「如月さん、歌に幅が出たわね。なにか、良い事があったのかしら」

 そう先生に問われて、私はただ一言、いいえ、と応えた。
 嘘は言っていない。
 だから、もうこの教室に通うのは止めようと、そう心に決めた。

 次の日、日曜日。
 私は朝起きて、事務所へ行く支度をして、外へ出て、晴れ渡る秋空を見上げた。そのまま歩いて駅へ向かい、電車に乗った。そして、事務所最寄りの駅について、ドアが開いた。だけど私は降りずに、そのまま車窓から町並みを眺め続けた。
 特に理由はない。
 気がつくと、終電の時間になったので、近くの漫画喫茶に泊まって、一夜を明かした。

 次の日、月曜日。
 私は朝起きて、身支度を調えて、外へ出て、晴れ渡る秋空を見上げた。そのまま歩いて駅へ向かい、電車に乗った。そして、事務所最寄りの駅について、ドアが開いた。だけど私は降りずに、そのまま車窓から町並みを眺め続けた。
 特に理由はない。
 気がつくと、夕方になっていた。

 なにがしたかったのか、と問われるだろうか。
 結論から言えば、私は歌いたかったのだと思う。

 神様のために、歌いたかったんだと思う。



satellite girls


- sing, sing, sing -



 お腹の底から欠伸が出てくるほど静かなこの私鉄は、直線に張られた線路の端から端までをえっちらおっちら往復するだけのローカル線だ。遠方には山とそこに張り付く住宅街が、手前には何に使われてるかも分からないような建物や空き地が並び、そこに一定の間隔を開けながらぽつりぽつりと栄えた街並みが顔を覗かせる。そんな何の特徴もない窓の外の風景が、夕暮れの眠気をより一層かき立てる。
 長座席の一番端に座っている私は、妙に肌触りの良い座席の布地を撫でながら、視線を車内に戻す。乗客の層はスーツを着たビジネスマンより腰を曲げた年寄りや乳児を抱いた主婦なんかの方が多い。がたん、とひとつ電車が揺れて、老婆がこほっとひとつ咳をした。
 私の対面の座席には、ベビーカーで寝ている赤ん坊と、その母親が一組座っているだけだ。母親は赤ん坊の世話で溜まった疲れの所為か、その子と同じように座席でこくりこくりと船を漕いでいる。けれど、赤ん坊の肩からお腹にかけてのあたりにそっと添えられている手は、私はここにいるよ、と声をかけるように、休まずぽん、ぽん、と赤ん坊を叩いている。
 愛されている赤ん坊と、愛している家族。
 その絵はそのまま、私の心奥深くの最も大切な柔らかい部分を刺激する。
 何故なら、もうこの世にはいないあの子の手の温かさは、柔らかさは、愛おしさは、この手がまだはっきりと覚えているからだ。覚えてなければ、ならないからだ。だから、私は歌を歌わなければならないのだ。だから、あそこに居る訳にはいかなかったんだ。
 ふっと短く息を吐いて、車両の中を改めて見渡す。おじさん、お爺さん、お婆さん、お婆さん、子連れ、お婆さん。数えられるほどの乗客がぱらぱらといるだけだ。こんなことで経営が成り立つのだろうか。そんな事、私が心配するような話ではないのだけど。でも、客観的事実と反して、私自身としては時間だけがあるので、そんな無駄な事に頭を回してしまう。暖房が無駄に暖かくて、私の思考力を絡め取って溶かしていく。
 ――無駄。
 そう、無駄な事ばかりなのだ。ここも。あそこも。
 耳元の髪を手で払って、窓の外の風景に改めて目をやる。適当に割り振った土地々々に建てられた、凸凹な家々。繋ぐ道々は右に、左に。理路整然とした空気を求める私の左脳が、呼吸困難に喘ぐ。吸う空気がないから、毒素のたっぷり詰まった気体を吸引し、回路が機能不全を起こす。もうぎりぎりいっぱいね、と私の右脳が意見する。その割には余裕がある口調じゃないかと苛立って苦言を呈すると、それは口笛を吹いて肩を竦めた。はしたないから止めて、と強く思うのだけど、思うだけで力が沸いてこない。
 私の力は、どこにいってしまったのだろう。区画整理されたばかりの街並みのような、あの理路整然とした力だ。真冬の早朝のピンと張りつめた冷たい空気のような力だ。しかし、車内の暖房は、暖かすぎるのだ。
 無意識に、手が鞄の中の携帯CDプレイヤーを求める。指先が冷たい金属に触れて、あぁ、と気づく。そういえば、昨日の夜に回しっぱなしで寝てしまったんだ。朝、堅く狭い椅子の上で浅い眠りから覚めた時、それはうんともすんとも言わなくなってしまっていた。これは私の求める冷たさではない。
 充電をしなければ。充電しなければ、充電が出来ない。電気が、歌となり、歌が、空気となる。それでようやく、私は呼吸をする事が出来る。ようは、変換効率の問題だ。
 あぁでも。私は充電器をあそこに置いてきてしまったのだ。くっ、と自然に口から漏れてしまった。それだけは素直に、私の唯一の失態だと認めよう。
 手探りで鞄の中をがさごそと探る。楽譜の挟まれたファイルケースのプラスチックの感触だとか、薄い財布の合皮の感触だとか、手触りのよいハンカチのシルクの感触だとか。雑多な、理路整然としない感触が私の指先を刺激する。その感触が、指先から手の甲へとそろりと這いよる。振り払う余地もなく、それは手首まで登り詰め、肘、肩へとそろりそろりと這い上がる。このままでは私の胸までに至って、ついには心臓を食われてしまうかもしれない。
 ――それでも、構わない。歌を歌うための喉さえ残しておいてくれれば、私の嫌悪する、揃わないそれへとこの身を投げ出してしまっても構わない。
 駄目だ、やっぱり思考がまとまらない。
 駄目に決まっている。歌は喉だけで歌うわけではないのだから。肺がなければ空気は流れないし、肺を動かすためには横隔膜が必要で、その為にはやはり心臓が必要だ。音を作るのは喉だけでなく、口内がなければならない。もちろん耳も必要だ。聞いて、頭で考えて、身体で歌うんだ。わかってる? きっとわかってないのよね、アナタは。だから、食べてしまいましょう。食べて、消化して、血となり肉となったアナタの身体は、これい異常なく、煩雑な、アナタと、なって、アナタの、【歌】を、犯して――。

