあったらいつでも殴りこんでこいや……相手したるからな」 言って、少女――巳王寺千晴はあっさり足を翻した。背を向けたまま手を振り、ほなさいならと歩いていく。無防備極まりない背中だが、それをみて律花もようやく剣を下ろした。そして振り向く。 「シュウお兄ちゃん!」 そう叫ぶ律花は……いつもの優しい律花だ。地面に膝をつくと俺の顔を覗き込む。大きな瞳が揺らいでいる。不安そうに俺を見据えていた。胸に手が触れる。その右手には、先程まで見ていた日本刀は無くなっていた。 「まだ……痛い?気持ち悪くない?」 小さな白い手が痛みを確かめるために俺の体を這う。その白い手を、俺は反射的に握った。 「シュウお兄ちゃん?」 冷えた手。今まできつく物を握っていた手なのか、指の肉がひどく堅かった。 「……どうして、俺に嘘をついた。あれは、どういうことだ」 体の痛みも、女の子に殴られた情けさも忘れ、俺はまず一番に聞きたかったことを口にした。律花の表情が戸惑いにゆれる。彼女は、うつむいた。さらりとした髪の毛が音を立てて落ちる。 「何がお前に……あったんだ」 言いかけて。 握っていた手を振りほどかれる。 「律花」 「……何が出来るの?」 顔を上げる律花。そこに浮かぶ表情は、冷たかった。巳王寺千晴に向けているのと同じ表情で、彼女は今、俺を見ていた。同じ声で、俺に問うていた。 何が出来るの?あんたに。 そう、冷たく問うていた。 「ご注文以上でよろしかったでしょうか?それでは、メニューをお下げします」 開かれたメニューをぱたりと閉じ、ウェイトレスは提携文を読み上げると一礼してキッチンへ戻っていった。 夜九時のファミレス。意外に人は多く、少し声を張らなければ互いの会話が聞こえないほどだ。 あの後。 何とか身を起こせるようになると、俺たちは遅い夕食をとるために近くのファミリーレストランへ入った。道中、律花は一言も話さず、冷たい顔のままであった。夕食をとりに行くことすら嫌そうで、「俺が腹減ったの」と子供みたいなことを言わなければ、きっと家へ真っ直ぐに帰っていただろう。だが律花もお腹はすいていたらしく、ハンバーグセットを頼んでいた。ちなみに俺も同じもの。殴られようとも腹はすくものらしい。腕もまだ痛いが、しばらくすれば治るだろう。 「それで、だ」 何がそれで、なのかと思いながらも俺はおしぼりの袋を破りつつ、口を開いた。 こうでもしないと、話がいつまで経っても始まらないだろう。 律花から口を開くつもりは……ないだろうから。 「どうして、俺に嘘をついた?」 もう一度、聞く。彼女を見据えて、直球で訊ねる。律花がおかしな事件に巻き込まれているのは明白であり、しかも、「人にあらざる人」を相手にしているのも明白だ。聞かずにはいられない。 俺は彼女から顔を動かさず、ちらりと律花の右手を見た。 その白い手には今、あの日本刀は握られていない。気づけば消えていた。あれだけの業物、直すには鞘がいるだろう。それすらも持たず日本刀を所持している律花も……もしかすれば、「人にあらざる人」、なのかもしれない。 答えないかもしれない。でも、聞かずにはいられない。 俺は律花が口を開くのをじっと待った。 「……嘘をついたのは」 少しして、律花はあっさりと口を開いた。だが視線は俺を見ず、磨かれたテーブルに注がれている。沈んだ律花の表情。あまり見たことのない顔だ。少しばかり、心苦しい。 「……今日は、一緒に帰りたくなかったから」 「お前が巻き込まれていることに、関係しているからか?」 こくり、と頷く。肯定だろう。頷く律花の目はどこか虚ろに見えた。 「お前が巻き込まれているアレは何だ? それに、あの日本刀は……」 「……言ったところで、何になるの?」 言葉を遮って、強い語気で律花は言った。表情は動かない。視線も動かない。 