隕石内の死闘



「なぁバッツ。今の状況を表現するのに良い言葉と悪い言葉があるんだ」
「悪い方から頼むよ」
「絶体絶命」
「良い方は?」
「頑張ればあと五分くらいは生きていられ――」
 この世のモノとは思えないような獣の咆吼が耳を劈く。上下左右を囲んでいる地上にはない未知の岩石に反響して、不快な音に増幅されたそれが更に戦士達の恐怖心を煽る。二人が身を隠している岩も細かく振動する。そこからほんの少しだけ顔を覗かせる。
 別世界から降ってきた隕石の内部。巨岩に囲まれたこの部屋の中心は、岩石がある程度平された円形の広場になっている。日の光は一切差し込まないが、岸壁自体が鈍く光り室内を照らしている。どこかの城の広間くらいはありそうな平米なのだが、咆吼をあげる魔物があまりに巨体で遠近感が狂って正確な広さが測れない。
 魔物の身体は筋骨隆々の獅子。その大きさは呆れるほどで、腕の太さなどは一抱えほどもある。その頭の上にこれまた今まで見た事もないような大きさの山羊の頭がのっている。山羊というよりも、悪魔のような顔つきで当たりを睨め付ける。尾は大蛇。ナイフのようなその牙はぬらりと猛毒に塗れている。おまけに下半身は雄牛で出来ている。もうなんでもありだ。
 気配を悟られないようバッツはゆっくりと伸ばした顔を戻す。まともにぶつかってあの魔物を叩きのめすイメージが全くわかない。絶望を振り払うように首を左右に振った。
「あんなの見た事ねぇよ。こっちの世界の奴じゃないのかもな」
 事実、バッツの予想通りあれはこの世界とは違う、もう一つの世界から墜ちてきた魔物だ。そちらの世界では【キマイラブレイン】と呼ばれ恐れられていた。
「向こうはあんなのがわんさかいるのかね。で、良い方はなんだってファリス」
「くそったれだ、って言ったんだよ」
「…………なるほど」
 どうにもこうにもファーストコンタクトが最悪だったのだ。
 未知の魔物を相手にするときの鉄則は、遠距離からの守備優先。相手の出方を見ながら臨機応変に作戦を立てていく。特に今回のように相手が知能に劣るのであれば、生態を見極めれば勝てる事はなくとも負ける事はまずない。無謀な戦士が見るからにひ弱そうな新種の魔草に斬りかかり、その傷から猛毒が吹き出て命を落とすだなんて、まったくもって笑えない話だが、場末の酒場では良く聞く話でもある。故に最初の一太刀は慎重すぎるほど慎重に。
 が、今回はその第一歩から失敗した。
 そもそもがこの巨大な隕石の中に進入した目的は、戦闘ではなく、アダマンタイトを使って隕石のワープ能力を回復させる事。協力してくれている科学者のシドと孫のミドがその中心部へアダマンタイトを設置しようとしたときだ。中心部から肝冷えするような咆吼と共に先の怪物がはい出してきたのだ。戦闘能力のない二人を離脱させるために戦士達は魔物に飛びかかった。先の鉄則もあったものではない。数太刀あびせてからファリスの投げた煙幕でどうにか離脱に成功したものの、二人はレナとは引き離されてしまった。おそらくバッツとファリスと同じようにどこかの岩場へ身を潜めているはずだ。
「シドとミドは?」
「どうにか逃げ出せたはずだよ」
「エネルギーの回復は……できてないみたいだな」
「あぁ。まぁ例え出来ていたとしても、このままじゃあの化け物に食い尽くされちまうだろうけどな。しかもあの野郎、間抜けな顔してる癖に、俺らの出口を塞ぐくらいの頭はあるらしい」
 ファリスは両手に持った小刀を鞘に納めると、暗い天井を見上げて大きくため息をついた。
「ってーことはつまり?」
「倒すしかない、って事だな」
 隕石エネルギーの回復という大目標は変わらないが、その間に魔物退治という小目標が挟まれた。冒険という物はいつだって予想外だ。
 否、本当に予想外だったのだろうか? 今まで二つの隕石に潜入して、その二つとも魔物が湧き出て剣をあわせてきたというのに、今更このような事態が予想できなかったというのだろうか?
 あの男に追いつくのに、あと少しという焦りがあったのかもしれない。もしくは経験豊富なあの仲間がいれば、はやる戦士達を抑え、もっと慎重に事を運べたのかもしれない。否、そもそも愛すべきあの友人が変な気を遣って早まらなければ、こんな七面倒くさい事態には陥ってなかったのだ。
 ――じじい。
 バッツはため息と共にそう呟いた。
「ったく、あの爺がいないだけでこれだけ手こずるとは思わなかった」
「そう、だな。人数が足りない。正面からの力押しで押し負ける」
「後衛が必要なときは後衛に、攻めが足りなければ前に。今思えばあの爺、年の癖にやけに器用な事してたよな」
「今頃かよ」
 そう言ったバッツ自身も、あの友人の立ち位置の重要さを今更になって再確認した。わかってはいたつもりだが、いなくなってからその事にこうも深く気づくとは、まったくもって自分は経験も修行も実力も足りない人間だなと思う。
 はん、とファリスは鼻を鳴らした。
「ま、今大切なのはあいつをどうにかぶち倒す事だ。ボケ老人の思い出話なんて後でいくらでもできる」
「死んだみたいに言うな」
 再び咆吼。隕石全体が震え、天井から細かい石がぱらぱらと振ってくる。
「……冗談は追いといて、だ。どうするファリス?」
「肉弾戦はあの獅子の身体と頭。それに蛇の尾だな。多少器用に尾っぽを使える事以外は、そこら辺の野良猫と対してかわらない」
「そうか、最近の野良猫ってのは腕の一振りで地面にクレーターを作るのか。そいつは知らなかった」
「細かい事を気にするな、男だろ?」
「最近お前を見てるとだんだん自信がなくなってきたよ」
「で、問題はあの山羊の頭だ。あいつの口からでる吹雪の竜巻、あれをどうにかしなきゃならん」
 どうにかね。バッツは盾を持っていた左手を閉じたり開いたりした。先ほどまで奴の吹雪を受けて凍傷になりかけていた。魔力に対して強い耐性を持つ魔鉄鋼ミスリル。それをを原料とする盾ごしに受けたというのにこの威力。無防備な身体に当てられていたらどうなっていた事か。
「確か炎の指輪があっただろ」
 炎の精霊の加護を受けた指輪があったはずだ。あれならば邪悪な冷気の魔術など触れることなく霧散するはずだ。
「レナが持ってるはずだ。とりあえずレナは遠くに離れていれば安全だって事だな。運が良い」
「シスコンめ」
「いくらでも言えよ。お前の剣の方はどうだ?」
「ちょっと毒が効きそうだったけど、それくらいかな。といってもあの巨体に毒ってもな。脳に回るまで何時間かかる事やら」
「脳味噌があるかも疑問だしな」
 バッツは笑えなかった。というかそもそも脳ってどの頭の脳なのだろうか。
「脳がない癖に一丁前に目ん玉は余るほどくらいありやがる」
 バッツが注意を引きつけている間にファリスが後ろに周り一撃喰らわしてみようとした所、蛇の頭と雄牛の後ろ足が迎撃してきた。死角もないなんて、無茶苦茶だ。
「結局、ジリ貧って訳か」
 そして、この人数で長期戦となれば全滅するのは100%こちら側。攻めなければならない。しかし正面からいっては話にならない。もうちょっとトリッキーな相手であれば頭の使いようもあるが、こう正攻法に力押しでこられてはもうどうしようもない。
 三度、キマイラブレインの咆吼が唸る。そろそろ痺れをきらしたのか、辺りの岩場ごと破壊し始めた。そんな事をされてこの隕石を使い物にならなくされても不味い。
「……そろそろ時間だな」
「覚悟を決めるか」
「その前に作戦を決めようぜ」
 ファリスはにやりと笑ってバッツの肩を小突いた。
「作戦なんて決まってんだろ。巨体を振り切り、吹雪をかいくぐり、致命的な一撃を与える。これだ」
「どれだよ」
「まぁそんな顔すんなって。前進するしか脳がない奴に勝つための作戦なんて遠い遠い昔から1つしかねーんだよ」
 いつもこうなのだ、とバッツは呆れた。どうしようもない状況を力業でどうにかする。思慮なんてあったものではない。これでよく海賊の長なんて務まったものだ。……いや、だからこそ務まるのか。今まで最終的になってきたのだから、こうやって生きている訳だから。
 満面の笑みを浮かべるファリスに対して、信頼をしてしまっている自分に、ほとほと呆れてしまったのだ。
「おとり、だ」
 あぁ、呆れてしまったのだ。


