「こう、すっとされたと思ったら、ぎゅっと来てからぐっ、ぐぐぐ! ってくるの」
「……なんの話さ?」
「何って、だから振り袖の話」
「だからって、全然話繋がってないじゃん」
 ミキの後ろの席に座っているショートカットのクラスメートは、呆れた様子で持ってた携帯を左右に振る。それに合わせて、ブレザーの上に羽織った紺色のカーディガンもパタパタ揺れる。ちなみにミキは二重に上下学校指定のダサいダサいジャージを着て、その上に制服を羽織っている。依然一日中ブランド物のスウェットで過ごしていたら、だらしないと怒られた。だからこの格好が最大限の折衷案だ。全然可愛くないし、ミキだってこんな格好はしたくないのだ。
 この学校は全ての教室にエアコンが配備されているのだけど、その設定温度は一律して16度に固定されている。だから教室にいても厚着をしなければならない。すごく意味がないと思う。
 噂によると、授業中の居眠りをさせないため、らしいけど、大きなお世話だ。例えそうだとしても、せめて今みたいな休み時間には上げてくれてもいいだろうに。
 で、なんの話だっけ? 首を傾げると、その子はだーかーらーと続けた。
「今週の週末、都内のショップまで遠征に行こうって話。行けるの?」
「え、みんな行くの?」
「行くから聞いてんじゃん」
「いくいく! もちろん!」
 身体を後ろに乗り出してこくこくと頷く。と、机の上にティーンズ雑誌が置いてあるのを見つける。
「いくよー」
 ひょいと取り上げてぺらぺら読み始める。
「あーちょっと、私まだ読んでないんだけど」
「ミキも読んでないよー」
「ガキ大将かよ」
 ぺらぺらめくるけど、特に目新しい情報はない。業界では一昔に話題になったブームばかり。当たり前か。というか、事務所に置いてあった献本で既に読んだ事がある気がしてきた。
「ねー、美希が行けるってー」
「え、マジー!?」
「やったー」
 近くで同じように暇そうにしていた何人かの女の子達がわらわらと寄ってくる。
「ねーねー、なんかおすすめの店とか知ってる?」
「つーか美希の顔で安くなったりしないの?」
「何それ、超セレブ」
 きゃいきゃいと声をあげる友人達に、まーねー、とひらひら手をふりながらページをめくる。
 お気に入りのデートスポット、という題字が踊る。記事の先頭は都内でも有数の綺麗な夜景が見られる、高所にある公園だ。空中公園、とかなんとかそんな感じ。撮影で入ったことがあるけど、確かになかなか綺麗だった。こう、よくわからないけど胸がきゅっとした。あれは何だったのだろう。
「美希と買い物久しぶりじゃね」
「確かに。もう前とか全然記憶にない」
「そうだっけ? 誘ってくれればいくのに」
「いやいやいつも誘ってるっつーの」
「でも美希ちゃん大丈夫なの、お仕事とか?」
 私の前の席、三つ編みの女の子が心配そうに手の平を合わせる。彼女はいつもいつもその髪型にしているものだから、言ったことがある。『ダサい』って。2週間、口を利いてもらえなかった。あれは流石にミキ、反省した。
「大丈夫じゃない?」
「じゃないってアンタ、確かめなさいよ」
 めんどくさいなぁ、と思いながらも手帳を引っ張り出す。ぺらぺらと捲って。
「あっ」
「どうしたん?」
「何日だっけ?」
「だから今週末、土曜日」
 ショートカットの子はまた携帯をぶるんぶるんと振り回す。なるほなるほど、と確認してみる。
 げ。
「お仕事だ」
 はーっと、周りから次々にため息が漏れる。
「ごめんごめん」
 あはは、と笑いながら謝る。あんまり好きではないお仕事だったので、すっかり忘れていた。
「ま、いいけどね」
「お仕事だもんね」
「いつものことだし」
「超セレブだし」
「まったくもぉ」
 友達はみんな呆れながらも納得してくれる。ありがと、って両手を合わせてぺこりとやる。
「あ、話してれば、それほら美希じゃん」
 目の前に立っていた長身の女子が、美希の膝の上の雑誌を取り上げる。
「あ、ちょっとミキのとらないでよー」
「つーかあんたのじゃねーし」
 ほらこれこれ、と長身の子がページを指さす。きゃー、と騒ぎながら周りの娘達がそこに首を突っ込む。ミキも座ったまま背を伸ばし身体を傾けて覗き込もうとするが、いかんせん背が大きすぎる。この子は確か、バレー部だっけ。バスケ部だったかもしれない。
「つーか表紙も美希だし!」
「かわいー」
「お洒落ー。なにこれ、こんなん何処に売ってんの?」
「オーダーメイドっしょ」
「何それ、超セレブ」
「……あんたさっきからそれ、マイブームなの?」
 なんの記事だろう。まだ冬物のはずだから、バレンタイン関係かな? これだけ色々な仕事にでていると、全然記憶にない。最初は結構嬉しかったのに、慣れって恐ろしい。
 雑誌を覗いていたみんなが、それとミキ本人を交互に見比べる。
「何?」
「いや、本人ってのはわかってるんだけど」
「ねぇ」
「なんかこう、一致しないというか」
「こんなに有名になる前と別に変わらないよね、美希」
 そうかな? 道を歩けばすぐに人が寄ってくるので、変装の道具は手放せない。色々な諸事情で携帯を3つも4つも持っている。あ、あとなんだか以前より男子は寄ってこなくなった気がする。そこら辺でだべっている適当な男子をちらっと見ると、顔を真っ赤にして教室から出て行ってしまった。
 まぁ確かに、と顔を元に戻す。周りは変わったけど、ミキ自身はそれほど変わっていないのかな。
「元々スター性っていうか、カリスマだったから。変わらないんじゃん?」
「あーわかるー」
 なるほど。それだ。うん、そうかもね、とミキは頷いた。
「うわ、褒め言葉をそのまま受け取った」
「さすが星井美希」
 長身の子が上からミキの頭をぺしぺし叩く。なにさー。
 手帳をその先までぺらぺらとめくる。そもそもよく考えたら、半年、一年先までミキの予定はびっしりなんだ。今更だけど、数日前に遊ぼうと言われても遊べる訳がなかった。なるほど、確かにそういう点ではミキは変わったのかもしれない。その日の思いつきで友達と放課後をテキトーに潰すのは楽しい。でも、仕事だって、まぁ楽しいのだ。
「うわぁ、美希ちゃん忙しそうだね」
 三つ編みの子がビックリしたように目を丸くする。
「まーね。あ、あんまり見ちゃ駄目だよ。この前マネージャさんにすっごい怒られたの」
「あ、ごめんね」
 鞄の中へまた手帳を放り込む。
「でも、すごいよねー美希ちゃん。お仕事あんなにいっぱいして。なんでそんなに頑張れるの?」
「なんで?」
 ふむ、確かに、なんでだろう。
 楽しい、っていうのはあるけどそれはまた違う気がする。楽しい分だけ面倒くさい事はたくさんあるし、それこそ楽しいだけなら友達と買い物でもしてた方が辛い事なんかないし。もしくはお昼寝してた方がよっぽど楽で楽しい。
 レッスンは面倒。自由時間は制限される。勝手に外を出歩く事もままならない。
 それでも、ミキはアイドルを続けている。
「……なんでだろうね?」
 三つ編みの子は、含むようにしながら笑った。
「うん、美希ちゃんらしい」
 なんだそれは。
 私の頭の上ではまだ雑誌を見ながらわいわいと騒いでる。
「ほら返してよー」
「元々アンタのじゃないでしょうが」
 ミキが取り上げた雑誌を、更に後ろから取り上げられる。不満げにそちらを見ると、雑誌を捲りながらこちらを手の平でしっしっと追いやる。むぅ。
「委員長に言いつけてやる」
「私が委員長なんだけど」
「え、そうなの?」
「……あんた今更なにいってんのよ」
 なんと世の中は理不尽なのか。
 体勢を元に戻すけど、周りの集団はもう別の新しい話題に移ってしまっている。なんとなくそこに入り込む気がしなくて、窓の外をぼーっと見る。冬の景色は、色が少ないから見ていても寂しくなるばかりだ。雪でも降れば見ていて飽きないのだけど、空はビックリするくらいに穏やかで、それも期待できそうにない。
 校庭に朱色のジャージがぽつぽつと出てくる。あれは、2年生だっけ。みんな寒そうで、あまり動こうとしない。今日は風もあるからきっと寒いだろうな。今日の自分のクラスには体育がなくて本当に良かった。
「そう、だから振り袖がね」
 誰ともなしに話し始める。周りの誰かが適当に相槌を打ってくれた気がする。
 この前、成人式だからなんだかんだって振り袖を着たのだ。ミキはまだ中学生なのに、おかしいよね。
「あれね、胸とか腰とかぎゅっと閉めるから、なんか居眠りしにくくて」
 だからミキ、眠いんだよね、という一言は、気怠げなチャイムの音にかき消された。
 ばたばたと解散して席に着く音。校庭には朱い点がさっきよりずっと多く集まっている。ミキはなんだか、鼻がむずむずしてきた。

 ――あふぅ。


hello, my HONEY



 寝るのは気持ちが良い。
 それって本当だろうか?
 いや、もちろんミキだって否定する訳じゃない。むしろ寝るのは大好きだ。できれば朝から晩まで寝て過ごして、そして夜になったらまたぐっすり眠りたいくらいには。
 でもちょっと思い出して欲しい。というか、思い出せるだろうか。寝てる間の事を。夢は見るだろう。でもそれは夢でしかなくて、自分自身のリアルな感覚ではない。ね、思い出せないでしょ? つまり、寝ている間は気持ちが良いとか、楽しいとか、眠いだとか、そういう感触は感じる事はできないのだ。
 これは由々しき問題だ。ならばいったい、ミキは何故寝るのが気持ちいい、だなんて感じているのだろうか。そんな感情はどこから沸いて出てきているのであろうか。
 ひとつ簡単に推測できるのは、その感触があるのは寝る瞬間、起きる瞬間だけでそれをミキは寝ている間の快感だと錯覚している、という考えだ。なるほど、確かに睡眠の前後の事であれば手軽に思い出す事が出来る。あのむず痒くも心地よい快感は、想像するだけで、こう、涎が垂れてくる。
 であれば、だ。本当に寝てしまう必要はない訳だ。寝る瞬間と起きる瞬間、これを交互に繰り返す、もしくはその快感のポイントを維持すればいい。きっとその先にあるのは、筆舌にし難い桃源郷であることはもう間違いない。
 そう考えたミキは努力した。いやぁ、本当に努力した。自分が寝てしまうギリギリのポイントを何度も何度も昼寝をする事で確かめ、精度の高い時間をどうにか見つけ出した。そしてそこに携帯のアラームを、完全に覚醒させないが、眠らせもしないような音量で繰り返し鳴らす。これでミキは新たなステージへ行ける――!
 まぁ、結果としては、いうまでもなく失敗だった。
 ミキの落ちくぼんだ目元をどうにかこうにか誤魔化してくれたメイクさんのプロフェッショナルっぷりには頭が下がる勢いであった。
 今でも考察は続けているいる。ミキが一番楽しいと感じるポイントを、いまでも探し続けている。それは人に聞いても分かるものではないし、自分で見つけるからこそ価値がある物だと、そう思うからだ。
 でもま、とりあえず今の所は、こうやって普通に寝るのが一番気持ちが良いし手軽なのだ。そして、それだけがミキの好きな物なのだ。

