//////////////////////////// *現代/ファンタジー *魔術もの *女主人公視点 /////////////////////////// 「瞳子」 「おいで。瞳子」 優しい呼び声が聞こえる。 振り向けば、光溢れる庭。 そこに声の主が立っている。 柔らかな微笑み。 穏やかな声。 温みを持った白い手。 差し伸べられたそれを私は握った。 父とも母とも違う優しい温度に甘えれば、 「瞳子」 また名前を呼ばれて、私は温かなもので胸がいっぱいになる。 大好き。 大好きよ。 「お祖母ちゃま」 零れる想いを言葉にすれば、祖母は優しく笑って 「わたくしも、瞳子が大好きですよ」 私をぎゅっと抱いてくれた。 そして、その白い手で頭を撫でてくれる。 何度も、何度も。 祖母の手は、魔法の手だった。 どんな苦しみも、悲しみも、取り去ってくれる魔法の手。 「瞳子」 優しい魔法を何度も何度もかけながら、祖母は歌う。 「貴女の行く手には、きっと多くの苦難が待ち受けるでしょう」 歌いながら、祖母は懐から小さな袋を取り出した。 紫のベロアの、可愛らしい巾着。 紐をほどくと、細い金の鎖の首飾りを取り出して、私の首にかけてくれた。 少しだけ長め。 でもそんな些末なことを忘れるほど、鎖の先についた澄んだ宝石は私の心を捕えて離さなかった。 きれい。 なんて、きれいな。 「世界に負けない心を持ちなさい。その心の輝きこそが、どんな魔術をも超える貴女の力になる」 「はい。お祖母ちゃま」 「いい子ね、瞳子」 言って、また祖母は魔法をかける。 いい子、いい子と。 そして手を離すと、祖母は私の肩を抱き、強い声音で言った。 「よく覚えておきなさい、瞳子。この宝石は貴女の心の輝き。貴女の魂そのものなのですよ」 「たましい……?」 「大きくなったら、きっと分かります」 「分からなかったら、教えてくれる?」 「ええ。もちろんですよ。瞳子。わたくしは、貴女の力になってあげたい」 「本当?きっと、きっとよ、お祖母ちゃま」 きれい。きれいな宝石。 こんな宝石みたいな心を私が持っているなんて。 うれしい。 うれしいと、祖母を見上げれば 「だから瞳子。貴女は」 祖母は優しく微笑んで。 「……お祖母ちゃま?」 笑みを凍らせて。 赤い雫を、滴らせて。 「お祖母ちゃま」 私を抱くようにして倒れこんだ。 染める赤。染まる白。 光溢れる庭は一瞬にして赤くなり―― 「いやあああああああああああああああああああああああああっ!」 「瞳子、瞳子」 ゆさゆさ。 揺れる体と、呼び声と。 目を開ければ、級友の顔があった。 「ん」 「めっちゃ寝てたね。さっき、先生の顔すごかったよ」 「あ……そ。なんか昨日寝れなくて」 「もう大丈夫?次、移動教室だよ。先に行ってるね」 「ありがと。すぐ行く」 えへへ、と明るい笑みをこぼして教室を出ていく友人に、私も手を振って。 姿が消えると同時に、息を吐いた。 寝つきは、やっぱり悪い。 傾いた眼鏡をかけなおし、机の中から教科書を取り出しながら、私は二度目の溜息を零した。 「もうすぐ、十年、か」 十年。言葉にすれば簡単だけれど、歩んできた時間はとても長い気がする。 あの日から。 敬愛していた祖母が目の前で亡くなってから、十年が経った。 命日が近いからか、この頃は繰り返し、その夢を見る。 この十年、一度たりとも忘れたことはない。 教科書をまとめて、席を立つ。 のろのろ移動しながら、三度目の溜息。 ……祖母は、魔術師だった。 苦しみや悲しみを取り除く手を持つ人――と言う比喩的意味でなく。 祖母は、魔術師だった。 科学と魔術の両立するこの現代。 魔術師は決して珍しい存在ではない。 警察に行けば、魔術を行使された犯罪を取り締まるための魔術犯罪課があるし、 古くからの魔術書や魔術を行使するための術式を管理する魔術監督局なんてお役所もある。 街中には魔力の籠ったアクセサリーや書籍を扱う魔術師の工房もあるし、 そもそも、電力と同じようにして魔力が生活インフラの一部として使われている。 ただ。 世界の根源たる力――魔源を取り込んで使用する魔力は、機械的な電力と違って決して安定はしない。 気候が変動するように日々、世界の「機嫌」で変化する魔力は、資格や免許を得て初めて使用出来るものだ。 だから。 気軽に使うわけではないが、私たちに馴染のあるもの。 それが魔術。魔術師たち。 こと私の通う塔央学院があるこの塔央市は魔術世界における『東の門』――日本における魔源の根源地であり、魔源奔る魔脈が連なる土地でもある。 土地柄ゆえか、魔術師は多い。 塔央学院にも魔術師になるための学科――魔術科がある。 ここに在籍する者は皆、何らかの意味で「魔術師」を目指す者たちばかりだ。 けれど、本当の意味での魔術師は少ない。 本物の魔術師。 それは、古代から連綿と「魔術の道だけ」に生きてきた一族を差して言う。 国もまた、その者たちだけを真なる魔術師と認めていた。 例えば遺産を。 例えば血筋を。 例えば、命を。 魔術を継承することだけに全てを注ぐ者達。 現代にも生きる魔術師は、その意味ではほんの一握りの者だけだった。 ――祖母は間違いなく、そんな「魔術師」の一人だった。 魔脈を束ねる一族の門番を務めていた。 子供ながらにそんな祖母を誇らしく思い、愛しく思っていたけれど――祖母が死んだ日に、そんな気持ちは霧散した。 祖母から流れた温かな真紅の血を浴びて。 『祖母は、魔術師だから死んだのだ』と告げられて。 私は思った。 お祖母ちゃまは魔術師じゃなかったら、死ななかった? ……それからずっと。 私は魔術師であることの有り様に疑問を持ち、魔術に対して不快感を抱いている。 生粋の『魔術師』は嫌いだと。 それでも。 「おお、壱儀」 呼び止められて、振り返る。 「はい。あ、先生」 「すまないが、この間の初級術式レポート、あとでまとめて職員室まで頼む」 「……分かりました」 頷いて、また移動先の教室に向かう。 ……それでも私は、魔術の道の上にあることを止められない。 塔央学院魔術科、二年生。 壱儀瞳子。 それが私の名前で、私の今の居場所だ。 逃れればいいとは思う。いや、逃げたい。 が、現実はそううまくいかない。現実はとてつもなく非情である。 一介の女子高生に何が出来るかと考えると、世界(にちじょう)の変革なんて夢のまた夢だ。 いつか絶対に家を出て行ってやると決意はあるものの、実践は伴わず。 頭でっかちで行動が伴わないのが私の悪癖。 自覚はあるけれど完治せず。 どうしようもない。 そんなわけで、地道にバイトしながらお金を貯めているのが私の現状なのだが。 そのバイトすらも、魔術師に関わっているというのがどうにもこうにも。 (……はあ) 幸せの逃げる溜息。 学校が終われば、基本的に自由時間。 塔央学院の魔術科は全寮制で(資格を持たない一般人から術式を秘匿するためとか何とか)私も寮住まいなのだが……バイト先は街中にある。 着替えるのも面倒だから、制服のままバスへ。 山の上にある塔央学院から下ること十分強。 駅のロータリーを下りて、そこからさらに徒歩で十分強と言ったところか。 街の中心にそこはある。 人呼んで「工房街」 魔術取扱い資格を持つ魔術師たちが、それぞれの工房――店を構えている一帯だ。 魔力のこもったアミュレットを販売するアクセサリ店。 人間の血に魔源の通りをよくする専門服、礼装を扱う店。 魔術を使う占い屋。 ここらへんは一般市民にもなじみ深い――と言うか、放課後は女の子たちがきゃっきゃと群れている。 アクセサリーにはそこそこ力があるし(恋のお守りなんかは人気らしいが、結果は自分次第と言うのが魔術ならではの) 服に至っては変わったデザインのものが多いから少し濃い御嬢さん方がやってくる。 魔源入りアイスクリーム☆なんて意味不明なアイスを売るスイーツワゴンなんかもあって (実際、人間の肉体にも魔源は含まれているけど、アイスの味が変わるかどうかは私も知らない) 今日もまた工房街の入り口周辺は賑わっていた。 一歩奥へ入れば――店のラインナップは出自不明の魔雑貨を売っている店から黒魔術専門店といかがわしさが増す。 空気も変な香の匂いが漂って、怪しさ大爆発だ。 秘匿されうるもの。 されど皆が知っているもの。 矛盾しているようで矛盾していないのがこの世界の魔術。 皆、興味はあるが深くまで踏み込まない、というのが正解かもしれない。 深く踏み込む人間が、魔術師になるのだろうけれど。 ともあれ。往々にして、倦厭されてはいない、はず。 そんな工房街の中心へ私は向かう。 工房街の中心にそびえたつおんぼろビル――『壱儀ビルヂング』 そこが、私のバイト先だった。 と言っても、ウェイトレスしたり魔術科の技術を生かして何かを作ると言う訳でなく。 このビルの雇われ管理人が、私のバイトだった。 大正時代に作られたといっても疑問を抱く余地のない、古い、古いビル。 一階から五階までのそこにはいくつかのテナントがあって、その全てが魔術関連の――いや、一部拒絶したい族がいるけれど――テナントだ。 私の仕事は管理人室に座って、何かあれば応対するだけ。 基本的に大きな仕事はない。 基本的には。 大抵はあったかいお茶を飲みながら、ぼーっとするのが常なんだけれど。 「……今日は、そうもいかないか」 仕事場、管理人室に入り、私はやっぱり幸せの逃げる溜息をついた。 出入り口を見るための小窓の付いた、机と椅子。 その上には白い紙が置いてあった。 雇い主からの連絡だ。 『チャオ!愛しのまいぷりてぃ瞳子!(なうなやんぐの挨拶を真似してみたがどうかの?) 今月も三階の莢神から家賃が振り込まれておらん。 早急に取り立ててくるように。取り立ててくるように!(大事なことなので弐度言いましたよ儂) なお、この手紙は三秒後に爆発する 壱儀壱刀』 「っ!」 差出人に目を通した瞬間、手の中のメモはぽむん、と形容できるような可愛らしい音を立てて「爆発」した。 私が手に取ればそうなるように術式が組まれていたのだろう。 クラッカーの中身のような、紙切れやら何やらがひらひらと床に舞う。 これ誰が掃除すると思ってんだあのじじい。 「莢神、ね」 肩を落とし、私は帳簿を手に取った。 この壱儀ビルジングは、見かけもレトロならば家賃の支払い方法もレトロ。 銀行振込なんぞなく、基本的には手渡しなのだ。 魔術師は時代と共に生きる者だが、時代に使われてはならぬ。 それが雇い主……こと、じじい……こと、壱儀壱刀、私の祖父の言葉。 だから、銀行振り込みじゃなくて昔ながらの手渡しで家賃は集められる。 家賃徴収は私の仕事でもあるのだけれど。 このビルは壱儀の持ち物。 親族コネ雇用の雇われ人はなかなかに辛い。 「相手が相手じゃ、気も重い、か」 唯一帳簿に丸の付いていない相手――『三階、莢神探偵事務所』の文字を睨む。 こいつに関わるとロクなことにならないが、祖父に逆らっても面倒なことになる。 生粋の魔術師一族にとっては、血筋と序列と伝統は絶対的ルールだ。 現実の問題はさておき、何だかんだ言っても魔術の道から外れられないのもそういうこと。 祖父の壱刀の目がある限りは、何事もままならない。 ふざけた文面を書く御仁だが。 顔を思い出すだけで色々しょっぱい気持ちになってしまう。 「……しょうがないか」 呟いて帳簿を閉じると、私は管理人室を出た。 もちろん建物にエレベーターなどと言う文明の利器はなく、階段で三階に向かう。 ボロビルの割にはただいま満室中の壱儀ビルジング。 三階は、フロア丸ごとが貸しきりだ。 『莢神探偵事務所』 ――と、達筆な表札が掲げられたここが伏魔殿。 今日の悩みの種が棲む場所だった。 インターフォンは勿論設置されているが、こんなもので出てくるならば苦労はしない。 ドンドンドン 「莢神さーん」 ダイレクトアタック。 扉を叩いて呼びかける。 返事はない。どうやらただの居留守のようだ。 「莢神、さーん」 ドンドンドンドンドンドン 「さ、や、が、み、さぁ―ん!」 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン ……返事はない。 ここで扉が開けば良いのに、といつもいつでも思うが、一度たりとも思い通りになったことはなく。 私はポケットから最終兵器、マスターキーを取り出した。 ……その前に。 不法侵入でないことだけは言っておく。 これはもう、毎度毎回毎月のことなのだから。 大体、ここの住人とは顔見知り程度の付き合いではない。 もう十年以上の付き合い。 腐れ縁。ずるっずるの腐れ縁だ。 「今月の家賃、まだなんですけどー?莢神ヤトさーん」 家賃。家を借りるなら必ず払うべきもの。住人の義務。家賃。 この伏魔殿の住人は、なかなか家賃を払おうとしない。 こうしてせっついてなお、強情に無視を決め込む。 それを取り立てろと言うのが雇い主から与えられた今日の任務だ。 気が重い。面倒くさいし、関わりたくない。 だって。 この向こうにいるのは――「魔術師」だ。 「入るわよ。聞こえてるんでしょ、ヤト」 よそ行きの口調をやめて、鍵を開けて扉も開ける。 しんとした室内。ここはいつでも静かで、涼やかだ。 その静けさは満ち溢れる魔源の生み出すもの。 この向こうの住人が世界から汲み上げる、膨大な魔源の木漏れ日。 置かれた調度品が、ちらちら入り込む陽の光で輝いている。 それらは、私に馴染みのない豪華なもの。 こんなものが置けるくせに家賃を払わない。 私も大概、真面目な人間ではないけれど――その神経がどうにも理解が出来ない。 というよりしたくもない。 改造されたフロアは洋風になっており、靴を脱ぐ必要もなく。 私はずかずか上がりこむと、玄関と奥を隔てる扉を開けた。 「家賃払いなさいよ、さっさと!」 と、要求を口にしながら。 誤解しないでもらいたい。私はいたって小市民。 多分、列に割り込まれても文句言えずに心の中で舌打ちする程度。 こんな風に恫喝紛いのことをするのだって本当は気が進まない。 だが、これぐらいしないと、この家主と相対するにはやってられないのだ。 下手に出たら、負ける。いや負けるどころではない。揉みくちゃにされて詰られて踏み躙られてえらいことになる。 だからこれは、経験論。 「…………毎回、面白みのないことだ」 ほら。 全く効いちゃいない。 家賃!の絶叫に返ってきたのは、あくまで静かで穏やかな声だった。 家主は、部屋の奥――扉真正面の執務机にいた。 両脇には重苦しい革表紙の本が山積みになっている。 その本の山の中に、家主の莢神ヤトはいた。 瀟洒な椅子に姿勢悪く腰掛けて、分厚い本を読んでいる。 私が部屋に入っても、視線は今もなお本に貼り付けられたままだった。 「その面白みのないことを毎回言わせるのは誰よ」 「はて。誰だろう」 1ページ。ページが捲られる。会話をしながらも本を止める気はないらしい。 今日もまた長丁場になりそうだ。 「あんたでしょ」 「うん」 「手渡しが面倒なのは分かる。でもね、するべきことはしなさいって」 「うん」 「それが住人の義務でしょ。何度いわせりゃ分かる」 「うん」 「……人の話聞いてないだろばかもん」 「うん」 「……あのね」 「大体」 ぱたん、と。本を閉じて、莢神ヤトはこちらを向いた。 綺麗な造りの双眸が私を睨む。 道行く女性ならほぼ99%振り返る、美貌。 俳優かモデル。何でもいい。贔屓目に見て、この男より整った顔をした男を私は知らない。 それぐらいにこいつは男前なのだが。 「壱儀の爺は腐るほど金を持ってるじゃないか!僕一人ぐらい払わなくったって、飯が食えなくなるわけじゃないだろ!」 実は、とんでもない性格破綻者、だ。 「あの爺さんがどうしようもなくなって、米の一粒も食べられなくなったら、払ってやる」 「おいおい」 「富める者は分け与えよ。持っていたら、持っていない人に渡しなさい」 「それ、そういう意味じゃないわよ」 「違うのか?」 「たぶん違う」 「なんだ、面白くない。