習作004




 ウルー帝政国家の起源は、農作業効率の向上を目的として形成されたウルー平野周辺の集落同士での共同体だとされている。彼らはその共同体の事を【ウルー】と呼び合っており、当時の言葉で【嫋やかな】という意味である。そしてつまりこれがウルーという土地の由来でもある。
 北にウェド山脈を臨み、平野を横断するように流れる大河、ウルー川。温暖な気候のウルー平野は広大で肥沃な土地であり、一定数以上の人間が集まれば雪玉が転がるように必要以上の蓄えが貯まっていくのは当然だった。そしてその財力を奪おうとする盗賊、または国家(国家といえるほどの規模ではなかったかもしれないが、限りなくそれに近いコミュニティ)が表れるのもまた当然であり、そしてその逆に豊富な財力、人力でもってウルー側から襲撃して土地を奪うという行為も、もちろん当然であった。裕福になったから略奪の対象になったのか、略奪に対抗するためにコミュニティが結成されたのか、はたまた略奪をするために生まれた帝国なのか。今となってはその理由はわからない。おそらくそれら全ての理由が入り交じっての結成だったのだろう。概して歴史とはそういうものだ。
 共同体にはリーダーが必要で、リーダーにはそれ相応の責任と、義務と、そして権利が保障される。最初はただ役割の一つだったはずのリーダーが、大きな責任でもっていくつかの危機と年月を乗り切ることによって、大きな高低差のある地位を得ることとなる。そうして【ウルー帝政国家初代皇帝ウルー一世】が誕生する。
 天才的な軍運用能力でもって領土を20倍以上に拡大させた第七代皇帝。国を安定させる政治法律の整備をした第十一大皇帝。もしくはウェド山脈から鉱石の発掘とその錬成技術の発達させたサルカン宰相。現在の強国としての地位を確立させたのは、こういった優秀な人材である。
 対して初代皇帝の出生や政治、言動については半ば神話じみた逸話しか残っていない。例えば“赤子の皇帝が死にかけた馬にふれたとたん、馬が立ち上がり生気漲ったいななきを響かせた”。例えば“北国の蛮族2千の兵を剣の一振りで叩き伏せた”。例えば“その方は人ではなく、つまり人から生まれる事はなく人を生む事もない”。この類の例をあげればきりがない。
 彼女らの時代でも、神官はこの事実の9割を真実だと考えている。反皇帝派の帝国議会左翼は9割が嘘っぱちだと考えている。一般の国民達は、まぁ半分くらいは本当かもしれない、程度に考えている。それはつまり、国民全員が少しは本当でもあるし嘘でもあると理解しているという事で、それだけの思想の幅が許されている時代、というわけだ。
 事実、こうやって第九十九代皇帝の元に【嫋やかな】帝国は民衆からの一定の支持の上に存在しており、そして次代の皇帝としてウプシロン、ユプシロン王女姉妹が帝国民から一定の支持を受けているのだ。


◆◆


 ウルー帝国首都サドキニスタ、その中心にあるサドキニスタ城前広場は大歓声があふれていた。帝国各地からはもちろん、その外からも人が集まり熱狂に身をゆだねていた。あまりに人が集まりすぎて、人によっては何故集まって何に熱狂しているのかさえわからないまま大声を上げ、石畳を踏みならし、手を振り回す。それを見下ろす位置にあるサドキニスタ城のテラス。そこに絶世の美女、いや美少女が二人立っていた。
 一人は小柄な少女。年頃は16、7といったところだろうか。全てを吸い込んでしまいそうな漆黒の髪を腰まで垂らし、濃藍のドレスでその桔梗のように細く折れてしまいそうな身を包んでいる。しかしその立ち姿は一本の確かな芯が通っており、たとえ城を倒すような大風が吹こうとも、彼女を倒す事は出来ないであろう。たれ目気味の眉の下には切れ長の瞳が覗く。その透き通るような碧眼は、彼女がこの帝国の後継者である証拠だ。彼女が小さく手を振ると、城下の民衆の歓声がさらに大きくなった。それを見た王女は小さくほほえむ。見た目の年齢以上に落ち着き払ったその態度が彼女からある種の妖艶さをも含んだ色気を漂わせる。
 もう一人は先の少女よりも一回り大柄で、体つきも女性らしい豊満な凹凸を持っている。その直視するのだけでも色気に当てられてしまいそうな大人の身体に白と銀のドレスを被せ、肩ほどまで垂らしている金髪とのコントラストがまるで彼女自身から光を発してるかのような活発さを表現している。勝ち気な眉のつり上がりと大きな碧眼の瞳からわかるように、未熟な内面の子供らしさが残っている。彼女が大きく手を振ると、また一回り大きい歓声があがる。大人の体つきと子供のような内面、その危ういコントラストで見るものは息をのんだ。
 前者の透き通るように清楚な少女が、ウルー帝政国家第百大皇帝第一後継者候補、ウプシロン姉王女。
 後者の力溢れる活発な少女が、ウルー帝政国家第百大皇帝第二後継者候補、ユプシロン妹王女である。