「おい、お前」
 思索と妄想で編まれた桃色のハンモックにゆらゆらと揺られていたミキを、それ以外の何かが肩を揺らしてきた。あぁ、うざったい。ミキはもちろんそれに構わず、再びまどろみの中へとその身を落とした。
「おいってば。もうそろそろ始まるぞ。というか始まってるぞ」
 けれどその振動はしつこくミキを追いかける。流石に無視を仕切れなくなって、ミキは自分の意識を少しだけ外に覗かせる。
「もう他の奴らは会場に入ってるぞ。……おい、生きてるか?」
「うぅ、なんなの」
 ミキはむくりと身体を起こした。寝起きでもやもやした目には周りの風景が良く映らない。が、なんとなく人がいるのはわかる。なんかやる気のなさそうな顔。安っぽくてしかも日頃適当に扱ってそうなスーツ。なんかおかしな男が立っている。というか、それ以前に。
「……ここどこ?」
 ミキが周りを見渡しながらそう言うと、男は親指で自分のこめかみをぐりぐりと抑えた。
「……控え室だ」
「なんの?」
「オーディションの」
「なんの?」
 まわりを見回すと、たしかにここは出番待ちの控え室らしい。といってもミキがいつも使っているような個室ではなく、大部屋に長机が何脚か突っ込まれ、申し訳程度に着替えのための仕切りと化粧台が用意されているだけ。周りには丁寧に、あるいは無造作に女の子らしいハンドバックや、大きめのショルダーバックなんかが所狭しと積まれている。その周りには、片付ける暇もなかったのか小鏡や化粧品なんかが散乱している。室内には化粧台もあるにはあるが、ほんの3台だけ。
 そしてミキはその数少ない化粧台の1つを占領して、思いっきり顔を突っ伏して寝ていたらしい。
「……とまぁ、そのイベントの為のオーディションで、3組、多くても5組くらいしか通過できないんだけど……って。お前、俺の話聞いてたか?」
「あぁ、うん。へぇそうなんだ」
「あぁってお前」
 その人は馬鹿にしたようなため息をついた。
「そんなんでオーディション受かる気あるのか」
「ないよ」
「ないのかよ」
 相手側の来て下さい、ではなく、来てもよい。こちら側の行ってもよい、ではなく、行かせて下さい。そんな部屋だ。ミキはそういうの、嫌いだ。
「プロデューサ達が受けろって言うから来ただけだし。別に合格しろとは言われてないし」
 やる気ねぇなぁ、とその人は腕を組んだ。
「あのなぁ、俺もプロデューサやってるからわかるけど、合格して欲しくないアイドルなんている訳がないだろ。それどころか受けもしないなんて言語道断だ。まぁ確かに実力が足りなかったら、受けても落ちるかもしれない。いや、間違いなく落ちるだろう。でも、その挑戦する気持ち自体が大切で、次に繋がるんだ。失敗を恐れず挑戦する事。アイドルとしての成功だけが人生の成功じゃない。キミだってそんなに可愛い顔をしているんだから――」
 長々と、ミキにはまるで興味もないし関係もない説教を続けていた男が、そこでぴたりと止まり、ミキの顔をまじまじと見つめた。そして、あんぐりと口を開けた。
「もしかして、あんた。星井……美希?」
 あふぅ、とミキは返事をした。
 その人は口をぱくぱくと開閉させて、両手を頭に乗せた。
「まじかよ」
 珍しくもない。ミキにとってはよくある反応だ。ミキがミキだと知って驚く。叫ぶ。喜ぶ。
 当然の反応だ。ミキはトップアイドルなのだから。
「まっじかよ」
 けれど、その人の次の動作は、ちょっと今までにはない事だった。
「今回のオーディション、あいつらギリギリなのに」
 慌てて胸元から手帳を取り出し、それを手元に置いてあったファイルと見比べ、古ぼけた万年筆を走らせる。
「おいおいおいおい聞いてないぞそんな話。なんとか滑り込めるような参加構成だったんじゃないのかよ。……あぁ、くっそ。身内からの、しかも本社からの参加なんて、すっかり見落としてた。やっちまったよ、くっそ」
 ぺらぺらと紙片を捲り、こちらを見向きもしないその態度にちょっとだけむっとする。
「ねぇ」
「んあ?」
 その人はやはりこちらを見もしない。ミキの存在に驚くのではなく、ミキがいる事に驚いている。それはちょっとミキにとっても不本意だ。もっとここに今いるミキに注目すべきではないのか。なのになんだ、その目は。
「なに、怒ってるの?」
 あのなぁ、とその男はため息をついた。
「こっちはなんとか少しでも上に這い上がるのに必死なんだ。どんな細いチャンスでも逃せない。最初から一番上にいるお前と違ってな、俺等には限りがある。チャンスも、時間も」
 ふぅん、と片手で髪の毛の先を弄る。
「だからこんな中の下みたいなオーディションにお前みたいなAランクアイドルが飛び込んできて、場を荒らされていったら、そりゃ――」
「だから怒るの?」
 男はぐっと息を詰まらせた。ミキは絡ませた毛の先を、自分の目の前に持っていく。
「ミキもね、別にオーディションを受けたくて来た訳じゃないの。さっきもいったけど。プロデューサ達が、たまにはこういうオーディションから1人だけで出番を勝ち取って行くのも勉強になるからって。ミキには必要ないのにね」
 手を放して、金色に光る束に、息を吐きかけた。緩くほどけたその一本一本が宙にばらけて、当たり前のようにミキの背中へと流れ戻っていく。
「遊びなんかじゃ、ないの」
 しばらくこちらを見つめた後、男はその詰まった息を盛大に吐いた。
「すまん、ちょっと俺の態度が悪かった。八つ当たりだな」
「あ、そ」
 さっきまで抱いていたはずのその人に対する興味が急激に失せていったのを感じて、ミキはまた腕を枕にして俯せになった。
「っておい。寝るなよ」
 うぅ。
「なにさー」
「だからもう始まってるって」
「いいよ別に」
 そもそも好きじゃないんだ。このオーディションという奴が。ひとたび本物の舞台に立ってしまえば、ミキはその場の全ての視線を独り占めする事が出来る。その実力は、まさにAランクアイドルだ。ミキよりすごいアイドルなんて、この世に何人もいない。
 なのだけど。なぜだか分からないのだけど、このアイドルで競い合い、審査員にアピールするというだけのオーディションという物は頑張れる気がしない。実際あんまり戦績もよくない。だからこんなレベルの所にまで飛ばされたんだろう。
 ミキは特別だから、オーディションなんか受けなくたって仕事はいくらでも向こうからやってくる。だから本当は必要ないんだ、このお仕事は。そんな思いがますますミキのやる気を奪い去っていく。
 なんでだろう。
 なんで、ミキは頑張れないのか。
 なんで、ミキは頑張れるのか。
 ミキには、好きな物がないからなのかな。
「そんな様子なら」
 視線を男に戻すと、その人は手に持ってたファイルを小脇に抱え直し、肩を竦めていた。
「うちの奴らにも勝ち目があるかな」
 そういって、こちらに背を向け、ひらひらと手を振りながら部屋から出て行こうとした。
 ――それを見た時、なんだか猛烈に腹が立った。
 その人が言いたかったのは、ミキが出ないのならば自分のアイドルが助かる、という事だったのだろうけど。それまでのその人の適当な態度を相手にしていたミキには、『そんな様子の奴が出場したって勝てやしない』という風にしか聞こえなかった。
 というか、単に寝起きで機嫌が悪かっただけなのかもしれない。
「ちょっと待って」
 この星井美希がこんな小さな場所で勝てない?
 立ち上がって、右手でぱっと髪を払い、その手を腰にあてる。
「じゃあ、優勝してあげるよ」
 ミキらしい、自信満々な笑顔だったと思う。


◆◆


 試合が終わった後の独特の熱気が控え室を充満していた。あるものは互いに健闘を称え合い、あるものはうずくまって涙を流し、あるものは次を見据えた視線を宙に飛ばす。様々な思いを胸にしているが、共通しているのは、このわずかな時間でもって、大小はあれど彼女らの何かが変わってしまった、という事だ。アイドルも、それ以外の人も。
 もちろんミキも。自分では知覚は出来ていないけど、何か変わっているんだろう。
 そのざわめきの中を割って、ミキはまっすぐ部屋の中へと進んだ。間を通る必要はない。ミキが近づくだけで、彼女たちはおしゃべりを止め、さっと身を引いて道をあける。まるで女王様みたいだ、と思った。事実、ミキは女王様なのだ。この部屋の誰もが肯定する。
 テキトーに見当をつけて、歩みを進めていると、目的の人物を見つけた。窓際、机の端で、男がこちらに背を向けて立っている。それを見たとたん、部屋に満ちていたミキへの肯定がミキの身体へと、スポンジが水を吸うように集まり、優越感へと変わるのを感じた。それは笑みという形になってミキの身体へと浮かぶ。そしてそのまま胸を張って堂々とその人のそばへと歩み寄った。
「ぎりぎりいけると思ったんだけどな。俺が悪かった。やっぱり一歩一歩足元を固めるべきだった。慣れないことはするもんじゃないな」
「うぅぅぅぅ」
「そんな、謝らないで下さい」
「はい。実力が足りなかったのは、他でもない私たちです。他の人の所為にはしたくありません」
「……ありがとう。でも、他の人だなんて言わないでくれ」
「うぅぅぅ」
「す、すいません」
「プロデューサ、千早ちゃんもそういう意味で言った訳じゃ」
「あぁ、分かってるよ。みんな負けるのは嫌だもんな。そらショックも受ける。……だから真、そろそろ機嫌を直してくれよ」
「うぅぅぅぅ」
 いっこうにこっちに気づいてくれないその人に、少しだけ腹が立って、でもそれはこの優越感を崩してしまうほどでもなく、ミキは余裕を持ってその背中を拳でトントンと叩いた。
 その人はこちらを振り向き、少し目を見開いた後、盛大に肩を落とした。
「どう?」
「どうもこうも、完敗だ。わかってはいたけど、あそこまで差があるとはな」
 その人が差し出してきた右手を、ミキは気持ちよく握り返し、ぶんぶんと手を振ってやった。
 オーディションの結果は、ミキの完勝だった。ぶっちぎりの一位通過だ。ミキの順番は少し早めだったのだけど、自分がパフォーマンスを終えたとき、審査員はもちろん、他のアイドルやミキ自身、ミキの勝利を疑う物は誰もいなかった。こんなに気持ちよく勝ったのは久しぶりだ。もしかしたら初めてかもしれない。やっぱり好きではないけど、こんなに気持ちよく勝利できるのなら、悪くない気分だ。
「ま、当然かなって」
 この人のアイドルがどうなったかは知らないけど、ミキが一位ということは、それより下ということだろう。
「次見てろよ」
 あ、そ、と返しながら、ミキはますます胸を張った。
「あ、あの」
 と、その人の後ろに女の子が3人立っているのに、今気づいた。今こちらに顔を覗かせているのは、細くさらさらな髪の毛を薄くブラウンに染めた色白な女の子。女の子、というよりも女性か。ミキよりも結構年上な感じだ。
「わっわっ星井美希! 本物の!」
 その脇からこちらに飛び出さんばかりにしているのは、黒髪を短くまとめたボーイッシュの女の子。可愛いというよりは、かっこいい系だろうか。あんまりそういうのはミキに合わないから、ちょっといいなって思う。3人の中では、一番この雰囲気に当てられているようで、まだ首筋やおでこから熱が引かず、汗も光っている。そういうのもかっこいい。
 そして一番後ろにもう一人、ビロードみたいな真っ黒な長い髪の毛を垂らした静謐な雰囲気の子。この子だけはミキに興味がないようで、冷めた目つきでこちらをみる。同世代の女の子にこういう風に見られるのは珍しい。こういうのは、口うるさいおばさん世代くらいなものなのに。
 3人はまだステージ衣装から着替えていない。細部は違うけれども、3人とも銀と蒼を基調とした、輪と星がモチーフの衣装だ。可憐で、綺麗だけど、どこか一本芯の通ったようなイメージ。今、始めてみたのだけど、この3人にぴったりだとそう思った。
「あぁ、悪い。こいつらは、俺のプロデュースしているアイドルだ」
 ほれ、とその人が色白な子の背中をぽんっと叩いた。
「は、萩原雪歩です」
 ぺこりと頭を下げるその子にかぶるようにショートカットの子が前に出てくる。
「真です! 菊地真です! ボク、ミキちゃんのアルバムはだいたい買ってて、よく聞いてます! それで、この前やってたドラマも毎週見てて、すっごく可愛かったです。もうだから本当に――」
 マシンガンのようにしゃべりながら、ミキの手を両手でつかみ、ぶんぶんと大きく振る。うん、ありがと、といってにこりと笑うと、その子は顔を真っ赤にした。
 最後の娘はぶすっとしたまま突っ立っているだけで何も動かない。その肩を、色白の子、――雪歩だっけ?――がちょんちょんとつつき、何かを囁く。するとその子は迷惑そうな顔をした後、でも雪歩に微笑みかけられ、不承不承な様子でこちらに首だけ傾けた。
「……如月千早です」
 なるほど、この子は照れ屋に違いない。と、そう思う事にした。
「この3人で、サテライトガールズっていうユニットだ」
 サテライトガールズ、と口の中で転がしてみる。うん、ミキは嫌いじゃない名前だ。
「ミキはね、ミキだよ」
 額の上に掲げた右手を、ぴっと振る。
 その人はため息をつき、雪歩はまたぺこりと頭を下げ、真は満面の笑みで握り拳をぎゅっと握り、千早はやっぱりなんだか不満げだった。