なら、これは君にやる」 言って、読んでいた本が放り投げられる。 反射的に受け取ったそれには『大富豪刑事プラス』と書かれていた。 ……これは、そう言った観念論の話ではないような気がする。 「私もね、暇じゃないの。ヤト。だからさっさと仕事終わらせたいんだけど」 「暇じゃない。へえ。管理人室で日がな一日老婆の如き厭世顔で昆布茶をすするのが君の仕事か。瞳子」 「誰が老婆よ」 「仙人でもいい」 「霞なんぞで生きられるか!」 「瞳子は肉食だものなァ」 によによ。 いやらしい笑みで、ヤトは笑う。 馬鹿にしやがって。こいつめ。 だが、その身から溢れる魔源は、私のそれより圧倒的で。 術をかじった者ならば誰もを畏怖させるような威圧感を持っていた。 改めて言う。 莢神ヤトは魔術師である。 大好きだったお祖母ちゃま――本当は血の繋がった祖母ではない――敬愛していた大魔術師・莢神エリスの血を継ぐ男だ。 この塔央市における魔脈を管理する『莢神』一族の本家筋であり、将来はその名を継ぐ者。 私の壱儀家は、この男の分家筋にあたる。 本家、分家と一概に言っても、通常の概念はそこにない。 私たちは莢神の剣であり、盾であり、友であり、敵である。 さらには、優秀な魔力を持つ者ならば莢神家と婚姻を結び、莢神一族を繁栄させる運命にある。 『莢神の七支剣』なんて大仰な名前がつけられているが――まあ、その七支に別れた一本が私たち、壱儀であって。 (他にも六家、顔見知りがいるがそれはおいおいに) おかげで、こいつとはもう何年もの付き合いだ。付き合いだが、未だに信じられない。 こいつが、あのお祖母ちゃまの直系の孫だと!想い出ブレイカーも甚だしい! 性格は破綻、言動も破綻。破綻してないのは見かけと魔力だけ。 そんな奴とこうして話すのは――もう正直、しんどい。 しんどいが、まあ、腐った縁はずるずると続いているのであって。 終わりは見えない。 「肉食って……あのねえ」 「まさにケダモノ」 「誰がケダモノだ!」 綺麗な顔を殴ってやろうと一歩踏み出す。が、殴る前に 「お、エリス。用意できたか」 「わ!」 ヤトの言葉に、はっと振り返った。 いつの間にやってきたのか。 後ろには一人の少女が立っていた。 時代がかった衣装が映える、ヤトと並べばさぞ似合いのカップルになりそうな美少女。 腰まで伸びたさらさらの髪の毛。大きな瞳が私を見る。 だがその色は、銀と深い紫の瞳。明らかなる人外の色。 ――彼女は人間ではない。 いわゆる魔道人形。 無機物に魔源を注入、固定する術式を施すことで仮初の命を与えられた、魔術で生まれた人型だ。 その肌も髪も、術式で錬成された特別な素材で出来ている。 成功すれば人間もかくやの動きをするが……これは一般的に知られた魔術式ではない。 『莢神の秘術式』 連綿と続く莢神家だけに伝わる魔術の一つだ。 一歩間違えば、世界の――神の所業に近づいてしまう魔術。 命を創るなど人間ごときが許されるわけがないというのが、世界の機嫌と共に生きる魔術師の見解ではあるのだが。 この男はその成果をこうして、小間使いのようにして使っている。 しかも、お祖母ちゃまの名前まで付けて。(本人は偶然だとのたまうが) 「こんにちわ、エリス」 「……(こく)」 お邪魔してますと挨拶すればと、エリスも頭を下げた。 喋れないことは、ない。が、魔道人形のそれは人間のものとは比べ物にならず。 命は命といえど、あくまで仮初。人間らしい感情の発露は小さい。 見て取ることは出来るけれど。 エリスの手には、紅茶のセットを乗せたトレーがあった。 大きなポット。その横にティーカップが二つ。並べられたケーキは一つ。 「一応客人ならば、お茶ぐらいは出してあげよう」 「……(こくこく)」 ヤトに同調するように頷くエリス。 そして執務机にトレーを置くと、部屋の端からパイプ椅子を持ってきて、その前においた。 「……どうぞ」 座れ、と言うことだろう。 私は思わずヤトを睨みつけた。 だがヤトは気にするそぶりもなく、整った顔でまたによによ笑うと 「そのケーキは僕のだからな」 あまりにも脱力したくなる言葉を告げた。 こいつを何とかしてくれ。 ……。 結局は私は家賃を取り立てに来たはずなのに、今日もまた紅茶をご馳走になる羽目になった。 毎回毎度毎月こうだ。 エリスの好意なのか、一応お茶請けとして海苔煎餅が出される。 ばりばりとかじりながら紅茶を飲み、家賃を払うように説得するがナシの礫だ。 優雅なしぐさでケーキを口に運び、紅茶を口にする莢神は全く持って変な方向に話を投げ返してくる。 受け取るたびにデッドボール。 精神はみるみるうちに磨耗していくが……気にするだけ無駄かもしれない。 魔術師とはかかわりたくないのに。 私はどうしてこんなところにいるんだろう。 ああそうか。 家賃の取り立てに来たんだ。やーちーんー。 「ところであんた、こんな時間から家にいて仕事はどうしたの。仕事は」 「……仕事。うん。君は、僕の仕事を知ってるかい」 「知るか」 「物覚えが悪いね。相も変わらず。君は表札の文字が読めないのか」 「読めるわよ。さやがみたんていじむしょ、でしょ」 「なら、それが僕の仕事だ」 「探偵ねぇ……その探偵がこんなところにいていいわけ?」 「では聞くが、探偵の仕事とは何だと思う」 「……依頼人から依頼を受けて調査」 「その依頼人は?」 「……分かった。あんた、仕事がないぶッ」 後半。喋ろうとした口にケーキが押し込まれた。 ちくしょう。メロンのショートケーキとか美味いもの食いやがって。 「……君は今、かなりの数の人間を敵に回したぞ」 ケーキをぐいぐいと押し込みながら、ヤトは言った。 「仕事がなくて何が悪い。と言うよりも僕に相応しい仕事がない。ただ、それだけのことだ」 押し込まれるケーキを何とか飲み込む。 とっても美味しいが、こうやって無理やり食べさせられる趣味は私には無い。 私はため息をついて思いついたことを口にした。 「それって、世間で言うニー……」 「……(くいくい)」 袖を引っ張られる。見れば 「……(ふるふる)」 エリスが首を横に振っていた。 それ以上言うな、と言うことだろう。 ああ、なんて可愛いご主人様想いのエリス。 その憐れんだ紫は宝石もかくやだ。 「いい子ね。エリス」 よしよしと頭を撫でれば、エリスは小さくはにかむ。 まったく。ヤトにもこの素直さを見習ってほしい。 「そう言うわけだ。家賃なぞ、払う必要性を感じない」 「何がそういうわけ、よ。幼女に気ぃ遣わせるんじゃないわよ。ばかもん」 ていうか、そんなぷー太郎がメロンのショートケーキやらフロア貸切やら何考えているんだろう。 じじいも、こんな奴強制退去にすれば良いのに。 ……とは思いつつ。 莢神は本家。主人。 壱儀は分家。従者。 あーもう、理由は明白すよねー? と思うのだけれど、どうもそれ以外に、うちのじじいとヤトは馬が合うらしい。 やとっちといっちゃん。 と呼び合う仲だとか何とかいい加減に爆発しろ。 ヤト曰く『うちのアレと交換してくれ』という仲らしいが、魔術師の根源、東の門の管理人なんて化け物は私もご遠慮願いたい。 あだ名で呼び合うほどに仲良しなのに、私に家賃を徴収するように言うこの理不尽さ。 雇われは辛すぎる。 紅茶をすすりながらまた溜息。 ……あまりここに長いしたくない理由は三つある。 一つは、ヤトが魔術師だということ。 一つは、ヤトのジャイアントスイングな性格。 もう一つは――。 そのときだった。 「エリス」 ヤトが呟いた。 ――嫌な予感。 ヤトの言葉にエリスが動く。 彼女のしなやかな手が扉を開けたと同時にインターフォンが鳴った。 「お客様、だ」 これ、だ。 何故か。何故か私がいるときに限って、依頼人――客が来るのだ。 そしてそのまま、助手のような真似事をさせられる。 今まで何度ヤトに振り回されてきたことか。 「じゃ、帰るわね」 今日こそは逃げてやる。 探偵の真似事なんかもうたくさん。魔術師になんて関わりたくない。 パイプ椅子から立ち上がり、玄関に向かう。 だが。 「玄関は一つだぞ」 自信満々なヤトの声が背中にぶつけられた。 「……」 「……」 視線を感じてそちらを向くと、エリスが俺を見ている。 たぶん。 ヤトの号令一つで、パイプ椅子に逆戻りさせられる。 手動で。(魔道人形というだけあって、力は確実に私よりも強い) 「どうする?」 「……」 「……」 私は。 ゆっくりパイプ椅子に座りなおした。 「よし、いいぞ。エリス」 「……(こく)」 頷き、優雅な身のこなしで玄関に向かうエリス。 ぼんやりと。 今日もまた災難に巻き込まれたと思いながら背中を見送っていると 「存分に働けよ。頑張れば、君のご希望の家賃が入ってくるからな」 綺麗な顔して割と銭ゲバなことを言う莢神の声がした。 「私の希望じゃなくて、それは世間一般の常識ですー」 だがツッコミは無視される。 やがて、足音が二人分帰ってきた。 「ヤト、いるか――っと。瞳子、もいたのか」 そうして聞こえてきたのは、これまた顔見知りのもの。 以前は知らない黒魔術師の使い魔であるペットのヤモリとコウモリと猫を探せというご依頼だったのだが。 今日は違うらしい。 「どーも、ゴリちゃん」 「ゴリっていうな!」 エリスを伴って現れた顔見知りに、私は軽く手を振った。 切り揃った前髪と、フレームが太めの眼鏡が特徴的。 すらりとした立ち姿と少し時代がかったスーツが似合うその人は、五領確。 『莢神の七支剣』――五領家の次男坊。 現、塔央警察魔術犯罪課に勤める公務員。生粋の魔術師で―― 「何の用だ。ゴリ」 「だから、ゴリと呼ぶな」 ヤトの幼馴染に当たる。 ご愁傷様。 こんな変人と幼馴染だなんて。 残念すぎる腐れ縁だ。 「お前もだろ。瞳子」 「人の頭の中を勝手に読まないでよ」 瞳を神経質そうにきゅっと細めると、確は部屋の中に踏み込んできた。 とてとてとエリスがパイプ椅子を持ってくる。 この部屋には幾つパイプ椅子があるのか、果たして疑問である。 体育館か、ここは。 思わずツッコみたくなるが、ちゃんとした客人を迎えるときは応接セットが出てくるので――まあ、ヤトも気を抜いているんだろう。 きしきしと泣く古めのそれに座ると 「仕事だ。手伝え」 と確は持っていた書類を、ヤトの机に放り投げた。 「乱暴だなァ。人に頼みごとをするときはもっと丁寧にするものじゃないのかい?」 「お前に丁寧に頼んでいたら日が暮れる。どうせ暇なんだろう。手伝え、ニート予備軍」 あ、はっきり言った。 放り投げられた書類をちらりと睨み、ヤトは椅子に深くもたれかかると 「エリス。熱いやつをくれてやれ」 「……(こく)」 書類の入った封筒を手に取った。 ここでいじいじ泣いたり喚いたりしないだけ、ヤトはマシかもしれない。 普段の言動はアレでソレなくせに。そういう分別は綺麗に引けるらしい。 ……それならさっさと家賃支払えっつうの。吝嗇。 思っていると、エリスが帰ってきた。 トレーの上には――うどん。しかも鍋焼き。 関西風か、薄い出汁のいい匂いがする、が。蓋を開ければ、中が燃え上がるように赤かった。 七味がかかりすぎである。 呆然とする確に、ヤトは唇の端を吊り上げると 「その面だと昼飯もまだなんだろう?たっっぷりと食べるがいい。なに、その間に書類は目を通しておいてやるさ」 いやらしく笑った。 その顔のまた美しいこと。もう無駄なほどに整っている。 「僕の気遣いだ。たっっぷり食べなさい。汁の一滴も残さず! ああ、残したらこの紙は突然燃え上がるかもしれないなァ。 何しろ、世界は神の気まぐれで出来ているからね。人間はなすすべもない」 「ヤト、お前」 「――さて、どうぞ。召し上がれ。確。親愛なる幼馴染にして依頼人殿」 呆ける確は、ぐつぐつと煮立つ鍋を前に、言葉なく―― 「エリス。あと、僕と瞳子に紅茶のお代わり。アイスで、な」 「……アホか」 思わず、言ってしまった。 さて。 確が鍋焼きうどんをすすっている横で、海苔煎餅を片手にアイスティーを飲みつつ、私はヤトが書類に目を通しているのを見ていた。 口元に手を当て、考え込んでいるヤト。 沈黙の室内の中で確の哀れな悲鳴……じみた「はあはあ」だの「あつっ」だの「くそっ」という声だけがこだまする。 なんという罰ゲーム。 「……ね、ゴリちゃん。何の依頼?」 待っておられず、問いかければ 「今追ってる事件の、資料だ。魔術がらみのな」 と、確は言った。もう修正する気力もないのか、ただひたすらにはふはふうどんをたべている。 ――間抜けだ。 ちなみに今の返答の言葉の合間にもはふ、あち、うげ、だのおかしな言葉が入っていたので、これは意訳なのだけど。 「事件?魔術?」 「嫌な顔するなよ。手に負えないわけじゃないが、ヤトの……いや、莢神の力を借りたいのでな」(意訳) 「莢神……それって、結構大きいんじゃない?」 「どうだろうな。大きいかどうかは不明だが、一歩間違えば、監督局の要請も必要になるだろう」(意訳) 「ふうん……」 ヤトを見やれば、書類をばさりと机に放り投げた。 「宝石魔術とは。これまた変な事件を持ってきたものだな」 「宝石魔術?」 「――最近、街で発生している原因不明の昏睡事件と関わっている。そうだな」 足を組み替えて、ヤトはまたゆっくり椅子に背を預ける。 目を細めて幼馴染を睨めば――ずるるるるると勢いよく汁を飲み干す音が響いた。 鍋ごと汁の一気飲み。 おお、漢らしい。 が。 ――やっぱり間抜けだ。 「っ、ふ」 鍋をごん!と机に置いて、確は大きく息を吐き出した。 完食。 空っぽになった鍋をエリスがしずしずと台所へ運んでいく。 飲みかけのアイスティーを差し出せば、一瞬ためらったものの、背に腹は代えられないのか口をつけてまた一気に飲むと 「……そうだ」 口元を拭いながら、確は言った。 「原因不明の連続昏睡事件……なんて、聞いたことないんだけど」 「報道管制が敷かれている。普通の魔術関連の事件ならそうでもないんだが」 痕跡に秘術禁忌式の名残がある。 確はそう呟いた。 現代にある魔術は、基本的に資格、免許さえ持っていれば誰でも扱うことが出来る。 私の通う塔央学院もそのための魔術科があるわけだし、街中には許可を得た専門学校もあるそうだ。 『世界』にあふれる『魔源』を『人間の体』を巡る『魔源――血液』にめぐらせ、力ある言葉『術式』で汲み上げる。 そして己の意志で再び世界に発現させる、というのが魔術の基本行動だ。 魔源を血液に巡らせることは容易……というより、私たちが呼吸をするたびに魔源は自然に巡ってくる。 その呼吸の肺活量が皆違うように、個体差によって汲み上げる魔源の量は違うだけ。 生粋の魔術師となると、この汲み上げ量をより多くするために、肉体そのものに仕掛けを施すことも多い。 なので、基本的に魔術の問題の大半は、力ある言葉――術式にかかってくる。 文字として読むことは出来ても、意味を理解しなければ魔術は発動しないため、一般人が読んでも力ある言葉はただの言葉だ。 くわえて。普通ならば、日常生活の範囲でしか使わないような術式しか教えない。 空を飛ぶ、なんかも実はこの部類に入る。 が、そこらじゅうを魔術師が飛んでいる――わけもなく、飛行許可区域が限られていて現代文明の利器と住み分けはちゃんとされていたりする。 (電線に引っかかる魔術師とか飛行機と並走する魔術師とかあんまり考えたくない) だから『普通』の魔術術式を使って起こる犯罪なんかは、通常の犯罪と同列に扱われるのだが。 この日常から少し脱線した術式も――確かに存在しているわけだ。 それが、秘術式と禁忌式。 秘術式は『存在を隠匿しなければならない術式』を言う。 起動範囲が広大だったり、大量に魔源を消費したり、大規模なものも多い。 乱用されることで世界の有り様を変えうる魔術式。それが、秘術式。 例えばエリスを作った『魔道人形』のレシピなんかは、完全に秘術式で莢神家以外からは門外不出だ。 無機物に魔源を注入、固定する術式は、そこら中に実はある。 