 かさり、と指先に固い紙の感触がした。
 どんどんと漏れて霧散していった私の意識が、その紙を起点にして急激に集まる。目の奥から背筋にかけて、眩しくて冷たい光の帯が突き刺さった。

 我に返った私は、情けないため息をついた。電車は相も変わらず緩くがたんごとんと揺れながら、だらだらと走っている。暖まりすぎたお尻の下を少しずらして座り直す。
 もう一つため息。私はこんなにも弱い人間だったのだろうか。目の前にあるものから逃げ出して、しかしやることもなくぼーっと息を吸って吐いているだけ。最終的には夢見心地になりながら現実逃避ときたものだ。あれらが私の潜在的な願望だとは思いたくない。思いたくない、のだけど。でも、実際弱いから逃げ出したのだ。怖いから逃げ出したんだ。あそこから。
 具体的な何かを考えたくなくて――もちろん、怖いからだ――先ほど私を夢の狭間から拾い上げてくれた紙片を改めて親指と人差し指で摘む。厚めの紙の感触。形は長方形。それほど大きくはない。片手でも十分覆えるほどの大きさだ。特にこれと言った凹凸はない。これは、何かのカードか。財布から飛び出してきてしまったのだろうか。あまり、こういう物を作る質ではないのだけど。眉根を寄せる。それ意外には特に分かる事も思い当たる事もなくて、結局、鞄から手を引き抜いた。
 取り出した紙片を、目の前にかざしてみる。夕焼けの赤みがかった陽に照らされたそれは、やはり紛れもなくカードだった。

【No.875527:如月 千早】

 ボイスレッスン教室の、生徒証。浅黄色の地に、藍色の文字列。可愛くも憎たらしくもない、中途半端な鳥類のマスコットキャラクタ。そこそこな授業料を取っている癖に紙製で、しかもパウチもしていなくて、なんとも安っぽい。これはただの形として発行しているだけで、なんの効力もないものだ。無くしたらほんの数分で再発行が出来るし、持ってくるのを忘れたって授業は受けられる。
 ひっくり返して裏面をみる。長々と規則が書かれているのだけど、果たしてこの全文を読んだことがある人間がいるのだろうか。私自身、この文章はおろか、こうやってカードを眺める事事態が始めてな気がする。ふと、生徒証の右下に、電話番号が載っているのを見つける。そうだ。なるほど。私は二つ納得する。そういえば一昨日、この電話番号を探して、電話をかけたのだ。
『どうしても今日、レッスンを受けたいのですが』
 我ながらなんと無理矢理な要求か。そしてそういえば、その後に生徒証を元のカードケースに収めた記憶もない。つまり、私はこの会員証をしっかりと見たことがある。そして、それが理由でこのカードは鞄の中で一人彷徨っていたのだ。
 指先で、くるくるとカードを廻して遊ぶ。
 意味があるようであまりなくて、求められているようでそんな事はなくて、覚えられているようで実はそうでもなくて、そんなひとりぼっちのカード。
 それが、何かにとても似ているような気がした。でも、私はそれを認めることが出来なかった。

 ふと、視線を感じて顔を上げる。だぁ、という、声。ベビーカーの中、ふわふわのピンクの服にくるまった赤ん坊がそのくりくりとした大きな瞳でこちらを見つめ、両手を振っていた。
 手元の生徒証を右に振ると、赤ん坊はそれを目で追って、だぁ、と届かない手を伸ばす。逆側にもう一度振る。それを追って身体を逆側へ。情けない誰かによく似た生徒証を追って、無邪気に愛される事しかしらないその両手を一生懸命に手を伸ばす。
 その仕草はとても愛らしく、尊重されえるべき存在だと思う。けれど、私にはそれが辛かった。私は神様のために歌いたいんだ。
 神様の事を忘れたくないから。
 神様に、忘れられたくないから。

 私はカードの両端を摘んで、赤ん坊の目の前に持って行く。赤ん坊は飽きもせず、それを追って、両手を伸ばす。
 そして、私は生徒証を、半分に引き裂いた。
 赤ん坊は、特に反応を示さず、両手をぷらぷらと揺らしているだけ。私はそれを見つめながら、もう半分に引き裂き、また半分、半分と裂いていく。
 この教室に通い始めた時の事を思い出す。新しい場所で歌の勉強をしたい、と簡潔に両親それぞれへ求めた。母は、そう、と一言で答えた。父は、いいんじゃないか、と口を開いた。それで、全部だ。あの子がいなくなってからのそんな別々の風景には、もう馴れきってしまっていた。
 生徒証は、もう裂く事の出来ない限界まで細切れになった。元がどういう存在だったのかなんて、もう誰にも分からない。元々、そんな存在だ。私はそれを手の平に乗せて、口元に近づける。
 すぅっと腹直筋を使って息を吸い、強く吐いた。
 紙片が車内に舞い上がる。傾いた西日にそれはきらきらと反射して、まるで春の桜吹雪のように舞い散った。
 私は、季節外れの童謡を口ずさんだ。昔、あの子と一緒に歌った春の童謡だ。
 桜が、晩秋の電車内に舞う。赤ん坊がきゃいきゃいと笑いながら両の手を打ち合わせる。舞った桜は空気をはらみ、右に左に、ブランコのようにふらふらと揺れながら漂い、赤ん坊とその母親に降り注ぐ。