 ユプシロン妹王女が一歩ベランダの縁へ近づいた。王女達の後ろ、城の内部に控えていた衛兵が動揺するが、それをウプシロン姉王女が手を挙げて制する。妹王女は身を乗りだし、先ほどまでは視界に入りにくかった脇の方向へ手を振る。そちらには露天が多く立ち居並び、商人やその品物目当ての人々が集まっていた。王女の計らいに感動したかのように商人とその周辺の人々が歓声を上げる。
「ね、見て姉様」
 姉王女が近づき、奥ゆかしく手を振りながら妹が見ているのと同じ方を見る。
「あら」
 あはは、と妹が笑った。まるで向日葵が咲くような笑顔だった。

「あの間の抜けたアホ面でこっちガン見してる商人、下心見え見えで笑える。きっと夜は私たちで抜く気よ。きっと三発はイくわね」
「そうね。懇意にしている女性がいるようにはとても思えない顔つきですものね」

 高貴な笑顔を崩さないまま妹王女はため息をつく。下で彼女たちを称えている国民は、その崇拝の対象が耳にするのも不快な暴言を吐き散らしているるだなんて決して思いもしないだろう。つまり、まぁ、国民が信じている5割の内の一つの幻想は、あくまで幻想だったという話だ。
「ああいうのってなんか性犯罪とかおこす前に捕まえた方がいいんじゃない? 間違いない、三日以内になんかやらかすわよ、盛りのついた犬みたいに。誰それ構わず」
「あら、私犬は好きよ。なんでも言うこと聞いてくれるから」
「犬みたいに可愛ければそりゃいいでしょうけど」
 王女達が身じろぎすると、身につけた豪華な装飾がさらさらと可憐な音を立てる。
「まぁ仕方ないわね。私みたいな絶世の美少女を見れば、人も犬も発情するわ」
「うふふ、そうね、ユプシロンはいつも無駄に肉のついた身体で無駄に色気をふりまいているものね。きっともっと別のお似合いな職業があるわよ。娼婦とか」
「……お姉様が母様の中に胸とか脚とかお尻とか色々忘れていったおかげでね」
「ごめんなさい。かわりに頭のほとんどを私が持って行ってしまったわ」
 後方にいる衛兵にさえ気づかれないほどの大きさで、ほんの少しだけ妹王女の頬が歪む。姉はまったく反応を見せずに手を振り続ける。
「は、はぁ? つーかさ、なんなのそのドレスの色。暗っ。性格とか腹の色と同じ色してるのは何かのコーディネイト?」
「ええ、そうよ。大人っぽくって、理知的で、そして女性らしい深みを演出するために暗い色を主体にまとめているの。私らしくて素敵でしょう?」
「そうね。鬼畜っぽくって、冷笑的で、そして悪魔らしい深みがあるわよ」
「それに対してあなたは……」
 姉王女は妹の頭からつま先までを視線でなぞる。そして、はんっと鼻で笑った。
「な、何が言いたいのよ!」
 器用にも上品な表情や仕草を一切崩さずに姉にだけ聞こえるような大きさで妹王女が怒鳴った。
「これはね、私の活発さ、若々しさを表しているの! 陰気で根暗で湿ってるお姉様と違ってね!」
「そうね、若いわぁ。本当に若い。早く生理がくるといいわね」
「きてるわよ! とっくの昔に! 一ヶ月に一回!」
 流石に彼女達の様子に気がついたのか、式典管理の大臣が小さく咳払いをした。妹は慌てて民衆の方を向いて手を振る。姉は何事もなかったかのように――実際彼女にとっては何事でもなかったのだろう。姉王女はそういう人間なのだ――ゆっくり小さく手を降り続ける。
 空は何処までも透き通った蒼だ。ウェド山脈を背に立てられたサドキニスタ城からならば、ウルー側の向こうに大海が望める。目線を騒がしい城下からその水平線の先へ延ばし、ほう、と妹王女が息をつく。
「つーかさ、今日ってなんの日なわけ? 祭り?」