というか、基礎魔術の一つだ。私も一年生の時に習った。 魔源のこもったアミュレットを創る『宝石魔術』もその一つに当たるが――仮初であれ命を注ぐ行為ともなると、そうはいかない。 閲覧規制レベルが格段に上がり、普通の魔術師は見ることは許されない。 許されるのは、国――監督局から許された者だけだ。 だが、その監督局は生粋の魔術師で構成するため――秘術式を有するのは基本、伝統ある魔術師の一族だけになる。 そして、禁忌式。 こちらは『人体や生命などに多大な影響を及ぼす術式』を言う。 命そのものを奪ったり、命を生み出したり。 日常生活から逸脱し、世界に強大な被害をもたらしうる――乱用されることで世界を破滅させうる魔術式。 それが禁忌式。 基本的に使い方を誤れば魔術は人の命を奪ったり、被害をもたらしうるが、使い方を誤らなくても世界を滅ぼしかねない、 存在自体が悪にもなりうる術式がこれに相当する。 表現は悪いかもしれないが、人間一人が核弾頭になりうる術式だ。 そもそもそんなもの作るなというツッコミもあるかもしれないが、世の中には道を踏み外したくなる魔術師どもがごろごろいるらしい。 今も、昔も。それは変わらず。 よって監督局の保管庫には大量の禁忌式が封印されているという話だ。 日常から逸脱した術式はこの二つに分類されるわけだが、基本的にそんな術式は『秘術式かつ禁忌式』という形をとっている。 よって確の呟いた『秘術禁忌式』の痕跡――が見られる事件と言うのは、相当に拙い話……のはずで。 (ああ……巻き込まれた) 考えただけで、私は頭が痛くなった。 正味の話、家賃なんてどうでもいいから今すぐ私を帰らせてくれ。 魔術なんて。 魔術師なんて。 ――わたくしも、瞳子が大好きですよ―― もう、大嫌いだ。 「昏睡事件の被害者には皆、宝石魔術を適用された痕跡が残っていた」 けれど、確は構わずに話を続けていく。 宝石魔術は普通は宝石や無機物に適応する術式だ。 けれどそれを人間を相手に使用する、ということは。 「昏睡した被害者は、宝石魔術を人間に転用する秘術禁忌式を使用され、魂を抜かれているというのが医者の見解だ」 ――この宝石は貴女の心の輝き。貴女の魂そのものなのですよ―― たましい。 反射的に、私は胸元を握りしめた。 あの日からずっとずっと、一度たりとも離したことのないお祖母ちゃまからの首飾りを、握りしめる。 何故だか、胸が騒いだ。 「とすると、君の依頼は人間相手に宝石魔術を乱発している変質者を探せということか」 「変質者かどうかは知らないが、そう言うことだ」 アイスティーを飲み干し、ヤトはどっかと机の上に足を置いた。 これまた無駄に長い脚が、机の上の書籍を下へと蹴落とす。 「監督局は何してるんだ。禁忌式の流出を許したのか」 どうやら不機嫌、らしい。声音が一気に低くなり、抑揚を失う。 この男、表情が豊かな分、機嫌の乱高下もなかなか激しい。 他人に八つ当たりするわけではないので、まあまあ慣れている者からすれば大したことでもなく。 むしろ、綺麗な顔立ちをしているので見ている分には楽しいというか。 「そのことだが」 同じく慣れている確も、冷静さを失うことなく言葉をつづけた。 「監督局からの、術式の流失は一切ないそうだ」 「――……ない?」 「ない。局が嘘を吐く理由もないだろう」 「なら」 ヤトの言葉に、確は小さく息を吐くと 「秘術禁忌式を個人的に所有し、悪用している誰かがいる。そういうことだ」 そう結論付けた。 黙り込むヤト。二人が黙れば、部屋を静寂がつつむ。 そんな中、落ちかけたメガネのフレームをつと、押し上げ。 「莢神哉人」 確は、幼馴染としてでなく。 一人の魔術師として言葉に力を込めた。 「門番としての責務を果たせ」 力ある言葉に、ヤトは足を下し、ゆっくりと立ち上がる。 そうして。 「――いいだろう」 悠然と笑みを浮かべた。 「僕の力を見るがいい」 その笑みは莢神――本物の魔術師たる誇りを堂々と掲げた笑みだった。 「――――――とでもいうと思ったか、この馬鹿者愚か者何様のつもりだ貴様はッ!!!!!!!」 んが。 一瞬にしてその笑みが崩壊すると、勢いよく机を飛び越し、目の前に『降ってきた』。 そのまま素早く確を椅子ごと押し倒すと、馬乗りになって 「ゴリのくせに僕に命令するなんぞ一兆年早い!出直してこいそれとも鍋焼き食べ足りないのか食べたいと言えッ!!」 確の襟首を引っ掴むとぶんぶん振り回す。 あー…そんなことすると首もげると思うんだけど。 てか何故にそんなに鍋焼きうどんに拘る。 好きなのか。鍋焼き。 「君に命令されなくとも僕は、僕のしたいことをする」 そうして、ひとしきり振り回して満足したのか。 ヤトはこれまた勢いよく立ち上がると 「エリスッ!」 鋭く彼女の名前を呼んだ。 「用意ッ!出るぞッ!」 「……はい」 短い単語でも全てを理解したのか。 エリスはすかさず、ポールにかけてあったヤトのコートを手に取った。 時代がかった、燕尾のベストとコート。 ヤトの外出着であり――魔術用の礼装、だ。 エリスの差し出した服を軽やかに纏い、ヤトは颯爽と歩きだす。 ご主人様の後を、エリスは文句ひとつ言わずについていった。 「……」 取り残された、私と確。 「……大丈夫?」 はっ倒された確に声をかけて見やれば、整ったスーツはぐちゃぐちゃになり、切り揃えた髪もザンバラになってあほ毛が立っていた。 ずれた眼鏡を再び押し上げて溜息をつき、確はのろりと身を起こす。 「大丈夫だ。問題ない」 「もっそい嘘くさいよ。ゴリちゃん」 立ったアホ毛を手櫛で整えてあげながら言う。 すると確はとてつもなく深い溜息をついて 「……ヤト相手にこうなることぐらい、予想済みだ。というより俺の役回りだろう」 肩を竦めた。 「それはそれは」 「で。瞳子。お前もついてこい」 「何でよ。私は」 「一緒に巻き込まれやがれ」 「……サイテー」 それが女の子に向かって言う台詞かと思ったが、私と確と――ヤトの間に、男女の垣根なんかないことを今更のように思い出す。 ずぶずぶの腐れ縁で幼馴染で。 私がどんなに魔術師を嫌っていても――離れられない間柄なのだと。 知っているけれど。 私は。 「瞳子!確!早く来なさい!!」 玄関からヤトの呼び声がする。 私と確は目を合わせた。 ……私は、それでも魔術師が嫌い。魔術が嫌い。 ――瞳子―― 大切な人を奪った魔術が。 「……」 「瞳子。行くぞ」 手を、引っ張られる。 大きな確の手に引きずられて、外へ出る。 そうして階段を下りれば、仁王立ちのヤトが待っていた。 「まったく。とろいなァ、瞳子は」 整った瞳を細めて、ヤトは笑う。 「さあ、行くぞッ」 ……こうして私は、事件に首を突っ込むことになってしまった。 ヤトが向かったのは、ごく最近の「被害者」が入院している病院だった。 看護師さんの案内も無視してずかずか病室に入って行く姿は、正直狼藉者にしか見えない。 案の定、中にいた保護者にはナースコール押されるし警察呼びますよとか言われるし。 確の取り成しで場は何とか持ち応え、話を聞くことが出来た。 ……被害者は、女子高生。 何でも部活の帰りで遅くなったところを襲われたらしい。 帰宅が遅いと心配したご両親が探しに出たところ、公園に倒れていたという。 もうそのときに意識はなかったそうだ。 そして病院に運ばれて、今に至る。 目覚める様子は全くなく、医者――魔術科の医者に寄れば、血液中の魔源が根こそぎ奪われているのだという。 肉体が生命維持活動をしているだけの状態――つまり、魂が肉体に存在しない状態ということだ。 ベッドの上の女子高生は、白い顔をしてただ昏々と眠っている。 ぴくりとも動かず、死んだようにすら見えてしまう。 「全国大会が近いと頑張っていたところなんですよ。どうしてこんなことに……」 病室にいた保護者――母親が悲しそうにぽつりと呟いた。 秘術禁忌式を被害者に使われたことをこの人は知らない。 ただ、事件に巻き込まれて、子供の意識が戻らないということだけがこの人の目の前に事実として横たわっている。 「全国大会ですか?」 母親の言葉を拾って、確は小さく訊ねた。 「ええ。女子バスケットのね。親の私が言うのもなんですけど、ちょっとした選手なんですよ。この子」 「……そう、なんですか」 「今年が最後の年だから頑張るんだって一生懸命、毎日毎日練習して。朝早くから夜遅くまでバスケットのことばかり」 なのに、と。語尾が涙に歪む。 「可哀想に……」 嘆く母親に、慰めの言葉を持てない。 反射的に確を見やれば 「早急に事件を解決することを誓います」 頭を深く下げて、そう口にした。 それから医者に呼ばれて、母親は退出した。 被害の状況を調べたいと言えば母親は暗い顔のまま、納得してくれた。 わずかに疑念を孕んだ眼差しは、被害者をじいっと見たまま動かない変質者――ヤトと、彼に黙って付き添うエリスに注がれていたが、確にご協力を、と促されて病室を出て行った。 「……ったく。俺が呼んだとはいえ、お前がいると捜査がしにくい」 私たちだけになった病室で、確が口調を砕く。すると 「それをカバーするのが君の仕事だ。ゴリくん」 視線を女子高生からそらさず、ヤトは言った。 「ゴリって言うな」 「ヤト。さっきからじっと見てるけど、何か分かったの?」 これで顔見てただけだなんて言ったら、その横っ面一発殴ってやる。 なんて考えながら聞けば 「嫌な匂いがする」 ヤトははっきりそう言った。 「は?」 切れ長の瞳が、ぎゅ、と細まる。 そう言った仕草すらいちいち決まるのだから、まあ憎たらしい。 ヤトは不愉快そうに目を細め、被害者を睨み 「……成程、古いな。霊(たま)の組み方が、西の――」 歌うように呟いて。 「被害者の性別年齢はてんでバラバラ」 明後日の方向から言葉を継いだ。 「一人目は女子中学生。二人目はサラリーマン。三人目は主婦で、四人目は男子大学生。五人目も女学生」 ヤトがなぞるのは、確が渡した資料の中身だ。 現時点で被害者は八名。彼女を含めると九名にもなる。 魂を奪われ、仮死状態の人間が、こんなにも。 「ああ。そうだな」 「犯行時間は全て夜。発見場所と犯行場所は同一だが、法則はない。あくまで愉快犯、だが」 ――用いた魔術は、変質者にしては上等だな。 ヤトは呟いて、ようやく被害者の彼女から視線を離した。 「上等?」 「言うなれば、メロンのショート。スーパーの100円均一とは比べ物にならないな」 「その表現はどうかと思うわよ」 意外とバカにならないんだぞ。100円ケーキ。てかどんだけ好きなんだメロン。 お子様か己は。 「ともあれ趣味はいい。古き、伝統ある術式の組み方と言霊が使われている。 鑑賞に値する式だが、あくまで嗜好品は嗜好品。飾られるが華。実行された時点で、粗悪品に墜ちる」 語る言葉はまだ歌うよう。 ヤト――莢神の、魔術式を捉える能力は、被害者に残された痕跡から色んなものを捉えたようだ。 ちなみに、魔術式は世界万国共通同じものが使われているわけではない。 結論としての『本質』は、一緒である。 火を使う魔術は、どこまで行っても火を使う魔術。 ただ、結論に至るまでの命令言語が異なるのだ。 私たち東の門――日本ならば日本語を使うし、外国ならその土地の言葉を使うことが多い。 己の意志で魔源を世界に発現させるために、より意志を行使しやすい言語を使うのが習わしになっている。 だから、魔術式を見ればおおよそ国やその人が癖が分かるというもの。 ヤトの瞳には今視た術式が映っているのだろう。 だが比喩的でいまいち分からない。 「術式の傾向は分かったが、どういう意味だ。具体的に……」 と確が問いかければ 「――これには、100年以上前の術式が使われている、ということだ。しかも、西の門。ここではない国の言葉がな。 つまりは余所者の犯行と言うことだ。ああ、気に食わない。全く、気に食わないッ!!」 ヤトはいきなり感情を爆発させた。声を荒げると大仰に息を吐き出し 「帰るッ!!」 いきなり、そう言った。 「はあ!?」 来て早々に何を、と思わず確と顔を見合わせる。が、ヤトはお構いなしだ。 「こんな、遺跡みたいな古臭い術式と睨めっこしていたら肩が凝ってしょうがない!僕はもう帰る! 残りは明日だ!ゴリ、君は署に戻って外国の魔術犯罪者歴を調べたまえ。 つい最近、東の門をくぐった百歳以上の大馬鹿者がいないかをな!」 「ちょ、ヤト」 「瞳子。君も帰りなさい。遅くならないうちに、布団に入ってねんねだッ!ねんね!」 「あんた私を幾つだと」 「エリス、帰るぞ」 「おい、ヤト。おい!」 確の呼びかけにも答えない。 そのままヤトは、本当に、病室を飛び出して行ってしまった。 エリスもまた、一礼してついていく。 「……どうしろって言うのよ」 再び、確と顔を合わせて。 私たちは同時に幸せの逃げる溜息をついた。 そのあと。本当に帰ってしまったヤトを止めるすべもなく、私たちは犯行現場を訪れた……が。 大した成果もなかった。 ヤトのように、術式の痕跡から犯人に繋がる細かな情報が詠めるわけでもなく (ヤトはさらりとやっていたが、ああ言うのは実は高度な真似で) 確たちが調べた以上に新しいものが出てくるわけでもなく。 「……飯食って帰るか?」 気を遣ってくれたのか、そろそろ帰るかと確が言ってくれた。 夕方も過ぎ、もうすぐ夜の帳も降りる。 薄暗くなった公園は、寒々しいものがあった。 「大丈夫。寮に帰ったら食事もあるし……てか、ゴリちゃんは?」 「俺はまだ仕事があるからな。別にいいさ。一人で帰れるか?」 「あんたまでヤトみたいなこと言う。大丈夫。バスで一本だし」 「そうか。なら気をつけて帰れよ」 「ありがと。……また明日ね、とかは正直言いたくないけど」 「全くだ。俺は――まあ、明日も顔を合わせるだろうがな」 「よい腐り具合で」 「お前もだろ」 軽口をたたきあいながら、確と別れる。 出がけに管理人室を閉めてきてよかったと思いながら、ぼんやりと帰り道につく。 人を巻き込んで置いて、平気で放り投げるとは。 ヤトの奴。適当すぎるのにも程がある。 (でも) それが、アイツの性格で。 (変わらない) 私がどれだけ拒絶しても、変わらずに存在しているもの。 莢神哉人。 魔術師。 「依頼料入るまで、付き合う羽目になるのかな」 これからしばらく、放課後は寮と学院の往復になりそうだ。 「バス代、請求しちゃる」 でないと割に合わない。 自分で言うのも何だが、みみっちいことを口にして。 私ははたと足を止めた。 ……静かだ。 雑踏の中。急に音が途切れたような静寂に、私は足を止めて、辺りを見渡した。 バス停に向かう道。 いつもなら誰かしら通っているはずなのに、誰もいない。 まるで見えざる手に消し去られたかのように。 日常の灯りだけは残っている。 それが夜の闇を異様に浮き上がらせていて。 「……っ!」 体の芯を疼かせる、唐突な魔源の奔流に私は反射的に身構えていた。 どんなに拒絶しても「壱儀」も魔術師の家系。 私の兄が壱儀の秘術式もすべて継承するけれど、一応は魔術師として躾けられてきた。 異常事態になればなるほど、頭が冴える。 状況を把握しようと、思考回路が動き始める。 「……誰」 例えるなら、冬の夜。 例えるなら、山の頂。 澄んだ、魔源の溢れる空気に向かって私は問いかける。 刹那、空気の流れが動いて。 私は流れの起点に向かって振り返った。 「Guten Nacht,Freurein」(綴りは確認) そこに、その男はいた。 月の灯りに、品のいいスーツが照らされている。 年齢を刻んだ頬。紳士、とでもいうのか。 後ろ手に佇む姿勢は威厳にあふれ、微笑みを湛えた眼差しが私を見ている。 「いい月夜だね」 本来なら異国の響きを持っているであろうそれが――魔源に共鳴して、理解できる言語に代わる。 それだけでもう、この男は警戒対象だった。 普通の人間に出来ることではない。 言葉を越えて世界に接続する、魔術師だけがしうる所業に 「どちら様?挨拶の前に、名乗るのが礼儀じゃない?」 