satellite girls


- run and run -



 どちらかといえば、なのだけど。ボクは頭より先に身体の方が動くタイプだ。
 例えば家を出て駅に向かうとしよう。約束の時間に到着する電車に乗るためには、どうやらギリギリ間に合わない。でも、その次の電車でももしかしたら間に合うかもしれない。どうするか?
 学校の友達に聞いてみると、『約束の相手に連絡する』『とりあえず携帯で時刻表を調べてみる』『親に車で駅まで送ってもらう』などなど。この質問は、答えた相手の性格が濃く出てくるのでなかなかおもしろい。聞いた話によると、状況をあえて細かく設定しないのがミソ、らしい。
 さて、ボクの場合だけど、もう想像がついているかもしれない。『走る』だ。
 間髪入れずにボクがこう答えると、友達たちは「かっこいい」「真ちゃんらしくてすてき」と褒めてくれた。そのときは、それが一番ベストだろうになんでボクらしいのだろう? と不思議に思いつつも悪い気はしなかった。けれど家に帰って、夕御飯を食べて、お風呂に入って、ベッドに入って電気を消したときに気づいた。可愛いスカートと可愛い靴と可愛いお化粧をしていたら、走れないのだ。それでは、『可愛い』とは褒めてもらえないんだ。なんでもうちょっと物を考えて口に出すことが出来ないんだろう、って悔しくなった。枕元のぬいぐるみをぎゅっと抱き抱えて、次に聞かれた時のために、『可愛い』と言われるような答えを考えたけのだけど、結局何かを思いつく前に眠ってしまった。三重の意味で、自分の口より先に手が動く性格がよく現れた、というオチだ。
 行動が早いというのは美点でいい事だとみんなが褒めてくれるのだけど、少し思慮が浅すぎるのではないかと思う。もっと一つ一つをじっくり考えて行動すべきだ。それにボクだって女の子だ。『かっこいい』より『可愛い』の方が何倍も嬉しい。そう、もっと可愛い女の子になるために、もっと考えて行動しよう!

「そう誓ったはずなんだけどなぁ」
 目の前に並ぶケーキの山を見て、ボクは低く唸った。
「あはは、うん、真ちゃんらしい。すてきな性格」
 ボクの対面に座る雪歩先パイは、花が咲きそうな笑みをこぼした。フリルがとてもよく似合うワンピースももちろんなのだけど、おとなしめに整えられた髪型や化粧、たたずまいなんかが、ボクが憧れる女の子らしい雰囲気で、本当に憧れる。ううむ、これが同じ人間なんだろうか。
 このスイーツバイキングだってそうだ。先パイのおすすめということで連れてきてもらったのだけど、すっごく雰囲気のいいお店だ。可愛らしくて小綺麗で、でも大人っぽく清楚にまとまっている。日曜の昼下がりだというのにそこまで混んでいなくてとても清々しい。さりげなく流れる木管楽器中心のインストゥメンタルはこの空間にぴったりはまっている。ボクみたいな子供には縁遠い世界だ。
 そしてなによりケーキが、もうひとつひとつが宝石みたいに輝いて見えて。だから思わず……。
「いいと思うよ、私は。あれもこれも目移りしていっぱいとってきちゃうなんて、すっごく女の子らしい」
「でもこれじゃただの食いしん坊ですよ」
「スイーツは女の子のエネルギー源、だよ」
 確かに。物を知らないボクだけど、これだけは自身を持って言える。女の子は、砂糖で動いているんだ。
「そうですね、甘い物を前にしてテンションの下がる事なんて言いっこなしです」
「そうそう。私も今日は体重計を気にしない事にする」
「……やなことを思い出させますね」
「あはは。ほらほら、せっかくこんなにおいしそうなんだから」
「あ、はい。じゃあ」
 いただきます、と言おうとした所で、先パイがボクを静止した。
 ごめんね、ちょっと待って、と言って先パイは鞄の中から携帯を取りだし、折りたたみ式のそれを開く。ひとつ残念そうにため息をついた後、ぽちぽちとメールを打ち出した。
 ――放っておけばいいのに、あんな奴。
 唇をとがらして、不機嫌な顔を隠そうともしないボクを、先パイは申し訳なさそうに眉を八の字にする。違うんです。ボクがこんな不機嫌になっている理由は先パイの所為なんかじゃなくて。
「ごめんね、じゃあ先に食べちゃおうか」
「先というか、後にもならないというか」
 わかってはいるのに態度が先に出てしまう。相変わらず、ボクの悪い癖だ。
「うん、そうだね。じゃあ、食べよう?」
 先パイは変な空気を吹き飛ばすように、ちょっと大げさに手元のフォークを掲げる。
「はい!」
 ボクも、それを見て大きく息を吸って返事をする。甘い物を前にしてテンションの下がる事なんて言いっこなし、だ。
「いただきます」
「いただきます!」
 早速目の前の苺のタルトに手を着ける。先パイは紅茶のシフォンケーキだ。
 これまた可愛らしいスプーンで、ぷるぷるしたチーズクリームと苺のソースをそっと掬って口に運ぶ。
「うーー」
 太股をぱたぱた掌で叩く。言葉にならない。言葉に出来ない。ボクは幸せだ。
 チーズクリームのしつこくない甘さと、野苺のほろ苦さが、えぇっと。
「なんて言えばいいんでしょう、この美味しさを表すには」
「そんな無理に言葉にしなくたって」
「でも、もし料理番組とか、食べ歩きの番組とかあったら。なんかこう気の利いたコメントが言えないと」
「あは、そんな事まで考えなくても」
 先パイはそういってフォークで切り落とした小さなシフォンケーキのかけらを、これまた小さな口へ運ぶ。その丁寧な仕草をぼーっと見つめてしまう。本当に仕草の一つ一つが可愛らしい。もちろん先パイに向かって可愛らしい、だなんて言えないのだけど。
「どうしたの真ちゃん」
「あ、い、いえ」
 なんか気恥ずかしくなって手元の皿に目を戻す。もうタルトはクッキー生地まで食べてしまい、チョコムースに手を伸ばしている自分に気がついて、はっとする。先パイはまだ半分も食べていないのに、自分はもう二つ目だ。違う。これは違う。女の子らしさとか、そういうのとは真逆だ。
 ボクは一呼吸おいて、チョコムースを薄く薄くフォークで削って口に運ぶ。今度は甘さが強烈に、でも柔らかく主張している。けれど口の中ですぐに溶けて消えてしまって、ボクの舌がもっともっとと追加をせがむ。むむむ。そんなボクを見て先パイは本当に楽しそうに笑った。