― ― ―

「へぇ、同じ事務所なんだ」
 どうやらそういう事らしい。へぇ、偶然。
「でも、ボクらの事なんて知らなかったん……ですよね」
「うん」
 ミキがあっさりと返事をすると、真はがっくりと肩を落とした。申し訳ない気持ちにもなってくるけど、知らない物は知らないのだから仕方がない。
「デビューしたての無名アイドルの癖して、なに期待してんだよ」
 呆れたようにその人がいうと、雪歩があはは、と小さく笑った。
「先パイも、会ったことないんですか?」
「うん、私も本社の方には全然行ったことないし」
「本社?」
 そういえば、聞いたことがある。うちの事務所のアイドルは、低ランク時代は下積みとしてもう一つの小さい事務所に通うとかなんとか。
「うん。美希ちゃんって旧社屋には来たことないよね」
「うん」
「まじかよ。どれだけ特別扱いなんだよ」
「ミキは特別だから、仕方ないよね」
 そう言うと、その人ははぁ、と感心したのか呆れたのか分からないような息をついた。
 でも実は私、と雪歩が申し訳なさそうに口を開いた。
「前に一度お仕事が一緒になって挨拶したことがあるんだけど」
「そうなのか?」
「あの、去年のあの春の大きいイベントで」
「あぁ。京都であったやつ?」
「はい。プロデューサはその場にいませんでしたけど」
 首を傾げてそう話す彼女の顔を見つめる。
「ううん、覚えてない」
「だ、だよね」
 はっきりと答えると雪歩は少し小さくなって後ろに下がった。と、そこで今までずっと黙っていた千早がこちらを睨みつけている事に気がついた。
「なに?」
「ふん」
 そういって腕を組んでそっぽを向いてしまった。
「むっ」
 とミキもなってしまった。
「なんなの?」
 彼女は薄く笑ってこちらをちらりと見た。
「先輩後輩としての当然の礼儀も分からないの、あなた。そんなのでよくトップアイドルとか言ってられるわね」
 むむむっと腹が立つ。こんな風に人に何か指摘されるのは随分と久しぶりで、どういう態度で言い返せばいいのか分からなくなってしまう。千早がそれを言うのか……、と隣で真が呆れたように口元をゆがめていた。
「何さ、今日負けた癖に」
 ミキが唇をとがらせると、千早はこちらを向いて睨みつけてきた。……ちょっと怖いの。
「私は――」
「あーはいはい」
 その人がぽんぽんと手を叩いた。
「千早は雪歩が大好きだからな、馬鹿にされたように感じてちょっと気に入らなかったんだよ」
「プロデューサー! 私は別に!」
「星井も別に悪気があったわけじゃないんだ、な?」
 よくわからなかったけど、ミキは悪い事なんて何一つ考えてないので、こくりと頷いた。な、千早、とそういわれると、千早は頬を赤く染めた後またそっぽを向いた。なんだか犬みたいで可愛いな、と思った。
 一連の流れで、ちょっと場の空気が悪くなった。誰も何も言えなくて下を向いてしまう。
「ごめんなさい、私が変なこと言った所為で」
 それを破るように、というよりは押し出されるように雪歩がそういったとたん。
「先パイは悪くないです」
「萩原さんは悪くありません」
「雪歩は悪くないの」
「お前は悪くないよ」
 四つの声が重なった。一瞬の間をおいて、笑い声が重なった。

― ― ―

 しばらくだらだらとお喋りをしていたのだけど、3人が着替えるためにその場を離れた。もう既にさっさと着替えていたミキは、よっこらしょっと長机の上に腰を下ろす。その人は壁に身を預けて、手帳を開いて何かを確認している。私は組んだ両手の上に顎を載せて、ぼーっとそれを見る。さっきまでのおしゃべりを思い出す。アイドル同士で集まって話して笑って、学校とは違う時間の過ごし方。
「楽しいね」
「ん?」
「いつもあんなんなの?」
「あぁ、まぁそうだな」
「いいね」
 もちろんミキには人より何倍もの友達がたくさんいるのだけど。ミキはいつでもどこでも特別なアイドルだから、アイドルとして真っ正面から話をする人は、結構少ない。尊敬もあるし、畏怖もあるし、嫉妬もある。
「あいつらはまだまだ新人で、怖いもの知らずだから」
「楽しい」
「Roman Holidayってな」
「ミキはお姫様」
 浮いた脚をぷらぷらと揺らす。古い長机がきしきしと音を立てる。
「そういえば、お姫様をエスコートするプロデューサは?」
「プロデューサ達は来てないよ。一人で挑戦しろって、そういう事だったから」
「さっきから気になってたんだけど、そのプロデューサ達ってのは」
「あぁ、うん」
 天井を向いて、だけどその先の何かを見るように目を凝らす。
「ミキ、特別だから、プロデューサが一人だけじゃなくていっぱいついてるの。とっても優秀な人がたくさん集まって、ミキのこれからをどうするのかって考えるの。だから、絶対に勝てるし、負けない」
「それは、すごいな」
「すごいでしょ」
「あぁ、そりゃ、Aランクになるよ」
 あたりを見回すと、アイドルのそばにそれぞれマネージャやプロデューサなんかがついている。慰めたり、叱ったり、褒めたり。彼女たちは、そういう人たちがついて支えてあげないと頑張れないのだろう。でも、ミキは違う。そういう人がいなくても、勝ててしまうのだ。もちろんサポートしてくれる人はいっぱいいるのだけど、特定の誰かは必要がない。
 ミキが頑張るのに必要なのは【そういうものではない】のだ。
 けれどまぁ、たまにはそういう仲間がいてもいいのではないかな、と今回は少しだけ思った。
「いいなぁ、ミキもユニット組もうかな」
「お前についていけるアイドルなんて、いないだろ」
「だよね」
 でも、と首を傾げる。
「あの3人もちぐはぐだよ。千早に他の二人はきっとついていけない」
 その人は手帳から顔を上げ、じっとこちらを見つめた。ずっと黙っていてから、重々しく口を開いた。今までのテキトーな感じと違って、真面目な口調で。
「そう思うのか?」
「うん」
「あいつらのパフォーマンスを見たこともないのに、なんでそう思う?」
 んー、と人差し指を唇に当て、宙を睨む。
「なんとなく」
 彼はまたじっと黙ったあと、大きく息を吐いた。
「お前はやっぱ天才だよ」
「知ってる」
 笑いながら脚を動かす。机の向こう側で誰かがこっちを睨んだ気がするが、ミキだと分かったとたんに目をそらした。先ほどの千早の台詞が何故か頭に浮かび、ミキは何となく、机から降りた。
「じゃあ、もしこれから千早がソロデビューするとしたら、今のトリオより成功すると思うか?」
「それはありえないかな」
 ミキがきっぱりと答えると、その人は満足そうに頷いた。
 ひとつ大きく伸びをすると、私服に着替えた3人が戻ってきた。
「なんの話してたんですか」
「ミキが天才だねってお話」
 雪歩にそう答えると、その人は苦笑し、千早はまた不機嫌そうな目でこちらを見た。
「すごいなぁ美希ちゃん。昔からそんな可愛かったの?」
 真が目をきらきらさせている。
「ん、そうだね」
「そうだねってお前」
「だってそうなんだもの」
 唇を尖らせる。嘘じゃないんだから仕方ない。ミキは生まれたときからずっと可愛くて、みんなの中心で、そうやって生きてきた。
「今もね、毎日告白されるよ。最高記録は一日で30人」
「さっ……?」
「うわぁ」
「お前ら三人合わせても勝てないな、それは」
「あ、あははは」
 雪歩は何か遠慮するような微妙な愛想笑いをした。
「そう、ですね。男の子からは……はい」
 真が何故か遠い目をした。最後の一人はなんとなく想像がつくから見ないようにした。
「若いなぁ」
 その人が額に手を当てた。
「おじさん」
「うるせぇ。前に亜美がお前の事ガキっぽいとか言ってたけど、その通りだなお前……」
 だってミキはまだガキだもん。なんかこれからも変わらない気がするけど。
「っていうかあみって?」
「あの、双海亜美ちゃんってアイドル。いまそっちにいると思うんだけど知ってる?」
「双海亜美? 知ってる知ってる」
 苦虫を噛み潰したような彼の顔は無視して、ぱしんと両手を胸の前で合わせる。
「なかいーよー」
 ミキがやってきた頃にはもう本社にいたアイドルだ。仕事も良く一緒になる。年は上だけど、ミキに負けないくらい騒がしくて、結構ミキと波長が合う。
「あ、でもなんか最近亜美が1人だけだけど、真美はどうしたの?」
 部屋全体に聞こえるような大声でそういうと、プロデューサと雪歩が急に慌てだした。真はぽかんと口を開けてるし、千早は相変わらず興味を示さない。
「ちょ、美希ちゃ……!」
「ん? だから双子の片割れが――」
「だー黙れーー!」
 その人がミキに躍り掛かり、げんこつでこめかみを挟み、ぐりぐりと締め付けてきた。
「やーめーてーなーにするのー! いた、いーたーいー!」
「うるせぇ! お前には遠慮しないと決めた! 今決めた!」
「ちょっ落ち着いて下さいプロデューサ!」
 千早が、とっても大きなため息をついたのが視界の端で見えた。