私も言葉を返した。力を込めて。 すると男は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせて。 けれど何事もなかったかのように首を振るい、 「これは失礼。だが、気の強いお嬢さんだ」 笑った。とても嬉しそうに。 歪な笑い。 穏やかなのに、なのか。 穏やかだから、なのか。 虚ろな笑みを浮かべて、紳士は手をほどいた。そして、 「だからこその輝きなのかね。君のその」 たましいは。 ほどいた手を私に向けながら、紳士は歌った。 たましい? 反射的に制服の中に隠している首飾りを握りしめる。 情けない話、男の眼差しに圧倒されて指が震えていた。 理論と実践は別物。 異質――狂人と常人の境をうろつく、異国色をした目――に対する恐怖が足を竦ませる。 「何の、こと?」 だが。 怯えたら、飲まれる。震える声帯に力を込め、私はなんとか問いかけた。 魂の輝き。男は肉体を見ず、肉体の内側を見ている。 まさかでもなんでもない。こいつは―― 「……あなた、なの?もしかして」 「さて。何のことだね、お嬢さん」 「誰彼かまわず、人を襲って、魂を抜き取ってる奴って」 「――ふむ」 男は心底不思議そうに首を傾げた。 しかしすぐさま、ああ、と答えに思い当たったようで 「無粋な表現だね。それは」 にこやかに言った。 「人の魂こそが、この世で最上の宝石となる。君も、魔術をかじっているのなら分かるだろう?人間の可能性を。 心を燃やし、夢をかなえようと苦しみもがきながらも前へ進む行為の尊さを。 私はただそれを、この手に収めたい。見守るだけでなく、こうして――」 男は言葉を切る。 そして、差し出していた指を動かしたかと思えば 「宝石と言う、確かな形として」 手のひらに、輝く石を出現させた。 外灯よりもなお明るく、月よりもなお眩しく。 小さくも、瞬く光を放つ宝石。 「ただ、それだけのことだ。襲ったつもりはないよ。お嬢さん」 事の罪悪を感じることもなく、男は語った。 手のひらの宝石を愛しそうに視線で撫でると、またしまう。 平坦な声音。事実をありのまま語る軽い口調。まるで、今日の天気を口にするような世間話じみた口調に 「全員昏睡状態で、起き上がることもままならないっていうのに? 何にも感じてないわけ。被害者も、被害者の家族も、悲しんで、苦しんでるのに?」 反射的に言い返せば、男はまた、ふむと頷いた。 しかし反省を浮かべる風もなく、肩を竦めると 「それは残念だが、私が拘泥する話ではないね」 自分の価値観の前には無意味なことだと、答えた。 「人の魂は熟れた果実のようなものだよ。活力、魅力、生命力にあふれていても、いつ腐り墜ちるか分からない。 醜く、腐臭を放ち、地面に墜落して潰れる前に摘み取るが花――そうは思わないかね」 「……言っている意味が、分からないわ」 「そうか。残念だな。御嬢さんなら、分からずとも理解できるとは思ったのだが」 「人を狂人扱いしないでくれる?いくら魂が美しかろうが何だろうか、魂の輝きなんて、命を奪ってまで手に入れるものじゃない」 逃げるか。ヤトか確を呼ぶか。 会話をつづけながら、考える。 だが男の眼差しは微笑みながらも、私を見ている。 私の動向、行動、意図すら。 見透かそうとその瞳を細めている。 「――美しいものは、何をしても手に入れたいじゃあないか」 男は悠然と言い、再び、手を差し出した。 「それこそが人の欲望だよ。御嬢さん」 魔源の流れが変わる。男を軸にして、空気がざわめく。 ――まずい。 「さて。君の魂はどんな色をしているのだろうね」 笑みを浮かべた男の口が 『命は巡る。命は踊る。命は刹那にして永遠たる至高の光』 力ある言葉を紡ぎ始めた。 くら、と。 足元が揺れた。 眩暈。体がふわふわと揺れる感覚に酔いそうになる。 『その瞬きをわが手に。その煌めきをわが手に。汝が生命の根源をわが掌に』 意識全てが男に引き寄せられる違和感に 『私は一切の言葉を拒絶する。私は私を以て我を成す。一切の干渉を私は拒絶する』 急いで、拒絶の言葉を紡いだ。 術式の干渉を一切塞ぎ、断ち切る術式。 しかし、男の術式――秘術禁忌式のほうが、魔源を汲み上げる量が圧倒的に多い。 力に、圧倒される。 「このっ……」 宝石なんぞになってたまるかと、もう一度同じ命令を繰り返す。 しかし、眩暈がさらに大きくなった。 くら、と回転するような浮遊感。 (まずい、持って行かれる――!!) 言葉を紡ぐことすら危うくなって。呂律が回らなく―― 『言葉を断絶せよ。紡がれる全ての存在を、この私が否定する!』 ――っ!! 目の前を、光が奔った。 男と私の間を遮断するように落ちる、稲妻。 目がくらみ、一歩退いた私の肩を 「……ヤト?」 暖かい、大きな手が、抱いた。 振り向くと見慣れた顔が、笑っている。 「うん」 聞きなれた、子供のような口調で頷いて。 「本当に、瞳子は僕がいないとダメなんだなァ」 何だか不穏当なことを言ってくれた。 「ちょっと、どういう意……、うぇ」 「無理しなくていい。――エリス」 「……はい」 ヤトの手が離れる。かと思えば、後ろに控えていたエリスが、私を支えてくれた。 こみ上げる吐き気にえづけば、背中を小さな手がさすってくれる。 零れかけた魔源がゆるゆる体に戻ってくる感覚に、やっと呼吸が出来た。 「……ありがと。エリス」 「(ふるふる)」 大したことないと首を振り、エリスは私をさらに抱いてくれた。 魔源で動いているエリスの傍にいると眩暈がみるみる回復していく。 体を満たす澄んだそれに深呼吸を一つ。 (助かった) 安堵で、視界が暗くなりそうになる。 だが、目を離すわけにはいかない。ヤトが―― 「さて。貴様だな、宝石魔術が大好きな変質者は」 戦おうとしている。 台詞はアレだが、向けた背中は完全に戦闘モード。 スイッチが入ってしまっている。 性格も言動も破綻ぎみな奴だけど。 莢神哉人は、魔術師だ。 比類なき莢神の魔術師で。 ――門番としての責務を果たせ―― 東の門における、魔術師たちの門番だ。 警察官である確が、酔狂で探偵のヤトに依頼をしたわけではない。 哉人は、道を外した魔術師を、魔術の術式を回収する役目を負っている。 すなわち。 「僕の庭でよくも好き勝手やってくれたな。万死に値するぞ」 東の門に存在する魔術師を管理する男ということになる。 彼の目を逃れうる魔術師は、いない。 道を外したならば最後だ。 「まんまと餌に騙されてくれた素直さは誉めてやる。趣味もいい。 だが――これは、僕の所有物だ。勝手に持っていこうとするな、盗人ッ!!」 ――誰が所有物だ。おまえの。てか、人を勝手におとりにしてるんじゃない。 突っ込みたいが、声が出にくい。 とりあえず睨んでおくが面の皮が厚いので届くかどうか。 「何処から来たのは知らないが、今すぐにひれ伏すのであれば、許す。首に縄つけて岡に引きずり出す程度にしてやろう。さあ、どうする!」 案の定届いていないらしいヤトは、子供のように胸を張り、朗々と言い放った。 辺りにはゆるゆる魔源が満ち、号令一下、男に襲いかからんと鎌首をもたげている。 何ともちぐはぐな状況だが、張りつめる緊張感は尋常じゃない。 男はしばらくヤトをじっと見ていたが、やがて微笑むと 「……なるほど。聞いた通りの男だね。莢神の門番君」 事もなげに肩を竦めた。 「何だと?」 「話には聞いていたが……傲岸不遜。しかし裏打ちされた実力。憎らしいほどの魔術師であると」 「ほう。あいにくだが、愚民から投げられる羨望と嫉妬の眼差しには慣れている。僕には通じない。 そう言う手合いが多いのも理解はしているが――」 ヤトは、言葉を切った。腰に当ててふんぞり返っていた手をほどいて、男を指差すと 「どうして、貴様が僕を知っている?」 そう問うた。 「誰に聞いた?貴様自身が僕を知っていたのではないのだな?」 「……ふむ。そうだね。君とは初対面だ。門番よ」 聞いた。誰に聞いたというのだろう? ヤトも私と同じ疑問を抱いているようだった。 眉をひそめて、半眼になって。探るように男を見ていた。 「まあ、そもそも、君は東であれ、西であれ、央であれ、有名人だ。私ごときが知っていても何ら問題はなかろうに」 「――大ありだ」 男の軽口を、ヤトは断ち切った。 「貴様、単独犯ではないのだな。裏には誰がいる」 「何故そう思うのだね」 「質問に質問で返すな。答えろ」 「答える義理はないだろう、若き門番。私は、私の欲望に乗っ取って行動しているまでだよ」 「あくまで白を切る気か。ふざけろ!」 咆哮一閃。ヤトを中心にして、魔源が膨れ上がった。 溢れ出す光の奔流。その右手が掲げられ、男を狙う。 男は、わずかに渋面を作っていた。しかし、後ろ手は解かない。 「困ったものだ。私は、武闘派ではないのだがね」 「知ったことかッ!僕の問いに答えなかった時点で、貴様に弁解の余地もなしッ!!」 ヤトが腕を振るった。 鞭のようにしなった腕が、光を薙ぐ。 『注げ、殲滅の槍!』 力ある言葉によって形を変えた魔源が、男に向けられた。 空気中を漂う世界の素から物質となったそれは、実体のある凶器だ。 それは容赦なく、肉体を刺し貫く。 中空に生まれた数本の槍が、男に向かって降り注いだ。 鋭い風の切る音。 耳に痛いそれを 『絶対の盾。槍、貫くこと能わず』 静かな第三者の声が打ち消した。 展開するシールド。槍の切っ先はそれに当たった瞬間、粒子となって霧散する。 男には当然、傷一つない。 ただ当然と言う表情で、散らばる光を見送っていた。 「――誰だ」 ヤトの声は極めて冷静だった。 攻撃が防がれたことに対する驚きも、悔しさもない。 状況を判断しようとする理性だけがそこにある。 「何をしている。迷子にでもなったかと思ったぞ、ジャン」 静寂が再び支配しようとする場に、その声は響き渡った。 若い、青年の声。 声のした方向を見れば――少し離れたビルの上に、その影があった。 はためく長い白のコート。月灯りで、金の髪が光って見える。 見下ろす視線は、どこか苛立っているようにも見えた。 年の頃なら、高校生ぐらい、だろうか。 紫の瞳が、対峙するヤトと男を見下ろしていた。 「やあ。ツァーリ。お迎えかね。ご苦労」 「何故己が迎えなんて真似をしなければならない!耄碌したか、手間を取らせるな」 「その様子だと、彼が……ああ、君が心配してくれたのかね。いい子だ」 「――ッ、薄気味悪いことを言うな、馬鹿が」 言葉の端々が跳ねる。子供のような言い回しと態度が実にちぐはぐだ。 けれど、これは。 「ヤト」 出るようになった声で、呼び掛ける。 ヤトは振り向かず、二人の会話を聞いているようだった。 「そういうわけだ。若き門番よ。今日はこのあたりで失礼しよう。 徘徊老人を孫が迎えに来てくれたようなのでね。それと……御嬢さん」 男の目が、私を見た。 ぞっとする深淵を湛えて私を見ると 「いずれ、また。君の輝きは稀にみる美しさを放っているようだ」 ――この宝石は貴女の心の輝き。貴女の魂そのものなのですよ―― 「その輝きを、私はこの手に収めたい」 歪な穏やかさで、囁いた。 男が芝居がかった手振りで、一礼する。と同時に展開する魔法陣。 少し古めかしいそれは、空間転移の術式だ。 ――もちろん、秘術式の類。 輝く線が陣が完成し、淡い光を放ったかと思えば、もうそこに男の姿はなかった。 ……逃げた。 いや、逃がした、のか。 ヤトが何を思って、術式の展開を許したのか私には分からない。 ただ、誰もいなくなった空間を睨む背中は、果てしなく――不機嫌だった。 「大体、人が帰るからと言って本当に帰る奴があるか!え?君の依頼だろう。君の仕事だろう。それをあっさり放棄してどうする? どういうつもりだ。君には主体性と言うものがないのか? そもそも夜も遅いのに婦女子を一人で帰らせるなんてどういう了見だ。君の辞書には親切心と言う文字はないのか全くどうしようもないな確! 幼馴染として僕は本当に情けないッ!!」 その不機嫌さは、事務所、壱儀ビルヂングに戻ってから炸裂した。 結局寮に戻らず、戻れず。事務所にてエリスの作ってくれた鍋焼きうどんをすすることになった。 『家』で色々あってと告げれば、外泊も大抵は許してもらえる魔術科。 魔術師の家系はこういうところが本当に融通が利いて助かるが――まあ、こちらはそうもいかない。 署に戻っていた確を怒鳴って呼び出し、ヤトは先程からマシンガンのように愚痴をこぼしていた。 一部、あてはまるところがあるせいか。確は黙って聞いている。 多少、口の端が引きつってはいるが。 「反論はあるか!あるなら原稿用紙一枚分は聞いてやろう!さあ言え、さあほざけッ!!」 あ、終わったみたい。 「……よくもまあ。それだけ舌が回るもんだな。感心する」 当然のことながら。確もヤトのそれには慣れているので、大してダメージを受けた風でもなく、軽く反論をして小さく手を挙げた。 「外でうろついても大した成果がないから帰宅しただけだ。 瞳子を一人にしたことだけは詫びる。……悪かった。瞳子」 「え?ああ……別に。大丈夫。眩暈も治ったし。ね、エリス」 「……(こくこく)」 魔源の供給で体調はすっかり良くなっている。 あったかいもの食べて、お腹もいっぱいになったし。 うん。健康が一番。 「子供扱いしなくても大丈夫。てか、ヤト。あんた人のこと勝手に囮にしたくせになんで確に文句言ってるのよ」 「はん。囮?人聞きの悪い。都合がよかっただけだ。大体、何故僕のほうからへこへこ変質者の下に出向かなくてはならない。 変質者が頭を下げてくるべきだ。案の定のこのこ出てきただろう。結果オーライじゃないか」 「……オーライじゃないか」 「二度言わなくていいよ。エリス」 ヤトを庇うようにエリスがぼそりと呟く。 なんと可愛い子だまったく。 「ともかく単独犯でなく複数犯だと分かったところは大きいな。あとは――」 「ジャン。ツァーリ」 「名前か。秘術禁忌式を保持した二人組。ライブラリに問い合わせてみるか」 「二人組じゃ、ない」 頑なな口調で、ヤトは言った。 「え?」 「二人組じゃあない」 机に脚を乗せて、ふんぞり返って。いつもの不遜な体勢で言うヤトだが、口調は真摯で断定的だ。 余りに強い口調に 「どうしてそう思う?」 確が問うた。 「勘、だ」 「……勘」 「勘だ」 「……勘?」 「勘」 「……勘!?」 何回勘勘言うのか。揺るぎないヤトの返答に、確がブチ切れた。 ヤトが足を乗せた机をたたき、 「勘で捜査ができるか!大体、お前はそんな勘に頼って、発見して追い詰めた容疑者を見逃したのか? どういうつもりだ?え!?理由があるなら聞いてやる!」 逆に声を荒げた。見た目真面目な公務員だが、曲がりなりにも刑事。 怒鳴る声はなかなかに腹に響く。 「理由」 まあ、そうであってもヤトもまた簡単に話を聞くタマでもないので、嘆息ひとつ。 少し長めの弧を描く髪を掻いて、 「僕が、そう思ったから、だ」 つまらなそうに一言、言った。 「……おい」 「と言うのでは納得しないのであろう?これだから石頭は。ダイヤモンド☆ゴリと改名するがいい」 何だそのセンスは。 昭和の匂いがするぞ。 「プロレスラーになるつもりは、ないっ!」 こっちもこっちで変に受け取ってるし。 まあ、それはさておいて。 「他に理由はないの?あんたの勘だけじゃ、どうしようもないでしょ」 一応、口添えしておく。 するとヤトは眉をひそめて、脚を組み直した。 口元に手をやり、少し考えるそぶりを見せて 「……勘しかないな」 「あのね」 あっさり覆すようなことを言ってくれた。 「例えば入国ルートの線から、とか、所有する術式の量から、とか。理由づけは色々あるじゃないの。 それが勘だから、じゃゴリちゃんも納得しないと思うけど」 「じゃあそれでいいじゃないか。入国ルートの線からにしておきなさい」 「いいのかそれで」 「それでいいのだ」 「どこぞのパパみたいなこと言うな」 「……まあ。入国ルートの線は、一理ある」 黙っていた確が、ゆっくり口を開いた。 