 ― ― ―

 花弁が全て地に落ち、歌い終わって周りを見ると、車内の空気が良くない事に気づいた。当たり前か。突然ゴミをまき散らして歌い出す女なんて、正気じゃない。お婆さんは酷く不機嫌そうな視線を投げかけ、お爺さんは驚きで目を開く。気持ちの悪い虫でも見たかの様なひそひそ話を始めているのは、女子高生の集団だ。それらを見て私が感じたのは、あぁ、そういえば今日私は学校をさぼってしまったのか、と今更ながら思ったくらいだった。
 母親の目元が動く。流石にそれは面倒だな、と思って、私は随分と久しぶりに立ち上がる。背骨と脹ら脛、お尻の筋肉がみしみしと鳴った。お節介そうなお婆さんが口を開きそうになる前に、丁度ついた駅で電車を降りた。桜を残したままの車内を振り返る。赤ん坊が楽しそうに鼻の上に乗った紙切れを擦っている。今日の事なんてこの子の記憶には決して残らないだろう。だけど、将来この童謡を聴いた時、何か心に思う事があればいいなと、そう思った。
 間抜けな音を立ててドアが閉まり、またがたんごとんと揺れながら電車が去っていく。その音は、車内で聞くよりもどこか他人行儀に聞こえた。
 空を見上げる。ガラス越しではなく、直接の夕日が目を射す。生暖かい暖房はなくなり、冷たい秋風が私の首元に忍び寄る。吐いた息が白くなって、私の視界を遮る。
 私を白昼夢へと誘う空気は線路に沿って遠くへ行ってしまった。だというのに、相変わらずどうにも心の収まりが悪い。それは悪事をした事に対する罪悪感ではない。むしろその罪悪感は脚がしっかりと地面をとらえる不思議な落ち着きを与えてくれたのだから。
 そういえば、ここは何処なのだろうか。首を巡らせて、駅名の書いてある看板を探す。
 適当に降りたはずのその駅は何の因果か、あそこに――つまり、事務所に一番近い駅だった。

◆◆◆

 これほど人と接するのを避けている私が言うのも何ではあるけれども、屋内の暖かさというのは、そのまま人の温かさなんだと思う。人が、熱源が多ければそれだけ部屋は暖まるし、保温もされる。日中はそこそこの人数で賑わっているこの場所に独りだけでいると、それをよく実感できる。
 もちろん精神的な話ではなく、肉体的な話だ。もう私自身にそれほど感じ入る所はないのだけど、前者は簡単に馴れる事が出来る。しかし後者は無理だ。同じように馴れる事は出来るのかもしれないけど、行き着く所は生命活動の終わりだ。つまり、それは辛い。悲しい。
 肉体があるから悲しくなるんだ。肉体があるから精神は感情を持つんだ。世界が全部、精神みたいなものだけだったら良かったのに。
 そうしたら、私はきっと歌を歌うだけの存在でいられる。
 神様、私は神様の事を忘れたことなんてありません。
 だからどうか、私の事を忘れないで。
 膝を抱えて丸くなる。申し訳程度の薄い毛布を羽織っても寒さは決して逃がしてくれない。キンと冷えたフローリングが、容赦なく私の体温を奪い去っていく。熱源は、私しかいないから、とても寒い。

 だから、入り口の扉が開いたとき、少しだけ、ほんの少しだけほっとしてしまった事を私は認めなければならない。

「んぁ?」
 日付も変わった無人の事務所、真っ暗なレッスンスタジオの片隅で少女が1人膝を抱えて座っているのを見てしまうのは、かなり驚くような事だろうと思う。
「千早?」
 でも、いきなり名前を当てられた私の方が驚いた。
「千早か?」
「……はい」
 再び問われて、私は慌てて返事をする。歌う以外の理由で声を出したのは、随分と久し振りな気がする。ちゃんとした言葉になっていたのか心配で、もう一度声にする。
「はい、如月、千早です」
 自分で言っておいて、あぁ私は如月千早なのかと少し納得してしまった。
 その人影は、廊下からの非常灯を背にしながら、ゆっくり近づいてきた。そのやる気のなさげな挙動と、よれよれのスーツには見覚えがあった。私を上から見下ろすその人を、目を細めながら見返す。
「なんだ、千早か」
「アナタですか」
 私たちのプロデューサは、そういって安堵したように肩を落とした。初めてあった時から思っていたのだけど、この人は芸能事務所という職場に似つかわしくない、何か足りない人だ。パーカッションのないオーケストラ、とでも言えばいいのだろうか。何かビックチャンスを引き当てればそこそこ名が売れるだろうけど、どこかで貧乏くじを引けばなんとも微妙な地位に甘んじるであろう、つまり確率で言えば、これからも可もなく不可もなくのプロデューサ人生を送る様な、そんな人だ。
 というか、千早です、と私は返事をしたはずだ。なんだ、とはなんだ。そういう感情を乗せて睨みつけると、彼はそうだっけ? とでも言いたそうに肩を竦めた。つまりこういう人だ。
「それよりお前、こんな冷たい床の上によく座ってられるな。風邪引くぞ」
「寒さには強いので」
「強いとか弱いの話じゃないだろう、この寒さは」
「そういう話です」
「昨日は?」
「漫画喫茶に。ここよりは快適でした」
「そら、そうだろうな……」
 プロデューサはため息をついて頭をかいた。
「でも、手持ちのお金が無くなったので」
「ここに忍び込んだのか?」
「泥棒みたいに言わないで下さい。鍵を使って正面から入りました」
「なんでお前が鍵を」
「いつでも自主練習が出来るように、と契約の時に渡されましたけど」
 私がそう言うと、彼は額に手をあてて絶句した。普通はそういうものではないのだろうか?
「これだからエリートって奴は……。それで、飯は喰ってるのか?」
「はい」
 栄養補助食品を、半欠片ほど。そう口には出さなかったのだけど、プロデューサは私の顔を真っ直ぐ見つめて眉をひそめた。
「ほら、帰るぞ。ついでに飯を奢ってやる。なんでも好きな奴を食って良いから」
「結構です」
「は?」
「私はここにいます」
「ここにいますってお前」
 ここでようやく、顔を顰めて、苛立ったような口調になった。そうか、最初からこういう顔をしたかったのを我慢していたのか。相変わらず私は他人の機敏が読み取れない。
「みんな心配して――」
 彼は続きを口にしようとして、私の目をじっと見つめた後、再びため息をついた。この人はちょっとため息が多すぎると思う。
「まったく、お前は相変わらず仏頂面だなぁ。こっちはこれだけ心配したのに」
 我ながら、内面が顔に出ない事には自信がある。良くも悪くもある特徴だと思うのだけど、果たしてこの場合は褒められているのだろうか、貶されているのだろうか。なんにせよ、そんな顔をまじまじと見られるのは気分が良くない。私は毛布を頭まで被って、膝を強く抱く。
 プロデューサは腰をかがめて、今度はゆっくりと話しかけた。
「みんな、心配してる。両親も、雪歩も、真も、もちろん俺も、みんなだ。説教するつもりはない。だけど、とりあえず両親には無事な姿を見せてやれ」
 ――両親が、か。
 普通の説得では効果がある一言かもしれないけど、それは私にとって逆効果だ。いや、マイナスの影響も及ぼさない、昼間に見える星のような、何の意味もなさない存在だ。私には、何も関係がない話だ。だから同じだ。あの2人についてだって、同じ事だ。私には何の意味もなさない、昼間に見える満月のような、そんな存在だ。
 言葉を無視する私に苛立って、かといってそこを去るわけにも行かない彼はそのまま私のそばに立ち続けている。ような気配がある。早く去ってしまえばいいのに。
「なにしに来たんですか?」
「俺か?」
 他に誰がいるというのだろうか。
「そりゃもちろん、千早を捜しに来たんだよ。ここにいるような気がしてな。担当アイドルとは目に見えない線で繋がってる。プロデューサってのはそういうもんだ」
「気持ち悪い」
「……そうだよ嘘だよ。ちょっと忘れ物をしたから戻ってきただけだ」
「忘れ物はありましたか?」
「おかげさまでな。もう一つの捜し物まで見つけたよ」
「そうですか。どういたしまして、おめでとうございます。それではお疲れさまでした」
「かくれんぼじゃないんだから、見つけたらはい終わり、って訳にはいかないんだよ」
「今度は私が鬼になりましょう。気が向いたら探してあげますから、さっさと逃げて下さい」
「大の男が女子高生から逃げ回るか。個人的には悪くはないけど、世間的には問題があるかな」
「大の男が女子高生を追い回しているのは問題がないとでも?」
「女子高生が逃げるんだ、仕方ないじゃないか」
「まるっきり犯罪者ですね。気持ち悪い」
「……自覚はあるけど、二度も言うのは止めてくれ。冗談でも結構傷つくんだ、それ」
「冗談じゃありませんから、気持ち悪い」
「あー……、とりつく島もないっていうのはこういう事をいうのかな……」
 分かってるなら構わないで欲しい。私は1人になりたいんだ。
 ――元々独りぼっちの貴女が『1人になりたい』だなんておかしい話だとは思わない?
 頭の中の誰かがそう嗤った。私は、冷えた毛布をもっと強く引き寄せた。