「……何も出来ないでしょ?」 「それは、確かに」 否定するつもりはない。あの巳王寺千晴とやらに一発蹴られただけで、戦闘不能。男の沽券に関わるような気がするが……あの蹴りは異常に重かった。サンドバックをそのままぶつけられたような衝撃にも似ていた。……それは言い訳になるかもしれないが。 「でも、俺は……お前が巻き込まれている事件について、知りたい」 何も出来ないかもしれない。でも、何かできることがあるかもしれない。 「かもしれない」 「せずにはいられない」 先程からこの二つばかりだ。後手に回っている。俺は心の中で小さく溜息をついた。 「……」 律花は隠すことなく、これみよがしな溜息をついた。きっと、律花が巻き込まれている領域は「志方周」に踏み込まれたくない世界なのだろう。だからこそ、俺にわざわざ嘘をついたのだろうし。もしかしたら、あのとき声をかけなければ、いつもの律花と一緒にいつものようにいられたかもしれない。だが、知ってしまった以上はもう見過ごせない。 それに。 家族が立たされている苦境を、放ってなどおけるものか。 ざわざわと周囲が騒がしい。俺たちの間に垂れ込める重い空気も知らず、楽しげにしている人々が、ほんの少しだけ苛立たしかった。 「……今から」 そして――ともすれば聞き逃してしまいそうな声で、律花は言った。 俯き気味だった顔を上げる。真っ直ぐの視線とぶつかった。 彼女が手にしていた日本刀のように強く、煌く瞳。 律花。 明るくて、でも少し間抜けで、優しい女の子だと思っていた。 でも今、目の前に座っているのは――俺の知らない少女だった。そう。ためらいなく嘘をついて見せる律花も、俺を突き放す律花も、俺の知らなかった律花の一面だった。 「今から私が話すのは……きっとシュウお兄ちゃんには信じられない話。でも、最後まで聞いて。巻き込まれた貴方にこのことを話すのは……きっと私の責任だから」 「……分かった」 律花の眼差しを受けて、俺は頷いた。手の中で転がしていたおしぼりを、破いた袋の上に置いた。しかし。 「……その昔。一つの力があった。その力は海を産み、大地を創り、混沌だった闇から世界を形作った」 「は?」 次の瞬間、律花の口から語られたのはあまりにも意外な言葉だった。 「何だ……? 創世神話か? 律花」 「人はその一つの力を神と呼んだ。神は、人間の世に秩序を与え、天から光をもたらした」 律花は答えない。自分の話を淡々と続ける。 「神は、自分の力を十の器に宿し、それぞれの器を己が分身の神々に譲渡した。神々はその器を使い、子供たちである人が成長するまで世界を見守り続けた」 創世神話……にしては、今まで聞いたことのない話だ。どこか別世界の話だろうか。それとも、律花の創作だろうか?だが。ファンタジーや想像にしては、律花の表情はひどく真剣だった。 「やがて人が成長を遂げたとき、神々は力を宿した器の写しを人の手に譲渡した。人々はそれらを神器と呼び、その力を使って、神が守護してくれた世界のように、安寧の世をこれからも作り上げようと誓っていた」 「誓っていた?」 やはり、答えない。律花は俺の問いに、唇を笑みの形に動かした。 「ねえ、シュウお兄ちゃん。神様の力が、人間に扱えると思う?」 唐突な質問だった。だが、その声音には自嘲じみた響きがこめられていた。その問いにイエスと答える人間を嘲笑うかのように。 「そりゃ、無理だろ。神なんて……いるかどうか知らないけどさ」 世界にはいくつも神話があるが、神と呼ばれる者の領域に踏み込んだ人間がどうなるか……その例はたくさん転がっている。 一番有名な例は、バベルの塔だろう。 自らの力に奢り高ぶった人間たちが天にまで届く高い高い塔を作ろうとした。 だが、神は人が自分たちの領域に手を出そうなど甘いと……一瞬にして塔を崩してしまった、という話だ。