「呆れた。あなたそんな事もわからずに手を振ってたの」
「だって……。ここの所いっつもお祭りみたいなんだもの」
「そうね、それは良い事だわ」
「そりゃ私だってお祭りは好きだけど。流石に疲れるわ、これだけ連日だと」
 この季節はウルー平野は雨が少なく、麦の刈り入れも終わる時期なので各地で祭りが多く開かれる。祭りとは神、またはそれに準する国や人へ感謝、祈りを捧げるものだ。そして二次的には、それに合わせて参加する民衆が日頃の鬱憤を晴らすイベントだ。普段は貧苦に喘ぐ農民でさえ蓄えができ、来るべき辛い季節に向けて備えながらも、いつ終わるかもわからない自らの細い命を称えるかのごとく酒と歌と踊りに明け暮れる。
 それは国で最も裕福なサドキニスタでも表面上は変わらない。しかし、この国にとっての祭りの本質とは、自然発生的な現象であり、すなわちウルー帝政国家の成り立ちに似るところがある。
 地方から買い上げてきた作物を商人達がこの都市へ集める。その商品を求め様々な人種の人間が集まる。その人種目当てに商売をしようとまた人が集まる。人が人を呼び、モノがモノを呼ぶ。雪だるま式に発展していくこの社会的な気質こそ、ウルー帝政国家の今日の発展の起源なのだ。
「じゃあお姉様はわかるの、今日がなんの日か」
「第二騎士団隊長の就任式典、第65代皇帝の聖誕祭、西サバネルの統治記念。あと大叔母様か誰かの32回目の誕生日ね。そこら辺のおめでたい事を全部1つにまとめて、今日の【お祭り】」
「うへぇ……」
 妹王女はげんなりと眉を顰めた。――もちろん、姉以外にはわからないように。
「なにそれ。もうなんでもいいんじゃないの」
「そうね、きっとなんでもいいんでしょうね、騒げれば」
「平和すぎるのも考え物ね」
「平坦な道はロバを堕落させるのよ」
「かといって戦争も嫌いだけど」
 そう言うと妹王女は民へ両手を大きく振った。敬愛する王女が両の手で降るならば、自分たちは二倍四倍の声を返すべきというものだ。すると、興味があまりなかった隣国の人間や無教養な輩共も、空気に流されて声を上げる。
「それとお父様がサイネルの戦場へ遠征なさったからその鼓舞の意味もあるわね」
「遠征って。物見遊山の間違いでしょ。もう戦争が終わって相手が降伏している所に出向いて、終結を宣言するだけでしょ? 武功も糞もあったもんじゃないわ。そもそもその戦争自体たいした規模じゃなかったらしいし」
「それでも戦地まで出向いていらっしゃるんだから立派だわ。大きくても小さくても戦争は戦争よ。そこに区別をつけてはならないわ。この国の一番前で歩くモノとなれば尚更」
「にしてたって格ってモノがあるでしょ。ウルーとしての格が」
 最高責任者がわざわざ戦場に足を向けるだなんて。
「その程度ではウルーの格は揺るいだりはしないわ」
「なんでよ」
「ウルーだから」
 まだ若くはあるが、既に軍姫と称えられる程に戦に関して天下に類する物がない才を発していたウプシロン姉王女は、そんな返事を返した。
「わっけわかんない」
 愚直に真っ直ぐ前を見ながらそう呟く妹を見て、彼女に悟られないようにしながら姉は愛おしそうに微笑んだ。
「大きくなればわかるわよ、ユプシロンにも」
「……だから私をいちいち子供扱い――」
 民衆の歓声をかん高い鳶の鳴き声が、民衆の歓声を縫うようにして天空に響いた。それを聞いたのはこの国で一番高い所に立っている二人の王女だけだった。
 その鳶を乗せた風が吹いた。風と鳴き声が、姉妹の視線を城下より、城より、水平線より、空より上の何かへ向けさせた。
 しかし、いくら透き通っていても、空より上は空でしかなかった。