◆◆


 うたた寝からふと覚めた。今の瞬間、すごく、すごく大切な何かを見つけそうだった気がする。
「ねぇねぇ、今ミキ、何を考えていたんだっけ?」
 前の席の三つ編みの子の背中を、シャーペンの先っぽでちょんちょんとつつく。
「へ? そんなの知らないよぉ。というか、今授業中だよ」
 こちらを少しだけ振り返りながら、早口でそう返してきた。ミキだってそれくらい知っている。教卓の方を見ると、化石みたいなおじいちゃん先生がもそもそと口を動かしている。
「うん、日本史でしょ」
「……現代文だよ、ミキちゃん」
「そう、うん。現代文」
 真面目にね、といって三つ編みの子はまた前を向いた。真面目っ子め。そんなに真面目なら委員長をやればいいのに。仕方ないので、後ろを振り向いて本物の委員長に声をかける。
「いーんちょー」
「……ぐぅ」
 爆睡だ。
 ふむ、とミキは前を向く。かといって念仏を聞く訳じゃない。なにかミキは考えていたのだ。何かを見つけ出せそうだったのだ。頭を必死に動かす。授業中だというのに頭を動かすだなんてなんと不思議なことだろう。……あれ、いや逆か? まぁいい。窓の外は相変わらず寒風が吹いている。どうやら今の時間は体育はやっていないらしい。よかったね。
「うーん」
 こめかみをぎゅっと押さえる。その瞬間、先日盛大に痛みつけられた事をふと思い出す。
「ふむ」
 よくは分からないけど、ミキの直感は頼りになるのだ。鞄の中からこっそり携帯を取りだして、メールを打つ。
 そしていざ送信しようとして、指が止まる。目の前の背中を再びつんつんとつつく。
「……ねぇねぇ、あの人ってなんて名前だっけ?」
 知らないよぉ、と三つ編みの子は涙目になった。


◆◆


 駅から降りてもう15分は歩いただろうか。耳を刺すような寒く乾燥した風が落ち葉をまき散らす。しっかり歩くと身体の内側から熱が溢れてくるけど、この凍えるような寒さに勝てるわけもなく、すごく肌に近い所でそれは拮抗している。道を行く人も少しでも身体を温める為か、はたまた出来るだけ外にいる時間を短くしたいのか、早足になる。ミキも首元のマフラーをぎゅっと締めた。
 冬のファッションは楽でいい。お仕事での話ではない。私服のことだ。夏はどうしても身につけるものが少なくなるので、アイドルとしての存在を外に露出してしまう。身体のラインなんか丸わかりだ。かといって着込んでしまえばそれはそれで怪しいし。普段の生活の問題だから、仕方ない、で諦めるにはちょっと辛い物がある。
 しかしその点冬はいい。着込めば着込むほどアイドルのオーラは隠される。古着のピーコートにノーブランドのチノパン。マフラーとニット帽は量販店のワゴンで投げ売りされているものだ。サングラスだけは、そこら辺の中学生じゃ決して手に入れられないちょっとした海外ブランドだけど、まぁこれくらい許して欲しい。
 あまり人が多くないとはいえ、こうして休日の日中、町中を堂々と歩いても、誰もトップアイドル星井美希だとは気づかない。ちょっとした快感だ。……まぁ、電車に乗ってる間、視線をいくつか感じたのも事実だけど。
 ぴたりと足を止める。手元の携帯の地図と、道路を挟んで向こう側にある雑居ビルを見比べる。これだ。白い息をはーっと吐いた。ここが、旧社屋か。
 コンクリ打ちっ放しの無愛想な直方体。まったく可愛げのない見た目だ。ひい、ふう、……5階建てか。脇にあるこれまた古びた看板を見ると、1階は飲み屋になっているようだ。一応申し訳程度にここが芸能事務所である事も書かれているが、こんなの誰も気づかない。本当にぼろっちぃ。だけど、汚いわけではなく、小さい子達の黄色い声が聞こえてきたり、スーツ姿のおじさんやお姉さんがちょこちょこ出たり入ったりしていて、結構活気がある。良い感じ。ミキは嫌いじゃない。目の前の歩行者信号が青になったので、ミキはスキップするように横断歩道を渡った。

 しかしどうやって中に入ったものか。建物を目の前にしてちょっと悩む。いや、堂々と入っても良いのだけど、なんだか怒られそうで、それも面倒だ。そうミキが考えていると、事務所の前へ一台の軽自動車が止まった。そして運転席から、眼鏡をかけた女の人が降りてきた。髪は三つ編みにまとめ、アクセサリ類は小さなイヤリングくらい、スーツを隙なくぴしっと決めて、出来る女、って感じだ。
「ったく事務所から駐車場まで遠すぎるのよ。こんなのに10分も20分も歩いてたら意味ないじゃない」
 女の人は何かぶつぶつと呟いている。そのぴょこぴょこと動く三つ編みを見ていたら、なんとなく前の席のあの子を思いだして、思わず声をかけてしまっていた。
「ねぇねぇ」
「本社の方じゃ地下に何百台止められる駐車場があるっていう話じゃない。まったくこれだから貧乏ってのは――え?」
 女の人はこちらを振り返り、私を見つけると、ひとつこほんと咳払いをした。
「あー、うん。何かな?」
 独り言を聞かれた照れくささと、不審者を値踏みするような注意深さが入り交じった表情を浮かべる。こうみると、結構な美人さんだ。てっきり社員さんかと思ってたのだけどもしかしたらアイドルなのかもしれない。
「うん、素敵」
「へ?」
「ううん、あのね。ミキ、人を探してるんだけど」
「ミキ? 誰?」
「だから、ミキが」
 自分の胸をポンポンと叩く。
「あぁ、そういう事。うん。で、誰を?」
 えーっと、と携帯からメールの受信BOXを呼び出す。
「んっと、か、カブノリョウメ? って人。知ってる?」
 亜美にメールして教えて貰ったのだ。ついでにここの住所も。どうやら本当に知り合いだったらしく、ぱぱぱっと答えてくれた。『頼りなくてお節介だけど、まぁいい人だよー』と言っていた。ミキもそう思う。最初だけ。
「蕪野さんの知り合い?」
 三つ編みの人はいっそう眉を潜めた。そうだよ、と頷く。
「どうしたの、そんなおもしろい顔して?」
「……自分のよく知ってる同僚の名前を掲げて不審な女子高生が職場へ押しかけてきたらね、普通はこんな顔するの」
「ふーん、大変だね、大人って」
 ミキ本当は女子中学生だけど。
「でも、ミキは変な子じゃないよ」
「そう言われてもね」
 彼女は腰に手をあてて微妙な顔をした。
「一応取り次いであげてもいいけど、でも――」
「律子ー! 何やってんのよ、車ついたなら早く呼びなさいよ!」
 でも、の先を消し飛ばす、ハイトーンの声が事務所の方から聞こえてきた。とんとんと軽やかに階段を駆け下りてくる足音が2つ。そちらに目をやると、真っ赤なダッフルコートに身を包んだ女の子が勝ち気なその目をつり上げて、胸をはっていた。あれは本物のコートだ。値段もそうだけど、そもそもそう簡単に手に入れる事が出来ないし、着こなす事はもっと大変だ。着られるではなく着こなす自信。そういうのは努力ではなく、才能だとミキは思ってる。
「い、伊織ちゃん伊織ちゃん。そんな言い方しなくても」
 続いて後ろから息を切らしながら駆け下りてきたのは、ふわふわした髪の毛を2つ縛りにしている女の子。こっちはもこもこに膨れたダークオレンジのダウンジャケットだ。ペットにしたい感じ。2人ともミキと同じくらいの年だろうか。
 三つ編みの人は私と彼女らを何度か見比べた後、ふん、と鼻で息をついた。
「ちょっと待ってて」
「うん、ありがと」
「あなた達も」
「はぁ?」
「あ、はい!」
 彼女は携帯を取り出すと、ミキ達に背を向けてどこかに電話をかけた。ミキはそれを鼻歌を鳴らしながら待つ事にした。
 三秒で飽きた。ミキは待つのは嫌いなのだ。
 暇つぶしに、ちらちらとこちらを見ている2人に声をかけた。
「ねぇねぇ」
「なによ」
 勝ち気そうな方の子がさっとその長い髪を手で払った。そして得意げに胸を張り、片手を頬に添える。
「あ、サインならお断りよ。私たち、結構忙しい身だから。ま、どうしてもっていうなら考えてあげても――」
「キミたち誰?」
「それはこっちの台詞でしょ!」
 なるほど。この娘は突っ込み体質だ。
「あんた何? もしかしてあたし達のこと知らないの?」
「うん」
「食い気味に即答したわねあんた……」
「あ、あの、私たちアイドルなんです!」
 ふたつしばりの娘がぴょこんっと手を挙げた。
「伊織ちゃんとわたし、ふたりでRabbit Rabbitっていうデュオなんですけど」
「らびっとらびっと?」
「そ、ラビラビ」
 腰に手をあててまた胸を張る。
「雑誌にテレビに引っ張りだこでもう大変。きっとアンタも目にしてるはずよ、私たちのこと。ほら、先月のあれとか読んだ?」
「あれ?」
「あの、女の子向けのティーンズ雑誌なんですけど……」
 ふたつしばりの娘が教えてくれた雑誌は、何日か前に学校の教室で読んだ、美希が表紙だったあの雑誌だ。
「あぁそれ。うんうんミキも読んだよ」
「あらそう、じゃあ私たちのこと思い出した?」
「ううん」
「な゛っ」
 いたくプライドを傷つけられたのか、その子は肩をぷるぷるとふるわせた。
「あ、あんたねぇ……!」
 肩に掛けていた鞄を降ろし、中をがさごそとかき回す。そして、ぶん、と風が舞う勢いで雑誌を突き出してきた。
「ほら! ここよここ!」
 付箋が貼られて折り目がついたそのページを覗く。けれど何処にいるかさっぱりわからない。
「だから、ここ!」
 ぴしり、とページの一番端っこ数cmの幅で縦に長くとってある欄を指さす。

