酔い



 月明かりと、一台だけ灯された燭台。その2つの光に照らされて、青白くなった頬の上に浮かんだ汗が鈍く光った。濡らした布で出来るだけ優しく拭うと、その柔らかさに驚く。
 初めて会ったばかりの頃は眩しいくらいに真っ白だった肌は、この旅の間で随分と焼けてしまった。だというのにこの肌は美しさを損なうことはなく、むしろよりそれを増している。そもそもが自分の浅黒く固くなった肌とは全く別の材料で出来ているのだ。
 彼女はやはり存在の次元が違うのだと、うっかり忘れかけていた事実を再認識する。もちろん、かといってそれで仲間に対する意識が変わるかというような器用な性格はしていないのだが。
「バッツ?」
 いつの間にか手拭いが握られた右手に送っていた視線を、はっとあげて脇で腰を屈めている少女にやる。
「ごめんね、レナお姉ちゃんを見てもらっちゃって。変わるよ」
「ん? あぁ、おう」
 ベッドの脇に置かれた椅子から腰をあげ、バッツはこのバル城の主……の孫であるクルルへと席を譲る。少女は椅子に座ると、ベッドに眠るレナの額から濡らした布を取り上げ、サイドテーブルに置いてある桶の冷たい水に浸し、強く絞ってから再びレナの額へ乗せる。レナが小さく、熱に浮かされたようなうめき声をあげた。
「大丈夫。熱が出てるのは薬が効いてる証拠だから」
「そっか」
「バルデシオン印の調合薬。すっごくよく効くんだから」
「あぁ」
「……すっごく苦いけどね」
 でも飛竜草ほどじゃないよ、と苦笑いしながら毛布の上に出ているレナ手の上に手を重ねる。暖めるように撫でながら、ほうっと息をつく。
「レナお姉ちゃんって、本当にお姫様だよね」
「お前だってそうだろ」
「そう、なんだけど。なんていうか、レナお姉ちゃんはお姫様っぽいお姫様っていうか。可愛いし、優しいし、気が利くし、偉そうじゃないけど偉い雰囲気がするし、やっぱり可愛いし」
「飛竜草を食べるし?」
「あ、あはは」
 バッツが肩を竦めると、クルルは病人に遠慮するように笑い声を上げた。普段は他人を巻き込むように明るい声を上げる彼女には似合わない笑顔だと、バッツはそう思った。笑い終えると、また小さく息をついた。
「そう、うん。他人に、他の生き物の為にこんなに一生懸命になれて凄いなって思う。王族っていうのは、こうじゃなきゃいけないよね」
 それに比べて自分の行動はどうしてこう浅はかで子供っぽいのだろうか。
「私も、さ。もっと、なんていうか……ってうわぁっ!?」
 少女の髪をバッツがぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜる。くせっけあるふわふわとした金髪が宙に舞う。
「あぁもうなにするのさ! バッツ!」
 バッツは何も答えずに満足するまでクルルの頭で遊ぶと、最後にぽんぽんと優しく叩いた。
「もう寝ろ。お前の体調だって万全じゃないんだ」
「私は、別に」
「お前がこれ以上身体悪くするとな、怖いじいさんに怒鳴られちまうんだ」
『わしゃもう寝る。年寄りにはきつい』そう言って自室に消えていったじいさん兼王様兼仲間の姿を思い浮かべる。あの孫への溺愛っぷりを見るに冗談ではないのだ。もしかしなくても鉄拳の一つや二つも加わるかもしれない。
「そんでもってレナより早く元気になって、明日はレナを起こしてやれ」
 それがお前の――と続けようとした言葉は、胸の中にとどめる事にした。自分のキャラじゃないな、等とそれこそキャラじゃないような事をバッツは思った。病人を相手にすると、どうも調子が狂う。
 少しだけ涙目になって頭をおさえていたクルルは、深く1つ、うん、と頷いた。
 侍女を呼んでレナの看病に当たらせると、二人はレナの部屋を辞した。クルルはおやすみなさい、ありがと、と言って自室へと戻っていった。