「どうすればいいかな、俺は」
 じっと黙っていたプロデューサが口を開いた。
「俺がどうしたら、千早はここから出て、俺の奢りで飯を食って、家に帰って両親にあって、暖かい布団でぐっすりと眠ってくれるかな?」
 私はまた無視を決めようとしたが、いい加減それすらも煩わしくなった。そうだ、もういい加減はっきりと言ってしまえば良いじゃないか。それで全てが片付くんだから。言葉にしてしまえば、それで。
「じゃあ、代わりにお願いがあります」
 おっと彼は嬉しそうな声をあげた。
「おう、なんでも言え。あんまり金のかかるお願い以外ならなんでも聞いてやるぞ」
「じゃあお願いします」
「おう、何をだ?」
「その……」
 彼の言葉を遮ってまで言おうとした台詞が、上手く喉から出てこない。痰のように絡まって私の喉に張り付いているようだ。私じゃない誰かが、それを拒んでいるかのようで、私は少し恐怖を覚えた。
「かっ……」
 ――千早ちゃん、真ちゃんが買ってきてくれたからお茶にしよう?

「解散、させて下さい」

 ようやく出てきた言葉は、思っていたよりも弱々しく室内に響いた。
「理由は、聞かないで下さい」
 続いて出てきた言葉は震えてさえいた。

 耳が痛くなるほどの沈黙。何も音がないこの室内は、私と彼が口をつぐめば当然のように無音になる。このまま沈黙が続けばいいのに。そう何度か思った頃、彼の声が響いた。
「ダメだ」
 やっぱり。私は自嘲気味に口元を歪ませる。どうせ、そうだと思った。言葉にしたって、何も変わらない。
「いいですよ。別に期待していませんでしたから。でも、それは私にとっても無理ですから」
「違う」
 きっぱりとした否定の声。
「解散云々は、まぁOKとは言わないけど、とにかくそれは置いといて。理由を聞くなというのはダメだ。井戸も掘ってないのに、いきなり蛇口の取っ手を付けるような真似は出来ない」
「話しても何も変わりませんよ」
「妥協点は探せるかもしれないだろ?」
「探しても見つからなかったら?」
「せめて、社長に解散の言い訳をする時の理由くらい俺にくれても良いだろう?」
「自分勝手ですね」
「お前には負ける」
「自覚はあります」
「それに俺、捜し物は得意なんだ」
 大きく、彼のようにため息をつく。毛布の中に湿った生暖かい空気が満ちる。
 いっそのこと、ここで吐き出してしまおうか。解散にしろ、この情けない逃亡劇を続けるにしろ、私はもう彼女達と歌う気はないのだから。この人とはもう二度と会わないのだから。私の中に溜まっている何かを、私の中の誰かに吐き出させてしまおうか。私も、なんだか疲れてしまった。
「話せば、解散させて頂けますか?」
 顔を上げないままそう言うと、彼は私の隣に無遠慮に腰を下ろした。
「オーケー、持久戦だな」
 息を小さく吸って、大きく吐いた。意外な事に、さっきの一言に比べればかなり気軽に話せそうな気がした。