《女友達だけでいける! いい感じのごはん! 〜浜松のおでん編〜》

 写真は小さく一枚。載っている文はお店の宣伝についてだけ。申し訳程度に一番下に小さくラビラビの2人が実際に行ってきた事が書いてある。ページをめくる。ページを戻す。やっぱりこれだけ。
「ま、これが私たちのアイドル力っていうか。なんていうの、仕事がやってくるから仕方ないわよね。本当に大変よ、有名人って」
「……」
「な、なによその目は」
「すごいね、デコちゃん。すごいすごい」
「なんでちょっと哀れんでるのよあんたー! つうかデコちゃんって誰の事よー!」
 デコちゃんはぶんぶんと雑誌を振り回して地団太を踏んだ。せっかくの可愛らしいムートンブーツが可哀想だ。そんなに怒ることないのに。するとふたつしばりの娘があれーっと声をあげた。
「伊織ちゃん、この前は『そんな雑誌に小さく載っても嬉しくも何ともないから今月号は買ってない』って言ってなかったっけ?」
 そう彼女が首を傾げると、デコちゃんの動きがぴたりと止まった。そして油の切れた機械みたいにぎぎっと動き、腕を組みそっぽ向く。
「これはコンビニに行ったら置いてあったから、暇つぶしに買ったっていうか、他に雑誌がなかったからたまたま仕方なくっていうか。自分が載ってるとか、本当に忘れてたのよ。本当に偶然」
 デコちゃんは口をもごもごと動かす。自分が載っている雑誌を思わず買ってしまう。確かに以前はミキもそんな気持ちを持っていた。なんだか急に彼女がアイドルらしく見えて、そして羨ましくなった。彼女の肩に、ぽんっと手を押いた。
「うんうん。自分が載ってると思わず買っちゃうよね。わかるわかる」
「だ、だから違うっていってるじゃないのよ!」
 デコちゃんは顔を真っ赤にして腕を振り回した。ぽんっとその手から雑誌が飛び出て、ふたつしばりの娘があわわっと受け止めた。そして、その表紙をまじまじと見つめる。
「というかアンタはなんなのよ! もしかしてスカウトされたくてこんな汚い事務所にやってきたの? ならお生憎様ね、それはこのトップアイドル水瀬伊織ちゃんがそう簡単には許さないわ」
「トップおでんアイドルの?」
「なに間によけいなもの挟んでるのよ!」
「おでんをよけいなものよわばりだなんて、おでんアイドルとしてはおでんに失礼じゃないかな?」
「よけいなのはアンタの存在よ! というかだからおでんアイドルじゃないっていうの!」
「ミキね、おでんなら巾着が好き」
「え、そ、そう」
「デコちゃんは?」
「そうね……。強いていうなら、卵かしら?」
「あははは。デコちゃんが卵が好きだって。あははつるつる仲間だね」
「誰がつるつるよ!」
「ミキはね、おにぎりが好きだよ。おでんとは合わないよね」
「あっそ。わたしもアンタとは相性が合わないって思ってるわ」
「でもデコちゃんがどうしてもっていうなら試してあげてもいいよ」
「なにをよ」
「おにぎりの具を巾着にするの」
「逆でしょうが! 巾着の中におにぎりを入れなさいよ! もうそれおでん関係ないじゃない!」
「わぁ、そんなに熱くなっておでんについて語るだなんて。流石おでんアイドル」
「ッキーーーッ!」
 楽しく会話していると、伊織ちゃん伊織ちゃん、とふたつしばりの娘が雑誌を片手にデコちゃんの袖を引っ張る。
「ねぇ伊織ちゃん、その子もしかして――」
「デコちゃんなんでそんなに顔赤くしてるの?」
「あんたのせいでしょうがー!」
「あぁうぅぅ」
「あははは」
「あんたら何やってんのよ」
 笑って、怒って、頭を押さえているミキ達の後ろに、いつの間にか三つ編みの人が呆れたように腰に両手をあてて立っていった。
「あ、遅かったね」
「ちょっと蕪野さんにお説教をね。……伊織、アナタ外でそんな大声ではしたない」
「……律子、あんたまでわたしを陥れたいの」
「何の話よ」
「本当になんの話なのかしらね、これ……」
  
― ― ―

 あの人達は丁度ここでレッスンをしているらしく、部屋まで三つ編みの人が案内してくれた。ラビラビの2人にじゃあまたねって手を振ると、片方はそっぽを向き、もう片方はひっくり返りそうな勢いで頭をぺこんと下げた。
 外見通り古い階段を四階まで上がる。端に段ボールが積み上げられた物置みたいな廊下を進む。前を歩く踵の低いヒールのかつかつという音が心地よい。
「で、結局どういう関係なの? あなた達」
「あっちの人はなんて?」
「そんな奴知らないって」
 ひどいの。
「で?」
「うーんとね。初めてあったときに、『可愛い顔してるね』って言われた関係?」
 足音が止まった。なんだか肩がぷるぷる震えている。
「……説教がもっと必要ね、それは」
 再び歩き出したその足音は、さっきよりもかん高いものだった。
 廊下の突き当たりには防音が施されたドアがあった。ずいぶんと年季が入っている。
 そこをノックして――きっと中には聞こえないだろうに、几帳面な人だ――彼女が上半身だけ入れて中を覗く。
「蕪野さーん、話のお客様ー」
 そしてどうぞ、といってミキを中に入れてくれた。そのレッスンスタジオは、やっぱりちょっと古ぼけていた。左手には年を経た音響機器とかよくわからないがらくたが積み上げられている。あまり片付いていない。といっても雑然としているわけでなく、使ってる人達の思い入れが詰まった形が集まっているみたいだ。右手には窓が並び、先ほどまでミキが立っていた入り口側とは別の道路が見える。そして正面には所々割れている大鏡。そして。
「やっほ」
 ミキが右手をぴしりと頭の上で振るのを見ても、運動着を着たサテライトガールズとそのプロデューサはミキが誰だか分からないようで、戸惑うような表情を見せる。……ひとりだけ、あいかわらず冷めている娘がいるけど。
「蕪野さん」
 再び三つ編みの人が顔を覗かせる。
「じゃあ、私はもう行きますけど。……仕事場に女連れ込むの止めてくれますか?」
「いや、だから俺は知らないって」
「記憶にないほどナンパに励んでいらっしゃるんですか」
「まて何を勘ち――」
「言い訳は私が帰ってきてから聞きます。……雪歩、真、千早、身の危険を感じたらすぐに私に連絡をしなさい」
 がちゃんとドアが閉まる音が無情に響く。こっちの人の方が年上に見えるんだけど、なんだろうこの力関係は。その人はため息をついてがしがしと頭をかいた。そしてこちらをむき直して困ったように腰に手をあてる。
「で、誰かな君は?」
 雪歩は戸惑うような目を、真は顔を朱くして視線を右往左往、千早はいつもと変わらない様子。変装がばっちり決まっているのは良い事ではあるのだけど、流石にここまで気づかれないとちょっと腹が立つ。帽子とサングラスを取り去って、またぴしりと頭の上で手を振る。
「だからミキだってば、ミキ」
「「「「……」」」」
 だけど、やっぱり何故か反応がない。
「あーもう! 美希だってば! 星井美希!」
 さっきのデコちゃんみたいに両手を振り回す。すると、ぽんとあの人が手を打った。
「星井美希?」
「だからそういってるの! さっきから!」
「あ、あぁぁ! 美希ちゃん!」
「なーんで気づかないかな」
 ほおを膨らまして指を何度も突きつける。千早の妙な笑顔が何かミキを嘲笑ってるように見えて非常に腹立たしい。
「えっと、だって」
 雪歩が頬に指を添える。
「その、美希ちゃんの髪型が」
「ん? どうかした?」
 ミキは肩にも届かないくらいの自分の茶髪を両手でなでつける。
「どうかしたもなんも、あの馬鹿みたいにもこもこしてた金髪はどうしたんだよ」
「あぁあれ」
 どうかしたって、そんな事決まっているじゃないか。あれは――。

「あれはエクステだよ、もちろん」

「え、そうなん」
「当たり前なの。あんな長いの生やしてたら熱くてしょうがないし、手入れするの大変だし、仕事の幅は狭まるし。そもそも寝るのにも邪魔だし」
 確かに美希らしい髪型として、仕事のほとんどはあの長い金髪のエクステを使っているけど。学校行く時とか、オフの日とかは当然はずしている。雑誌のミキと本物のミキを見比べていた学校の友達を思い出す。何が違うのかと言えば、そういう事なんだろう。そんなにも変わっているんだ。そして、それしか変わっていないんだ。
 外見は、中身から滲み出る性格のひとつなんだ。それはつまり変わっているという、目に見える証拠。そして、それでもこうやって(すぐには気づいてくれない人達もいるけど)ミキをミキだと分かってくれる人がいるという事は、ミキの変わっていない何かもあると、そういう事だ。その何かというのが、きっと、こう、なんというか大切な物なんだ。よくわからないけど。
「あー! そういえばそうですよ!」
 真が拳で自分の手の平を叩く。
「ほら、あのCMあるじゃないですか。美希ちゃんが宇宙人になって月面でライブするやつ!」
「あぁ、うん。あったね。……ちょっと何のCMかは思い出せないけど」
「あれ、美希ちゃんは確かこれくらいの長さで銀髪でしたよ。ねぇ千早?」
「私、テレビとか見ないから」
 胸の前当たりで手を水平に切る真に、千早が冷たく言い返す。
 それにしても、とあの人が腕を組む。
「すごいな。よく考えれば、いやよく考えなくたってそんなの当たり前のはずなのに、星井美希イコールあのビジュアル、ってイメージが頭にこびりついてたよ」
 真は無関心な千早を放ってぶんぶんと首を縦に振った。
「いつどうやってどこまで露出すればどういう印象をどんな人間にどれだけ植え付けられるか。星井のプロデューサ達が完璧にコントロールできてるんだな。徹底している。俺なんかが言うのも何だけど、有能だ」
「すごいでしょ。ミキの次くらいには」
 えっへんと胸を張る。
「ミキはね、みんなひとりひとり、それぞれのための恋人でなければならないの」
 と、プロデューサ達が言っていた。
「ミキね、Aランクだから。違うんだ、他のアイドルとは」
「……Aランク、ね」
 CDの売り上げとか、テレビ出演の視聴率とか、ライブチケットの入手難易度とかそういう目に見える違いもある。けれどそれだけではない。根本的に‘存在’が違うんだ。
 それがアイドル星井美希だ。そしてそのアイドル星井美希が、ミキの誇りなのだ。
 そんなミキをじっと見て、その人は何かをじっと考えている。きっと思う所があるんだろうな。トップアイドルになるべくしてなったミキのプロデュースと、今の自分のプロデュースを比べて。そもそも比べられるような対象ではないのだ。ミキと、他のアイドルでは。それでもそれを目の前にしたらきっと考えてしまう。つらいのかな、それは。傲慢なようだけど、ミキには分からない話だ。
「プロデューサだって有能ですよ。私、知ってます」
 彼の後ろに立っていた雪歩がにこりと微笑んだ。
「ね、真ちゃん」
「えっボクですか!? うーん、まぁその。知らなくはないというか……。ね、ねぇ千早?」
「私は別に――」
 千早はその人を見て、雪歩を見て、真を見て、ミキを見て、最後にまたその人を見る。
「――興味、ないですね」
 薄く薄く、とっても薄くだけど、千早が笑った所を初めて見た気がした。
「だからね、プロデューサ。そんなに落ち込まないで下さい。あなたが落ち込んでしまうと、私たちがどうしていいか分からなくなってしまいます」
 プロデューサが、大きく一つため息をついた。そして後ろを振り返り、雪歩の頭をぺしんと叩いた。
「別に、落ち込んじゃいないさ。ちょっと考え事してただけだ。お前等が心配するなんて百年早い。そんな事よりさっさとオーディションに受かって次の段階に進んでくれ。俺の心配事はそれだけだ」
 雪歩は頭を抑えて、そうですねごめんなさい、と頬を弛ませた。真がその人の背中を叩き、千早が肩を竦めた。
 なんかいいなぁって思った。もちろんさっきの通り、ミキには誇りがあるし、今の自分を否定なんかするような気持ちは微塵もない。けれど、この人達みたいな関係とか、あのデコちゃん達の関係とか、そういう積み上げていく、形作っていく作業はとても魅力的な物に見えた。ミキと他のアイドルは違うから、彼女達が絶対ミキには届かないように、彼女達にはあってミキには無いものがあるんだなって。
「それで」
 千早がこちらを見る。相変わらずなんというか、ミキを信用しない目つきだ。
「あなた、何しに来たの?」
「何って、一緒にレッスンしようと思って」
「……は?」
 その声は誰の物だったろうか。ミキはコートを脱いでぽいっと投げ捨てた。
「ほら、準備は万端!」
 ジャージ姿で胸と腰に手に当てるミキの姿を見たその人達は顎が外れたように口を開けた。千早までがすっかり驚いてしまっているようで、胸がすっとした。
「お前、その、あのなぁ」
 その人が目元をぎゅっと抑えた。
「今日の、本当のお前のスケジュールは?」
「レッスンだよ。だからどうせなら一緒にやろうかなって。ね?」
 真に微笑みかけると、彼女はわぁっと両手をぱちぱちと打ち合わせた。千早はそれを半目で睨みつける。
「意味が分からない」
「俺もだ」
「そうかな?」
「一応聞くけど……お前のプロデューサ達はそれを了承したのか?」
 にっこりと大きく笑顔を作る。だろうと思ったよ、と彼は大きくため息をついた。
「本社の、それもトップアイドルを勝手にレッスンとか、そんなアホな話が……」
「えっダメなの?」
「むしろなんでOKだと思ったんだお前は」
「ね、ね、プロデューサいいじゃないですか。こんな機会はめったにあるもんじゃないですし! ね?」
 真がその人の袖をぐいぐいと引っ張る。
「だって美希ちゃんと一緒にレッスンできるとかすっごい勉強になりますし!」
「あー、千早?」
「別に、私が決める事ではありませんから」
 最後にその人は助けを求めるように雪歩に目を向ける。
「えっと、その。もう私たちに決定権はないんじゃないかなって」
 あははと乾いた笑いの雪歩から、えっほえっほと屈伸を始めたミキに視線を移す。
「どんなレッスン? ミキはなんでもいいよ」
「ちなみに」
「うん」
「今日はたまたまレッスンの日が重なったけど、もし俺等が外回りだったらどうしてたんだお前」
 肩のストレッチをしながら宙を睨む。ふむ。
「それは考えてなかったの」
 その人は、今日一番の大きなため息を吐いた。
 うん、やっぱりこの人はちょっとため息が多すぎると思う。


