長閑な日々を



 魔法を習いたいの、と母に控えめに訴えた。
 お昼で使ったお皿を洗いながら、母は肩を竦めた。
「どうせまたすぐに飽きるんでしょう? 少し前に竪琴を習いたい、だなんて言ったときもそうだった。散々駄々をこねて。仕方がないから吟遊詩人のお兄さんの元に通わしてあげたら。あの方に貰ったハープ、今は何処にあるのかしらね?」
「そんなの子供の頃の話じゃない」
 少し前なんかじゃない。ずっとずっと昔の話だ。
「そんな昔の話じゃないわよ。たった5年くらい前でしょう?」
「5年も前の話よ」
 その頃の私と、今の私では全く違う。大人になった。仕事は機織り。村の中ではそこそこ評判も良い。……生きて行くには畑仕事と父の林業を手伝わなければならない程度の収入だけど。
「ただの村娘が魔法だなんて。危ないわ。怖い呪いにかかったらどうするの? ただでさえ嫁に貰ってくれる男の人がいないのに、もっと絶望的になっちゃうわよ」
「け、結婚は関係ないでしょ!」
 木製のテーブルを両手でばしばしと叩く。た、確かに私に好意を寄せてくれる男性を見つけるのは今のところは簡単ではない状況である事は認めざるを得ない事実ではあることは非常に遺憾である。と言えなくはない。が、それとこれは無関係だ!
「ほら、ターナーさん家の娘さん。この前二人目を産んだのよ。私もちょっとだけ抱かして貰ったんだけど。可愛かったわぁ」
 お母さんはうっとりとしながら赤ちゃんを抱くような仕草をした。
「…………孫の顔が見たいわぁ」
「だから関係ないでしょ! それは!」
「お父さんだって無関心な振りしてるけど。本当はすっごく心配してるのよ」
「う、うるさいなぁ!」
 まぁその辺に関しては申し訳ないとは思う。小さな村の農家と木こりの娘ではあるが、跡取りは跡取りだし。努力はするさ。してるさ! でも何度でも言うけど、やっぱりそれは関係ない!
 ……ちなみに、ターナーさん家の娘さんは、私よりも三歳年下だ。
「というか怖い呪いって何よ。今時魔法習うだけでそんな事にはならないわよ。知ってる? 都会の学校では、みんな魔法の勉強をする授業があるの。魔法を恐れるのではなく、正しく理解して生活に役立てるためにね」
 先日、村に来た行商人から聞いた知識を披露する。自慢げに指を振って鼻を鳴らした。
「流石都会よね。進んでるって感じ」
「でも魔法ってあれでしょう? 生まれながらの、素質、っていうの? そういうのがなければいけないんでしょう? お母さんよくわからないけど」
 そう。確かにそうだ。魔法を扱うには、魔力を操る能力が必要になる。それは生まれたときに決まる先天的な機能だ。血筋は関係なく、大魔術師の夫婦から徒人が、乞食の畜生腹から1つの国を滅ぼすような神童が生まれてくることすらあるらしい。都会の学校でも、魔法を使えるようになるのはほんの一握りで、他の子供達は益体もない知識の欠片みたいなものを覚えることしかできないらしい。
 ……らしい。村の気難しい魔術師からの受け売りだ。
「じゃあきっとあなたなんかは無理よ。絶対に。それは、母さんにはわかるわ」
 確かな確信を持って、母さんは頷いた。
 私を生み育ててきた母なのだ。そこには絶対の自信があるのだろう。
 私も自分に素質があるかどうかはわからない。というか、まぁきっとないだろうな、という気持ちの方が大きいくらいだ。それでも、試すくらいはしたい。誰も知らない私の才能が、うっかり手に入ってしまうかもしれないのだ。
 けれど母は笑って否定した。
「ないない。それに、あなた魔法なんて覚えてどうするの?」
 ――この村を出て、旅をしたいの。
 だなんて私が言ったら、母さんはなんて返事をするだろうか。
 きっと、悲しそうになる表情を隠しながら、『そうね、あなたのしたいようになさい』と答えるだろう。いつも寡黙な父は、きっと黙って頷くのだ。私にはわかった。なぜなら、私は母と父の娘だから。
 だから。
「ううん。なんとなく。生活に便利かなって」
 それは口にはしなかった。
「そう。じゃあ竈に火をつけるのはあなたのお仕事ね」
「えぇーなにそれー」
「お皿洗いも手伝わない癖に。何を言ってるの」
 この村が好きだ。この村の景色が好きだ。この村の人が好きだ。
 機を織って、口下手だけど優しい旦那さんと結婚して、玉のように可愛い子供を授かり、孫に囲まれて死んでいく。
 そんな純朴な未来が、私は好きだ。
 きっとそんな未来が待ってるのだと、私にはわかっていた。素晴らしいことだと思う。愛おしいことだと思う。満ち足りていると思う。
 だけど。

 風が吹いたのだ。
 一度消えてしまった風が、また吹いたのだ。
 風が、私に外の世界を教えてしまったのだ。

 風と一緒に世界を自由に旅したい、と思う。
 思うけれど、そうはしないだろう。なぜなら私はこの村で生きていくのが好きだから。
 だけど、また風が吹いたとき、私は自慢をしたいのだ。世界で一番尊敬する両親だと。この美しい布は私が織ったのだと。
 そして最後にこう言うのだ。私は魔法が使えるんだ、なんて。
 あなたは根無し草の自由人のつもりだろうけど、いつまでも帰ってこないならば、私から迎えに行ってしまうぞ、と。

 ――だ、なんてね。
「母さん。お皿拭くよ」
「あら、ありがとう」
「ううん。今日もごちそうさまでした」
「いい加減料理くらい覚えなさい。そんなだからいい男性が見つからないのよ」
「だ、だから関係ないでしょ! それは!」

 今日も村は長閑だった。
 明日もきっと長閑だろう。
 もしかしたら明後日は長閑じゃないかもしれない。
 でも大丈夫。
 その次の日には風が吹いて、また長閑な日々がやってくるのだ。
 今日もリックスの村は長閑だった。