 ― ― ―

 でも真ちゃんは、と紅茶を一口飲んだ先パイが口を開く。先パイは丁度二つ目のケーキ、スフレチーズケーキを完食したところだ。ボクはもうひぃ、ふぅ、……えぇっと、まぁ、いくつめかで、今度はアップルパイに手を伸ばした。
「でも真ちゃんは、いくら食べても全部筋肉になりそうだよね」
「そう、ですね。どちらかというと。でもおかげで身体のラインに柔らかさがなくて」
 秋物のパーカーの上から二の腕をさする。ごつごつとした筋肉がそれだけでもわかる。友達はみんな見栄えがよくて羨ましいって言うけれど。ボクは、そんなに好きじゃない。
「ああごめん! 違う、違うんだよ? 馬鹿にしてるわけじゃないんだよ?」
 言葉が続かないボクを見て、先パイが慌てて首を横にぶるぶる振る。
「羨ましいなって。今でもそうだけど、私が真ちゃんくらいの年の頃は本当に運動神経も体力もなくて」
 少し浮かした腰を戻しながら先パイは恥ずかしそうに笑う。それはなんか意外だな。

 先パイと一緒にレッスンする時、彼女は全然疲れを見せたことがない。ボクと千早がヘタレそうになると、もうちょっと頑張ろう、とあの可愛らしい笑顔で諭してくれるのだ。ダンスレッスンでもそう。身のこなしを見ると、ボクの方が上手だなってちょっといい気になるのだけど。気がつくと千早はもちろんボクより先に振り付けを覚え、華麗に舞ってしまうのだ。
 そうボクが素直な感想を言ったとき、先パイは少しだけ恥ずかしそうにしながら。
『私、この業界にいた時間だけは無駄に長いから。力の入れどころと抜く場面いうか、要領だけはよくなるよね』
 そう照れくさそうに笑った。体力だけには自信があったボクが、そんなのでは納得いかないとぶぅたれると、先パイはやっぱりあの笑顔でこう言った。
『二人とも私くらいならすぐになれるよ。そんなに焦らなくても。時間の力って本当にすごいんだから。だから真ちゃんも千早ちゃんも、今を頑張って』
 そしてボクはやっぱり頬を膨らませ、千早は何も聞いていないような感じで汗を拭いていたのだった。

 たぶん、今同じ質問をしたら、先パイは同じ答えを返してくれるだろう。二人ともすごいよって。でも、千早と一緒に一括りにされるのはちょっとばかり不愉快なのだけど。
「それに私は、油断するとこっちにきちゃうから。気をつけないと水着を着れなくなっちゃう」
 先パイはお腹を押さえて、そう照れながら言った。
「それは」
 ボクは、先パイの抑えているお腹を見て、それからちょっと目線を上げて、その女の子らしい膨らみを持った胸を見つめる。
「それは嘘です」
「へ?」
「嘘じゃないけど、本当でもないです」
 顔を落としそうになって、いやいやと顔を持ち上げる。先パイも言ったではないか、時の力はすばらしいって。時間が解決してくれるって。ミルクたっぷりの紅茶をがぶりと飲み干し、次はミルクとバナナのロールケーキに手をつける。
「ちなみに先パイが15歳の時は――」
「う、うん」
「いえ、やっぱりなんでもないです」
「へ、へぇっ!?」