◆◆


 もう夜の11時。ふかふかのソファへ勢いよく飛び込む。その弾力はミキを突き放す事はなく、優しく包んでいやしてくれる。だからミキも安心してより深く沈み込む。フローラルの香りが、疲労困憊の身体を包み込む。気持ちいい。
 本社にあるアイドル専用のリフレッシュルーム、そのど真ん中にあるこの大きくて柔らかいソファはミキのお気に入りの場所だ。ここには本社のアイドルが身体を休ませる為にある部屋で、ちょっとした食事とか、マッサージとか、個人オーディオ設備とか、まぁそういうのが色々と揃っている。色々なアイドルが出入りするけども、このソファだけはほとんどいつも美希が使っている。大きいというよりは広い、ソファというよりはベッドというべきだろうか。疲れた時もそうでない時も、ミキはとりあえず毎日ここに飛び込む事にしている。ミキの悩みも悲しみも憤りも全て溶かして解かして融かしてくれる。――まぁあればの話だけども。大抵はない。それがミキのイイ所なのだ。
 ミキはそれを自然としか思わないのだけど、ある友達がこういった。
『こんなイイ場所を独り占めだなんて、ミキミキは根っからの女王様体質だね』
 なるほど、そうなのかもしれない。ここは玉座なのかもしれない。イイ女は、自然とイイ場所を選んでしまう物だ。でも、流石にこの時間になると部屋には誰もいなくて、ひとりぼっちの玉座はちょっと寂しいものだった。
 ぶふーっと息を吐く。それにしても今日は疲れた。旧社屋でのレッスンはけっこう激しいもので、気を抜いていたら置いていかれてしまうところだった。まぁもちろん、結果的には置いていったのはミキで、置いていかれたのはサテライトガールズの彼女達だったのだけど。でも彼女達の力の入れようにはビックリした。千早はあの冷たい感じと反してすっごく負けず嫌いで張り合ってくるし、真はあれだけミキの事を崇めていたのにいざミキに遅れをとるともう一回もう一回と挑戦してくる。雪歩は今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気と違って中身は一番頑固で根性持ちだったし。あの3人は、なんであんなに頑張れるのだろう? いくらミキでも、ちょっと疲れた。疲れたぶん、とても楽しかったけど。うん、すごく楽しかった。しかしそれより疲れたのは。
「うぅぅぅ」
 帰ってきてからのお説教だ。久しぶりにこんなに怒られた。最近はなにしたってあんまり怒られなかったのに、流石に全サボりは不味かった。そりゃもう色々な人に烈火のごとく怒られた。というかなんか何人かは初めて会うような人にも怒られた気がする。それでも、懲罰なんかはまったくなくてお説教だけで済んだというのは随分とラッキーだ。なんとなく、誰かが事前に話を廻して上手く事が進むように地面をならしてくれたような感じがした。――なるほど。確かに頼りなくてお節介で、でもいい人。
 ぐーっと身体を伸ばす。体中のしびれが心地よい刺激となってじわじわと筋肉を刺す。きっと、乳酸って舐めたらすごくすごく甘いんだと思う。
「あれ、美希どうしたの? なんか楽しそうだね」
 俯せになっているミキの頭の後ろから、耳に馴染む可愛らしい声が聞こえてきた。
「んー。だるくて、重くて、甘いの」
「はぁ」
「わかる?」
「わからない」
 くすっと笑う声が聞こえて、それからソファが軋んだ。ミキの寝てるそばにこうあっさりと座ってしまう人なんて、そういない。
「美希の言葉はいっつもわからない。ふわふわして、捕まえられない」
「そういうのは嫌い?」
「好きだよ」
 そうはっきり言い返されると、なんだか照れる。
「好きだなぁ。すっごく良いと思う」
 楽しそうな鼻歌が聞こえる。そして、ソファが小さく周期的に揺れる。きっと鼻歌に併せて、足をパタパタと動かしているんだ。ミキの玉座が、彼女が近づくだけで、一瞬にしてただのソファになってしまった。ミキくらいのイイ女になると、自然とイイ場所を選んでしまう。だけど、彼女くらいのイイ女になると、彼女がいる場所が即ちイイ場所になってしまう。
 もし世の中の人に、Aランクアイドルといえば? と問えばミキの名前を挙げてくれる人もいるだろう。でも、No.1アイドルは? と問えば、きっとこの人の名前しか出てこないだろう。ミキがアイドル界の女王というならば、きっと、そう。彼女はアイドル界のアイドル。
 アイドルマスターだ。
 Sランクというのが存在すれば、きっとそれなんだと思う。しかも自分のプロデュースを自らが先導して行っているという、まさにミキと正反対というべきだろうか。この世界で唯一、ミキが尊敬できる人で。そして勝てる気はしないのだけど、いつか勝ちたいなと、そう思える唯一の存在だ。
「あふぅ」
 思ってるだけで、なんもしてないけどね。
「今日はね」
「うん」
「色々あったの」
 聞かせて、とソファの振動がとまる。
「旧社屋ってところに行ってきたの」
「へぇ、旧社屋。懐かしい」
「知ってるの」
「当たり前だよ。あそこで下積みしていないのなんて、ミキくらいだよ」
「じゃあ?」
「そりゃ私ももちろん」
 何故か自慢げな返事が返ってくる。ミキだからの特別扱いのはずなのに、なんだか仲間はずれにされたような気分になる。
「さっぱり売れなかったけど、あの頃はあの頃で楽しかったよ」
 彼女にも売れなかった時期があるのか。それはなんだか不思議というか意外というか、そんな時期がなかったミキには分からない話だ。
「うん、今日も楽しかったよ。まず、えーっと……誰かにあったんだけど」
 うーんっと疲れて回らない頭を働かせる。
「おでんおでんっていう……芸人、だっけかな?」
「おでんおでん? 芸人? あそこって芸人さんの育成なんて受け入れてたかな……」
「たしかオデオデとか。ん? デコデコだっけ?」
「はぁ」
「ま、いいや。そんな感じ。それからね、サテライトガールズっていうトリオに会ってね。あ、前から知り合いだったからその娘達が目当てだったんだけど。というかミキがオーデでめためたにやっつけちゃったから知り合ったというか。でももちろんあっちはミキの事知ってて、ミキは知らなかったの。で、一緒にレッスンしたの」
「ん? ん? ……え、えーっとつまり?」
「一緒に遊んだの」
「な、なるほど?」
 楽しかった、と息をつく。色々あったけど、つまりはそういう事だ。
「その娘達、いい人だったんだね」
「うん。すっごくいいトリオ。まだビミョーな知名度らしいけど、きっとその内出てくるかもしれないな」
「そう。じゃあ私も会うかもしれないね」
「うん、会うと思うよ」
 ミキの予想は、よく当たるのだ。
 そういえば、と聞きたい事があったのを思い出す。色々な人に対する疑問ではあるけれど、彼女なら間違いなく答えてくれるだろうと思って。
「ねぇねぇ、なんでそんなにアイドル頑張れるの?」
「また、いきなりな質問だね」
 くすくすっと笑う声。だって、と唇を尖らせる。ここ数日、その疑問が一向に頭を離れてくれないのだ。結局ミキの全て悩みはそこに繋がっているのだと思うから。
「そうだね、私は」
 一呼吸の間が空く。つまり、彼女がその答えを導くのに必要だったのはそれだけだったという事。ミキがずっとずっと考えてもわからなかったのに。
「約束したから、かな」
 うん、と自分で頷く。
「約束したの。絶対にまた会おうって」
 ミキはごろんと仰向けになって、彼女の顔を下から見上げた。誰が? とか何で? とかを聞きたかったはずなのだけど、彼女の顔を見たら、何も言えなくなってしまった。その表情は、照明が逆光になっていて、よく見えなかったのだけど。
「――よくわかんない」
 ミキは再び転がって俯せになる。
「ミキは別に誰とも約束してないし。わかんない、それじゃ」
「え、なに? 美希は自分の頑張ってる理由が知りたいの?」
「そうだよ」
「あはは、なにそれ。じゃあ他の人に聞いてもしょうがないよ。美希が頑張ってる理由は、美希だけのものだもの」
 でもそっか、とソファがひと揺れした。
「すごいね、美希は。どうして自分が頑張っているかわからないのに頑張れちゃうんだ」
「知らないだけで、すごい事じゃないし」
「ううん。すごいよ。普通の人はね、何か目標が、自分の欲がないと頑張れないの。美希は無欲なのかな」
「ミキは欲でいっぱいだよ。みんなに自由気ままに自分勝手だねっていわれるし。ミキもそう思う」
「欲がいっぱい過ぎて、結果的に無欲になってるのかもね」
「……さっぱりわからないの」
「羨ましいなって事。私なんて、自分の欲で手一杯なのに」
「欲があるの?」
「それはもう。自分勝手な欲の塊だよ、私は」
 会話がそこでとぎれると、室内にはなんの音も聞こえなくなった。いつもはBGMがかかってる部屋なのだけど、こんな時間はもちろん止まっている。このソファにのって、彼女とミキだけで、どこかへ旅立ってしまっているような、そんな感覚に陥る。
 彼女は自分を欲の塊だという。その欲の為に頑張っているのだろう。つまり人が何かをする理由というのは、自らの欲、エゴそのものなんだろう。なるほどそういうものかもしれない。しかし、だとするとミキは何かおかしくないだろうか。ミキのエゴは、アイドルの仕事を頑張るとは正反対のものだ。もっと寝たいとか、だらだらしたいとか、寝たいとか、さぼりたいとか、寝たいとか。そういう方向だ。けれど、ミキはアイドルとして活躍する自分を誇りに思っている。その為にミキはそれなりの努力を重ねているつもりだ。つまり、ミキのエゴと、実際にミキが頑張っている事実は逆方向へ向いている。
 よって問題は単純にこういう事になる。
『なぜ星井美希は、アイドルをしているのか?』
 お金が欲しいのかな。有名になりたいのかな。みんなにちやほやされたいのかな。自分の胸に聞いてみるが、どれもしっくりこない。自分の声が、しっくりこない。美希が好きな物はなんのかな。それがないっていうのは、ちょっと寂しいんじゃないかな。
「ねぇ美希」
 ミキの思考を、彼女の一声が絶つ。なに、と首を傾げる。もちろん俯せになりながら。……なんだか色々考えすぎて眠くなってきた。
「その、ね。旧社屋で――」
 はーっと大きいため息。
「ううん。なんでもない。私、もう帰るね」
 ソファが上下する。ミキの身体も上下する。
「家遠いんだっけ? こっちに住めばいいのに」
 ミキはここの近くにマンションを持っていて(名義はマネージャだけど)、一週間の内数日はそこに泊まっている。学校にも家より近いので便利だ。ミキより仕事が多くて、より夜遅くまで働いている彼女なら、絶対にその方が良いだろうに。
「うん、それもいいんだけどね。やっぱり実家の方が落ち着くから」
 でも結局ホテル住まいみたいになっちゃう時も多いけどね、と肩を竦める。
「でもいいよ、田舎は。星もここら辺とは比べものにならないくらい綺麗なんだから」
 星ねぇ。
 星。
 星……。
「あ!!」
 がばりと起き上がる。
「み、美希どうしたの急に」
「そう、そうだよね、楽しい気持ちは返してあげなきゃ、なの!」
 彼女の方を向いて、親指をぐっと出す。
「ありがと!」
「は、はぁ。どういたしまして?」