「私、あの2人が嫌いです。気に障ります。話したくもありません」
 へぇ、とプロデューサが漏らしたように聞こえた。

「真は馬鹿なんです。歌をまともに歌おうとしません。だから私は言ったんです。
『練習しなさい。時間がないなら朝早く起きて練習しなさい』
 って。そうしたら真は
『朝は早く起きてランニングする事にしてるから』
 と答えました。それを聞いた萩原さんは目を丸くしていました。
『すごいね、真ちゃん。最近はもう寒くて寒くて。朝は布団からでられないよ』
 私も早朝のランニングは日課の一つですが、流石に冬場は寒すぎるので室内で柔軟体操をする程度にしています。乾燥もしていますからね。そういったら真は急に笑い出しました。
『千早は馬鹿だなぁ。寒いから外で走るんじゃないか』
 って。だから私は言いました」
「なんて」
「『アナタは本当に馬鹿ね』って」
「深いな」
「真は顔を真っ赤にして怒って、萩原さんがそれを必死に止めてました」
「あぁ、想像できる。それがどうかしたのか?」
「こんな事もありました」
 私は腕を組み替えた。身体が震えてきた。寒いからだ。
「昼食を食べている時です。私はいつも通り、クッキーみたいな栄養補助食品を囓りながら歌の教本を読んでいました。そしたら萩原さんがこちらをちらちらと見てくるのが分かりました。あの人は、私たちにお節介な癖にいつも弱腰でビクビクしていますから」
「自分では成長したつもりなんだろうけど、端から見ると所々でやっぱり変わってないんだよな、雪歩は……」
「目障りだったので、そっちの方を睨んだら、へぅっとか奇声をあげて、けれどゆっくり近づいてきました。
『その、千早ちゃん。お昼ご飯はそれだけ?』
 私が肯定すると、萩原さんは信じられない、という顔をしました。
『そんなの身体壊しちゃうよ! 今日だけでも外に食べに行こう?』
 すると真が近づいてきながらしてやったりという風に笑い出しました。
『あははは、千早は歌手になりたい、とか言いながら身体は大切にしないんだね。それだからそんな貧相な身体になるんだよ』」
「あいつも大概一言多いよなぁ」
「私が何か言い返してやろうと思ったら、何故か萩原さんが急に涙目になって怒り出しました」
「あぁ……。まぁ、あいつにも色々とコンプレックスがあってな」
「結局、なし崩し的にその日の昼は、外の蕎麦屋で昼食をとりました」
 もう一度、腕を組み替える。寒い、本当に寒い。
「萩原さんと私はざる蕎麦で、真は何故かカツ丼を食べてました。大盛りで」
「よく覚えてるな」
 私は爪を立てるようにして自分を抱いた。
「本当に、2人とも鬱陶しくて、邪魔で、目障りで、苛々させて!」
「うん」
「でも、でも」
 がくがくと音を立てて、顎が打ち合わされる。これじゃまるで、泣いているみたいじゃないか。余りの寒さで、涙が出ているようじゃないか。
「でも、それが楽しくて」
 ――独りぼっちの寒さに耐えられなくて、泣いているようじゃないか。
「わくわくする自分がいたんです。人と一緒にいるのは楽しいなぁって、暖かいなぁって! いいものだなぁって!」
「それは、良い事じゃないか」
「良くないですよっ!」
 思わず、喉が張り裂けるような勢いで叫ぶ。怖いんだ、私は。
「それではダメなんです! 楽しくてはダメなんです! 私は、苦しまなければいけないんです!」
 顔を上げて、プロデューサを見つめた。何故か視界がぼやけていて、上手く見る事が出来ない。
「音楽の神様はすぐに見放してしまうから!」
 静謐に、真っ直ぐに、純粋に。そうしている人にだけ微笑んでくれるのだ。神様は。そうでなければ、ならない。そうでなければ、すぐに私の事なんか忘れてしまう。私も、神様の事を忘れてしまう
「私は歌を歌いたいんです! それ以外は何もいりません! 何も!」
 神様は私を独りぼっちにする。そうしろと囁く。そうすれば歌っても良いんだって、そう言ってくれる。孤独になればなるほど、鋭く細く尖って私の歌は鈍い輝きを増すのだ。
「父と母は私を見なくなりましたよ! どうもありがとうございますこれで私は誰にも邪魔されず歌を歌う事が出来ます感謝していますって!」
 なのに!
「なのに! なのに萩原さんも、真も、そして貴方もです! みんなみんな私の邪魔ばかりして!」
 でも、でも、でも。
「でも何処かで楽しくて、救われていて。萩原さんとの会話が、真との言い争いが楽しくて」
 彼女達が笑う度に、あの子の暖かさを、柔らかさを、愛おしさを、この手が、忘れてしまっていくようで。それが怖くて。本当に怖くて怖くて。怖くて仕方が無くて。
「そしたら、そしたら私」
 もう、逃げるしかないじゃないか。他の人の目にも分かるくらい浮かれていたら、そんなの神様の目にもはっきりと映っていた事だろう。違う。違うんです。私は、楽しもうとした訳じゃないんです。信じて。
「あの子に、信じて欲しくて、だから」
 ――私は、アナタの事を忘れてなんかいないよ。

 いつからだろう。私の中の歌のあるべき形、神様が、あの子の姿をとりはじめたのは。私が孤独になればなるほど、彼は鮮明に私にイメージを与えてくれる。反して、私が暖かさを求めようとすると滲んでぼやけて私の視界から消えようとしてしまう。駄目。私が忘れちゃ駄目。だから、私は鋭い歌を歌わなければ。
 わかっている。これはきっと精神病だ。悪い妄想なんだ。
 けれど、でも、どうしようもない。もう本当にどうしようもない。
 ひっくひっくと幼児みたいにしゃくり上げる。口から零れる言葉は全く筋が通ってなくて、あちこちにばらけたままポロポロと剥がれ落ちる。私の力は、壊れてしまったのだ。壊れた力には、結合力がない。その癖に細く長く伸びて、話せば話すほどこんがらがる。ほどけなくなった紐が固く固く私をがんじがらめにする。自分はおかしくなっているのだと思う。そんな事はわかっている。でも、どうしようもないんだ。
「そっか」
 ずっと黙っていたプロデューサがようやく口を開く。うんうんと唸っているが、意味のない事だ。貴方や萩原さん、真が話しかけてくる度に、私の心は一層閉じていく。孤立を求める。おかしくなってがんじがらめの私には、もう行き場所がないんだ。だから、独りにして欲しい。暖かさなんて、教えないで欲しい。
「千早」
 ひぐっと嗚咽で返事をする。
「俺な、自分でいうのもなんだけど、結構昔から人気者でな」
 ふむむ、と唸る声。
「だから悪いな。友達がいないっていう感覚がわからないんだ」