 ― ―


 キマイラブレインはもう我慢の限界だった。
 ぐっすりと寝ていた所に大きな震動で叩き起こされたのがただただ気にくわないのだ。自分を起こした奴ら――おそらくニンゲンとかいう脆い生き物だ――に対して腹が立ってしょうがない。そういえば腹も減ってきた。この寝床からは魔力を供給する事は出来るが、食いでのある生き物は全くいない。そうだ、奴らを食おう。あんまり美味くはないが、この際贅沢は言わない。
 ――この時点で、キマイラブレインは当初の気にくわない、という感情は綺麗さっぱり忘れてしまっている。バッツ達の推測通り、なにかを思考するほどの知能がある訳ではなかったのだ。
 しかしニンゲン達は何処かへ隠れてしまって一向に出てきはしない。何度か叫んで脅してみたが、それでも出てこない。――面倒だ。この寝床ごと叩きつぶしてやろう。
 ニンゲンを食べるという目的も忘れたキマイラブレインは、右の前足を大きく振りかぶった。手始めに、目の前にある大きな岩を叩き壊す。一度壊し始めてしまえば、破壊衝動に流されるままに目的も忘れて、この隕石を破壊し続ける。
「こっちだよ脳筋溝鼠!」
 ニンゲンの声に反応して、前足をあげたまま左脇の岩場を睨む。そこから紫色の影が飛び出る。一足で飛びつき食い殺してやろうと雄牛の下半身に力を貯める。
「ほらよっ!」
 その影から何か丸い物が放たれる。それはキマイラブレインに届くことなく手前で落ちると、白色の煙幕を発生させた。一瞬キマイラブレインは躊躇する。が、その煙は先ほども見た。知能の低さ故記憶にはないが、本能で察する。これには害はない。しかし視覚と嗅覚を潰された事には変わりなく、次の反応をまって身を伏せる。視界が十分であれば山羊の口から放たれる必殺の冷気――魔物研究者の間では〈ブレイズ〉と呼ばれる魔法の類だ――をお見舞いする所だが、あれは連発の利くものではない。不用意に打って次の一手をとられてもつまらない。
 従って、待つ。相手の出方を待つ。これも本能だ。戦闘に関する事だけは本能に忠実に、実にシステマチックに行動する事が出来る。
 故に、ある種の皮肉を込め、その名を――キマイラブレイン。《知性ある合成獣》
 左後方から風を切り裂く音が鳴った。耳は反応するが、身体は反応しなかった。薄く小さくしかし鋭い鉄の塊が脇腹に刺さる。1つ、2つ。鋭い切っ先が皮を食い破り肉を切り裂く。〈手裏剣〉と呼ばれる投擲用の小刀だ。3つ、4つ。鋭い切っ先が皮を食い破り肉を切り裂く。凡庸な魔物であれば悶絶の叫びと共に行動不能に陥るだろう。5つ、6つ。鋭い切っ先が皮を食い破り肉を切り裂く。しかし、そこまで。骨を断ちはしない。
 この魔物は決して凡庸ではなかった。
 存分に貯めた全身のバネを弾かせて、キマイラブレインは飛び上がった。6つの小刀の軌道から推測して、ニンゲンが走っている場所に見当をつける。小石がいくつか当たった程度、この化け物が歯牙にかける訳もない。
 地面が割れるほどの巨体が飛び上がるとはどれほどの筋力なのか。そしてその巨体が猛スピードで突っ込んでくる事がどれだけの恐怖なのか。魔物の正面から放たれた7つ目8つ目の手裏剣の軌道が先ほどよりも冷静さを欠いている事からも読み取れる。鋭さを失った手裏剣は分厚い頭蓋骨にかすり傷1つ尽かせる事もなく弾かれる。
 勝利を確信した魔物の叫びと共に、轟音が響く。岩石が爆発するようにはじけ飛び、室内ごと揺れ動く。もしこの隕石を外から見ている者がいたら、何故隕石が独りでに動き出したのかと驚いた事だろう。
 キマイラブレインは余裕を持って地面に刺さった前足をどける。がらがらと小さな土砂崩れがおこる。煙幕と砂埃でいまだ視覚が正確に働かない。しかし魔物はすぐに気づく。――血の臭いがしない。
 右手後方から9つ目の小刀が飛んでくる。やはりまだ生きていたのか。当たってもどうという事はないが、苛立ちから尾の蛇が叩き落とした。射手が必殺の一撃から逃れる事が出来た理由はただひとつ。手裏剣というものが、通常の投擲物とは異なる独特の軌道を描くという特性を持つからだ。そんな事を知るよしもない魔物は疑問に思い、しかしその疑問はすぐに忘れ、右後方にいるであろう射手へ首を向ける。二度目はない。記憶にはなくとも本能で次こそニンゲンをこの腕で叩きつぶす。偶然は二度も重ならない。
「〈魔法剣――」
 そして魔物は知るよしもないが。
「――ファイラ〉」
 偶然は重ならないが、作戦とは重ねるものだ。


 ― ―


『俺が気を引く。お前はでかい音が響いたらそっちに突っ込め』
 バッツは呆れた。作戦とは言わない、それは。
 が、なんだかんだいって戦闘においてはファリスを信用している男だ。あいつがどうにかするというのなら、どうにかなるのだろう、と思う事にした。
 彼女が岩場から飛び出していった後は、ひたすらに魔法の術式を編む。元来魔法とは相性の悪い気質だ。仲間達よりも完成させるのに時間がかかる。魔力を練っていれば、いくらあの頭の悪そうな魔物でもそれを察知してこっちに突っ込んでくるはずだ。それがない、という事はファリスが上手く気を引いてくれているんだろう。しかしそれがいつまで持つかどうか――。
 逸る気持ちを抑え、丁寧に術式を編む。魔法は苦手だが、この剣に魔の力をのせる〈魔法剣〉という技術は普通の魔法よりかは扱いやすい。慣れ親しんだ剣という形はイメージする事が容易いから。