「他国の魔術師が門をくぐるときには必ず届けが出されるはずだ。それがないということは」 「国内に手引きした人間がいる、ってこと?」 「という考え方もある。ともかく、帰ったらライブラリで調べてみる。話はそこからだな。 もしかしたら、何かしらの犯罪歴があるかもしれない」 言い切って、確は踵を返した。 「ゴリちゃん?」 「署に戻る。詳細が分かり次第、また来る」 「お仕事、本当にお疲れ様」 そう言うと、確は目を瞬かせた。じっと私を見る。 ……顔に何かついているのだろうか。 見つめ返していると、何故だかしょっぱい顔をして 「いや。何でも」 確は首を振った。 変な奴。 「じゃあな、ヤト。瞳子のことは頼んだぞ」 「言われるまでもない。エリスに送らせる」 「ああ。そうしてくれ。……それと」 出がけ間際。扉に手をかけて 「ゴリって呼ぶな」 念押しをして、確は部屋を出て行った。 警察署とはさほど遠くないとはいえ、夜に往復なんてご苦労なことだ。 公務員も大変なんだな……と確を見送って視線を戻せば、ヤトまでこっちを見ていた。 「……何。顔になんかついてる?」 切れ長の瞳。整った顔立ち。見慣れた顔。 だが――焦げ茶の瞳は、底の知れない深い色をしている。 どれだけ付き合っても理解の届かない。 人を見透かすような、そんな、色。 「巻き込まれたと思うかい」 そんな色をさせて、ヤトは言った。 「思う。てか、張本人がそれを言う?」 「巻き込まれるも君のさだめ。巻き込まれたのも君のさだめ」 「言葉遊びはいいわよ。てか、あんたが家賃払えば済む話でしょ?私には関係」 「ない。まあ、ないだろうね。確の依頼は、僕の仕事だ。君の仕事じゃあない」 「……」 「でも遅かれ早かれ、あの変質者は君の下へと辿り着いていただろう。 あれは、あれの意志でこの塔央で"価値ある宝石"を集めていた。 君がこの事件に関わろうと関わるまいと変わらない現実だ。 僕が家賃を払って君が寮のベッドでぬくぬく寝ていようと、きっとあれは、いつか君を見つけ出す。そして」 言葉を切り、ヤトは薄く唇を歪めると 「君をコレクションに加えようとしただろうね」 とびきり肌寒いことを言ってくれた。 「やめてよ」 「君の魂は、君であることから逃れられない。だから、あれは必ず君のところへ来ただろうね」 「だから」 「君は、君がどれだけ拒絶しようと壱儀瞳子だ。壱儀の魔術師だ。死んで、無になるまで、君は魔術師であることから逃れられない」 「……やめて」 滑らかな低い声が、私の中に入り込む。私の中に響く。 まるで、魔術の詠唱のようだ。 魔術。そう、この男の魔術だ。 「そうやって、エリスも死んだ。最期まで、エリスは魔術師だった」 ――瞳子―― 「あの時に死ななくても、エリスは結局、魔術師として――」 「だから、止めてって言ってるでしょ!?」 反射的に叫びが出た。 ヤトの表情は変わらない。まるで湖面のような静けさで私を見る。 変人のくせに。 こういうところが、「大人」で「魔術師」で。 とんでもなく嫌になる。 ――嫌な自分を、見せつけられる気分になる。 「……いつまで君が、君から逃げられるのか。楽しみにしているよ。瞳子」 そうして、ヤトは口の端を吊り上げた。 「さてエリス。瞳子を送ってあげなさい。もう夜も遅いようだ」 「……(こく)」 頷いて、エリスがとことことやってくる。 「ちょっと」 言い返そうとするが、もうヤトは私を見ずに椅子を回転させて背を向けていた。 話すことはないということだろう。 ついでにエリスに袖まで引っ張られる。 帰ろう、と。 「……っ」 何も言えない。この空間の主に退去を促されて、私は莢神探偵事務所を後にした。 ……ほんと。 ほんと、魔術師には、関わりたくない。 「お祖母ちゃま!!」 降り注ぐ赤。 力いっぱいの腕の感触。 抱き締められた温もり。 香るのはお祖母ちゃまの優しい匂い。 そして――生臭い、死の。 死の匂い。 「瞳子」 視界に映るのは、見知らぬ男。 いや、どこかで見たことのある、若い、若い男だ。 男の放った魔術が、祖母の心臓を貫いていた。 「いや、いや」 「瞳子」 お祖母ちゃまは繰り返す。優しく、優しく。 私の恐怖を宥めるように。 何も怖くはないのだよと守るように。 「大丈夫よ」 そうして、ぎゅっ、ともう一度私を強く抱きしめて。 「(逃げたらだめ。立ち向かいなさい。貴女の運命に)」 「え?」 小さく。小さく何かを言って。 『光。あれ』 力ある言葉を紡いだ。 そこから景色は飛ぶ。 気づけば私は、莢神の屋敷の一室に寝かされていた。 「瞳子。気が付いたか」 そう言ったのは――誰だったか。顔が思い出せない。 ただどこまでも体にしみこむような滑らかな声音で、私の名前を呼んでいる。 「おばあ、ちゃまは」 どうなったの? あのあと、どうなってしまったの? 繰り返す私に顔の思い出せない誰かは 「死んだよ」 冷たく告げた。 「……どうして?」 起き上がろうとするが、体が動かない。怖い。怖い。 お祖母ちゃま。お祖母ちゃまはどうして――。 「どう、して」 うろたえる私の額を優しく撫でて、誰か――彼は―― 「魔術師だから、だ」 そう言った。 ――あれから。エリスの走らせるバイクに乗せられて、私は寮へと戻った。 華奢な美少女と大型排気量のバイクとは何度見てもシュールな組み合わせだが、おかげで襲われることもなく無事に帰ってこれた。 遅く帰宅したとはいえ、今日も今日とて学校がある。 眠気をこらえながら授業を終えて、放課後を迎えた。 携帯には確から『例の件で進展あり。事務所まで』とメールが来ており――ああ、もう。 行くしか、ないというか。 重い脚を引きずりながら、バスに乗り、事務所のある工房街へ向かう。 窓の外に見える景色はいつもの景色。 ああ、昨日に戻りたい。 ――いつまで君が、君から逃げられるのか。楽しみにしているよ。瞳子―― 流れる車窓の向こうで、その声が響く。 逃げる。 逃げる、か。 (私は、逃げてなんか) 確かに、私は魔術師が嫌いで。 家も出たいし、魔術と出来る限り関わりたくないと思っているけど。 逃げてるつもりなんてない。 ただ――そう。 何事もなく、生きていきたいだけだ。 だって。 ――瞳子、わたくしは―― (……あんな想いは、二度とゴメンだ) 大切な人が目の前で死んでいくような光景は。 何も出来ないで温かな命が奪われる光景は。 ――そんな光景を日常とする魔術師こそが異常な存在。 だから。 (……でも) 私が意識を失う間際。力ある言葉を紡いで、最後の魔術を発動させたとき。 お祖母ちゃまは何かを言っていた気がする。 忘れている。 忘れてしまっているけれど――私に、何か。 何かを伝えようとしていた。 (ごめんなさい。お祖母ちゃま) 今はもう、あのときのことを私は思い出せない。 そう言えば――あのとき、お祖母ちゃまは何の魔術を発動させたのだろう? 『まもなく塔央駅、塔央駅――』 物思いを遮るように、アナウンスが響いた。終点だ。 私は荷物を取りまとめると、下車の準備を始める。 このあと、何が待ち受けているのか。 考えれば、頭が痛くなるようだった。 ……その十分後。 思いもがけない事態に、私は激しい頭痛を覚える羽目になる。 異質が、いた。 「は?」 思わず、そう口にしていた。 すれ違った女の子たちが独り言言う私にぎょっとした視線を向けたがそれはさておいて、だ。 言わざるを得ない光景に、口の端が独りでに引き攣った。 工房街の入口。 女子学生で賑わうスイーツワゴンの前に―― (見間違い、じゃない。え、眼鏡の度数変わった?んな馬鹿な) 白い、白いコートを羽織った長身の青年が、いた。 目立つ。とにかく目立つ。 魔術の礼装なのか。金の文様が太陽に眩しい。 周辺にいるのが可愛らしいおなごばかりなので、余計に。 頭一つ二つ分くらい、大きいんじゃないだろうか。 別段、男の子が甘いもん好きだろうが何だろうが、気にすることじゃない。問題は。 (あれって、昨日の――) 宝石魔術を使う変質者を迎えに来た、金髪の青年ということだ。 (確か、ツァーリ。そう、呼ばれてた、はず) 咄嗟に周囲を見渡す。 どうやら、あの変質者――"ジャン"はいないようだ。 なら、こいつはこんなところで何をしているのだろう。 (て、か。電話した方が、いいのか) ヤト――は携帯電話なぞ持っていない。 事務所に連絡を入れる方が早いか。それとも確? 鞄を探る。が、電話が見当たらない。 どうしてこんなときに! 余計なものはいれてないはずなのに、とごそごそしているうちに 「……っ!」 青年が、ツァーリが振り返った。 目が、合う。 「やば」 逃げるか。腹殴って逃げるか。 でも魔術を発動されたらきっと叶わない。 理論ばっかりで実践が伴わないのが私の悪癖だからだ。 ……自慢じゃないけど。 「おい」 不遜な呼びかけ。 ヤトのそれとは違う、子供の傲慢さの滲み出た物言い。 近寄られて、思わず一歩退いてしまう。 鋭い眼光。金の髪に珍しいアメジスト色の瞳。深い、すみれ色の目だ。エリスに似た。 「……な、なに」 こんなところで何かしでかすつもりかと、たまらず身構えた――途端。 「あれは、どうやって買えばいい」 「……は?」 予想もしないところから問いかけが飛んできた。 「あれ?」 「あれだ」 "ツァーリ"の指差す先。そこには、スイーツワゴンがあって。 「己は、あれが食べたい」 しなやかな指が、生クリームたっぷりのクレープを差していた。 「はあ?」 ――どうしてこうなった。 頭の中ではてなまーくが乱舞する。 私の手には、暖かいシナモンミルクティー。 そして私の隣には 「美味い」 生クリームギガ混ぜストロベリーメガミックス&たっぷりフルーツ☆こくまろ練乳風味の牧場のミルクアイスクレープと わけのわからないネーミングの炸裂するえげつない甘さのクレープを頬張る"ツァーリ"が、いた。 でかい手でクレープをもふる姿は何だか小動物的で面白い。 はみ出たクリームを舐めとりながら、もふもふクレープを食べる。 先程から美味いしか言っていない。 (どうしてこうなった) もちろん。こいつは金なんて持っていない。 私の、私の奢りだ。 勤労学生に1個1500円のクレープは財布的な意味でなかなか辛い。 もちろん。ここでダッシュで逃げてもいいのだが、もしものことを考えると――奢らざるを得なかったというか。 ……出来るなら。少しでも奴らの話を聞き出せないかなー?と思ったわけで。 「……あの、さ」 ミルクティを一口。喉を潤してから、口を開く。 「ツァーリ、で、良かったっけ。あんたの名前」 名前を聞くだけなのにひどく心臓が跳ねる。 緊張しながら、隣に目線をやれば 「――どうして己の名前を知っている?」 至極不思議そうに。間抜けなほど、軽く、"ツァーリ"は言った。 見知らぬ相手にクレープを奢らせたのかこいつは。 これは新手のカツアゲなんだろうか、とぼんやり思いながら 「……昨日。夜」 返ってきた問いに、答える。 「覚えてないの?」 「む?」 言えば、"ツァーリ"は手を止めて、眉をきゅっと寄せた。 振り向く"ツァーリ"。 すみれ色の――驚くほど綺麗な目は真剣。 一瞬の逡巡。しかし、すぐさま目を細め、ああ、と呟いたかと思えば 「……ジャンのコレクションか」 薄気味悪いことを言ってくれた。 「誰がコレクションよ、まだ、何もされてないし、なる予定もない!」 「喚くな女。聞こえている」 「女じゃないっての!」 「お前の名を知らないのだから仕方あるまい。 ジャンはお前に興味があるようだが、己にはこの食物の方が興味深い。 しばらく放って置け。己はこれを味わいたい」 「……とにかく。あんたの名前はツァーリ。それでいいのね」 ……返事はない。 どうやら本気でクレープに夢中になっているらしく、またもふもふとかじりついている。 (何やってるんだか) 「で、あんたらは何をしにここに来たわけ?」 「宝石魔術で人を襲うため?」 「どうやって来たの?密入国?」 「一人?それとも二人?あのジャンって奴とは親子?それとも祖父と孫の関係?」 半ば自棄になって質問を投げかける。 もちろん返事はない。恐るべき集中力。 何もすることがないので、ひとまず横顔を見つめることにする。 年齢にしたら20――前後だろうか? 西の門の人間の年齢はいまいちよく分からない。 淡いプラチナブロンドに白い肌。紫の瞳。 西の門と分かっても、一見すると何処の国の人間かは分かりづらい。 大体、紫の瞳なんて。 魔術の行使で変色することはあるにしても、ツァーリからはそんな気配は薄い。 生まれつき、なんだろうか。 「……何を見ている」 と、クレープを食べ終えたツァーリが振り向いた。 黙っていれば、な顔には幼児のようにクリームがべたべたとついている。 「ぶ」 あまりにもひどい顔に、思わず噴き出す。 「ひど、ちょっと」 「何が酷いだ。人の顔を見ていきなり笑うなど無礼――んぐ」 「ほら、拭きなさいよ。口のまわり、クリームだらけ」 子供みたい、と言ってやればツァーリは眉根をぎゅっと寄せて、私の手からハンカチを奪い取った。 そのまま、ごしごし自分で拭く。 長い指先にもクリームは氾濫していて、やっぱり笑わざるを得なかった。 「美味しかったの?そんなに」 「……ああ」 頷き、ハンカチをぎゅっと丸めると 「食べたことがない」 ツァーリはそう言った。 「食べたことが、ない?」 「こんな甘い食べ物、己は知らん。ケーキ――は、年に一度、か。誕生日に食べさせてもらえたな。 この国には己の知らない甘いものの匂いが溢れ返っている。実に興味深い」 「この国、ね……ツァーリはどこ出身なの?」 会話に応じ始めたツァーリに、私は質問を始めることにした。 先に投げた質問はやっぱり聞いてないらしいので、地道に、こつこつ。 情報を集めることにする。 「――生まれ故郷など、ない」 だが。どうやらいきなり地雷らしきものを踏んだのか、ツァーリの表情が一気に強張った。 感情のふり幅がヤトに似ているなとふと思った。 まあ、何でもかでもこいつが兼ね合いに引き出されるのは……。 ……。 まあ。私の引き出しの少なさ故だろう。 「故郷がない、って。家族は?他に誰もいないの?」 「いない。俺たちは、ずっと旅をしてきた。この国に立ち寄ったのはほんの気まぐれ。家族……そんなもの知らない」 随分と悲しい家庭状況のようだ。 ……遠回りではあるが、尋ねた質問の答えが返ってきていることに手ごたえを感じる。 ツァーリはハンカチで口を拭うと、さらに続けてくれた。 「この国には、興味深いものがあるとアルが言っていた」 「アル?」 これまた新たな登場人物だ。 聞いている限り、ツァーリ、ジャン、そしてアル、この三人が徒党を組んでいるということだろうか。 「アルって誰?」 「アルは、アルだ」 「いやそうじゃないんだけど……」 三人の関係や共通点は何なのだろう。 詳しく聞いてみたいが初対面の人間がそれを聞くのも何だかなあ、というか。 ……ひとまず外堀から話を埋めていこうか。 「アルの、興味深いもの、ね。それって何?」 「己は知らん」 「知らないって、一緒に来たんじゃないの?」 「己は興味のないものには興味がない。アルにはアルの、ジャンにはジャンの目的がある。それだけだ」 「ジャンの目的……って、宝石を集めること?」 「だろうな。よく分からんが」 「……悪いことだと思わないわけ?人、襲ってるんだよ」 思わず、批判が口をついて出た。 昨日襲われかけた人間もここにいるというのに、ツァーリはただ淡々としている。 それが何だか腹立たしくて。 少し強い口調が飛び出た。 しかし。 「――それがどうした」 ツァーリは意に介する様子もなく、そう、言った。 「どう、って……」 どいつもこいつも、常識がないのかと叫びたくなる。 が、己の行動基準で行動する者が魔術師には多いのも事実――だから魔術師なんて嫌いなんだ。 「負ける者が悪い」 二の句が継げないでいるとツァーリは言葉を重ねた。 