◆◆


 日付が変わり冷え込みが厳しくなっても、サドキニスタ城下町の喧噪はいまだ途絶えなかった。夜に起きているだけでも多大なコストを必要とする現代において、がしかしなけなしの貯蓄を引き替えにしてでも今を楽しむのは民衆の権利であり主張でありそして道理であった。
 その熱気と対照的に、巨城は静寂そのものであった。つまり、大陸の覇者であるウルー国家としてあるべき姿であり、これまで通りの、そしてこれからも続くであろう支配を感じさせた。
 ウプシロン姉王女の部屋に静かなノックが響いた。家が3つ買える程の高級な化粧台。その前に座る王女の髪を象牙の櫛で梳かしていた王女付きの若い侍女はびくりと身体を震わせた。
 上流社会の作法に則った美しい所作ではあったが、この時間に女性の、しかも王族の部屋を訪ねるなど礼儀以前の問題であった。しかし肝の据わったことに姉王女は慌てることなく片手をあげて侍女を落ち着かせると、よく通る声で、どなたかと扉の向こうへ問いかけた。
「夜分遅く失礼いたします。私です、お姉様」
「どうぞ、入りなさい」
 シルクのネグリジェに狼の毛皮のガウンを羽織っただけの妹王女が目を伏せたまま部屋に入る。姉王女が再び手を挙げると、侍女は二人の王女に敬慕の態度を示しながら部屋を辞した。
 目を伏せたまま静かに静かにしていた妹王女に、姉は侍女がいなくなったので自ら櫛を通しながら変わらない様子で声をかけた。
「どうしたの? 珍しいじゃない、こんな時間に私の部屋に来るだなんて」
「その」
「えぇ」
「っつ――」
 がばっと妹王女が顔をあげた。そしてガウンを放り出して駆けだし、飛んだ。
「疲れたああああああぁぁぁ!」
 ベッドに飛び込んだ。
「ああもうほんっと疲れた! 疲れた!」
「あらまぁ」
 姉王女はやはり変わらず髪を梳かしながら相づちを打った。
「なによ毎日毎日公務公務祭り勉強勉強公務! そんなにやりたきゃあんた達だけでやりなさいよ!」
 天蓋付きのベッドから埃が立ち上る程に足をばたばたと動かす。
「猫の額くらいの領地しか持ってない癖に反乱起こしたバカの領地分割して割り当てる会議とかふざけんじゃないっての、それくらい私たちの承認なんていらないでしょ!」
「お父様がいらっしゃらないから」
「さっきまでやってた舞踏会もよ! 酒臭い田舎貴族達の相手とか。そこらへんの適当な親族の頭も股も緩い娘達がやれば良い仕事でしょ!」
「緩さならユプシロンも負けてないでしょう?」
「私は固いわよ! カッチカチなんだから!」
 枕に顔を押し当てて、長い長い溜息をあげた。
「あなたの唾液で臭くなるから止めてくれないかしら」
 姉王女はウルー細工の硝子の小瓶を取り出し、化粧水を手に取った。一般人では一月の稼ぎをつぎ込んでも小指の爪の先分程も手にいられない高級品だ。それを惜しみなく顔になでつける。王女の仕事は顔を見せることであり、国家の繁栄のためにはそれだけの価値があり、むしろ出費としては安いくらいだ。
「もうちょっと仕事を分散させて欲しい……」
「そうね」
「お父様、帰ってきたら弟の一人や二人仕込んできてないかしら」
「それはどうかしら」
 姉は初めて表情を崩して笑った。
 最高の権力を持つ男にしては珍しく、彼らの父、現ウルー皇帝は側室などは一切持っていなかった。彼女らの母親が亡くなってからは相手はおらず、独身を貫いている。結果、王族の女性にだけしかできない仕事は娘姉妹に回ってきている。それが彼女らの仕事を増やしている一因だ。
「あのお父様だから」
 英雄色を好むとは言うが、もしそれが正しければ父は英雄には相応しくないのだろう、と姉は思い、それをある種誇らしくさえ思った。
 ベッドからは言葉にならない唸り声が漏れた。
「こっちに来なさい。髪を梳かしてあげるわ」
 妹王女は枕に顔を埋めたままぷるぷると顔を振った。姉王女は立ち上がると、腰程の高さはあるベッドの上にのった。ユプシロン妹王女の横に横たわると、高価な象牙の櫛で彼女の輝くような金髪を優しく梳かした。自分より一回り大きい体格の妹を、甘やかすように撫でる。
 高所にあるこの部屋には城下町からの喧噪は届かない。虫や鳥も寝静まり生物の声は聞こえない。室内に響くのは、髪を梳かす音と、二人の呼吸音だけ。この世に2つとない豪華な部屋の中に、そんなこの世界の何処にでもある音が響く。
「今日ね」
「ええ」
「歴史の授業があってこの国の成り立ちを習ったの」
「そう」
「歴史とか大っ嫌い。神官とか嘘ばっかり。皇帝だろうと何だろうと、人間が山を動かしたり剣を振っただけで大軍が吹き飛んだりする訳ないじゃない」
「初代様は人間じゃないらしいわよ」
「人間よ。私だって人間だもの」
「そう」
「だから私は歴史書も嫌い。よくもあれだけ嘘ばっかり並べられるものよね。それなら私は麦の育て方とか、スープの作り方とか、家の建て方とか、そういう勉強の方が私は好き」
 そこまで言って、妹王女は再び強く枕を抱きかかえた。
「……あのね」
「ええ」
「歴史書読んだらね、いっぱい出てきたよ」
「何が?」
「権力が欲しくて兄弟を毒殺したとか、父の圧政を止めるために息子が刺殺したとか、自分の息子を王位に就けるために正室の息子を絞め殺したとか」
「そう」
「――――やだよ」
「そう」
「やだよ、私いやだよ、お姉ちゃん」
「ええ」
「私、身体ばっかり大きくて、戦争も、勉強も、政治も全然わからないし。頭悪いから、きっと色々な人にいいように政治の道具に使われて、そして殺したり殺されたりするんだ」
「心配のし過ぎよ」
 姉王女は、変わらず、そっと櫛を通し続ける。
「ユー。私と違って、あなたは民に愛される王女だわ。今までの誰よりも素晴らしい治世を行うわ。私が保証する」
「――いらない。そんなのいらない。民になんか愛されなくたっていい。私は辺境でお姉ちゃんと二人で悪口を言い合ったり、お茶を飲んだり、何もしなかったり、そうしてゆっくり暮らして一生を終えたい。それだけでいいの」
 姉王女は天蓋を見上げた。
 ――あぁ、この子はわからないのだ。
職人達が2年もの歳月をかけて編み込んだウェド山脈と大海の絶景の刺繍が施されている。ウプシロン姉王女の寝具は何の比喩でもなく、世界で一番美しい一品だ。
 ――そんな風に不自由なく生きる事がどれだけ難しいのか。化粧水のひと滴でどれだけの民の食事を賄えるかということが。それがこの子にはわからないのだ。
 それくらい、まだ子供なのだ。
 背伸びするだけでまだ擦れきっていない妹。幼い頃に母を亡くした妹。父はいつも遠くにいた妹。
 自分が持っていたものを持てなかった妹。だからこそ、姉王女が既になくしてしまった物を、妹王女はいまだ抱えていた。それが、姉には羨ましくて、そして愛おしくて仕方なかった。
 気がつくと、柔らかく暖かい感触が自分の胸に抱きついていた。姉は苦笑すると、櫛を投げ捨て、妹を抱き返した。
「こんなに身体ばかり大きくなって。ユーは本当に甘えん坊なんだから」
 今日は一緒に寝ましょうか、と問いかけると、金色の星々が小さく頷いた。