 破壊。飲み込む。爆発。炎上。広がる。
 炎。火。炎。
 炎。
 炎。

 炎。炎。炎。炎。炎。炎。炎。炎。炎。炎。炎。

 詠唱が――繋がる。
 それと同時に、隕石自体を揺るがす爆発音。それを聞くよりも早く、岩陰から飛び出した。ファリスの無事は全く心配しなかった。そんな事を考える余裕も意味もない。それよりも早く。もっと早く。あいつが作ってくれたこの隙を。
 視界はファリスの張った煙幕で全く利かない。足下は凹凸のある岩場。が、そんな事は問題ではない。音が響いた方向へ、盾を前にして突っ込む。
 魔物の気味の悪い鼓動と、底冷えするような存在感を感じる。
 ――ここだ。
 左足を前につきだし、地面に固定する。上半身を大きくしならせ、右手に持ったミスリルの剣を後方で溜める。必死に練り上げた炎のイメージを、契約の一言でもって、現実にする。
 炎を我が手に。
「〈魔法剣、ファイラ〉」
 右手に熱を感じる。自らに害を及ばさず、敵だけを燃やし尽くす、現世の理論とは異なる炎。
「でりゃああああああ!」
 全力でぶつける。巨岩に――否、地面にでも叩きつけたかのような感触。身体中の筋肉がきしむ。歯を食いしばり耐える。細い血管が何本もぷちぷちと千切れる音が聞こえた。構わず絞り出す。覆せない現実を、しかしそれでも最後まで――振り抜く。
「あああああああああああ!」
 叩きのめす“イメージ”のなかった存在を、別の“イメージ”が塗りつぶした。
 巨岩のような塊が少しずつ動き始め、徐々に加速し。そして弾け飛んだ。
 再び、隕石自体を揺るがすような轟音。壁に叩きつけられ、その衝撃で上方から岩石が崩れ落ち、魔物の身体を覆い尽くす。
 轟音の反響はなかなか止まなかった。ようやくばらりばらりという小石が舞う音以外は何も聞こえなくなる。久方ぶりに隕石内に静寂が戻った。
 異形の魔物が吹き飛んでいった方向を睨む。まだ煙幕と土煙が消えない。バッツは膝に手をついて大きく肩で息をする。
「はぁっ、はぁっ、くっそこっちの肩が外れるかと思った。何がおとりだ馬鹿野郎」
 自分の何倍もの巨躯を吹き飛ばした。そんなあり得ない事をすればそれは身体にガタだってくる。懐から〈ポーション〉《回復薬》を取り出し一気に煽る。液体に含まれた魔力が身体に活力を与える。千切れた血管や筋繊維を繋ぎ、細かい外傷が急速に塞がれていくのがわかる。
「さて、と」
 空になった瓶を脇に投げ捨てる。
「問題はこっからどうするか、だな」
 土煙の中に浮かぶ6つの赤い瞳を見て、バッツは乾いた笑みを浮かべた。


 ― ―


 5度の立ち会いで、命を落とさず切り抜けた。そして6度目もそれだけを考え行動した。
 右から真っ直ぐ飛んでくる爪を、盾を添えて左へ躱しながらいなす。重厚な爪が魔鋼鉄に擦れて火花をあげた。生身の腹に触れていれば、それだけで内臓が吹き飛んだだろう。そんな想像をする暇もなく、右腕が上方から落ちてくる。躱した腕が逃げ場を塞ぎ後ろに引く事は出来ないが、かといって受け止めれば潰される。
 悩む暇はなかった。回避行動の勢いを殺さず、そのまま倒れ込むように突っ込む。今まさに振り下ろされんとする、魔獣の腕の方向へ。
 間一髪、魔獣の右脇の下を、腐臭が鼻を潰すような近さでくぐり抜ける。不安定な体勢ながら、普通の生物であれば急所である脇腹の位置をとる。効果的なダメージを与える絶好の機会。
「ちっ!」
 しかし、バッツは自分の死角へ剣を振るう。もはや勘であった。そしてその勘は正しく、剣に丸太で叩かれたような感触が響く。それに弾かれ、転がりながら魔獣から距離をあける。大蛇の尾が悔しそうにバッツを睨む。
「ははっ。蛇を食う事があっても、食われそうになる日が来るとは思わなかった」
 魔獣は低く唸りながら旋回し、正面にバッツを捕らえた。
 同じ事ばかりを繰り返している。獣の腕が振るわれる。それを盾と剣で受け流す。その繰り返しだ。
 正面から受け止めては片腕が消し飛んでしまう。相手の力点を瞬間瞬間で見極め、上下前後左右で微妙にその位置をずらして剣と盾でいなす。それだけが敵の攻撃から逃れる術だ。
 ただでさえ足場が不安定なこの場所でそんな綱渡りを続けられているのは、クリスタルの加護により身につけた技術と、身体に染みついている父の教えのおかげだった。
 決して運ではない。奇跡ではない。
「ーっ!」
 魔獣が愚直に正面から突っ込んでくる。右へ横っ飛びに飛ぶ。瞬きほどの時間もない間で、隣を肉の塊が通過した。風圧だけで頬に裂傷が走った。しかし構わず、すれ違いざまに炎の魔力が宿った剣筋を走らせる。血しぶきが上がったのをどうにか確認する。
 踏鞴を踏みながらもどうにか立ったまま着地する。魔獣は近くにあった岩を吹き飛ばしながら止まる。そしてそれを意に介さず平然とバッツの方へ振り向く。脇腹の傷は、既に塞がっていた。バッツは頬から流れた血を拭う事も出来ずに、舌で舐めた。
「……ははっ」
 運でもなく、奇跡でもないから。この7度の立ち会いで理解した。
 勝てない。
 上手くすり抜けながら、小さな傷を与える事は出来るが、決して決定打にはならない。その程度のダメージは瞬時に回復してしまう。どう考えたってこちらの体力が削られていく方が早い。
 尋常ではない回復能力。それがこの魔物の強みだった。
 先ほどの不意打ちはある程度のダメージになったようだが、あくまである程度だった。動きの機敏さや攻撃能力の低下はほとんど見られない。こちらを刺す視線の殺意は更に増している。むしろ一撃与えた側の自分の方がその衝撃でしんどいくらいだ。
「藪を突いたら獅子の頭がついた大蛇が出てきやがった」
 わかってたはずだ。正面から当たれば押し負けると。そんなことはわかっていた。わかっていた。想定の範囲内だ。
 だからこそ、正面から躱し続けなければならない。
 挑発するように長剣の切っ先を魔獣に向ける。
「よし、次いくか? ……ん?」
 しかし、魔獣の先ほどまでの暴れ回る様子を見せなかった。四肢で地面をしっかりと掴み、上体を下げる。そして、悪魔のような山羊の頭が首をもたげた。
 あの吹雪の竜巻が来る。
 ここまで散々イライラさせたんだ。流石に我慢の限界だろう。上唇を舐め、盾を持ち直した。
 最初の挨拶代わりの一発は規模の小さいものだったが、おそらく今度は本気の一撃だろう。広範囲で吹き荒れるあの吹雪の竜巻を避ける事はできない。身軽な装備のファリスでさえ、距離をとり煙幕を張ってようやく、相手に控えめな選択をとらせる事が出来たのだ。重量のある鎧で身を固めたバッツが身を躱すのは不可能だ。ならば、出来る事は。
 腰につけた革袋から小瓶を取り出し、半分を身体に振りかけ、残り半分を飲み干した。これで手持ちのポーションは使い切ってしまった。腰を低く落とし、盾を正面で構え、剣を添えた。
 正面から、受ける。
 山羊の頭が首を立て、敵を見据える。キマイラブレインの周辺で大気中の魔力が厚みを増す。室内の気温が急激に下がった。昏く光る口の周りはあまりの冷気によって雷が走っている。
 室内の時間が止まった。自分の鼓動まで止まってしまったかのよう感じる。
 ――轟音。
 口内から吹きすさぶ冷気の竜巻。地面をも抉りながら進むそれは狙い違わずバッツを捕らえた。
「がああああああっっ!」
 最初の衝撃で身体が吹き飛ばされそうになったが、重心を低く保ちどうにかそれを耐える。もちろんそれで終わる訳もなく、暴風は戦士を押し潰そうとその圧力をより強める。体中の骨が悲鳴を上げた。耐えなければならないのは力だけではない。冷気はもっと深刻に彼の身体を蝕んだ。盾を持った左手は既に感覚がない。
 正直な所――その威力はバッツの想像を超えていた。
 全身の筋肉は凍り付きその活動を止めようとしていた。耳は潰され、視界も徐々に狭まっていく。
 「――!」
 叫ぼうにも、空気中の水分は凍り付き、乾燥した凍える空気は喉まで焼いた。
 片膝をつく。視界は既に半分もなかった。
 自らの生命力が削られていくのをはっきりと感じる事が出来た。
 目を瞑れば、その瞬間には命を落とす。
 次の一瞬には、自分は命を落としているに違いない。だからこの一瞬を耐えよう。耐えられたら、次の一瞬を耐えよう。
 耐えよう。
 耐えよう。
 もう片方の膝もつく。呼吸は出来ない。耳は潰れた。目はもうわずかな光しか見えない。
 目を必死に開ける。もう盾を持っているのかどうかはわからない。目を開けていれば生きていられるのだと、目を開ける為に生きているのだと、倒錯した思考が頭を回る。
 ――生きるためには
 今は亡き父親の声がバッツの脳裏に響いた。
 ――生きるためにはな、死ぬ最後の瞬間まで生きることを諦めるな。
 幼いバッツは、普段言葉数が少ない父親の言葉に対して、そんな事は当たり前だと唇をとがらした。父親はその大きな手を息子の頭の上にのせ、静かに頷いた。ぱちぱちと弾ける焚き火の火よりも、その父の手の平の方が、ずっとずっと温かった。
 あぁ、これが走馬燈という奴か。いまだにいくらか冷静に働いていた頭の片隅で、冷静にそんなことを思った。ということはつまり、まだ自分は生きているのだ。もう全身の感覚はないが、思考が動くという事実だけで自らの生存を確信する。
 それはつまり、魔物の必殺の技の1つ、ブレイズに対して耐えきったということだった。