 そのふらふらとした頼りない足つきを見るに、彼女も相応に安静せねばならないのだろう。しかし、彼女の部屋には誰かしら身の回りの世話をする人間が控えているだろう。そしてなにより彼女の大親友がいる。だからクルルについては問題はない。問題は――。
「それで、いつまでそこで聞き耳たててるんだよ、お前は」
 バッツが廊下の脇に目をやると、そこには男装の麗人が眉根を寄せ、口元をへの字にして立っていた。
「心配ならお前も中に入れよ、ファリス」
「どうなんだ?」
「だから自分で確認しろって」
「どうなんだよ」
「……一晩ぐっすり寝て明日になればもう鎚をブンブン振り回せるようになるってさ」
「そうか」
 それだけ聞くとファリスはくるりと踵を返し、足音高く去っていく。バッツはその後ろ姿を見送り、自分は割り当てられた客室へ足を向けた。彼女らほどではないが自分も疲れた。久しぶりに神経を張り詰めなくてよい休息がとれそうなのだ。もうなにもかも忘れてぐっすり眠ろう。
「……ってもなぁ」
 本当に自分は不器用な人間だとバッツは再確認した。

 ― ―

 バル城は東以外の三方を山に囲まれた盆地に建てられている。山の上から吹き降りた風は、出口を求めるように東の湿地帯へと流れていく。この逆風こそ、バル城の四方目の盾である。その湿った風を頬で感じながら、ファリスはテラスで少し欠けた月を見上げる。この世界でも月は同じなのか、と考えながら手に持ったスキットルを傾けた。
「こっちでも月は同じなんだな」
 後ろから突然聞こえてきた声を無視して、石造りの手すりに肘を乗せて体重を預ける。声を上げた本人は、ファリスとは少し間を開けて手すりのそばまで近づくと背中をそこに預けた。――忌々しい事に、ファリスにとって心地よい程度に離れた距離感だ。このバッツという男はいつも自然とこういう空気の読み方をする。本人自身は気づいていないのだろうが。
「でも、星は全然違うみたいだ」
「……あぁ、こっちじゃ俺は船を出せないな」
「へぇ」
 無粋な杯を傾け中の苦い水を舐める。なんとも風情のない月見酒だ。
「風が冷たいなここは。まだ寝ないのか?」
「あぁいう洒落た部屋は性にあわねぇ」
 海水と痰と腐った木材の上で寝て育った身だ。ああいう所だと逆に落ち着かない。
「そっか、俺もだよ」
「……前言撤回だ。俺はマットの厚さが拳三つ分はあるマットじゃないと寝られない」
「…………あぁそうかい」
 会話がそこで途切れる。いつもは(ほぼ一方的に)悪態が飛び交うのだが、どうにもそういう気分ではない。
 山から吹き抜ける風の音。遠くから聞こえる野獣の咆吼。水筒が傾けられる水音。
 それだけがこの場にある音の全てだった。
 意外にもその静寂を先に破ったのはファリスの方だった。そろそろバッツが寒さに降参して部屋へ戻ろうかとしたとき、なぁ、とファリスが誰とも無しに声をかけた。
「身内が病気になったときってさ、その家族はどんな感じになるんだ?」
 やっとの思いで絞り出した言葉なのに、いくら経っても返事がないのでなんだそれはと隣を横目で見る。すると、バッツは目を丸くしてぽかんと惚けていた。
「っんだよ、お前」
「いや、あぁ、いや」
 バッツは呆れたように口元を歪ませた。
「お前って、本当に不器用だな」
「てめぇ……」
 こいつにだけは言われたくない。とそう思ったのだが、もう色々と面倒くさいのでファリスはふて腐れたように頬杖をついて視線を前に戻した。
「俺にだって家族はいるさ。あいつらを本当の、本当以上の家族だと思ってる。身体が丈夫なだけが取り柄のような馬鹿な奴らだったけど、病に負ける奴だっていた。そのまま…………死んじまった奴もいる」
 航海中に倒れ、その遺体を皆で海に沈めた時の事を思い出す。そんな事一回や二回ではないが、かといって慣れることでもない。