◆◆


 カンカンと高い音が日付も変わった夜空に響く。目の前にあるいつまでたっても終わらないような鉄骨で組まれた無粋な階段は、やっぱりいつまでたっても終わらない。ため息をついても仕方ないので、また右足左足と無心で動かす。
「うぅ、もうつかれたー」
 弱音を吐いても、誰も答えてくれない。なんと薄情な人たちか。少しでも信頼したミキがばかみたいだ。
「ねぇねぇ、もうつかれたよぉ」
 やっぱり無言。ひどい。ひどすぎる。口を開くのだって辛いくらいに疲れているのに。夜の冬風が容赦なく肌を刺してくるのに、身体はこんなに熱い。寒くて熱い。最悪だ。
「ねーってばー」
「あーうっせぇな! 誰の所為だと思ってるんだよ!」
「しらない」
「知らないなら教えてやる。お前の所為だお前の」
「違うもん」
 誰の所為なのか言われれば、きっとそれはこの空中公園の管理会社だ。けれどそんな反論は、周囲の8つの視線によってあえなく飲み込まさせられてしまった。
 みんなで星を見よう、と考えついた。前回はミキが行ったのだから、今度はみんながこっちに来る番だ。かといって本社に来てもらってもそんなの面白くない。ならば、とミキは考えた。ミキの好きな場所を案内しよう。そうして考えて真っ先に思い浮かんだのが、あの雑誌にも載っていたこの空中公園だ。あそこはよかった。あの胸がきゅっとした感覚を、まだ覚えている。ミキは急いで交換したばかりのアドレス帳を活用して呼び出したのだ。だけど。
「でも、まさか、エレベーターが故障中だとは思わないよね」
 そう。雪歩の言うとおり、まさか、なのだ。もともと付近に比べて高台の位置に展望台に造られた公園。建物の下まではその人の車で登る事が出来たのだけど、いざ入ろうとしたミキ達を待ちかまえていた現実は非情だった。すなわちエレベーター故障中の張り紙。メンバーのうち二名はこの瞬間帰宅することを提案。二名は、脇にあった外付けの階段で昇ることを提案。結局、最後の一人が悩みに悩んだ末、『えっと、その、せっかく来たんですし』と結論を出し、階段を昇ることが決定された。
「恨んでやる。恨んでやる。故障させた人を一生恨んでやるの」
「俺はもうすっかりお前の事を恨んでいるぞ」
「うううぅ。デコデコの2人も呼んでくれればよかったのに」
「だから誰なんだよそれは。俺はそんな奴知らないぞ」
 一番後ろでへろへろになっているミキの少し前で、その人が息も絶え絶えに答えた。男の癖に情けない。なんだそのへっぴり腰は。その脇で雪歩が頑張って下さい、と励ましたのだけども、そういう彼女も歩みがふらふらとしている。巻いていたマフラーを小脇に手に持ったり、でもやっぱり風が冷たくて首に巻いたり。その前を昇るのは千早だ。ロボットみたいに淡々とビートを刻み続けるが、流石にだんだんとテンポが遅くなっている。そして先頭を行くのは。
「ほらみんな! 早くしないと閉園の時間になっちゃいますってば!」
 真がミキ達より一つ上のフロアで声をあげた。なんなんだあの体力は。一気に駆け上ったと思ったら、今度は降りてきてこちらの様子をうかがってきたり。半袖のシャツ一枚で、汗までかいているように見えるのは目の錯覚だろうか。
「風が気持ちいいですねー」
 そんなわけあるか、とみんなが思っただろうけど、みんな疲れて口を開く余裕もなかった。
「男なんだからもうちょっと頑張って下さいよ、プロデューサ」
「無茶、いうな。お前らと、違ってな、もう、若く、ないんだから」
「おじさん」
「……んがーっ!」
 おぉ、その人が一気に階段を駆け上がっていった。
 が、2フロアほど上で階段に座ってうなだれているところをあっさり御用となった。雪歩がぽんぽんと優しく肩を叩いて立たせてあげた。
 手すりを握って身体を引き上げて昇る。
「ねぇ頂上まだー?」
「もう半分はすぎているわね」
 千早が支柱にはってある現在階を示すシールを撫でた。
「というか何mあるんだよこの階段」
「パンフレットによると、百――」
「ごめん、やっぱいい。聞くと心が折れそうだ」
「そうやって現実から逃げても何も変わりませんよ」
「……お前はなんで日常会話でさえそんな辛辣なんだ」
「アナタが緩すぎるんです」
「あ、それはミキもそう思うな」
「アナタもよ」
「ぶぅ」
 でもね、と雪歩が息を乱しながら答える。
「この階段、結構昇る人が多いらしいですよ」
「どんな好き者だよ」
「ここにも一人いますけど」
 千早が真がいるあたりを呆れたように睨んだ。
「こんな辛いとね、逆に昇りたくなるんじゃないでしょうか。認定書とか貰えるらしいですし。あとは、その、カップルで昇ると恋が成就するとか何とか」
 よくある話ですけど、と雪歩ははにかんだ。上からかつかつかつかつと駆け下りてくる音。
「それは素敵ですね! ロマンチック!」
「お前には今、ロマンチックさの欠片もないぞ」
「えーなんですかそれ!」
 唇をとがらせ、真は千早の何段か上で、ミキ達のペースに合わせて歩き出した。
「っていうかさ。こんな階段を一緒に昇るくらい仲がいいんだったら、それはもう恋が成就しているカップルなんじゃないかなって。ミキはそう思うな」
「ミキちゃん、それはロマンチックさが足りないよ。ミキちゃんにも乙女らしくない所があるなぁ」
「なんだ真、あたかも自分が乙女みたいな口振りだな」
「ボクは乙女です。怒りますよ」
「もう怒ってるじゃないか」
「突き落としますよ」
「ごめんなさい」
 それでねミキちゃん、と真が胸に手をあてた。
「愛する2人の目の前に立ちはだかる障害。一人では敵わなくて、心が挫けてしまうような問題。でも、手と手を取り合って、互いを支え合うことによって、2人はその試練をくぐり抜ける。そして、2人はより強く結ばれるのさ」
 ふむ、何となく理屈はわかる気がする。
「これが愛の力だよ」
「俗に言う、吊り橋効果という奴ね」
 千早ぁ、と真が情けない声を上げた。
「じゃあミキ達もさ、この階段を昇り終わったら絆が深まるかな」
「もっちろん!」
「あ、あはは。それはどうだろうね」
「俺はさっき言ったよな、お前のことを恨んでるって」
「さっさと帰ってシャワー浴びたい」
 ……うん、むしろ現在進行形でばらばらになっている。
 まぁつまり、何事も努力が必要だと言うことだ。土台がしっかりしてなければ、この空中公園だって不安定になってしまう。高さを得るには、基礎がしっかりしてなければ。
 でもさ、とまた思う。例えば、この公園は丘の上に立てられているけど、もっと高い、例えば山の頂上だったりしたらどうだろうか。基礎がしっかりしていなくたって、この公園よりも高さを持つことが出来る。本来の力だけで努力に勝ってしまう。そういう事があるのは、事実なんだ。だから、やっぱり、ミキは疑問に思ってしまう。
「ねぇねぇみんなはさ」
 全然動こうとしない右足に力を入れる。もう太股はぱんぱんだ。
「なんでそんなに頑張れるの?」
「……アナタ、喧嘩を売ってるの? 誰の所為でこんな――」
「違う違うそうでなくて」
 今度は左足。風が冷たい。
「なんで、アイドルをこんなに頑張れるのかなって」
 千早が口をつぐんでしまう。ワンフロア昇った後、その人がはぁっとため息をついた。
「お前は本当になんというか、いつもいつも突然というか、訳の分からないというか」
「いっつもそう言われる」
 そう言われるのだけど、ミキの中では至極理路整然とした道程なのだ。それを説明するつもりはないし、出来る気もしない。
「そうだな。……真、言ってみろ」
「へ、へぇっ!? ぼ、ボクですか?」
「おう。自分がどうしてアイドルをしているのかってな」
「な、なんで急にそんな真面目な話に……」
 ふむむ、と真が顎に手をあてて考え込む。いっこうに疲れる様子のないそのカモシカのような脚で階段を昇り続ける。早足になったり、時々遅くなったり、不揃いな足並みで。
「うーん。もっとこう、女の子らしくなりたいから、ですかね」
 そういってこっちを真っ赤な顔で振り返る。
「わ、笑わないで下さいよ! ぼ、ボクだってですね、あのですね!」
 誰も笑ってないよ、とその人は肩を竦めた。
「千早は?」
「歌を歌いたいからです」
 質問にまるで動揺することなく、規則正しく階段を上り、しっかりと前を向いて即答する。
「雪歩」
「そう、ですね」
 深く考えながら、一歩一歩、確かめるようにしっかりと脚を動かす。胸元のネックレスをそっと握り、そして、ふわっと微笑む。
「それを見つけるために、アイドルをしているのかもしれません」
 そしてこっちを向いて、首を傾げる。真もこちらを見る。千早は前を向いているけど、耳は傾けている。
「で、星井は?」
 みんなそれぞれに自分勝手な欲があって、それと向き合っている。なら、ならミキは?
 なんにもわからなかったけど、みんなの流れに合わせように、ひとつずつ言葉にする。
「ミキ最初はね、友達にアイドルできるんじゃない? て言われて、それだけで始めたの」
 そう言われたとき、ミキはできるだろうな、っていう自信があった。確信、と言った方がいいかもしれない。まぁそりゃミキならアイドルなんて簡単に出来るだろうって。
「それで、アイドルになって。わーってやったらいつの間にかトップアイドルになってて。それはもちろん嬉しかったんだけど、でもやっぱりミキは昼寝したり、だらだら過ごす方が好きなの。忙しいのは嫌い。疲れるのは嫌い」
 だけどそれでも、ミキはアイドルを続けている。
「なんでだろうね。理由が分からないよね。理由が欲しい。頑張るならね、理由が欲しいの。例えば、そう。大好きな人のために頑張る、とか」
 それはまるで長い長い階段を2人手と手を取り合い昇るように。
「けれど、ミキには昔から好きな人とか好きなことがなくて、昔から――」
 ――あぁ、なるほど。
 ミキは立ち止まって夜空を見上げて、それから眼下の街並みを眺める。いままでいくら考えても出てこなかった答えが、するするとほどけるのを感じた。止まったミキに合わせて、みんなも歩みを止め、一番後ろにいるミキを見つめた。
「なんだか告白でもされそうな雰囲気だよ」
 肩を竦めるその人に、あはは、とミキは笑ってしまった。
「そうだね、キミ――」
 いや、うん。『キミ』や『その人』はちょっと他人行儀だ。もちろん彼はミキのプロデューサではない。じゃあ、ミキはこの人をなんて呼べばいいのだろうか?
「星井?」
 なんて呼べば? あぁ、そっか、うん。
「ねぇ、蕪野」
 ミキは頭の腕でぴっと手を振る。
「そうだね、アイドルになって一番最初に会ったのが蕪野だったら、ミキは蕪野の事を好きになってかもしれないよ。そんな可能性、なくはないって思うな」
 そういう未来も、あり得たかもしれない。ミキは、そのために頑張れる女の子になれたのかもしれない。
「でもね、ごめんなさい。もうミキにはね、恋人がいるの。その人がいるから、ミキは頑張れるの」
「み、ミキちゃんにこ、恋人!?」
 真は目を白黒差せて、千早は目頭を指で押さえた。ミキは何となく、雪歩の方へ向いてぺこりと頭を下げたら、あわわっと彼女は顔を逸らした。
「告白もしてないのに振られちゃったよ」
 その人はやれやれとため息をついた。
「ごめんね」
「謝られてもなぁ。で、そいつは俺よりいい男なのか?」
「もっちろん、一億二千万倍くらい」
「それはまた、随分と差があるな」
「今日はね、会わしてあげようと思って!」
 ミキはそう叫んで、一気に階段を駆け上がった。まるで、階段なんかないみたいに、雲の上を滑るように、その人と雪歩の脇をすり抜け、千早を後ろに置いて、真を抜き去った。
「会わすって、え? ミキちゃん!?」
 慌てて後ろからみんなが追いかけてくるけど、誰もミキには追いつけない。
 一歩で階段を二段あがる。脚がバネみたいに反応して、身体を持ち上げる。大きく上半身を開いてバランスをとる。そのバランスで余裕が出来た分、体感を捻って無理矢理な力を乗せ下半身に伝える。はねた脚は、一歩で三段を駆け上がる。高く高く。どこまでも上れる気がした。雲より高く。星より高く。
 そして、ミキは、一番乗りで、たった一人で、階段を昇りきった。