 至近距離で受け止めたため、冷気が渦ではなくほぼ前方からのみ襲いかかったこと。炎の力を得た剣を添えた事によりその加護を受けたこと。
 バッツが出来た対抗の準備はそこまでであり、後は自らの身体を信じるしかなかった。これまでの冒険で鍛えてきた身体を。
 どうにか薄く開いた右の瞼だけで魔物を見る。実在する獣とは比較するのも笑ってしまう程の大きさの巨体が相も変わらずそこにあった。だが必殺の技を放った後だ。流石に四肢を弛緩させて息を荒げていた。
 が、どう甘く見積もっても回復するのは魔物の方が早い。すぐにもう一発ブレイズを放つことはないにしても、あの巨腕で、鋼牙で、蛇尾で触れられただけで今のバッツはその命を霧散させる事になるだろう。否、そんな直積的な暴力でなくとも、放置しておくだけでも死神の鎌は彼を逃がすことはないだろう。
 絶体絶命。とてもシンプルで、かつ絶望的な言葉が彼の頭に浮かんだ。
 ――あぁ。
 凍り付いて震えない声帯でバッツは呟いた。
 ――くそったれだ。
 血を吐く。肺も片方が潰れてしまったのかもしれない。死を感じさせるその液体の温かさが皮肉なことに生を強く感じさせる。死だ。紛れもない死が
 ――全く、くそったれな野郎だ。
 頬の片方を、微かにつり上げる。
「さんざん“おとり”になったんだ。頼むぜファリス」

 魔物の絶命を告げる叫び声が響いた。


 ― ―


 全身を包む心地よい浮遊感。加速感。そして高揚感。ほんの少しの間目を瞑り、ファリスは考える。
 海賊という暴力のみが自ら地位を確立する環境において、ファリスが女だてらに長という最高の場所にまで身を置くことに成功させたのは、詰まる所機転と気迫である。機転とは前例のない選択を見つけ出すことであり、気迫とはその見えない選択をとる勇気である。即ち機転と気迫は分かつことの出来ない両輪であり、これを備えるのがファリスという人間なのだ。
 特に頭のない相手というのは、彼女にとっては相性の良い相手であって、何百回となく勝利をあげてきた。
『んで、今度はお前が気を引け。俺が突っ込む』
 目の前の餌に本気になっているときに、死角から急所をドスン、だ。
 さて、今回の場合においてだ。
 目の前の餌とは何か? 無論バッツだ。散々美味そうに立ち回ってくれた。おかげで魔物は俺のことなどすっかり頭からなくしてしまったことだろう、とファリスは感心はすれど心配などはしなかった。むしろ腹を抱えて笑いたいくらいだった。
 本気とは? あの吹雪の竜巻だ。先に一度見たが、あれを本気で吐いた後ではさしもの奴もすぐには動けない。注意力も散漫になる。
 では死角と急所とは?
 ファリスは目を開いた。叩きつける風が気持ちよい。
「いくらでかいつっても、獣は獣だからな」
 氷付けになってへたっているバッツと、氷を吐いてへたっている魔物を同時に視界に納める。目標はぐんぐんと大きくなる。
「頭の上は見えないんだろ?」
 魔物の真上から真っ直ぐ落ちていく紫色の雷。それがファリスだった。

 バッツと魔物が死闘を繰り広げている間、建物にして、7、8階程はある隕石の天井まで駆け上がるという超人的な動きをしていたファリスをみていた一般人がもしいたら、なんと叫んだであろうか。いくら壁面が大きく荒れていたとはいえ、そんな馬鹿げた芸当が可能なのだろうか。――事実、可能だったのだ。〈ジャンプ〉と呼ばれる伝説的な秘技と、古代では〈忍〉と呼ばれたクリスタルの勇者の恩恵、そしてファリス自身の天性の身体能力のなせる技であった。
 とはいえそれもバッツがある程度の時間稼ぎをしてくれた上での話であって。そこだけは少しだけファリスは感謝した。
 吹き荒れる暴風を天井でやり過ごした後、動けなくなった魔物へと一直線に飛び出したファリスは膨れあがる闘争心を隠しながら、そうしばし熟考した。
 獣の腐臭が嗅ぎ分けらるようになるまで、ほんのわずかな時間だった。そして決定的な時間だった。ようやく尾の蛇が空から落ちてくるファリスの存在に気づく。が、遅い。腰から2本の短剣を音もなく抜く。四肢が萎え避けられるぬと悟った大蛇が大口を開けファリスを迎撃する。その地獄を飲み込むような口撃ではいかな武器でもへし折られ飲み込まれてしまうだろう。
「邪魔!」
 が、ファリスは左手に持った短剣でいとも簡単にいなす。目標を見失った大蛇は目を回し地に身を打った。その黄金色に輝く美麗な装飾が施された短剣は〈マインゴーシュ〉《守りの左手》。例え伝説の竜の一撃であろうと、その短剣は軽やかに受け流す。
「うらああああああああああああ!」
 落下の勢いを殺さないまま、右手に持った短刀、〈くない〉を山羊の脳天へ差し込む。左手に持った短剣とは対照的に暗く、シンプルなつくり。ただ相手を屠ることだけを目的として打たれた剣。その柄から相手の意識を断ち切る確かな感触。魔物は叫び声も上げずに絶命する。
 ファリスはまだ止まらない。身を翻して、今度は獅子の頭を狙う。〈ジャンプ〉とは、落下の速度をそのまま破壊力とする秘技。相手に全てを叩きつけていないのであれば、止まるはずもない!
 先ほどまでの魔物であれば、短刀ごと女を食いつき、噛み殺していただろう。その結果〈自分〉の意志が、命がなくなろうとも魔物にとってなんら問題ではないのだ。そうすればこの勝敗は、生死は別の結果を見せていたはずだ。
 が、しかし。この時、キマイラブレインは身を揺らし、迎撃と回避と防御のどれを優先するか一瞬の躊躇を見せた。単純な意志でのみ行動していたはずの魔物が、思考をしてしまったのだ。頭が1つになったために意志が明晰となった所為かもしれない。一連の非常事態で生まれた防衛本能と、魔物としての本能が食い合った所為なのかもしれない。どちらにせよ生物としては喜ばしい進化であったことは間違いない。しかし、戦闘に特化した本能に忠実であったが故に連勝を続けていたこの魔物にとって、知性の獲得とはつまり勝利を手放すことに他ならなかった。
「ずあああああああああああああああああああああ!!」