「…………は?」

 さっきまで暴れていた横隔膜がぴたりと止まった。
「いや、まぁ難しいよな、そういうの。ここは人付き合いの業界だしな特に」
 それはわかるようんうん、と独りで納得している。
「はい?」
「ん? そういう話じゃないの」
「違います!」
 勝手に人を人付き合い下手にしないで欲しい。いや、確かにそういう所もあるかもしれないが、そういう意味でもなくて。
「え? じゃあなんなんだよ」
「だ、だから! えっと」
 頭を必死に動かす。私は何を悩んでいたのだっけ。。
「私は、歌を歌いたくて、でもそれをまわりの人達が邪魔をしてきて、特に、萩原さんと真が。それで、私は、2人が鬱陶しくて、一緒にいるのがいやだなって」
「だから、今まで友達がいなかったから、初めて出来た友達との距離の取り方が分からないって、そういう話だろ?」
 反論しようと大きく口を開けたが、――何も言葉が出てこない。
 ……えっと、そう、なんだろうか。
 先ほどまで私の頭の中で渦巻いていた色々な思いが、プロデューサの気の抜けた一言で霧散してしまい、頭の中が空っぽになる。そして、代わりに一言だけ、言葉が転がり込んできた。
「友……達?」
 それだけ。
 それ以外は何も頭の中で嗤っていたりなんかしていない。というか、そもそも誰も嗤ってなんかいなかったのかもしれない。頭が軽くなってすっきりして、なんだか急に気恥ずかしくなってくる。
「え……っと」
「ほれ、ハンカチ使うか?」
「結構です!」
 手元のバックからハンカチを取り出して、目元を拭い鼻をかむ。すごく肌が汚れて、ハリがない事に気づいた。なんだか目元も窪んでいる気がする。それに、なんとなく体臭も臭う。慌てて手鏡を取り出そうかと思ったが、隣に一応男性がいる事を思い出してそれを抑える。よく考えたらこんな暗くてはどうせよく見えないし。代わりにプロデューサから身を少し離す。
「酷い顔だぞ、お前」
「……いくら私でも、最低限の身だしなみくらいは気にします」
 そっか、と彼は返して、組んでいた胡座を解き、脚を前に投げ出した。
「お前の家族関係に口を挟むつもりはないよ。それは俺の知らないことだし、そんな権利も、俺にはない。当然だな」
「当たり前です」
 そこは、私の心の大切な部分だ。誰にも触らせない。
「でもま、あの2人に関しては俺だって言える事がある」
「……どうぞ」
「距離の取り方が分からないなら、思い切って言葉にすればいい。2人と友達になりたいんだって」
 そういう問題じゃ、ないんだ。
「意外とな、こういうのはひとつ吹っ切れて形にすると、その後うまく転がっていくもんなんだよ」
 そういう問題じゃない。私は、楽しんではいけない。独りで生きなければならないんだ。
「そうしたら、案外お前を悩ましてる全部も、上手く転がってくれるかもしれんぞ」
「全部、ですか?」
「おう」
 そんなに、うまくいったらどれだけ素晴らしい事だろうか。
「そんな事、あるわけないじゃないですか」
 薄い薄い笑みを浮かべる。
「誰も直接には言ってきませんが、知っていますよ。私は、歌手として成功するには全く実力が足りていない事を。そんな歌声は持っていない事を。だから、アイドルという形でしか誰も助力をしてくれない事を」
 隣の男は何も返事をしない。当然だ。事実なんだから。
「結局、そんな人ばっかりです。誰も、私の歌なんか認めてくれてない」
 私を持ち上げて、おだてて、いつか歌手として活躍できると甘い言葉を囁いておいて、本当は自分の成功しか考えていない人ばかりだ。
「そんなの言葉にしなきゃわからないだろ?」
「でも、この世にはいない存在には。思ったって、言葉にしたって!」
 静かになっていた頭の中が再びがちゃがちゃとしたもので一杯になる。蛇が蜷局を巻き始める。
「いまさら許して貰えません! 受け入れて貰えません!」
 だってそうじゃなきゃ、可哀想じゃないか。
「真も、萩原さんも、音楽の神様も」
 ――あの子も。
 顔を上げてプロデューサを睨みつける。けれど、先ほどと同じように叫んでも、そこに力はなかった。暗くて見えないけども、目が落ちくぼんで、肌がかさかさで、鼻水を垂らした少女の姿が、彼の瞳の中に映っているように見えた。ゆっくりと手を伸ばし、彼のよれよれのネクタイを力なく握りしめる。
「音楽の神様、って奴か?」
 私は俯くだけで、何も返事は出来なかった。
「お前の中にしかないものには、俺には、俺らにはどうしようもないさ」
 そうだろう。結局、私の中にあるこの妄執とは、私自身がこれから一生孤独に戦い続けるしかないんだ。毛布から伸ばした手が、外気に触れてとても寒かった。そこから、ゆっくりと寒さが忍び寄り、指先から手の甲へ、手の甲から手首へ、肘、肩へとそろりそろりと這い上がり、私の心臓をつかもうとして――。
「でもな、これだけは約束する」
 私の手を、暖かい感触が包んだ。
「音楽の神様がお前を見放しても、俺等はお前を見放さない。何があっても、最後の最後まで、絶対にだ」
 その熱は、私の腕を伝い、心に流れ込み、そっと抱きしめた。
「約束する」
「約束……」
「おう」
 それは、私を裏切らないのだろうか。私に幸せを、温もりを与えておいて、そして突然全てを奪い去ってこの世から消え去ったりしないのだろうか。それは、私の歌の刃を潰してはしまわないだろうか。私の頭の中には不安や疑問が不信が暴れていて明確な道と答えを求める。ひび割れた指先から滴る血液が凝固して周波数の高い痛みを表面全てに引き摺る。
 だけど、その煩雑とした思いは、この手に感じる肉体の暖かさだけで、全て溶けて静かな水面となる。100億ものイメージは、一欠片だけのリアルによって吹き飛ばされてしまう。
 私は、顔を上げて、私の手をしっかりと握りしめているプロデューサを見つめる。
「本当に、私を独りぼっちにはしませんか」
 かさかさになった唇から、自然と言葉が漏れた。
 独りぼっちは辛くない。全然怖くない。
 でも、一度暖かさを知ってしまうと、寒さが辛くて。恐ろしくて恐ろしくて。
「友達っていうのは、そういうものだ」
 だからこそ、温もりが欲しくて、また縋ってしまうのだ。