「だから、って訳でもないけど、あいつが、レナが倒れたって平静でいられると思った。でも」
 猛獣の爪が彼女の肌を引き裂き血を流したとき。魔物の雷撃が彼女の身を打ち据えた時。友を救うために自ら猛毒の薬草を口にしたとき。
「俺の、ここがっ。あぁくそっ! 胸が騒ぐんだ!」
 自分の胸元を強く握りしめた。別にあいつらの事を下に見ている訳ではない。あいつらと一緒に自分は育ってきたのだ。レナには悪いが、あいつらの方がレナよりも大切だとさえ思っている。
「だけど! なんだ、なんなんだろうな、これは」
 バッツは視線を夜空に戻し、そうだなぁ、と考える。気の利いた事を言って励ましてやりたいが。しかし他人を気遣ったり、思いやったり、そういうのは自分には向いていないんだ。
「俺の、おふくろは身体が弱い人でな。季節の変わり目なんかはいつも体調を崩していた」
 今思うと天気の悪い日におふくろが体調を良さそうにしている所なんて見た事がない。けれどそれでも俺にだけは弱い所を見せようとしないでいて、俺は親父なんかいなくても両親の愛情に困った事は一度だってなかった。そんな母親が倒れるのだ。よっぽど身体が辛かったのだろう。
「その度に俺は世界が終わるんじゃないかって気になって。そんな俺を心配させまいと気丈に振る舞うおふくろが一層弱々しく見えて」
 あぁ、そういえば全く家に帰ってこない親父の事を恨めしく思ってた時期もあったっけ。親父が何をやっていたのかわかる今になって思うとそれを許せるような気もするが、やっぱり許せないような気もする。
「だから……」
 死を。死を連想させるのだ。魔物に襲われて命を落とすような一瞬の出来事ではない。じわりじわりと死に神が命を削り取っていくような。それが本人だけでなく周りの人間をも恐怖に陥れる。
「……だから?」
 怪訝な顔をするファリスに対して、バッツは困ったような笑みを見せた。
「……なんなんだろうな」
 しばらくその間抜けな顔を見つめてから、ファリスは大きく大きくため息をついた、
「俺が馬鹿だった。お前なんかに相談した俺が馬鹿だった」
「相談? 愚痴っただけだろ」
「そうそう。ただの愚痴だよ愚痴」
 ファリスは身を起こすと大きく伸びをした。腰に手を当てて、首を回して音を立てて鳴らす。
「お前さ、やっぱ似合わないよ。そういうお節介な態度はさ。ぶっちゃけ気持ち悪い」
「お前もな。センチメンタルになって月を見上げるとか、柄でもないを通り越して気持ち悪いよ」
「うるせーばーか」
 先天性にしろ、後天性にしろ、愛が人を縛るのだ。
 彼女も、彼も、きっと彼女も。皆、そういう人間なのだ。
 そして、おそらくそういう人間こそが、絶望より世界を救うのだ。

「じゃあ俺はもう戻るわ」
 ほい、っと無造作にスキットルが放り投げられる。バッツはそれを片手で受け取る。続けてファリスが拳を放る。それをバッツは空いていた左手で受け止める。
「そんじゃおやすみ」
 一瞬だけ触れたその手をひらひらと上に振って、ファリスは場内へと戻っていった。
 客室ではなく、レナの眠る病室のある方へと歩いていくファリスの後ろ姿を見送って、バッツは肩を竦めた。
 ふと、城の壁に目をやる。左手のかなり高い位置の一室にまだ明かりが灯っていた。それはだいぶ高所にあって、それだけ位の高い人物の部屋なのだろうと推測できた。例えば、そう、この城の主の執務室であるとか。
「……どいつもこいつも、王族って奴は」
 手に持った酒を一気に煽った。炎が灯りそうな度数の内容物に、思わずむせ返る。
 このまま寝てしまえば、今日は久しぶりに母の夢を見る事が出来そうだと思った。この年になって情けない事ではあるが、しかし今日くらいはそれもいいんじゃないかと、バッツは大きな欠伸をした。