「弱い者が悪い。嫌ならば抗えばいい。抗えないなら――」 死ぬだけだ。 感情のない声で言った。 虚ろで、冷たく。頑なで、揺るぎない。 きっと、このツァーリの根本なのだろう。 言葉がじんわり力を帯びている。 「己は知らない」 そしてまた、同じ言葉を繰り返す。 細められた紫の瞳がどこか遠くを見ているような気がした。 事情なんて知らないけれど。何だか悲しげにすら見える。 同情はしたくないし、出来るほど彼の人となりを知る訳でもない。 併せて、こいつらのしていることに同情の余地なんてきっと無いけれど。 あの"ジャン"に感じるものとは違う何かが、胸を疼かせた。 「……知ろうとは」 「ん」 言葉が、口をついて出る。 ぼんやりと。考えなんて特にないけれど思いついた言葉が声になった。 「知ろうとは思わないわけ?」 見ると、ツァーリが私を見ていた。 クレープに向ける興味と同じような、子供みたいな好奇心を浮かべて。 「何をだ」 「他の道。弱い者は死ぬだけって、それ極論でしょ」 言ってやれば、ツァーリの表情がまた強張った。 地雷に踏み込んだ気もするが、後には引けない。 だって。弱いから死ぬって。そんな。 ――瞳子―― 違う。絶対に違う。 「どんな理由をつけたって、あんたの仲間がやってることは犯罪。襲われた人に非なんて無い筈よ。 ただ毎日を普通に暮らしている人が、苦しめられる理由なんてない。誰一人として。絶対に」 昨日訪れた、入院している女子高生の子だって。 他の被害者だって、そう。 毎日を一生懸命生きて、ささやかなことに幸せを感じて、犯罪なんてものには縁遠い無辜の一般市民がいきなり命を奪われていいはずがない。 弱いから。抗えないから。そんな理由はきっとあってはならない。それはきっと加害者の理論だ。 (……でも) 口にして、思うのは。 魔術師ならばそんな"当たり前"が当てはまらないということだ。 だから、命は容易く奪われる。こんな現代においても。 だから私は魔術師なんて嫌いなんだ。 普通に生きて何が悪いのだろう。 普通に生きていれば今も私はあの魔法の手を失うことは―― 「お前」 「え?」 はっとして顔を上げる。と同時に、思い切り手首を掴まれた。 熱い。 その白さとは裏腹にツァーリはひどく熱かった。 視線をやれば、菫色の瞳がこちらを睨みつけている。 寒気の奔るような真摯な瞳に息を呑む。ぎゅ、と握り締められた手首が痛い。 「な、に?」 払いのけてやりたい。けれど妙な真似は出来ない。 出来る限り目を逸らさぬように、ツァーリの動向を伺えば、さらに顔を覗き込まれた。 不良の喧嘩のような体勢に唾を飲み込み、痛いと抗議しかけた口を 「お前は、知っているのか」 ツァーリの問いかけが塞いだ。 「え?」 「他の道を。知っているのか」 「べ、つに。そういう訳じゃ――ただ、極論すぎるって言ってるの。真実かも、知れないけど」 でも。 「弱い人だって、救われてもいいじゃない。いつか、強くなれるかもしれないでしょ」 そう、思えるのだ。 「……」 しかしツァーリはすっかり黙り込んでしまった。 「ツァーリ?」 思わず呼びかけるが、ツァーリは動かない。ただ、私を見ている。 「ちょっと。いい加減……」 離してと腕を振りほどきかけた、そのときだった。 「おや。こんなところにいたのか。ツァーリ。探したよ」 背筋がひやりとする声が聞こえてきた。 それは奇妙なほどの穏やかさで。機械じみてすら感じる優しい声に振り向くと 「――ジャン」 昨夜の男が立っていた。 声に似た穏やかな顔で男は笑っている。 後ろ手のまま、ゆっくりと歩み寄ってくると 「姿が見当たらないと思えば、こんなところにいたんだね。出かける時ぐらい、ひと声かけなさい。心配したよ」 「――ふん」 ジャンの言葉にツァーリはようやく手を離してくれた。 何処か忌々しげにジャンを睨み、顔を背ける。 その仕草からは、何だか――そう。 反抗期の子供のような雰囲気を感じた。 (変な感じ) ジャンとツァーリの関係性がやはり読めない。 ツァーリは家族は知らないと言うけれど、ジャンの、この男の態度は祖父が孫を、親が子供を迎えに来るときのそれによく似ている。 もしかして、ツァーリ自身が知らないというだけで――この男と、アルとやらは家族なのではないだろうか。 「こんにちわ。御嬢さん」 そんなことを考えていると。 またひやりとする声が聞こえてきた。 ……しまった。他人のことを気にしている余裕は無い筈。 何しろこの男は―― 「こんなところで会えて、嬉しいよ」 昨夜、人の魂をぶんどろうとした男だ。 ヤトが来なかったら、きっと私はこの男のコレクションになっていただろう。 考えたくもないけれど。 「……私は嬉しくないけど」 「はは、つれないことを。だがその気の強さもいい輝きをしている。本当に、美しい」 舐め回すような、目。 肉体ではなく精神の奥底、魂――意識を覗き込まれるような錯覚に軽く眩暈がした。 「そんな目で見ないで」 「これは失礼。いやいや、非常に都合がいいと思ってしまってね。失敬」 手を振るい、ジャンは小さく笑うと 「ツァーリを連れ帰るついでに、土産も手に入るなんてね」 指先を軽く蠢かせた。 「今日は番犬もいないようだから。いやはや。本当に都合がいい」 魔源に触れるような、柔らかな動きに怖気が奔る。 「……戦る気、なの?」 「戦うなんてとんでもない」 問いかければ、はは、とジャンは快活に笑い 「貰い受けるだけさ」 腕を伸ばした。 「っ!」 揺れ動く魔源の気配。 ジャンの唇がまたあの言葉を告げようとした――瞬間。 「やめろ」 口を開いたのはジャンでなく、ツァーリだった。 「ツァーリ?」 「帰るぞ」 ベンチから立ち上がり、大股でツァーリはジャンに向かって歩いていく。 空間移動の術式を展開させながら 「己が、帰ると言っている」 朗々とした声で言い放った。 「その女に手を出すな」 「ツァーリ。珍しいね。君が誰かに肩入れするなんて」 「肩入れなどするか。己は今、気分がいいだけだ」 わずかにずれている答え。ジャンはそれに気づいているらしく、苦笑したように目を細めた。 その目はやはり親愛の情に溢れている。 一瞬思い描いたのは光の庭に立つ祖母の微笑。 この男の苦笑は、その笑みの色によく似ていた。 ……決して認めたくはないけれど。 ジャンの、ツァーリを見る目は家族を見る目をしている。 「お前は己を怒らせたいのか。ジャン」 展開術式の前で歩みを止め、肩口からツァーリは振り返った。 怒りに見開かれた紫の瞳。強い言葉。 彼を中心にして揺らぐ魔源は、ジャンの返答次第では刃へ変わろうとする気配があった。 ぴりぴり張りつめる力。ヤトのそれにも似た強大な力に息を呑む。 「――やれやれ」 一拍の沈黙を置いて。 ジャンはそう言って仰々しく肩を竦めてみせた。 「仕方がない。今日のところは、ツァーリに免じて赦しておくとしよう」 ――別に今日だけじゃなくて一生でお願いします。 言いたくなったが、余計なことを言って不意打ちをかまされるのもたまったものではない。 黙って、二人を睨みつけながら動向を追う。 どうやらジャンは本当にツァーリの言葉に従うようで 「では、御嬢さん。またいずれ」 格式ばった一礼をすると、優雅に後ろ手を組みながら歩き出した。 ジャンを睨んで立ち止まるツァーリの肩を軽く叩くと、そのまま移動術式の中へ消えていく。 その後ろ姿が完全に消えてから、ツァーリは肩の力を抜いたようだった。 は、と溜息に似た吐息を一つ。 「おい」 こちらへ向き直る。 「何よ」 「お前、名前は」 「……あ」 今更のように。 私はツァーリに対して名前を言っていなかったことに気づいた。 ツァーリは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、何も言わない。 またあの紫の瞳でこちらを見ている。 言おうか、言わまいか。逡巡する。 だって、こいつらは異質だ。 塔央だけでなく、魔術師世界においてもあってはならない集団かもしれない。 秘術禁忌式を局以外に保有する「不穏分子 イレギュラー」たち。 私は関わりたくない。けれど―― 「瞳子よ。壱儀、瞳子」 何かが。何かが私を突き動かした。 「トウコ――瞳子、か」 異国の響きが、魔源を含んで共鳴する。 ツァーリは含むようにして私の名前を呼んだ。 そうして、唇に不敵な笑みを浮かべると何も言わずにそのまま踵を返し。 ジャンの後を追って、空間術式の中へと言えていった。 取り残される私。 「あ」 ハンカチ。持っていかれたままだ。 「……ま。いっか」 きっとこれが最後ではないと。 そんな予感がしていた。 ……が、まず。 とりあえず。 「と、いうわけで。遅れたのはそう言う訳です」 既に勢揃いしていたヤト、確、エリスの前で私は一部始終を語ることにした。 事務所の扉を開けたら開口一番、遅い!とヤトに文句を投げられてしまったので切々と弁明する。 こちとら危うく命を取られそうになったのに。 理不尽だ。 ともあれ。 ジャンとツァーリに遭ったこと。 アルと言う第三者がいること。 彼らは"世界を気まぐれに旅している"こと。 ツァーリから引き出せた内容を語れば、確は驚きに目を見開き、ヤトは目を細めて黙り込んでしまった。 ……ツァーリ自身の境遇らしきものについては口を噤んでおいた。 別にべらべらと話すことでもないだろうし――この件には関係がないと思ったからだ。 時期が来れば話すかもしれないけど。 安い同情で他人を許すほど、ヤトは優しくもない。だからきっと話しても意味のないことだ。 「――瞳子」 先に口を開いたのは確だった。 「何」 「そういうときは呼べ!!」 耳をつんざく大音量。 腹式呼吸を利かせた大声に鼓膜が破れそうになる。 あ、耳鳴りしそう。 「昨日どんな目に遭ったか忘れたのか!何も無かったからよかったものの、もしそのツァーリとやら止めなければどうなっていたことか!」 「ちょ、ボリューム下げて」 「分かっていないようだから大きくなるだけだ!」 声の大きさと理解の度合いは比例しないと思うのだが。 ツッコめば火に油を注ぎそうなので、黙る。 確は眉をひそめて、私を睨みつけていた。 「だって、変な動きしたらナニされるか分からなかったし、携帯は見つからないし」 「……」 「出来ることがあればいいなって思ったの。別に関わりたくもない事件のことだけど……やられっぱなしは性に合わないって言うか」 「……」 「以後、気をつける」 「……」 ごめん、ともう一度言えば、確は溜息をつき、肩を竦めた。 怒鳴ってずれた眼鏡を直し、 「……過ぎたことに怒っても、どうしようもないか」 深呼吸をした。 「聞いてきた話は有用なようだしな」 そして、ヤトを見る。 問答無用に「遅い!」と文句を投げてきた割にヤトは黙り込んでいた。 珍しい。話し出したころからじぃっと黙って――明後日を見ている。 組んだ足を本の上に投げ出し、彫像のように固まるヤトに確も気づいたようで。 「ヤト?」 どうした、と問いかける。 近づくとついこの間みたいにいきなり飛びかかってくる可能性もあり、軽く近づくことは出来ない。 確は遠目から様子を伺う。まるで猛獣への扱いだ。 まあ正直なところ。こいつは言語を喋る猛獣ではあるのだが。 そのケダモノは嘆息を一つ、本から足を下ろすと軽やかな仕草で立ち上がり 「出るぞ」 私たちを見た。 すかさず用意を始めるエリスの手。 礼装に飾られながら、ヤトの表情は鬱陶しげだ。 「何処へ」 問うと、顔がさらに忌々しそうに歪む。 形容するなら「うへあ」とでも言うのか。子供が注射される寸前のような顔をすると 「僕がこの世で一等嫌いなところへだ」 吐き捨てるようにして言った。 それから。確の運転する車に乗せられて、私たちは街に出た。 普段、ヤトが外出するときはエリスが乗り物(例の馬鹿でかいバイク)を運転するのが常なのだが (何しろ魔道人形。大抵のことはマニュアルを叩き込めばその通りに動いてくれる) 昼間は目につくのが交通法規的に拙いとのことで、今日は大人しくヤトの隣に座っている。 後部座席に座ったヤトはふんぞり返って、確に向かってあっちだこっちだと指示を出していた。 何処に行くつもりなのだろうと最初は疑問に思っていたが、到着した場所に――。 (あー……なるほどね) ヤトがああ言った理由をうっかり納得してしまった。 塔央市の中心街。工房街より少し離れたオフィス街にそこはある。 魔術監督局『塔央事務局』 東の門に有る魔術に関する「全て」の物事の管理・監督を行う役所だ。 国の首都と言えば東京だけれども、魔術に関する案件は土地柄ゆえ、全てこの塔央に集中している。 魔術師たちの首都・塔央、と言ったところかもしれない。 この塔央事務局は、そんな東の門に住まう魔術師たちにとって非常に重い意味を持っていた。 魔術師の管理登録に始まり、秘術式、禁忌式の管理登録、魔術関連の事件事故の監視や後処理。 警察の魔術課と共にその一切を請け負っている場所だ。 見かけはガラス張りの、透明感ある普通のオフィスビルであっても。 中に入れば、空気は一変する。 術式によるセキュリティを解除して中へ入れば、市街にあっても涼やかな魔源の空気が肌を震わせた。 職員の姿はフロアにない。靴音だけが高く響く。 上へ向かうエレベーターの前にも誰もいない。 一般のオフィスビルなら警備員でもいるところだろうが、ここではそれも不要だ。 手を翳し、小さく開錠の呪文を口にすれば、エレベーターは動き出す。 やってきたそれに乗り込んで、押したボタンの行く先はフロアの最上階だった。 上昇を始める鉄の箱。 「久しぶりじゃないのか?」 沈黙に耐えられなくなったのか。確が口を開いた。 どこかからかうような眼差しだ。 眼鏡の奥の瞳がにやついている。 「本当は、一生会いたくなどない」 ヤトはと言えば、先程から注射をされる前の子供の顔で、横顔はしょっぱさに満ち溢れていた。 「随分嫌いなんだな」 「その口を今すぐ閉じろ、確。でないとはっ倒すぞ」 エリスが。 とヤトは確を睨みつけた。すると横にいたエリスがこくんと頷き 「はっ倒すぞ」 にきにきと両手の指を動かした。 ……何をするつもりなのか。 幼女にはっ倒されるのはある種のご褒美かもしれないが、中身は幼女とはかけ離れている。 鉄人ん号にも匹敵する馬力にはっ倒されるのは、ちょっとご遠慮願いたい。 「図星を差されるとこれだ」 口は閉じないが、話の矛先をこちらに向ける確。 まあ、それが賢明だろう。 「いつもでしょ」 思わず苦笑する。 「私も正直同じ。確はよく会うんだっけ?」 「仕事上な。避けて通れない」 「なら耐性が出来てるのよ、きっと」 「……俺だって本当はきついぞ。慣らされただけだ、多分」 はあ、と溜息。 世の中には色んな人がいて。 どうしても叶わない人種がいると思い知らされる。 魔術師ってのこれだから。とは、また違う話だ。 エレベーターが止まる。 軽やかな電子音がして開くと、また魔源がたっぷりと含まれた涼しい空気が頬を撫でた。 一階よりもさらに濃い、魔力の気配。この階の主もまたとびきりの魔術師だ。 エレベーターホールから真っ直ぐに、フロアにたった一つの扉がある。 そこがヤトの目的地。 ヤトの横顔がより険しくなった。 扉の前に立つ。 ヤトは大きく息を吸い込み、腰に両手をあてがうと―― 「邪魔するぞ、暇人ッ!!」 腹式呼吸で発せられた大声で一声叫び、その足を振りぬいて扉を蹴飛ばした。 哀れ、軋んだ音を立てて両の扉が開く。 無礼も無礼。というかまず人間として問題外だが―― 「あらまあ。いらっしゃい。相変わらず元気そうで嬉しいわ、ヤトちゃん」 相手も相手なので、助けられたとでも言うべきか。 扉の奥。真正面に据え付けられた大きな樫の仕事机に、その女性は座っていた。 臙脂の天鵞絨で飾られた、豪奢な椅子に身を預けて、今しがたの乱暴狼藉をたおやかな微笑みで見ている。 弧を描く長い髪と柔らかく笑う大きな瞳はヤトと同じ色をしていて。 