今、世界の人間の言葉がばらばらなのは、この傲慢への罰だという説もあるが……それはさておき。 禁忌と呼ばれるものに触れた人間が、まともな目にあうとは思えない。 「……人の手に譲渡された神の器は、最初は人を守護するために力を発揮し続けていた。けれど……いつからか、荒ぶる神の力は人の手に収まらなくなった。神の力は持ち主を争いに駆り立てた。溢れる力を、他を食らうことで治めよと」 律花はそっと、右手に触れた。白い手。肌に食い込む赤い紐が残像として映る。 「人々は十の神器を『十都の神宝』と呼び、崇めた。しかし、その影で――神器は持ち主を争いに駆り立て、全力を発揮できずに溜まり続ける『神の力』を晴らすための道具として選んだ」 律花の言葉に、俺は息を呑む。 「もしかして……さっきの、が?」 律花と巳王寺千晴。戦っていた二人。踏み込んだ瞬間、強烈な寒気が襲ってきたあの世界。確かに、「人」には生み出せない気配だった。気配というものは、人が感じる感覚ゆえにあるもの――ではあるが。 「千年以上。人に知られないところで、持ち主は争ってきた。神宝を所持するものたちは繰り返し、淘汰しあって。私が持っている十握剣は……私の曾お祖父ちゃんの代に勝ち取ったものらしいの」 「とつか……」 その単語に、先程巳王寺千晴が言っていた言葉を思い出す。 『ええわ。今日会ったのは何かの縁やし――仕留めるのは次にしたろか。あんたのトツカに二度目はないで』 とつか。不思議な響き。どこかで聞いたことのある名前だ。 「お前が持っていたあの刀か」 「……ん」 肯定する頷き。律花は目を少しだけ伏せた。 「神の果たされない力が溜まったそのときに、『十都の神宝』の持ち主たちの戦いが始まる。今の持ち主は……私。私が、戦うの」 「でも……その、律花。お前、どうしてそんなことを知ってるんだ? 大体、本気で信じているのか? そんな、ファンタジー……それにどうしてお前が戦うなんて。お前いくら剣道部だからってそんな馬鹿げたこと」 「馬鹿げたことじゃない!」 ぴしゃり、と。律花は言った。その言葉に、淀みはまるで無い。 正直。 俺は、律花の正気を疑ってしまった。 見たことも、聞いたことも無い「神の力」と「十都の神宝」の存在。だが、律花はさもそれが現実にあるかのように話している。淡々と。そして、その力を振るって戦うという。 確かに、彼女は戦っていた。おそらくは巳王寺千晴も「持ち主」なのだろう。 だが、どうしてそれをすぐに受け入れられようか。 しかし律花の目は――正気だ。それどころか、俺の気持ちを見抜いていたのだろう。 「信じられなくても、在るものは在るし、無いものも有るんだよ……」 言って、律花は俯いてしまった。触れてはいけない場所に触れてしまったのだろうか。俺はコップの水を飲む。冷たい。渇いて張り付いた喉を潤してくれる。 「悪い」 滑らかになった喉で謝っておく。律花はそっと顔を上げて、ううんと小さく呟いた。 「……十握剣が教えてくれたの。あの剣が私の手に馴染んだそのとき――全てを」 そう口にする律花の瞳に、一瞬、昏い影がよぎる。それは人が踏み込むことを許さない感情の発露。俺は彼女にも負の感情があったのかと――思わず息を呑んだ。 信じてはいない。そもそも、話の発端である神話じみた物語すら信じられない。 けれど――何よりも。 律花が事件に巻き込まれていること、重いものを抱えていること。それだけは真実だった。そしてその真実は、俺を拒絶したのだ。だからこそ、律花は嘘をついた。 彼女は俺にそれを理解させるため、このことを話したのだろう。 だが、話した上でもなお、俺が関わることを拒否しているのだ。 律花はそっと口を開く。 「降神夜……って言うんだって。この戦い。神宝が最後の一つになるまで、絶対に終わらないの」 「こう、じんや?」 