 ― ―


 空から槍が降ってきた。
 朦朧とした意識でバッツはそんな事を思った。目の前に聳える強大な敵を、天の槍が切り裂いたのだ。なら、もう安心だ。自分のやることはもう何一つない。勝ったんだ。あくまで自分は元々は冒険家、旅人であり戦士ではない。負けないことが信条であり、勝つ事自体に充足感を得る質ではない。どこかの男女とは違う。俺は勝てなかったかもしれないが、間違いなく負けはしなかった。
 そう安堵し、残り僅かな意識を手放す。
 ――手放そうとしたが、何故か、右手は剣を握っていた。もう既に腕の肉のほとんどが壊死している。動かすどころか、形を維持しているのが奇跡的ですらあるのだ。それは、勝者でありたいという男としての矜持であったか。旅人として敗北を回避する選択を無意識的に選択したのか。もしくは、生物としての単純な生存本能だったのか。もしくは――。
「バッツ!」
 戦友を信用している男だからなのかもしれない。
「ぁぁぁああああああっ!!」
 ファリスが完全にバランスを崩し、落下しているその背後。大蛇が再度身体を持ち上げ、彼女に迫る。全力で両手の剣を振るった後ではいかにファリスといえど、その顎を受け止めることも躱すこともかなわない。
 右手に持った剣を左脇下へ溜める。動く訳がない。動く訳がないのだその腕は。血液は凍り、筋肉は断たれ、神経は捻切れているのだ。動く訳がない。
 しかし、そんな些細な事実は何も関係なく、動かさなければならないのだ。
 屈んだ状態から足をバネのように弾かせ――左足は動かない、右足だけで飛ぶ――、一息で魔物に接近する。
 落下するファリスとすれ違う。一瞬、ファリスがにやりと笑ったようにバッツには見えた。
 腕よりは幾らか無事な体の筋肉を使い、右腕を遠心力で振り回すようにして、剣を最上段へ振り抜く。剣はついさっきまでファリスの頭部があった場所に到達する。
 そしてそのまま叩きつける。今は大蛇の頭部がある場所を。
 尾蛇が最後の力を振り絞り大牙を突き立てようとしたその瞬間。大口を開き筋肉が弛緩した瞬間。完璧な瞬間だった。鱗を断ち切り、肉を切り裂き、骨の隙間を潜り、神経を分断する。何度も何度も無謀な太刀筋を合わせてきたが故、可能な一太刀であった。

 無骨だが、精密な一撃で撥ねられた頭部はバッツの背後へぐちゃぐちゃと気分の良くない音をたてて転がった。バッツはいまだ朦朧としていた意識で、だがしかし勝利をしっかりと認識した。
 同時に、バッツは剣の勢いに流されるまま着地の体勢もとれず右肩から地面に落ちた。既に痛みは無かった。立ち上がるどころか、身動き1つとれない。たが薄く薄く目を開き、受け身もとれずに地面に落ち、芋虫のように転がっているファリスの姿だけは確認する。血を吐きながらも、どうにか掠れた声だけを絞り出す。
「ゴホッ……おい、ファリス。生きてるか?」
 殺しても死なないような奴にいう台詞ではないが、万が一というのもある。バッツという男はぞんざいな男ではあるが、どうにも根っこの所では仲間思いの人間なのだ。
「それはこっちの台詞だ」
 が、やはりそれは杞憂でしかないようで、彼女はなんでもないようにむくりと立ち上がった。長い髪を面倒くさそうにかき上げると、はぁ、とため息をついた。
「あー全く酷い目にあった。死ぬかと思った」
「そ……れはこっちの台詞だ」
 ついでに言うと、自分は思ったどころではなく、本気で死を覚悟した。あと今にも気を飛ばしそうなんだからあんまり突っ込ませないでくれ。
「まぁまぁそんな顔をするな。ほれ」
 ファリスはバッツに近寄ると頭から〈ハイポーション〉《高回復薬》を振りかけた。バッツの壊死しかけていた身体が超自然的回復力で再生する。血が再び巡り、神経が繋がる。と、同時に痛みまでもが復活してバッツは顔をしかめた。
「名誉の負傷って奴だ。我慢しろ」
「いるかそんなもん」
「じゃあ代わりに俺が褒めてやるよ。よくやったな」
「喧嘩売ってるのか?」
「買ってくれるのか?」
 バッツは上体を起こし、身体の動きを確認する。末端はまだ多少おかしい所はあるが、普通に動くくらいなら何も支障はない。肉体に熱があることに、生きていることに心から安堵した。
「……また今度な」
「おぉ、そうか。楽しみにしてるぜ」
 楽しそうに笑ったファリスは、もうぴくりとともしない魔物の巨体に大股で近寄った。獅子の眉間に柄まで深々と刺さった短剣を、両手で引き抜く。
「ったく。……もう動いたりしねぇだろうな」
「流石にもう」
 全部の頭を潰してある。いくら魔物といえど、獣の形をとっているならば、頭が働かなければ動くことは出来ない。実際、動いていない。
「散々手こずらせやがって」
「シドとミドを呼ぼう。早くアダマンタイトを」
「あぁ、そうえいばその為に来たんだっけ」
「お前なぁ……」
 いつも通りの軽い会話が安心する。2人で1つ息をついた。
 ファリスは足を出口に向ける。
「行くか。俺もう疲れた。眠い」
「あぁ」
 バッツは振り向き、舌をだらしなく垂らしたまま転がっている蛇の頭をみやる。散々苦労させられた。頭だけ飛び上がってこちらに飛びかかってくる――ということはなく、生理的に嫌悪を催す音と臭いを発しながら、魔力で構築された肉体が溶けていく。後には灰しか残らない。
 本当に嫌な臭いだ。顔を顰めた。隕石内の淀んだ空気が一層濁る。残った灰も風に流され後には何も残らない。視線を動かし、自分も出口へ歩き出そうとして――――止まる。
 ――風?
 室内なのに何故風がある?
 ――それに灰だって? なら、なんで、あいつの、死体は――。
「ファ――」
「バッツ!」
 ファリスの鋭い叫びで、反射的に振り返り、剣を抜き構える。空気を震わせる中心を、獣の死体を視界に納める。相変わらず死体らしく四肢を地べたに力なく張り付かせている。
「なんだいありゃ……」
 ファリスは既に短剣を一振り取り出し構えている。が、その顔は引きつり唇は小さく震えている。
 バッツもファリスが見ている場所を見つめる。それは、魔物の右肩。肉がまるでそこだけが別の生物かのように蠢いている。先ほど〈ハイポーション〉が振りかけられた自分の両腕を思い出す。まるであのような、そう、肉が再生しているようだ。しかし、頭は全て潰しているのだ。そこだけ再生しても。――いや、そもそもあんな部分は傷つけていないはずだ。
 肉が盛り上がり、芽のようなモノが生える。ファリスが先手をとって動き出そうとするのを目で制する。何が起こっているのかわからないのに動くことは出来ない。肉の芽は成長を続け、もう一つの巨椀のように大きくなり、直立した。表面に太い血管がはい回り、形が徐々に鋭角になっていく。あれは――。
「……鱗?」
 肉の塊が円錐状に形が整えらる。そして先端が折れこちらを見据える。鱗の先端が震え、びちびちと嫌な音を立てながら上下2つに裂ける。中にあったのは、鋭い牙。次いで上部に2つの鋭い角が生え、2つの暗い光が灯る。
「――竜だ」
 バッツは口から漏れた掠れた声は、竜の叫び声でかき消された。
 暴風のような魔力が竜の口元に集まる。
 〈アクアブレス〉
 魔力で作られた、一つ一つが爆雷となった泡を無数に吐き出す技。数多の戦士を葬ってきた、ブレス系の最上位。
 感情を持たぬはずの竜の口元がにやりと歪んだように、そう見えた。そこで、バッツとファリスの意識は失われた。