漂う魔力の空気までも似ているのはやはり 「気色悪い呼び方をしてくれるな、セリカ」 「余所余所しい呼び方は寂しいな。お姉ちゃんって呼んで、ヤトちゃん」 姉弟、だからか。 ――莢神セリカ。 莢神家の長女であり、魔術監督局『塔央事務局』の局長を務めている人物だ。 哉人が『門番』であるならば、彼女は『管理人』 東の門における魔術の流れの一切を取り仕切っている。 実践的な魔術師としては弟の哉人のほうが上だ。 汲み上げる魔源の量も、術式の行使の仕方も。 それは彼女自身も認めていることで、だからこそ長女でありながら莢神セリカは家督を継いでいない。 でも、その威圧感と言うか、雰囲気と言うか。まとうものの重さは末恐ろしいものがある。 浮世離れした雰囲気は、初対面の人間なら必ず気圧される。 て言うか気圧された。 (……そう言えば) もう一人の弟はどうしているだろう。 ふとそんなことを思いだした。 莢神本家には三人の子供がいて、世理歌、哉人と来て、もう一人弟がいるのだが―― 「瞳子ちゃんに確ちゃんにエリスちゃんも。こんにちわ」 "逃思考"を遮る声。ふわふわと地に足のつかないような柔らかな声が私を現実に引き戻す。 視線をやれば、セリカさんはじっと私を見ていた。 お祖母ちゃまにも似た、包み込むような瞳。 苦手だけど、好き。好きだけど、苦手。 そんなじれったさが胸を疼かせる。 「ど、どうも」 「元気そうで何よりね。瞳子ちゃんと前に会ったのは、年初めの集まりだったかしら」 「はい、そうだったかと」 「そう」 にこにこ優しい笑顔。まとう威圧感以上に、彼女を苦手な理由がここにあって 「じゃあ、そろそろ気持ちは決まったかなあ?瞳子ちゃんがヤトちゃんのお嫁さんになってくれるの」 ――こんな頭のネジがはち切れたことを顔を合わせるたびにのたまってくれるからだ。 「いえ。それはちょっと」 「まだ決まらないの?すこぉしお転婆だけど、ヤトちゃん、とってもいい子なのよ?」 お転婆って。幼女に使う言葉だろ。 ツッコみたいがセリカさんに限ってはツッコみようがない。というかツッコめない。ツッコめば死ぬ気がする。 そもそもいい子でもない。こんな猛獣の嫁さんとか有り得ない。絶対有り得ない。 永久就職するにももっと別の人間がいるだろと声を大にして叫びたいがセリカさんは笑うばかりだ。 「早く、瞳子ちゃんにもお義姉ちゃんって、呼ばれたいな」 「……」 字が。字が重すぎる。 「セリカ」 放って置けば永久に続くであろう勧誘を、苛立たしげなヤトの声が遮った。 そう言えば、ここに来たのはセリカさんに会うためだったのだろうか。 四六時中こんな感じで掴みどころがないので、ヤトは「姉」には弱い。 基本的には天敵と言うか、ヤトが避けて通る唯一の弱点でもあるのだが……。 「図書館を開けろ」 渋い顔のまま、ヤトはそう言った。 その単語に、ここまで来た理由に納得がいく。 事務局にある保管庫、通称「図書館」は魔術に関連するあらゆる登録内容を納めた「魔術の歴史」を具現化したものだ。 辿れば、世界のあらゆる事象に辿り着くことが出来る。 問題は全てと豪語できないぐらいか。 表舞台に出た魔術に関する事件だけが、ここには流れ着く。 何を以て図書館を見たいのかは不明だが――ジャンやツァーリとの邂逅から思うものがあったのだろう。 「あら」 ヤトの言葉に、笑っていたセリカさんが、やんわりと笑みを解いた。不思議そうな表情で 「何の用事かな。事件のことなら、確ちゃんに言えば警察署のライブラリを開けてくれるでしょ」 と、問う。 「貴様がどこまで今回の事件を知っているかは知らんが、必要だから開けろと言っている。見たくもない顔を見てやっているのはそれが理由だ」 「宝石魔術絡みの、秘術禁忌式の件でしょう?確ちゃんから話は聞いているけれど」 「なら開けろ」 「ヤトちゃんの頼みなら聞いてあげたいけど、正当な理由がない限り、開示は出来ないの。知っているでしょう?」 「開けろと言っている」 強い口調。しかしセリカさんも退きはしなかった。 いやむしろ――退くも何も、ない。 「ここは、例外を許さない場所よ」 それが世界のルールだのに、何故駄々を捏ねているのかと疑問に思っているだけのようだった。 真理に抗う者を憐れむような目でセリカさんはヤトを見ている。 だがそんな目で見れば見るほど、ヤトの視線も冷たさを増す。 刃物のように鋭い眼差しでセリカさんを睨み、ヤトは口を開いた。 「事件解決に辿り着くためだとしてもか」 「そんな漠然とした理由では、此処を開けなくてはいけない必然性を感じられないわ。警察署ではだめなの?」 「貴様らの怠慢の後始末をしてやろうというのに」 「それを言われると辛いな。でも、悪い子たちは勝手に入って来ちゃったんだもの。しょうがないじゃない」 「貴様らが手引きでもしたんじゃないか」 「……哉人ちゃん。言っていいことと悪いことがあるの、分かる?」 セリカさんは笑う。 だがその笑みは、寒気の奔るような――アルカイックスマイル。 ヤトが堂々と、地雷を踏んだのがこちらにもわかった。 だがヤトはわざと踏んだのだろう。 彼とてここに来たからには諦めるつもりはないに違いない。 「僕は事実を言ったまでだ、セリカ。あれらが、貴様らの目を逃れて東の門に潜り込んだ。その事実をな」 「……」 「あ、の。セリカ、さん」 このままじゃどこまで行っても平行線だ。 会話の切れ目に手を上げる。 「なあに?」 ヤトに向けるのとはまた違う顔をして、セリカさんは言った。 なんかもうわざとなんじゃないかと思うぐらいの変わり様に一歩退きそうになる。 が、何とか踏みとどまって 「その、宝石魔術の事件の犯人、なんですけど。使ってる術式がだいぶ昔の、しかも西の門方面の術式らしくて」 ヤトから漏れ聞いたことを並べてみた。 「あら」 「どうやら複数犯みたいですし、もしかしたら、過去に事件の手掛かりがないかな……とか、思ったり」 「あらあら」 「だから、見せてもらえません?図書館」 お願いしてみる。一度、目を瞬かせ。 それからセリカさんは優しく笑うと 「それならしょうがないかなあ」 椅子から立ち上がった。 「おい」 「私たちの局から古い術式が持ち出された形式はないわ。でも西の門や、もしかしたら央の城方面ならあり得る話ね。 そのまま東の門へやってきた……という可能性も捨てきれないし」 「おい」 「いいわ。許可しましょう。事件解決のために頑張ってね」 「おい」 「なあに。ヤトちゃん?」 先程から「おい」を連呼していたヤトに、ようやくセリカさんは答えた。 ほわほわと柔らかい笑顔を浮かべているが、対するヤトは顔面が崩壊しかかっている。 眉根を寄せて忌々しそうにセリカさんを睨み 「私情は挟まないんじゃないのか」 「挟んでないわよ?」 「瞳子が言ったらすぐ開けるとは何事だ。僕の言うことを聞いていなかったのか」 「聞こえていたわ」 「なら」 「だって」 ふふ、とセリカさんは笑うと――ヤトの頭を。 「ヤトちゃんが私に一生会いたくないなんて言うんだもの。イジワルしちゃった」 優しく撫でた。 「!」 そのセリフに、思わず確と目を合わせる。 (聞こえてた?) (みたい、だな) 目と目で会話しながら、噴き出す汗を一緒に抑える。 エレベーターの中には盗聴器でも仕掛けられているのか。 ……いや。そんなデジタルなものなんて使わなくても。 魔術師、なら。 (なにそれ怖い) 勘弁してよと顔をひきつらせている間に 「それに、乱暴に開けろ開けろって言われると逆に開けたくなくなっちゃうもの。ヤトちゃん。瞳子ちゃんたちがいてよかったわね」 セリカさんはヤトから手を離した。 「子供みたいな我儘は、通じる相手と通じない相手がいるってこと。分からない年齢でもないでしょう?」 柔らかい窘めに、ヤトは鼻を鳴らす。 正論と言えば正論。なのだけど。 この猛獣が素直に聞くものか。 変わらぬ冷たい表情にセリカさんも苦笑した。 ここで怒らないのが、姉たる所以なのか。それとも。 「通じるも通じないもない。僕はただ、通すだけだ。莢神世理歌」 これもまた魔術師だからか。 一瞬、セリカさんの表情が曇る。 「興味のない事象に手間をかけるつもりはない。僕は、この事件を解決する義務がある。 全てを語らせるつもりか、セリカ?そんなものは時間の無駄だ」 「ヤトちゃん」 「大体」 はあ、と大仰な溜息をついて。 ヤトは肩を竦めると 「貴様相手に、余計な会話など要るか。もう何年貴様と付き合っていると思っている」 早くしろ、と犬猫相手のように手を振った。 優雅なしぐさだがやっぱり無礼だ。 ――が、今の台詞は―― 「あら」 セリカさんを、近しく思っていると告白したも同義だ。 喜色の乗るセリカさんの顔に、ヤトはまた顔面を崩壊させる。 これ以上は眉間に修復不能なヒビが入りそうだ。 そんな歪みまくりのヤトを見て、セリカさんはうっとりすると 「やっぱり。ヤトちゃんは可愛いわね」 はう、と感嘆の吐息を零した。 「そう言う気色悪い言葉を吐くから、僕は貴様の顔を見たくないのだッ!!」 まあ――一般の青年男子が家族に言われて嬉しい言葉ではないか。 ようはヤトは照れくさいのだろう。随分と遠回りで、分かりにくいけど。 というかそんなヤトを受け入れられるセリカさんはやっぱり強い。 「……瞳子ちゃん」 「はひ?」 などと思っていると矛先がこちらを向く。 慌てて返事をすれば、満面の笑みにぶつかった。 「ね?ヤトちゃん。いい子でしょ」 「えー……と」 「瞳子ちゃんが義妹になってくれる日を楽しみに待ってるわ。だから」 頭を、撫でられる。 優しい手。いい子いい子とする柔らかな手は気持ちよいが 「苦手なんて寂しいこと言わないで、ね?瞳子ちゃん」 ――やはり苦手なことに変わりなく。 「確ちゃんはまた別の日にお説教ね。仕事相手に対する言葉遣いを教えてあげる」 全員揃っても叶わないのだと思い知らされるだけだった。 執務室の一角にある書棚の前に、セリカさんは立った。 何の変哲もない書棚だが、柔らかな声でセリカさんが言葉を口にすると、そこにはぽっかりと人が通れる大きさの黒い穴が開く。 先は全く見えない。 しかし、ヤトは何のためらいもなく歩き出した。 その後を続くエリス。セリカさんに一礼してついていく確。 置いて行かれてセリカさんと二人きりになるのも、と歩きかけて。 「瞳子ちゃん」 呼び止められた。 「はい」 「ヤトちゃんのこと、よろしくね」 「……あれが私に面倒見切れる生き物だと思えないんですけど」 本音が転がり出る。するとセリカさんはそうね、と実に楽しそうに破顔した。 「うん。瞳子ちゃんは振り回されるのが似合ってると思うわ」 思わず渇いた笑いが出た。 腐れ縁とはいえ勘弁していただきたい。 と、思っているとふとセリカさんは目を細め 「でもね。哉人ちゃん、本当に瞳子ちゃんのこと大切に想ってるから」 「――はあ」 「最後まで、一緒にいてあげてね」 そして、背中を押される。 「瞳子」 「あ。すぐ、行く」 確の呼び声に応えて、三人に追いかける。 セリカさんはただ笑って手を振っていた。 ――一緒に、って。 冗談じゃない。大体、ヤトが誰かのことを大事に思うとか想像もつかない。 自分中心の唯我独尊男だというのに。 「遅いぞ、瞳子」 追いついた途端の一言。 この野郎とは思いつつも、別に、と答える。 ヤトは前だけを見ている。暗闇はまだ続いていた。 術式で作られた亜空間。 歴史を人の手に収めるために作られた図書館はどこまでも薄暗い。 「ちゃんとついてきなさい。迷子になっても僕は探してやらないからな」 「こんなとこで迷子になるわけないでしょ。幾つだと思ってんのよ――って、ぶっ」 いきなり立ち止まるな。 予告なく止まったヤトの背中にめり込む。 「いった……」 鼻をさすりつつ(そんなに痛くもないけど気分の問題だ)ふと辺りを見渡す。 暗闇に目が慣れる。 そこには、一脚の椅子と丸テーブルが置いてあった。 唐突に現れた家具。それが本物か、もしくは魔術で作られたものかはわからない。 ただ、その前で止まると 「ここまでの屈辱を受けて何も見当たらなければ」 ヤトは右手をゆるりと 「全てを破壊してやる!」 真一文字に薙いだ。 瞬間、金の光が闇に咲く。 振るった腕の軌道に添って切り裂かれる闇。裂け目は次々に広がる。 その合間から姿を見せたのは、巨大な書架だった。 ヤトを中心にして、本が収められた書棚が次々に出現する。 同時に足元の闇も落ち着いた色の絨毯へと変わっていった。 現れる天井。下げられたシャンデリアの明かりが点くと、周囲はすっかり洋風の書斎へと変貌していた。 だがその果ては見当たらない。 並べられた書架の果ては、闇の向こうにある。 これは、魔術師たちが重ねてきた膨大な記憶だ。 「すごいな。相変わらず」 は、と感嘆の息を吐く確。 しかし答える声はなく、ヤトは無言で指を鳴らした。 途端、書架の内から一冊の本が浮かび上がり、ヤトの手の内に落ちる。 書名も何もない茶の表紙。それをヤトはやんわりと撫で、めくって読み始めた。 「何を探すんだ?」 手伝うぞ、と確もまた書架に手を伸ばす。 「変質者の歴史でも探しておけ」 「……抽象的な返答痛み入る」 深い溜息と共に、確はヤトは反対方向に踵を返した。 後で頭を突き合わせてご高説賜ることになるかもしれない。 突っ立つのも何だからと、私も本棚に向かうことにした。 事務局に図書館があることは知っていても、実際に入ったことはない。 とりあえず手近な本を取る。だが、見かけの分厚さよりもすごく軽くて。 中をめくるが、何も書いていなかった。 「探したい情報を思い浮かべなさい」 疑問を浮かべたと同時にヤトの声がした。 向き直ると、本に目線を落としたままヤトが口を開いている。 「そうすれば勝手に浮かび上がる」 「へえ……」 言われるままに目を閉じる。 ふ、と思いついたのは宝石魔術についてだった。 意識を集中したのは一瞬。目を開ければ、白紙だったページには文字が躍っている。 目を通せば、そこには教科書に書かれている「宝石魔術」の説明が並んでいた。 定義から実践方法、発動させるための力ある言葉まで。 「すご……」 どんな術式の仕組みなのか。思わず呟いてしまう。 インターネットの検索エンジンのようなものだろう。 説明の記述の後ろは、また白紙だ。 (秘術禁忌式、宝石魔術を) と言葉を区切って、頭に描けば白紙のページにまた文字が浮かぶ、が。 途中まで筆記したところで赤い文字が躍った。 『以下閲覧制限』 「ここから先は、許可を受けた人間しか見れないということだ」 驚いていると、横に立った確がそう言った。 「事務局の"図書館"の閲覧は莢神局長の許可がないとできない…が、一部の情報は許可された人間に対しても閲覧が制限されている」 「確は?」 「俺ならこの先も閲覧は出来るだろうが、許可された人間以外の存在を感知したら作動はしない。厳しいセキュリティだが、これも莢神の秘術式の一つだな」 「へえ……」 なら、これから先は確に見てもらって、話を聞くしかないだろう。私は一度、本を閉じた。 というか、この図書館のシステム自体も「莢神の秘術式」なのか。 目線を、エリスにやる。 エリスはヤトの傍に控えて、じっと主を見ている。 彼女の疑似生命を生み出したのも「莢神の秘術式」だ。 本来なら隠匿され、表に出されることのない秘術式をいくつも抱えて自由に管理しているのは、 ひとえに莢神と言う魔術師の特権であるとしか言いようがない。 東の門の、魔術の管理人。 生粋の魔術師だからこそ国にも許され、ほぼ全権を預けられている。 その矜持故に道を踏み外すことはないと信じられているからだ。 (つくづく) 嫌になる。そんな魔術師の傍にいる自分が。 豪奢な、偽りの洋室の中で独り、考える。 逃げられもせず、拒否も出来ず。中途半端に足を突っ込んで、振り回されて。 私は――普通でいいのに。 眠気をこらえながら勉強して、放課後になったら友達と買い物に行ったり、部活にいそしんでみたり。 辛いけども、楽しい学生生活。 