初めて聞いた言葉だ。聞き返すと、律花の唇にまた笑みが浮かぶ。あの自虐的にも見える笑みが。 「神、降り来る夜。私たちは人形なの。神様の退屈を――紛らわせるための、ね」 それは、悲しい言葉だった。 わずかな沈黙。 それを縫うようにして、ウェイトレスの明るい声が聞こえた。 「ハンバーグセット二つ、お待たせいたしました!鉄板のほう熱くなっておりますのでお気をつけください」 鉄板がじゅうと焼ける音、香ばしい匂いがする。急激に日常生活に引き戻されたような、拍子抜けする感覚。何も見ず、何も無かったかのようにして、この場にいられれば。 俺はそう思った。 「旨そうだな」 沈黙をごまかすために呟く。 「……うん」 律花も頷いた。表情は暗いままで。 「じゃあ、いただきます」 「いただきます」 手を合わせ、遅い夕食を始める。再び、沈黙が降りた。もそもそとハンバーグを口に運ぶ。いつもは美味しいと感じられるものが、今日はただ、味気なかった。 黙ったままで夕食が終わり、俺たちはどちらからともなく、ファミレスを出た。夜の街を二人で、マンションに向かって歩く。黙々と。時々律花を見ると、彼女はずっと思いつめた顔をしていた。 俺に話したことを後悔しているのか。それとも私的領域に入り込んできた俺を厭うているのか。……両方か。 いつもは明るい表情を浮かべている律花の横顔は――結局、マンションにたどり着いても重いままだった。 エレベーターに乗り、お互いの家の前にまで来る。律花は鍵を手にしたまま立ち尽くし、家に入ろうとしない。 「律……」 「シュウお兄ちゃん」 言って、律花は顔を上げた。そこにあるのは、冷たいままの顔。巳王寺千晴との戦いの中で見せた、厳しい顔だった。 「しばらく、私に近づかないで」 そして。律花が言った言葉は俺の予想の範疇を超えていた。 ここまで……直球に拒絶されるとは。 「さっき話したこと、信じられないでしょ?それでいいんだよ。だからね、信じられないことにわざわざ近づこうとしないで。私、それを全部説明できないから。私にはやらなくちゃいけないことがあるの。だから、シュウお兄ちゃんのフォローまで出来ないもの」 律花はぎゅっと己の右手を握り締めた。 「これからもっともっと、今日みたいなことが多くなると思う。朝も早くなるし、夜も遅くなるし……しばらく、お兄ちゃんの傍に……いられないよ」 困ったように目を伏せる律花。それは、本心だろうか。俺に気を使っているのではないだろうか。 「でも、律花」 「……私を助けようだなんて、思わないで」 ぴしゃりと鞭のような言葉。表情が一瞬にして尖る。律花が、こんな表情を持っているとは思いもしなかった。律花に嘘をつかれたこと、睨まれたこと、拒絶されたこと。全てが初めてで――処理できない。反論も有るのに、言葉にならなった。 「シュウお兄ちゃんは、何も出来ないんだから」 「律花!」 「でも……もしも、ね」 律花は、扉に鍵を差し込む。がちゃりっと、無機質な音が夜に響いた。 「黙って帰ってきたときは、何も言わずに受け入れて。……わがままなお願いだけど、それだけが、私の願いなの」 扉が開く。夜の闇の色をした部屋に、律花は足を踏み入れる。 「……おやすみ」 呟いて、律花は家に入ってしまった。俺はとめることもできず、呆然と律花の消えた部屋を見る。しばらくして明かりがついた。それを確認して、俺もふらふらと家に入る。帰ると、キッチンでお茶を飲んでいた母親の小言が飛んできたが、俺は聞く気にもならず、そのまま自室に戻った。ベッドに腰掛ける。 今日の朝。ここを出て行ったときは――何も無かったのに。 どうして。どうしてこんなことになったんだ? 俺はぼんやりと律花に言われた言葉を反芻していた。 『何も出来ないくせに』 そうだ。何も出来ない。蹴られただけで戦闘不能。