 ― ―


 その昔、ある小さな山村に住む男が、山中で双頭の蛇を見つけた。片足を無くした猪や羽をもがれた雉鳩くらいなら見かけたことはあるが、流石に2つの頭を持つ蛇などはその村人も初めて出会った。気味悪く思った村人は手に持っていた鉈を蛇の頭へ2回ふるい、2つとも断ち切った。動かなくなった蛇を見て安心した村人は、シダの葉で血を拭き取った。そして改めて蛇の死体を見ると眉を顰めた。またしぶとくも動き出しているではないか。蛇とは頭を潰してもまだ動くものではあるが、一度動かなくなってからまた動き出すとは。もう一太刀浴びせてやろうかと鉈を振り上げた時、村人はたまげて腰を抜かせてしまった。蛇の双頭が生えていたその股から新しい三つ目の頭が生えてきているではないか。あまりに驚いた村人はそのまま山を駆け下りた。
 しかしその村人は臆病であり決して勇者ではなかったが、実に信心深かくそして先を見越す頭を持っていた。その山村では昔から蛇は悪魔の使いだと伝えられいて、病や不作などは蛇の呪いの所為だとされていた。このまま捨て置いていけば、村にとんでもない災害が起きるかもしれない。そう考えた村人は途中で折り返し、籠の中へ三頭の蛇を恐る恐る納め、改めて山を駆け下りた。
 その山村のはずれには魔術師が居を構えていた。昔からの住民ではなく、数年前にどこからかやってきて住み着いたのだ。王都からは遠く離れ、一番近くの街へ出るにも山をいくつか越えなければならないような辺境の土地だ。余所から人がやってくるだけでも珍しいのに、住み着くなど酔狂でしかなかった。どこかの宮廷魔術師だったのがとんでもない失敗をして逃げ出し流れ着いたのだとか、とある高名な呪術師の弟子だったのが破門されたのだとか、様々な噂をされていたが、村からの子供の病避けや雨乞い、悪霊払いなどの依頼には快く応え、それも良い結果を出していたので、村人も悪い印象は持っていなかった。むしろ、半ば公認の村の祈祷師として認知されていた。そもそも酔狂ではない魔術師など存在しないのだ、と村人達は勝手に納得をしていた。
 そんな訳で双頭の蛇を捕まえた村人も、山から下りるといの一番に魔術師の住まいへ駆け込んだ。籠ごと魔術師に押しつけると何度も何度も拝み、飛び出して帰って行った。
 魔術師は籠の中を覗くと、ふむ、と頷いた。話を聞いたときは、蛇を恐れ慌てた村人が何か勘違いをしただけのつまらない話だと思ったのだが、そうではないらしい。いいだろう。こんなド田舎に引きこもり、いくつか進めていた研究も行き詰まっていた所だ。魔力で巧妙に隠されていた地下のアトリエで研究を始めた。
 信心深い村民達と違い、魔術師は実にシステマチックな考えをする人間だった。魔法とは即ち理論であると理解する、どちらかというと科学者、と言われる人種に近かった。故に村で信じられている悪魔の蛇についても決して災害を運ぶ魔物ではなく、あくまで愚にもつかない信仰の一種でしかないと考えていた。事実、村の周辺を探索した所、魔力を持つ蛇など全く存在しなかった。
 しかし、この蛇は違った。並々ならない魔力を持っていた。なるほど、おそらくこの蛇の末裔(もしくはこの蛇自身)の存在が蛇を忌避する伝え話の切っ掛けだったのかもしれない。
 だが、そこまでならただの魔物と変わりなく、決して魔術師の興味を惹くような存在ではなかった。魔術師の興味を惹いたのはその再生力だった。内臓や脊髄、特に頭部の再生力だけは常識的ではなかった。無くした腕や片足を生やす魔物なら知識にあるが、まさか頭部、というよりも脳を再生するとは。
 魔術師はこの多頭蛇の研究に没頭する。何の役にも立たないものを、自分の欲求を満たしたいが為だけに進めた。魔術師とは己だけの欲求を満たす秘密主義であり、そこが知識を共有し社会全体の水準を押し上げる事を旨とする科学者とは異なる。つまるところ、この科学者のような魔術師は、魔術師でしかなかったのだ。周りを鑑みず、研究に明け暮れることしかできないのだ。
 王都より命じられた調査と監視の命令を遂行もせず。

 戦争が起こった。王が勅令を発した。貴族達は我先にと兵を挙げた。兵は武勲を挙げるために槍を振るった。
 戦争が起こった。1つの国と1つの国が相容れない主張を、それでも押し通すために起こった、いつの時代でもよくある戦争だった。その根深い内容について、国の片隅にある山村の住民が知る訳はなかった。そんなもの、王都より派遣された宮廷魔術師だって知らなかった。知るのはただ一つ。隣国が攻め込んでくる際に迂回路として使われる可能性のある国境の谷間や山道を調査監視せよという命令だけだった。自らが優秀であると信じていた魔術師にとっては、実に退屈な任務だった。
 戦争が起こった。結果から言えば、山道から進入してきた隣国の兵は小規模な分隊だけであった。その戦争において大きな武功をあげることもなく、かといって損害があるでもなく、記録の片隅にひっそりと1、2行でまとめられる程度の小さな作戦だった。――しかし、それは村1つを焼き払うには十分すぎる戦力だった。
 戦争が起こった。村は焼けた。若い男は焼けた。若い女は焼けた。老人は焼けた。子供は焼けた。全てが焼けた。戦争が起こったのだ。
 片方にとっては運の良いことに、片方にとっては悪いことに。小規模な分隊でありながら隣国の部隊には魔術師が配置されていた。山村の魔術師はさしたる抵抗も出来ずに殺された。忌むべき他国の呪術を残す訳もなく、アトリエはその研究成果ごと焼き払われた
 そして山村は消えた。休戦が布告されると、隣国はあっさりと兵を引いた。本国も、交通の便が悪く、土も痩せている土地へ新たに入植をさせる労力に見合った価値は見いだせず、廃村を放置した。隣国が兵を引いた事からもわかるように、商業的にも防衛的な視点からも重要ではない村だったのだ。そうして村は消えた。数十年後、国が2つとも崩れ、名前も変わってしまった頃には、そこに村があったと知るのは、もう誰もいなかった。
 戦争が起こった。
 戦争が村を消した。
 ――果たして、そうなのだろうか?
 もし最初の男が蛇を捕まえなければ、魔術師が多頭蛇の研究を始めなければ、このような悲劇は起こらなかったのかもしれない。
 そう。確かに、蛇は、災害を運んだのだ。

 さて、魔術師はその多頭の蛇についてこう結論づけた。
 双頭の蛇は全身が脳である。体細胞のひとつひとつが思考する可能性を持っている。例え頭が潰されようと、その爆発的な再生能力でもって頭部を復元し、また何処か別の細胞が脳細胞として活動する。記憶情報や意志というものは、身体全体の細胞で劣化はしているが保持している。それが異常な再生能力を持つ蛇の正体であった。
 故に、魔術師は多頭の蛇をこう名付けた。その名を――キマイラブレイン《脳髄の寄せ集め》