でも、今私がいるのはそんなものとは無縁の生活。 魔術師なんて嫌なのに。 (どうして) 私は壱儀の娘なんだろう。 そんな疑問の根源まで辿り着く。答えは、今も出ない。 静かに、私は制服の下のネックレスを握りしめた。 「……これだな」 そのとき。ヤトが再び口を開いた。 再び指を鳴らすと、SF映画なんか見るような半透明のブルースクリーンがいくつも空間に浮かんだ。 そこには文字と写真。どうやらそれぞれに、本のページが映し出されているようだ。 「宝石魔術が秘術禁忌式として使われた事件の資料か」 スクリーンをざっと見て、確が目を細めた。 確の言うとおり。掲示されているのは事件の資料だった。 古いものなら1800年代の日付が。 新しいものだとついこの間塔央で起きた、ジャンによる事件が載っている。 事件発生日の日付、被害者、加害者、事件のあらましなど。それがいくつも。 被害者の写真や犯人として捕まった加害者の写真もある。 その写真が白黒からカラーに変わっていく過程は、何だか時代を感じさせた。 「これがどうしたんだ?」 パッと見では、今回の事件に関連した資料を提示しただけに見えない。 確が問うと、ヤトがゆっくりと腕を組んだ。 「最初の事件と最後の事件を見比べろ」 「最初と最後?」 不思議なことをいうものだと思いながら、確と一緒に資料を追う。 最後の事件――は、ジャンの事件だ。帰宅中の女子高生が襲われた事件。 では一番最初の事件は、とページを送れば、1800年代の古い資料が出てきた。 場所は西の門が管轄する欧州でのこと。 花売りの少女が宝石魔術により命を奪われた、と記述がある。 犯人はその街の伯爵。 身寄りのない彼女の命を奪ったのち、伯爵は当時の西の門の魔術師たちによって追い立てられたとある。 だが捕縛直前。屋敷に立てこもった伯爵は屋敷に火を放ち、全てを灰燼に帰した、と。 死体も、少女の魂が込められた宝石も見つからず、事件は犯人死亡のまま、全容が明らかになることもなく幕を引いたようだ。 これは西の門の魔術師たちと当時の司法組織が残した記憶のようだが。 「見比べるって言っても――」 何を、と資料をもう一度上から見直したところで、私と確は息を呑んだ。 被害者の少女の名前の下に、それはあった。 加害者『ジャン・クロード=アシル』と。 「ジャン!?」 まさか、と資料を見る。 載っているのは精密な似顔絵だが、そこにある顔は紛れもなく、あのジャンの顔だった。 「もしかして親戚筋か?」 「にしては似すぎてるでしょ。てか、時代が百年以上前なんだから親戚にしたって……」 「不自然、か。ヤト、これは」 「言ったろう。西の門の、100年以上前の術式が使われている、と。ならばそこから当たるのが筋だ」 確の問いかけに、珍しくヤトが普通に答えた。 「案の定ひっかかった」 「でも、こいつと、こいつの事件があのジャンと何の関連があるって言うの?まさか、同一人物だというわけじゃ」 「……そのまさか、も有り得るのが魔術師だろう。瞳子。君の目の前には今、何がある?」 言うヤトは、エリスの頭を軽く撫でた。 エリスのガラス球の瞳が私をじっと見る。 見慣れているはずなのに。 何故か――寒気が奔った。 「ジャンが魔術を悪用して、もう100年以上も生き長らえている、ってこと?」 「否定も出来まい。こんな悪趣味のド変態、二人も要らないね」 「だが、ヤト。『生命や魂を扱う秘術式』を行使できる魔術師など、そういない筈だが」 確の言葉にヤトは目を細めた。 ――言う通りだ。 魔術に限らず。太古の昔から「生命」や「魂」に関して「世界」はひどく厳しい。 死んだ人間を生き返らせようとしたり、不死を求めたり、「世界」に生まれ来る生命の摂理を捻じ曲げようとしたものは大抵酷い目に遭っている。 それが世界の意思だというかのように。 魔術の分野においても同じことが言える。 いや、「世界」の機嫌と共に生きる魔術師たちだからこそ敏感かもしれない。 「生命」と「魔源」はほぼ同義――どちらも「世界」の生み出すもの。 力ある言葉で扱うことが出来ても、取り扱いを誤れば死に至らされる。 よって、その術を行使できるのは莢神をはじめ、ほんの一握りの魔術師だけだ。 「そのようだな。僕は興味ないが」 「おい」 「だが、ジャンと言う男が宝石魔術のみならず、生命魔術も行使するような魔術師には到底見えない。その気配もない」 そこで、とヤトが再び指を鳴らした。 「瞳子。君が聞いてきた名前だ」 ジャンの情報が並べられたスクリーンの横に、もう一つスクリーンが出る。 そこには名前がつらつらと並んでいた。 数は確の言うとおり、多くはない。 東の門における莢神のような、西の門と央の城の魔術師が数人並んでいるだけだ。 「ツァーリとやら、あの小僧っこは除外だ。あんなものはペーペー、パシリの分際。面に浅学が滲み出ている! ならば、三人目のアルとやらが使い手に決まっている。登録されている魔術師で名前に「アル」の響きをもち、なおかつ生命魔術も行使できる魔術師――となれば、数もそう多くはない! ……一人ずつ、丁寧に当たれよ?確」 「俺かよ」 「当たれよ。確」 「エリスもか」 はあ、と溜息つき確は肩を落とした。 ずれた眼鏡を押し上げて、ヤトを少しばかり呆れたように見やると 「大体だ」 「何だい」 「犯人の素性を今更調べてどうする。この街、もしくは周辺にいることは分かっているだろう。その居場所を探るのが先じゃないのか?」 「む」 「そもそも。ジャンが百年前に事件を起こしたジャンと同一人物かもわからないし、同一人物であろうとなかろうと事件解決には影響が――」 「エリス」 「……(こく)」 ヤトの命令にエリスが動いた。 小さく頷き、とことこと確の前に立つと 「げはッ!?」 問答無用で一発。腹に拳を叩き込んだ。 うわあ。えげつない。 「影響は、ある。僕があると言ったら、あるのだ!存在するのだ!意味が生まれるのだ!!」 「ごり押ぐふッ!」 エリス。二撃目。 「敵を知ってこその戦だ。どんな輩が立ちふさがったとて、僕の庭でうろちょろするのなら徹底的に叩きのめす。 根こそぎ!あらかた!末代までもぶちのめす!それだけだ」 じゃあやっぱり調べなくてもいいんじゃないかと思ったが、エリスの拳を食らいたくはないので黙ることにした。 そう。情報は大事だ。 大事……。 (……) ヤトは思いつきで、事務局まで来たのかもしれない。 そんな気がする。 そもそも勘で動く傾向のある男だ。今回のことだって単に思いつきに違いない。 と、は思うけれど――。 「……」 ふ、と。ジャンの資料を見上げる。 似顔絵の男は穏やかに笑っている。夜闇で、工房街で見たのと同じ虚ろな穏やかさで。 響くのは。 ――いずれ、また。君の輝きは稀にみる美しさを放っているようだ―― ――この宝石は貴女の心の輝き。貴女の魂そのものなのですよ―― お祖母ちゃまに似た言葉を紡ぐあの男の声。 忌まわしい声のはずなのに。 どうして同じ言葉を告げるのか。 あの男は私に何を見ているのか。 不安が、這い寄る。 でも誰にも言えやしない。 これはきっと、私だけの問題になるからだ。 寄る辺を求めて、また首飾りを握りしめる。 ほんのわずかに温かいのは――気のせいなのだろうか? 図書館を出れば、お疲れ様、とセリカさんが声をかけてきた。 どうやら事務仕事をしていたらしく、書き物をする手を止めて顔を上げている。 「……僕は行く」 セリカさんの顔を見て、ヤトはぼそりと言った。 「あら」 呼びかけにセリカさんが喜色を浮かべ何かを言いかけたが、それを聞く前にヤトは扉をぶち破って外へ出て行ってしまった。 「お邪魔しました」 「いいえ。お役にたてたかしら?うちの図書館は」 一礼する確にセリカさんがふうわり笑う。 「ええ。恐らくは」 「何かあればまた気軽に立ち寄ってね。今度は美味しい紅茶を用意しておくから」 「ありがとうございます」 「瞳子ちゃんも」 「はい……」 ヤトの嫁になれとか言わない限りは、と内心飲み込んで。 ひらひら手を振るうセリカさんに見送られて、局長室を出る。 が、エレベーターホールに、ヤトの姿はなかった。 エレベーターのランプを見ると下降している。 「先に行きやがったな……」 「でも待ってるヤトってのも何か気持ち悪くない?」 「それもそうか」 仕方なく、ボタンを押して待つ。 エレベーターはすぐに来て、私たちはヤトを追いかけた。 下にいればいいが、事務局を出ていたとしたらどうしようもない。 そうしたら昨日の二の舞になるかも……などと話しながら、エレベーターは一階に。 扉が開いたと同時に 「今日は厄日か!どうしてこうも見たくない顔が僕の前に集まる!」 それが杞憂だと一瞬で理解した。 確と顔を見合わせて、エレベーターを出れば、一階のホール中央でヤトが仁王立ちになって立っていた。 周囲に職員などがいないのが救いかもしれない。 静まり返る玄関ホールの中にはヤトと、 「そう言われても困ります、兄様。僕は姉様に用事があってここに来たのですから」 「そうそう。相変わらず怖いわねえ、ご長男様は。ねえ、エリスちゃん」 少年と男の姿。 「あ」 「やあ」 思わず漏らした呟きに、片方が私に気づいた。 「アサト」 「久しぶりだね、瞳子ちゃん」 そう言って笑うのは、先程顔が浮かんで消えた莢神三姉弟の末っ子、莢神吾慧(あさと)その人だった。 線の細い、中性的な体型。女性的にも見えるのは、男にしては少し長い弧を描く長い髪形のせいか。 私よりも一つ年下の。塔央学院の魔術科に在籍する――魔術師だ。 けれど優しく笑う表情は、セリカさんやヤトは違う雰囲気をまとっている。 あまり魔術師らしくないとでも言うのか。 雑踏の中に紛れても目立たない「普通の高校生」のような。 魔術よりは静かに読書をしているのが似合いの文学青年、と私は常々思っている。 莢神の一族であっても、ヤトほど良く知りもしないので、あくまで勝手なイメージではあるけど。 小さい頃は女の子に間違われていたり、ヤトの陰にいたような記憶があるような、ないような。 何故だか印象が薄い。 「今日も兄様と?」 「そ。引きずり回されてるところ」 「お疲れ様。確も大変だね」 苦笑するアサト。 柔らかい表情はどちらかと言えばセリカさんに近い。 「兄様のお相手も大変だよね。自分勝手だもの」 そんな笑みを浮かべながら、アサトはヤトを見た。 まあ、本人を目の前にずけずけ言う辺り、こいつも紛れもなく莢神一族の一員と言うべきか。 神経が図太い。 言われた本人は目を細めて、弟を睨んでいる。 図星を突かれたからと言う訳でもなく―― 「……」 忌々しいと言いたげに。 ……家族嫌いもここまで来たら立派かもしれない。 幼い頃や自分の弱点を知っている家族を冷たくあしらうのは、もはやヤトの悪癖だ。 それが分かっているのか、セリカさんも、もちろんアサトだって遠慮はない。 くすくす笑っている。 そんな弟に舌打ち一つ。 「無駄口を叩くな、アサト。さっさとセリカのところへ行けッ」 腕を大きく振るって、アサトを追い払おうとする。 「え?でも進路妨害してるのは兄様じゃないですか」 「そうそう」 ふふ、と笑うアサトの横でもう一人の男が相槌を打った。 (……あれ?) 視線を移して。 一瞬、視界が揺らいだ。 アサトによく似た髪形の、黒髪の男。 長めの前髪から、人外の色をした赤の瞳が覗いている。 生えた無精ひげ。目も鼻も口も、パーツそれぞれが大きく、何だかラテン系男性を思わせるような濃い顔立ち。 一度見れば忘れなさそうな顔だが (誰、だっけ) 記憶が、薄い。 確か――年初の集まりの時にもいて。 アサトの――。 頭が痛む。 思い出そうとすると―― 「ランドルフ。口が過ぎる」 そう言ったのは、エリスだった。 か細い鈴の鳴るような声。だが、嫌悪がはっきりと滲み出る声で。 いや、自発的に喋らない彼女が話した時点で――そこには絶対の意思が籠る。 男、ランドルフに向けるエリスの眼差しはひどく厳しかった。 「こりゃ失礼、先輩殿」 エリスの眼差しに男は肩を竦めて、一礼し、アサトの後ろへ下がった。 そう。そうだ。 名前はランドルフ。莢神家の魔道人形の一人。 ヤトにとってのエリスのように、アサト付の魔道人形だった、はず。 だが。何故だか彼を見ているとぞわぞわする。 何か、大切なことを忘れているような気がして。 何か。 「……どうした?瞳子」 具合でも悪いか、と確がこそりと囁いた。どうやら視線をどこかに飛ばしすぎていたらしい。 私は首を振るった。 きっと気のせいだ。 それを確認するために、あえてランドルフを見やる。 すると、満面の笑みとぶつかった。 どこか色気の漂ういかがわしい笑み。人形とは思えぬ、曖昧な感情の籠る笑みだ。 「しょうがないですね、兄様は。では、僕が道を開けますよ」 すると。溜息が聞こえた。アサトが肩を竦めて、ヤトに進路を譲る。 「これで満足、でしょうか。兄様」 「……」 「異議は無いようで。良かったです」 小首を傾げるしぐさは、まるで子供のようだ。 「じゃあ、瞳子ちゃん。僕は行くね」 「あ、うん。じゃあ」 そして、そのまま歩き出して行った。 アサトにランドルフもついていく。小さく投げキスをエリスにして。 エリスは一瞬だけ嫌悪を浮かべたが、それもすぐに消えた。 「……お前ら姉弟って……」 エレベーターの向こうに消える二人の姿を見送り、確が口を開いた。 言葉は続かない。だが大体、言いたいことは分かる。 お前ら姉弟ってどうしてこうなんだ。 それはヤトも分かっているのだろう。 「一緒にしてくれるな。怖気のする」 吐き捨て、ヤトは肩を竦めた。 同じように二人の消えたエレベーター方面を見つめる。 少しだけ鋭い色のする、視線。 「塩をまいておけ、エリスッ」 その色を双眸に残したまま、ヤトは踵を返した。 こんなところで塩をまいてどうするんだおい。 「にしても」 危うく塩を買いに行こうとするエリスを捕まえて留めながら、ぼんやりと確は言った。 「何をしていたんだ、アサトの奴」 「セリカさんに用事って言ってたけど……?」 「制服だったな」 「放課後でしょ。私だって此処に居るんだから」 「そりゃあそうだが」 「もういい!」 会話を遮って、ヤトが叫んだ。 凛とした声がフロアに響く。 「こまっしゃくれた小僧の話なんぞ胸糞が悪くなるだけだ、むかむかだ!それよりも捜査が先だろう。さっさとやれッ」 言いながら、器用に長い脚を振るう。 行け、行け、と犬にでもするような仕草と言葉に確は一瞬首を傾げたが 「奴らの居場所を探るのだろう。君、自分で言ったことをもう忘れたのかい」 馬鹿者、と言うヤトの台詞に確も思い出したようだった。 「転移術式の名残でも探して、奴らのねぐらを探しだせ。モグラ叩きぐらいはしてやる」 「そう、だな。そろそろ行くか」 次の行先が決まったらしい。回れ右をして帰ろうとするヤトの首根っこを掴んで、確が引きずっていく。 その後ろをちまちまついていくエリス。私も思わず逃げようとしたが 「瞳子、行くぞ」 ヤトの声がかかる。 「……はぁい」 しょうがない、と。私も歩き出した。 その後、事件現場を歩き(もちろん、私が初めてジャンと出会ったところも)彼らに繋がる手がかりがないかと探したが。 大したものは見つからなかった。 あの工房街での邂逅でツァーリからもっと情報を引き出せればよかったのだろうか。 そうは言っても、後ろ盾もなく、何をされるか分からない状態では限界がある。 周りがすごいからと言って、ネームバリューがあるからと言って、私なんかに出来ることは少ない。 魔術師としての私は頭でっかちで、力も何もないのだから。 魔術師なんて、なりたくないのだから。 捜査は夕暮れを越えて夜になるまで続き。 私は疲れた体を抱えて寮に戻り、食事を終えて――そのまま、泥のように眠りに落ちた。 消える直前の意識に思ったことは。 事件はいつ解決できるのだろうか、ということだった。 早く。 早く日常に戻りたい。 私は。 私は魔術師なんて。 嫌いなのに。