どれだけ気持ちが先行しても、肉体がついていかなければ律花のお荷物になることは見えている。俺には武器が何も無い。 『信じられないんでしょ』 そうだ、信じられない。律花の言っていることが全て。 十都の神宝、降神夜、十握剣……信じろというのが無理だ。こんなファンタジー。どこの世界にそれをすぐに信じられる人間がいる。 『近づかないで』 そうだ。近づかなければ終わるんだ。律花が戦いを終えて帰ってくれば、迎えてやればいい。それが彼女の望み。俺の平穏。言われるままに、していればいい。 ……本当に? 「いいや……」 自問に、答える。声にして。 「そんなわけが……あるか!」 怒りをもって、俺はシーツを叩いた。こぶしを握る。 知っているのに逃げるのは、卑怯。 何も出来ないからと逃げるのは、臆病。 そして、大切な家族が困っているのに逃げるのは――罪だ。 律花の言葉全てを今は信じられない。だが、律花が困っているということ、それだけを信じていればいい。甘い覚悟で近づけば、今日のように拒絶されるだけだ。 だから。 「……」 覚悟をして、彼女を――助ける。それだけだ。彼女の巻き込まれている事件をよく理解して。今日のように荷物にならぬよう、全力を尽くして。 ……いい迷惑だろうな、と俺は笑った。 ますます律花には避けられるだろうが、それでも俺はついていこうと思う。 困ってる家族が拒否したからといってその状況を見過ごせるほど、俺は能天気でも甘ったれでもないのだ。 「そういえば……」 また、律花の言葉を思い出す。 とつか。とつかのつるぎ。 この単語。彼女のファンタジー……ではなくて、どこが聞いたことがある。 あれは確か……。 俺はベッドから立ち上がると、棚の肥やしになっている本に手を伸ばした。 『日本神話について 世界の物語 その1』 子供の頃は絵本の虫で、世界の神話や七不思議に興味を持っていたものだ。俺が今取り出したのは、中学生向けの日本神話。ページを開くと大きめの文字と感じへのルビ振りが少し、微笑ましい。薄い本をぺらぺらとめくり、目的のページを探り当てる。 「……あった」 それは、八岐大蛇伝説――のページだった。 ヤマタノオロチ伝説。 一言で言えば天照大神の弟である、スサノオが頭と尾が八つに分かれた巨大な化け物蛇を退治する、という話だ。彼が退治に使った剣が……十握剣だと書かれている。 『一握は四本の指の長さであり、十握剣とは柄だけで十握もある長い刀と言う意味だ』との注釈がついていた。それ以外には何も書いていない。 だが、律花の剣は十握もあるようにも思えない。 むしろ、赤い紐が巻き付いている以外は日本刀そのものだった。 「どういうことだ……?」 律花の言う「十都の神宝」は、日本神話やこの「十握剣」に関係があるのか? だが、これ以上の情報を調べる手立てが今は無い。 俺の部屋にある神話の本など、この世界の物語シリーズだけだ。 ……そうだ。 俺はふと思い当たった。 明日は授業も半日だ。どうせなら、久しぶりにかつての学び舎にまで足を運んでみるか。ゼミの研究室に行けば資料が揃っていたはずだ。教授の趣味が高じて集められたものだが、正史のみならず、世界のありとあらゆる神話の本も収められていた記憶がある。 「右近教授、元気かな」 変人過ぎるほどの変人だが、知識だけは確かだ。明日は好物の甘いものでも差し入れるとしようか。そう考えると、沈んでいた気持ちがわずかばかり元気になる。 『何も出来ないでしょ?』 脳裏に響く律花の冷たい声。 そうだ。俺には何も出来ない。だからこそ、一からスタートできるんだ。 俺は立ち上がり、部屋から見える夜の街に目をやった。律花もまた、同じ夜を見ているのだろう。彼女は、その身のうちに何を抱えているのだろうか。 律花。 お前を一人のままで、戦わせたりはしない。 俺は一人、心の中で――そう誓った。