 ― ― ―

 私が泣きやんでから、どれだけ時間が経ったのだろうか。静かだ。何も音が聞こえない。私と彼の呼吸音以外は。
 瞼が重くなってきた。薄い毛布とプロデューサの上着が、そして何より、この左手から伝わる温もりが、寒さを私から守ってくれる。暖かくなると、眠くなる。人って本当に単純な生き物だ。色々考えすぎるのは、きっと人じゃなくなっている証拠なんだと思う。私は、嬉しい事に、悲しい事にまだ生きているから、当然睡魔には勝てない。瞬きの間隔が、どんどん短くなっていく。
 お前等のグループ名な、とプロデューサが口を開き、私は適当に、はい、と返事をした。
「色々考えたんだよ。俺も。特に、最後まで押したのは、ストレンジカメレオンズって奴でな」
「なんですかそれは…」
「……なんだその顔は。まぁいい。でもなぁ、相談したみんなが大反対してさ。キモイって」
「それは私も同感です」
「でな、結局雪歩のセンスに頼んだ。悪いな、お前等三人のチーム名なのに、俺と雪歩だけで決めちゃって」
 構いませんよ、それくらい。
「やっぱり惑星とか星の名前が良いかなって聞いたんだ。よくあるだろ? マーキュリーとかジュピターとか」
 そうですね。
「そしたらな、もっと近い場所にいたいって」
 近い?
「一つは、地上から昼間でも目に見えるくらいの近さ」
 はい。
「もうひとつは、衛星同士が同じくらいの高さで、同じ惑星をくるくると回るくらいの近さ。近づきすぎる事は出来ないかもしれないけど、でも、近い場所にいるんだよって互いが信頼できるくらいの近さ」
 あぁ。
「ま、由来なんてどうでもいいんだ。明るい感じの名前だろ?」
 サテライト、ガールズ。
 まだ何か話し続けている彼の声が、段々と遠くなっていった。でも、左手は変わらず暖かったから、それに私は安心して、睡魔に身を任せた。

◆◆◆

 そして私は夢を見た。

 私と、真と、萩原さんが、山と積まれたケーキを中心にして、くるくると回っている。恥ずかしいくらいに少女趣味な格好で、萩原さんは顔を真っ赤にしていた。真は弾けるように動き回っていた。
 そこに、雪が降る。その結晶は、桜の花と同じ色と形をしていた。
 ケーキの山の中で、赤ちゃんが笑っていた。そのお母さんも笑っていた。老婆と、女子高生も笑っていた。ボイスレッスンの先生は楽しそうに両手でリズムを取っていた。父と母は、どうすればいいのか戸惑うように、曖昧な笑みを浮かべていた。
 私たちが円を描いている軌道上よりずっと向こう側で、プロデューサが肩を竦めているのが見えた。
 私はふと回るのを止め、首を巡らせた。
 遠い遠い、砂粒みたいな大きさしかない星が見えた。そこで、あの子が絵本にでてくる神様みたいな格好をして笑っているのが、はっきりと見えた。

 私は、じっとそれを見つめた後、小さく口元を弛ませた。
 そして視線を戻し、萩原さんと真と同じように、またくるりくるりと回り始めた。


◆◆◆

 朝、私は随分と久しぶりに心地よい目覚めを体感した。まだ気温は低いけれど、水平に差し込んでくる陽の光がとても清々しい。身体と頭に十分すぎる力が漲っているのが分かる。
 私はいつの間にか横にしていた身体を起こし、もう立ち上がっているプロデューサを見上げる。……だらしない格好がいつもの三倍増しだ。
「結局アレだな、勝負は俺の勝ちか」
「……勝負?」
「あぁ……いや、まぁもうどっちでもいいか。そうそう、両親には、俺から連絡しておいたぞ」
「なんて言ってました?」
「良かったって」
「そう、ですか」
 そんなお世辞は誰だって言う。ましてや他人ならなおさらだ、だけど、とりあえずは表面通りに受け取っておくのも悪くはないかもしれない。この世にある私ではどうしようもない物は、私でどうにか出来る物よりもずっとずっと多い。諦め、と言うとちょっと感じは悪いけれども、少し肩や頭の力を抜いた方が良いかもしれない。
「私、色々考えすぎていたかもしれません」
「ガキのくせに頭を回すからだ」
「すいません、賢いもので」
 何も言い返して来ないので不思議に思ってプロデューサを見ると、腕を組んで眉を潜めている。
「なんですかその顔は」
 私の方まで憮然とした顔になってしまう。いやほら、と言って彼は頭をかいた。
「昨晩お前、すっごい泣いてたからさ、なんかよくわからないけどハッピーエンドかなぁって」
 ――なっ! 自分の顔が真っ赤になるのが分かった。
「か、勘違いしないで下さい! 昨日はちょっと疲れから出た気のゆるみです! そもそも貴方の言葉ひとつ程度でどうにかなるものなら、とっくの昔に解決しています!」
 そう叫ぶと、彼は飄々と肩を竦めて、まぁそりゃそうだ、勝手に納得してしまった。
 どうにも腹の虫が治まらない私は顔を横に背けた。本当にこの人はデリカシーというものがない。とはいえ、それに救われた所もほんの極一部だけ微妙にある確率も無い訳でもないので。
「でも」
「ん?」
「…………いえ、なんでもありません」
「そうか。じゃあ、腹減ったし、どっか飯でも食いにいこう」
 確かに、お腹が減っているような気がする。この数日、どんな食生活をしていたか思い出そうとして、けれど思い出しただけでその場に倒れてしまいそうになる気がしたので、それは止めておいた。
 プロデューサは出入り口に向かって歩き始めた。私はそれを追おうと、寒さと堅い床の所為で強張ってしまっている身体に鞭を入れて、なんとか立ち上がる。

「あれ、プロデューサ? 珍しいですね、こんなに朝早く」
 それと同時に、扉の方から声が聞こえた。
「って、ち、千早ちゃん!」
「えっ!? 千早っ?」
 そちらに目をやると、プロデューサの陰に隠れるように、ジャージ姿の萩原さんと、真が立っていた。私はそちらを見て、何も言えずに立ちつくしてしまう。萩原さんと真もどうすればいいのかと、プロデューサと私を交互に見比べる。
 きっと2人はすごく怒ってる。私が勝手な事ばかりして、ついには行方までくらませて。
 なんとなく何かが変わったような気はしているけれど、結局私は、これからどうするか、なんて何も決めていないんだ。だから、どうしようもなくて何も出来なくなる。また、ここから走り去って逃げ出したくなる。目を泳がして、プロデューサを見る。
 彼は手を持ち上げると、口元に手を添えた。そして、手をぱかぱかと開閉させる。

 ――距離の取り方が分からないなら、思い切って言葉にすればいい。2人と友達になりたいんだって。

 早朝の冷たい新鮮な空気を杯に一杯取り入れ、それを、身体を折り曲げながら絞り出す。逃げない。私は出来る。
 頬をぺちんと叩き、2人の方へつかつかと歩み寄る。それに合わせてプロデューサが身をどかせると、萩原さんが所在なさげに立ちすくんだ。2人の真っ正面に立つ。萩原さんは少し不安そうに、真は何か喧嘩でも売られているかのように胸の前で手を交差させている。こうやって、真っ直ぐ見つめるのは初めてかもしれない。
 瞳を覗けば分かる。2人は、色々な事を考えている。得意げになったり、不安になったり、落ち込んだり、喜んだり。私が心の中で色々と考えているのと同じように。そんなの、当たり前じゃないか。
 私なんかが、どうにか出来るか分からないけど、歌をこれからも歌うために。
 ――まず、ここから始めよう。