 ― ―



 自分が意識を失っていたのは四刻程であろうか、とバッツは思った。実際にはほんの一瞬であり、でなければ新たに竜の頭を持った魔物がバッツとファリスの身を無事に済ませていた訳がなかった。
 身体を捻るようにして身を起こそうとするが、それを阻む何かが身体の上にのっている。
「……おい、ファリス。おい」
 先ほどまで軽口を叩いていた戦士は、今度はぴくりとも返事をしなかった。まさかと思って、ファリスの口元に手を持って行くと、辛うじて息があるのを確認して安堵する。体力に余裕のあったファリスが自分をかばったのだと、バッツはそこでようやく気付いた。
「……馬鹿野郎。かばうのは俺の仕事だろうが」
 ファリスを胸元に抱えたまま身体を起こす。魔物はブレスを放った余波と先ほどまでの死闘で失った体力を既に回復させ、真っ直ぐバッツの方を睨んでいた。死が、睨んでいた。
 死ぬのかもしれない、とバッツは思った。万策がつきた。どうしようもない圧倒的な暴力が目の前にあった。
 どういう理屈かはわからないが、あいつは復活するのだ。おそらくあの竜の頭を叩き落としたとしてもまた次の頭が生えてくるのだろう。次は狼か雄牛かそれとも椋鳥か。
 先ほどの蛇の頭を思い出す。あそこまで小さくしてしまえばいいのだろう。そうすれば肉体を維持できなくなった魔力が分散して灰となるのだ。
 だが、もうバッツもファリスも満身創痍だった。否、例えそうでなくともそれだけの戦力が自分たちにあったかどうか。
 死だ。
 終わりだ。
 死んでしまうのだ。
「ははっ」
 だというのに、バッツは面白くて仕方がなかった。
 恐怖のあまり気を違えた訳ではない。戦闘本能が理性を上回ったという訳でもない。
「っくっく」
 ファリスをより強く抱く。喉の奥でバッツは笑った。あれだけ男勝りな事ばかりほざいてた癖に、なんだこの髪は、体格は、肌は。強く力を入れれば折れてしまいそうだ。それが愉快で仕方がなかった。
「全くたまげるよな、爺さん。今でもそう思うぜ」
 抱擁を解き、静かに地面へ彼女を横たえる。
「生きるためには、死ぬ最後の瞬間まで――」
 側に落ちてた盾だけを左手で持ち、萎えかけた両足――否、左足首は動かない――へ力を入れ、立ち上がる。剣は何処かへ飛んでいった。右肩が外れている。そこから下は感覚がない。肋骨は折れていないものを探す方が難しい。聴覚がおかしいから、きっと両耳が潰れているのだろう。咳き込むと、喉の奥からどす黒い血が出てきた。なにか内臓が傷ついているのかもしれない。魔物が手を下すまでもなく、数刻放置しておけば、バッツは死ぬだろう。
「いい感じだ」
 問題しかない。だから、問題はない。
「かかってこいよ、蜥蜴野郎。俺は生きるのを諦めねぇぞ」
 魔物が動くより速く、前方へバッツは飛んだ。しかしその動きは素人のように遅い。魔物は余裕を持って右前足を叩きつけた。上から落ちてくる落石のような一撃。その動きはバッツとは逆に、先程までよりもより大きく、より速く、より重かった。
「っ!」
 しかしバッツはそれを予期していたかのように、その一撃を左手に持った盾でいなす。激痛の走る左足を軸に回転し、魔物の右脇腹へ潜り込む。遠心力で右腕を振り回し、外れた右肩を無理矢理入れ直す。
「ぐがあぁぁっ!」
 痛みなどたいしたことではない、と自らを納得させる。痛みがあるということは、まだ右腕はあるということ。であればつまり、まだ動かせるということ!
「っらあぁぁ!」
 内臓を直接揺らすように、裏拳を魔物の脇腹へ叩き込む。止まらず、左手の盾を捨て、全体重を載せた掌底をぶちかます!
 完璧な二連撃だった。とても死に瀕した人間が繰り出したとは思えない、神速の技だった。この一撃を食らい両足で立っていられる人間が果たして存在するだろうか。必殺のと呼ぶ相応しい、バッツ・クラウザー渾身の攻撃であった。
「足り……ねぇか」
 しかし、巨岩のような肉体はぴくりともせず、魔物は呻き声1つあげなかった。
 代わりに、地面を揺るがす咆吼。バッツは舌打ちをして、動かない下半身に鞭を入れてバックステップで魔物から離れる。魔物の死角だ。いくら足が動かなくても離脱するには十分の猶予がある。
「がぁっ!!」
 が、バッツは腹部に強烈な殴打を受ける。いとも簡単に屈強な身体が宙に浮き、瞬間意識を失い、落下と同時に再び目覚める。まるでテーブルから転がり落ちた匙のように角張った岩の地面を転がる。
 回転が止まったのはバッツの意志ではなく、隆起した岩場に背中をしたたかに打ち付けたからだった。
 すぐにでも飛んでしまいそうな意識を、それでも砂と血の味を噛みしめながら握りしめる。俯せになった身体を起こそうと、両腕をついて状態を持ち上げる。しかし、腕は絹で出来ているかのようにへなへなと用をなさない。先ほどの一撃で絶望的な音が腕から聞こえて来たことを思い出す。
 咳き込む。尋常じゃない程の量の血を吐く。ミスリルで打たれた美しい鎧は既に原形をとどめていない。内蔵が破裂してる。肺か、肝臓か。どちらにしても死の半歩手前だ。
 身体が働かないので、瞳だけをどうにか動かし魔物を睨む。キマイラブレインは、今までの戦いなど無かったかのように全身に力を漲らせていた。獅子はこれ見よがしに鬣を靡かせ、山羊は獰猛な瞳を血走らせ、巨蛇――あいつに吹っ飛ばされたのだ――は愉しそうに舌を出し入れし、悪竜は吐き気を催すような泣き声を鳴らす。
 ――くそったれ。
 バッツはもう悪態をつくことさえ出来なかった。それでも、もう一発をくれてやろうと身体に力をいれようとして――仰向けに転がった所で力尽きる。
 本当にもう、今度こそ本当にもう終わりだった。身体には微塵も命の欠片が残されてはいなかった。視界の端に紫色の影が見える。弾き飛ばされた場所がファリスの近くであったことに安堵し、そしてやはりまったく動かないその影に心苦しくなった。視界の逆側では、巨岩のような死が地面を揺るがしながら近づいてくる。
 それでもバッツは生きることを諦めたくなかった。だから、最後の瞬間まで目は開けていようと心に決める。それくらいの抵抗はしてやろうと。
 目に見える死は確実に距離を詰めてきている。
 これを救ってくれる存在があるとすれば、やはり神だろうか。
 もう少し神に対して敬虔であれば良かったかなと後悔する。そうすれば神でなくとも、天使くらいは助けに来てくれたかもしれない。美しい天使が。
 死の淵だからか思考がおかしな方向に流れていくのを自覚する。
 巨大な魔物は既に息づかいが聞こえるような距離まで近づいていた。異様な腐臭と、生暖かい吐息。魔物はなんの躊躇も見せず、丸太のような前足を振り上げた。
 バッツは思った。死神の鎌にしては太すぎる。やめてくれ。それじゃ天使が怯えてしまう。
 美しい。
 天使が。

 鎌が振り落とされた。


 繰り返すが、バッツは目を開けていた。
 だから、心に感じたのは死の恐怖ではなく、ただ一言。
「で……けぇな」
 巨大だ巨大だと思っていたキマイラブレイン。その振り下ろされた死神の前足を、赤子のように捻りあげる巨腕。
 紙細工を裂くように、肩から引き千切られる。
 酷くおぞましい叫び声が上がる。
 視界から魔物がフェードアウトし、代わりに世界が暗くなる。山が移動してきたのだとバッツは思った。小山が歩いているのだと。

 伝説の巨人。
 地面を引き裂き、山を崩し、谷を鎖す、大地の守護者。
 神をも殺す、力の象徴。

 山が震え、雄々しき声を上げた。その聴くだけで腹の底から勇気が燃えてくるような咆吼に比べれば、魔物の鳴き声など、もはや小蠅の羽音でしかなかった。
 風が吹いた。心地よい風だった。天使がやってきたのだ。だから、天使の声が聞こえた。
「砕け――〈タイタン〉」
 山がバッツの方を見て、にやりと微笑んだように見えた。