 ウプシロンは思った。
 いままで偉大な王達がたくさんいた。
天才的な軍運用能力でもって領土を20倍以上に拡大させた第七代皇帝。国を安定させる政治法律の整備をした第十一大皇帝。もしくはウェド山脈から鉱石の発掘とその錬成技術の発達させたサルカン宰相。現在の強国としての地位を確立させたのは、こういった優秀な人材である。
 対して、第百大皇帝の私たちは、どんな王として後世に伝えられるのだろうか、と。
 自らの後世の評価に興味はないが、しかし願いはある。歴史書の片隅のそのまた片隅に、ほんの一言で構わないのだ。ウプシロンとユプシロンは仲のよい姉妹であった、と。そう載っていてくれるのであれば、これほど幸せな事はないのだ、と。


◆◆


 7年後。ウプシロン姉王女はウルー帝政国家第百代皇帝に即位した。
 その2ヶ月後、戦場で流れ矢に当たり崩御。まだ赤子だった息子ではなく、ユプシロン妹王女が第百一代皇帝として即位する。
 ユプシロン女王は民に愛される統治者として、二十数年の太平を治めた後に惜しまれながら病死した。後世の研究では、姉女王の息子派閥に毒殺されたのではと考えられているが、事実は時代の向こう側に消えてしまっている。
 それから40年後。一般市民に富が集まり始め発言力が増大し、巨大になりすぎた領土維持が不安定になった事も加わり、議会左翼が中心となった無血のクーデターが成功。百十二代皇帝が帝国の解体を宣言。ウルー帝国は707年の歴史を閉じ、議会制に移行された。ただの飾りとなった皇帝はいくつかの代を経て、正当な血統は途切れることになる。
 サドキニアは他大陸の国家との戦場になり、サドキニア城はいまは基礎のみが残っている。

 変わらない事はただ一つ。
 彼女らが愛した風だけが、いまだウルーの空を嫋やかに駆けめぐっている