 空中公園は、まさに空に浮かぶ庭園だ。鬱蒼と生えている木々の間からは、空だけしか見えない。足場が床面よりもすぼめて作りになっているため、端から真下を見下ろしても、そこから自分が何の上に立っているのか見る事は出来ない。また高台に建てられているため、夜ともなればその底を見る事は敵わず、ふとすれば吸い込まれてしまいそうな気分になってしまう。けれどそれは真下を覗くときの話だ。
 ミキは、規則正しく生えている林を抜けて、特によい景色を見られる展望台のその天辺へ駆け上った。
 目線を真下よりも、もっと前に向けると、色とりどりの光を放つ夜景がそこには広がっていた。視界の中ではとてもじゃないけど収まりきらない。光は一所に留まらず、移動して、明滅して、脈動して、回転して、遷移する。人工の光だって、作られた光だっていうだろうか。違う。これは、人が生きている光なんだ。
「おい星井」
 後ろからようやく四人が追いついてくる。ミキは息切れ一つしてないのに、みんなはもうギリギリいっぱいだ。真までが膝に手を置いている。ミキは空を見上げた。キンと張りつめた空に、我よ我よと光り続ける星々。そこい白い息を吐きかける。
「これ!」
 ミキは展望台の先へ駆け寄り、くるりと回る。そして、光が溢れる夜景を背に、大きく手を広げた。
「これがね! ミキのハニー!!」
 眼下に広がる暖かい光。あのひとつひとつに、ミキのハニーがいる。ここから見えるだけでも数え切れないくらいの光。その光が弾けて、エクステのように、ミキの金色の長髪となる。眩く光るステージ衣装となる。ミキを、ミキとしてくれる。
「ぜんぶぜーんぶ、ミキのハニー!」
 全部等しく、ミキは愛している。そう、ミキは、みんなの恋人なんだ。
「これがね、ミキの頑張れる理由! だってミキはアイドルだから!」
 アイドルなんて、友達に言われたから始めただけのもの。アイドルをやって、星井美希はアイドルとなった訳ではない。

 星井美希は、その存在がアイドルなんだ。

 知ってた。昔からずっとそうだった。ミキは生まれたときからずっと可愛くて、みんなの中心で、そうやって生きてきた。ミキの変わらないもの。なんだ、最初っから学校の友達が言ってたじゃないか。ミキはもともとそうだったって。
「ミキはね、女王様だから、自分の思うとおりになんないと嫌なの。自由に生きたいの。だから、その為には努力を惜しまない!」
 ミキは欲張りだから、【全部】が欲しい。【どれか】欲しいだなんて我慢できない。
 ミキはみんなが等しく大好きだからこそ、自由に生きている。偏った欲がないから、ミキには道しるべがなくて、ふらふらと生きている。それは、好きな物がないからなんかじゃない。みんなが大好きだから。
 彼女が言っていた。欲しかないから、ミキは無欲なんだ。
「ハニーみんなの事が同じくらい大好きだから、見る人が誰もいないオーディションなんて大ッ嫌い! それより、もっともっと多くのハニーにミキを見せてあげたい!」
 ミキの道は凸凹がない平坦な道に見えるかもしれない。違うんだ。凸しかないから、平坦に見えるだけ。ミキは、そういう風に生きているだけ。
「ね、わかる?」
 一気に頭の中にあるものをはき出した。それを聞いた蕪野はまたため息をついて、首を振った。
「分かるような、分からないような。つまり、お前は天才だって事だよな」
「うん、そういう事!」
 あはははっとミキはお腹を抱えて笑う。そう、ミキは天才なんだ。他のアイドルとは違うんだ。その代償として、理解してもらうことは出来ないんだろう。ミキの方も理解することはかなわないんだろう。それは絶対に変わらない、変えられないことなんだ。
 悲しい事に。
 嬉しい事に。
 情けない事に。
「でもそれっておかしな事かな? ミキだけの事なのかな?」
 違うんじゃないだろうか。みんな、みんなそうなんじゃないだろうか。
「みんな、ひとりぼっちなんじゃないかな!」
 目の前の四人は、何か想いを馳せてミキとその背後に広がる夜景を見る。
「だからこそ、だけどミキは――」
 鼻の上に、冷たい感触。
 空を見上げると、夜景の光に反射して、ちらちらと光るものが舞い降りている。手で受け止めると、手の中でそっと浮いて、直ぐに溶けた。
「雪……」
 展望台にいた他の観光客も、わぁっと歓声を上げる。家族や、恋人や、友人達がそっと身を寄せ合う。
「雪だよ! 雪!」
「分かってるよ……。道理で寒いわけだ」
「逆だよ。寒いから雪が降るんだよ」
「どっちでもいいんじゃないか」
「うん、そうだね、ミキもそう思う」
 大きく手を広げ、空を見上げた。
 冷たい空気を、肺いっぱいに溜めて、そして、ミキは歌い出した。ミキの歌声が波紋の形で響く。まわりの人達が、何事かとこっちを見る。
「お、おいお前!」
「あは、何やってるの。ほらほら雪歩も! 雪なんだから!」
 雪歩に駆け寄り、その手を握る。
「真も!」
 逆の手で真の手を握る。
「千早!」
「……そんな恥ずかしい真似、出来るわけないじゃない」
「あれ、歌に自信がないの?」
 顔を顰めた千早は、自ら展望台の先へ歩いていく。ミキは二人の手を握ったまま、その後を追いかけた。四人で一列に並ぶ。
「じゃあ、クリスマスソングね!」
「なんでよ」
「えっと、あの」
「あああああのぼぼぼぼくこいうのは」
 みんなを無視して、ミキが音を響かせた。遅れて、負けじと千早が雪にも負けないくらい冷たく透き通るような歌声をのせる。その次に、かちこちになった真が。最後の最後に、恥ずかしげにしている雪歩が加わる。
 即席で、ところどころ歌詞も音程も怪しい四重奏が空中庭園に響く。合わない4つの声は、ぶつかり合って火花を散らしたり、絡み合って暴れ回ったり、高め合ってどこまでもどこまでも昇っていったりする。公園にまばらにいた人達が、展望台へ集まり始めてきた。そうするとますますミキはワクワクしてきて、いっそう声を張る。すると千早が負けじと張り合う。真はよりカチカチに固まり、雪歩はもっと小さくなった。もう滅茶苦茶だ、と蕪野が額に手をあてた。
 歓声が上がった。歓声に応えて、ミキは両手を振る。もちろん、だれかひとりに向けて振ったわけではない。だれかひとりに向けて歌っているわけではない。
 ここにいる、観客のひとりひとりに。
 夜景の光一粒一粒に。
 そして、ミキにはまだ見えない、世界中のハニーひとりひとりへ。

 ――だけど、だからこそ。こうやって一緒に歌を届けることが出来るじゃないか。


◆◆


「うーわ美希まだ爆睡してるよ」
「もう放課後なのに……」
「なんかあれだってよ、すっごい怒られたから疲れたんだって」
「なんかやったの美希? 流石に授業中に爆睡し過ぎたとか?」
「いや学校の先生じゃなくて。つーかそれくらいなら私もやってるし」
「やるなよ」
「なんかほら、何日か前に空中公園でなんかゲリラライブ? したとかなんとか」
「あーあーあったあった。ニュースでやってた」
「あれね、了承とってなかったんだって」
「えっ警察とか公園とかの?」
「まぁそれもあるんだけど、事務所の」
「はー?」
「うけるんだけど。なにそれ、いいの?」
「いいわけないじゃん。それもうすっごい叱られて謹慎処分とかなんとか」
「やばくねそれ」
「ってスポーツ新聞に書いてあった」
「本人に聞いたんじゃないのかよ」
「いやだって……」
「美希ちゃん、今日朝学校に来てからずっと寝てるもんね。よっぽど疲れたんじゃないかな」
「まぁこいつ自身は気にしてなさそうな感じがするけど」
「だね」
「だろうね」
「しかしまぁ、この子ひとりにしておくとろくな事にならないね」
「あ、なんか1人じゃなかったらしいよ」
「え、なに共犯がいるの?」
「えーっとね、サテライトガールズ? っていうアイドルグループも一緒にいたんだって」
「えっなに男!?」
「いや、女の子3人組」
「……なーんだつまらないの」
「あんた食い付きすぎでしょ、うけるんですけど」
「つーか何、それもスポーツ新聞情報?」
「うん」
「親父くさ……」
「うっさいなぁ」
「ねぇ、そのサテライトガールズってなんなの? 聞いた事無いんだけど」
「だね」
「私も知らない」
「あれならさ、帰りにCD探してみようか」
「あ、いいかも。美希と一緒にいたって事は結構イける感じなんじゃない?」
「よし、じゃあ決定!」
「……」
「…………で、この子どうすんの」
「きっとこの後仕事だろうしね、寝顔が可愛くて罪悪感あるけど、起こしてあげる事にしましょうか」
「起きるかなぁ」
「じゃあいくよー」
「へーい」
「せーのっ」

 ――あふぅ。