 ― ―


 キマイラブレインは思った。
 自分は何処から来て何処へ行くのかと。
 全身で思考する代わりに、複雑な知性と記憶の長期保持を犠牲にしているキマイラブレインにとって長考という行為は生まれこの方一度もしたことがなかった。
 だが、こうやって目の前の強大な巨人に身体を破壊されている今、思考がどんどんと統一されていくのを感じていた。
 ――そう考えている間にも、左後足がねじ切れた。
 反射的に身体が抵抗をしてはいるが、それも無駄な行為だと多少良くなった頭脳が悟る。――もはや、頭などひとつも残ってはいないが。
 さて、そんな取るに足らないことなどどうでもいいのだ。死に行く今、知りたいのは過去と未来であり、つまり自らの総決算だ。
 といっても過去など全て忘却してしまっている。大きな山の中でひっそりと暮らしていたような、そんな気もするが、定かではない。とにかく、生きるのに必死だった。尋常じゃない再生能力を自覚しながらも、だからこそ生きるのに必死だった。何回も何回も何回も切り裂かれ、磨り潰され、引き千切られ、燃やされ、冷やされ、埋められ、沈められ、何回も、何回も、何回も。
 その度に脳は死んで、その度に再生した。死を知っていたのだ。死の恐ろしさを知っていたのだ。
 だから、死ぬのは嫌だった。死ぬのは怖かった。だから、生きたかった。
 ――気がついたら上半身がない。肺も心臓もなくなってしまっている。
 食事や魔力を得ながら少しずつ少しずつ大きくなった。他の強い生物を観察し、自らの力とした。牙を研ぎ、爪を磨き、魔力を高めた。
 気がつくと、自分は強くなっていた。
 ――辛うじて唯一動物らしい動きをしていた尾が引き抜かれる。代わりに身体の一部から骨を生やし筋肉をつけようとするが――失敗。再構築するだけの魔力が残っていない。
 見渡せば、もはや自分より強い魔物などいなかった。最強だった。自分が切り裂き、磨り潰し、引き千切り、燃やし、冷やし、埋め、沈め、何回も、何回も、何回も。
 そうしたのだという記憶が非常に朧気ながら残っていた。
 ――肉が削られていく。
 たぶん、そうだ。そうやって生きてきた。
 ――肉がけずられていく。
 そして今、また切りさかれ、すりつぶされ、引きちぎられていく。
 だけど、不思ぎなことにきょうふはない。
 ――肉がけずられていく。
 ただ、あん心している、
 ――にくがけずられていく。
 もう、たたかわなくていいのだ。
 ――にくがけずられて。
 もう、しななくてもいいのだ。
 ――にくがけずられ。
 もう、なにもおもいのこすことはない。
 ――にくがけずら。
 だけど、あぁ、もしまたさいせいしてしまうならば。
 ――にくが。
 つぎは、へびになろう。やまのなかで、だれにもころされず、だれもころさず。のいちごだけをたべていきるような。
 ――に。
 そういう、へびになろう。

 キマイラブレインは、絶命した。


 ― ―


「バッツ! 大丈夫!?」
 ――大丈夫な訳があるか。
 という定番の返しさえバッツにはする余裕がなかった。静かになった戦場で小さく唸った。
「とりあえず、これ」
 頭の上から〈ハイポーション〉《高回復薬》が振りかけられる。その仕草が姉妹でそっくりなのでバッツは少し笑ってしまう。
「もう! 何笑ってるの! 本当に危ない所だったんだから!」
「あぁ、ううん。ありがとな、レナ」
 まるで白百合のように美しく、しかし大風が吹こうとも折れない信念が瞳の奥に見える少女は頷いた。
 内臓や折れた骨が超常的な力で復元していくのがわかる。直に血の巡りも正常になるだろう。この後にくるであろう神経が繋がる燃えるような痛みと身体の怠さを思うとげんなりとした。が、それも命あるからだ、と納得する。
「というか、さ。俺よりもファ――」
「おーーーいレナーー! そんなアホよりこっち! こっちをー!」
「姉さん! ごめんね、バッツ。まず姉さんを……」
「あーはいはい。いってこい。俺はもう大丈夫だ」
 レナが軽やかな足取りで岩場をはね、ファリスの元へ駆け寄る。バッツは治り始めた身体を起こした。白魔法を唱える妹をだらしない笑顔で見つめる姉。それを見て溜息をつく。
「あんのシスコンめ。さっきまで気絶してた癖に」
 逆側、つい先ほどまで魔物が立っていた場所に目を移す。そこにはもう大量の灰が残っているだけだった。
 長く続いた死闘の決着はあっけないもものだった。レナの召喚した召喚獣〈タイタン〉はキマイラブレインを圧倒。回した腕で頭を叩き割り、振るった足で胴を踏みつぶした。再生能力を上回る超暴力の前に魔物はなすすべもなかった。
 自分達の戦いはなんだったのか。少しくらいは自分たちの攻撃のダメージにも意味があって欲しかったが……。きっとなかったんだろうな、とバッツは溜息をついた。
「おいおいさっきから何溜息ばっかついてんだよ」
「姉さん、まだ立ち上がるのは早いわ」
 大丈夫大丈夫、とファリスは両腕を回し、からからと気持ちの良い笑い声を上げた。バッツに近づくと、それを見下ろしてニヤニヤと笑った。
「なんだ? やっぱり“おとり”は気にくわなかったか?」
「そういう訳じゃないさ」
 バッツは苦笑した。
 “ファリスが囮になり、バッツが叩き、それを囮にしてファリスが叩く。”
 ここまでがひとまずの作戦だった。しかし、もしこれで仕留めきれなかった場合、これら全てを囮にして、レナに期待しよう。というのがバッツとファリスの作戦の全てだった。勿論レナと示し合わせた訳ではないが、そこは長く旅を続け肩を並べてきた仲だ。2人の戦い方を見て察して貰うほかなかった。レナの天才的な才能を持っても長時間の詠唱を必要とする召喚魔法。その膨大な魔力が集中するのを悟られないように魔物の気を引き続けるのは――実際の所、2人だけでは非常に厳しかった。
「ごめんなさい、私の召喚魔法がもっと早く完成していれば……」
「そんなしょげるなってレナ。悪いのはこの役立たずだ」
「おいファリス、どの役立たずだって?」
「剣も持たずにぺちぺち張り手喰らわせてた役立たずだよ。ありゃー傑作だった。今度花売りのねーちゃんに習うがいいぜ。あいつら魔物みたいに態度の悪い客に平手打ち喰らわせる技術に関しては天下一品だ」
 がははっと豪快に笑うファリスを睨み、バッツは唇の端をぴくぴくと振るわせた。
「て、てめぇ、やっぱ起きてやがったんだなあの時」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる。まぁ、どっかの誰かさんが俺の頭をニヤニヤ笑いながら抱きしめるもんだから、あまりの気持ち悪さに気を失いそうになりはしたがな」
「…………ぶっ飛ばす!」
「ちょ、ちょとバッツ急に立ち上がったら!」
 ファリスはさっと身を躱し、足を出した。血が回りきってないバッツは踏鞴を踏み、簡単にそれに引っかかり、地面に転がった。もう姉さんったら、とレナは頬を膨らませながらバッツに肩を貸す。
「ま、一番悪かったのは――」
 暗い天井を見透かすように、ファリスは上を見上げた。レナとバッツも同じように見上げる。
 その先は、言わずともわかった。
 その先にいるのだから。
「文句は、直接言わなきゃな」
「……だな」
「ええ」
 岩に反響してやかましい声が聞こえてくる。戦場には場違いな老人と子供の声は、三人を酷く安心させた。
「シドとミドよ」
「やっぱ無事だったか」
 バッツは腰を上げた。もう身体は動く。歩ける。進める。生きている。
 ――待ってろよ、ガラフ。
 三人は、死闘を見事生き抜いた。その事実に胸を張り、大きく一歩を踏み出した。


 ― ―


 ― ―

「どうしたの、バッツ。何か忘れ物?」
 隕石のエネルギーを回復し、いざ隕石から出ようとしたとき。何か動いた者があるような気がして、バッツは隕石内を見渡した。
「いや――」
「ひゃああっほうおおおお! 外だ! 生きてるって感じだ!」
「姉さんったらもう……。バッツ?」
「なんでもない」
「そう?」
 不思議そうに首を傾げるレナを促し、バッツは外に出た。
 何もない。
 もし万が一何かあったとしても、それは別にそれでもいいことなのだろうと、バッツはなんとなくそう思った。