「ごめんなさいっ!」

 膝に額がくっつくくらい、私は勢いよく頭を下げた。
 へぅっという情けない声と、えっという驚きの声。私は頭を上げずそのままの体制を維持する。
「えっと、な、何が?」
 思わず、という感じで萩原さんが返事をする。
 何がってそれは、それは、その。
「こ、この前の食事会!」
「えっ?」
「誘って貰ったのに、直前になって欠席してしまってごめんなさい」
 ぎゅっと目を瞑って口を引き結ぶ。どんな叱責を受けるかもしれない。でも、けじめはつけなければ、前には進めない。友達には、なれない。
 私は、じっと彼女達の次の言葉を待った。
「あ、あはは」
 けれど、私の耳に届いたのは怒声ではなくて、笑い声だった。
「あはははは、そうだね、やっぱりそうだね、あはは、本当に千早ちゃんが申し訳なさそうにしてる、あははは」
 不思議に思って私が顔を上げると、萩原さんが本当におかしそうに笑っていた。その後ろで、真は何か首筋を赤く染めながら唇を尖らせている。
「あはははは、本当に真ちゃんは千早ちゃんの事が好きなんだね、あはははは」
「先パイ、それはちがっ!」
 怒られると思ったのに、この反応は何なんだろう。私が不思議そうな表情を顔に出していると、真が一歩前に出てきて、だけど顔はそっぽを向いたまま話しかけてきた。
「わ、悪かったのは千早だけじゃないっていうか、その、ボクもちょっと大人げなかったって言うか。もう少し歩み寄るべきと言うか、だから、その」
 真はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
 なんで私が謝られているのだろう、と真のつむじを見つめながら思う。すると、今度は萩原さんも頭を下げた。
「ごめんなさい。私も、もうちょっと二人のお話を聞いて、私の思ってる事を伝えるべきでした。私がリーダーで最年長なのに、頼りなくてごめんなさい」
「いえ、そんな」
 慌てて私も頭を再びぺこりと下げる。三人で頭を付き合わせて、ごめんなさいと言い合う。でも、三人とも謝っている理由がなにか違う気がする。なんだこれは。何をやっているんだ私たちは。
 何をやってるんだお前等は、とそのままずばりプロデューサが声を上げた。
 とにかく、と萩原さんが私の両肩に手を置く。
「千早ちゃんが無事で、本当に良かった」
 萩原さんの真っ白で柔らかい頬と、大きな瞳。けれど、目元が少しだけ青くなっているのがわかった。
「心配、してくれたんですか?」
「そんな、何を今更」
 そう言って、私をぎゅっと抱きしめてくれた。暖かくて、柔らかくて、なんだか懐かしい匂いがした。すごくくすぐったくって、なんだか落ち着きが無くなってしまって、涙が出てきそうになってしまった。
 身を離して、またにこりと笑う。
「今日もね、真ちゃんが千早ちゃんに言われっぱなしで悔しいから朝練がしたいって。帰ってきた時に見返してやるんだって。それでこんな時間に」
「あーーっもう、いいじゃないですか! それは言わなくたって!」
 顔を真っ赤にした真が踵を変えて、ステレオに向かって歩き出す。
「あの、真」
「ん?」
「心配してくれて、ありがと」
 ふん、真は鼻を鳴らした。私は、また真を怒らしてしまったなと下を向いた。でも、一歩近づいた気もする。
「真は単純な癖に照れ屋だからな」
 後ろを向くと、荻原さんとプロデューサはくすくすと笑っていた。
 なるほど、私には怒っているようにしか見えないけども、きっとあれには他の感情も交ざっているのだろう。そういうのを察する機敏は身につけるべきだなと思った。こう見ると、プロデューサと萩原さんで何か笑い方が違う気がする。
 当の真はステレオと格闘しているが、何やら手間取っている。そういえば、私がこの前触った時も、上手く動いてくれなかった。
「あぁ、そういえば結局教えていなかったね」
 萩原さんがステレオに駆け寄る。私とプロデューサもそれを歩いて追う。
「これはね、こうやって」
 ジャージの腕の裾を捲った萩原さんが、拳を振り上げる。
「こう!」
 そのまま、ステレオの頭へ叩きつける。
 鈍い音がレッスンルームに響く。その後、電子音が小さく鳴り、表の表示板に明かりが灯った。
「こんな感じかな」
 どう? と誇らしげに萩原先輩が胸を張る。
「えっと、その」
「うん?」
「……荻原さんって、意外と豪快なんですね」
「えぇ!?」
「先輩って変な所で大胆な人だな、とはなんとなく思ってましたけど」
 え? え? 私と真を交互に見ながら何か分の悪い雰囲気を萩原さんは感じ取ったのを見て、それまで静観してたプロデューサがずずいと前に出る。
「そうなんだよこいつ実はこうみえて。そう、あれは傑作だったなぁ。今年の春の事なんだけどな――」
「ちょ、何を言おうとしてるんですか、プロデューサーぁ!」
 何かとてつもない事を暴露しようとしたプロデューサにを止めようと、萩原さんが駆け寄る。しかし、それを真が後ろから羽交い締めにする。
「それで、なんですか、プロデューサ?」
「真ちゃん!?」
 もちろん、真1人でも萩原さんは身動きがとれないだろう。
 ――だけど、私は、萩原さんの左腕に抱きついた。
「ち、千早ちゃんまで!?」
 コホンコホン、と彼がわざとらしい咳をした。
「えーそれではですね、20にもなってジャージ姿で通勤してくる荻原雪歩さんについてですがー――」
「ちがっそれは違うんですぅぅぅ!」


 冬の気配がする空に、私たちの笑い声が響いた。
 何年かぶりに、私はお腹の底から笑った。
 神様に、この笑い声は届くだろうか?
 でも笑い方なんてすっかり忘れてしまっていたから、すごくぎこちなかったと思う。
 だから、これから少しずつ思い出していこうと、そう、私は思った。