 ― ― ―

「そういえば」
 雪歩先パイが思いだしたように問いかける。
「さっきの質問」
「ギリギリな電車の話ですか」
 ボクはもうほとんど崩し終わった目の前のケーキの列から、こんどはモンブランを指名する。
「そうそう。おもしろいなって」
 対して雪歩先パイはまだ3つ目のケーキ、ガトーショコラをゆっくりゆっくり食べている。ううむ。やっぱりあまりがっつかない方が可愛い気がする。
「先パイはだったらどうですか、さっきの」
「うーん、私なら」
 先パイは首を傾げて宙を見る。しばらく眉根を寄せた後、破顔して逆側に首を傾げた。
「私、心配性だから。きっと電車の時間を無駄なくらいに調べていると思う。だから、次の電車じゃ間に合わないって分かってるから」
 えっと、と手元のナプキンで机の上をさっと拭く。
「だから、どうしようもなくて、泣きながら相手に電話をかける、かな?」
「泣きながら」
「私、泣き虫だから」
 それも、初耳だ。印象と違う。だけど、その話をしたらまたなんだかんだといなされて納得させられてしまうから、先回りしてここで納得してしまおう。ふむ。納得できないけど。
「なんか普通すぎるよね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ、例えば――」
 先パイが口元に手を当てて何かを考える。例えば、と私たちの共通の知り合いを思い浮かべているのだろうか。えっと、とボクも考える。
「――伊織」
「あぁ、伊織ちゃん」
 先パイがぱしんと胸の前で手を合わせる。水瀬伊織は、アイドル候補生の時からの友達――ライバル? まぁ知り合いだ。いつもいつも上から目線でボクを馬鹿にするような口調でからかってくる。年下の癖に。結局彼女の方が先にデビューが決まったのだけど、そのときボクがどれだけ腸煮えくりかえったのか察して欲しい。
「伊織ちゃんは、家の高そうな車で直接約束の場所まで送ってもらう、とか?」
「それどころかヘリコプターを飛ばしてきそうですよ、アイツは」
「あはは、それは流石にないよ。……ない、と思うけど」
「でもそれよりも」
 ボクはぐっと奥歯を噛みしめた。きっと苦虫を噛み潰したみたいな表情、って奴だと思う。
「ボクがそんな質問をしたら、『はぁ? アンタばっかじゃないの? 真じゃないんだから、この伊織ちゃんが遅刻するような時間に起きる訳ないじゃないの。ばっかじゃないの』とか言いそうで」
 そうアイツの口調を真似ながら言うと、先パイは声を上げないようにしながらも、お腹を抱えて笑い出した。我ながら会心の出来だ。ばっかじゃないの、と最初と最後に言うのがミソだ。
「あははは。そう。そうだね。そうかもね。真ちゃんと伊織ちゃん、すっごく仲がいいもんね。あははは」
「どうして今のでそういう感想になるんですか」
 ずずっとストローでコーラを飲み干す。
 先パイはごめんごめんといいながら涙を拭う。そんなに笑わなくてもいいのに。
「じゃあプロデューサはどうでしょう?」
「プロデューサは、あぁ」
 ようやく笑うのをやめてくれた先パイは嬉しそうにこちらを見る。何かいたずらを思いついた小学生みたいだ。
「私、知ってるから。当ててみて」
 ふむ、と腕を組む。あのやる気のない感じだ。まぁ予定の電車に乗る努力をするような人ではないのは分かる。
「メールで一言、『今日遅れる』とか?」
「うんまぁ、間違ってはないけど、もう少し」
 ううん。
「当たり前のように入ってきて、『おう、悪かったな』とか?」
「ちょっと離れたかな? あは、真ちゃんはプロデューサをなんだと思ってるの?」
「見ての通りですけど」
「あはは。あぁ見えて、あんまり遅刻とか、そういうルーズな事はしない人だよ」
「えぇ……」
 スーツをびしっと決めたプロデューサを思い浮かべる。えぇ……。
「あ、うん。そうだね、ちょっとはそういう所あるかもしれないけど、なんというか、最後の最後では、というか」
 あわあわと慌てる先パイは普段より幼く見えて、やっぱりとても可愛い。
「とにかく、正解はね。お詫びとして、好きなところでご飯を奢ってくれる、だよ」
「へぇ」
「それはもう、どこでも好きなところに連れてってくれるんだから」
 何故か先パイが誇らしげに胸を張る。
「意外ですね、けちそうなのに」
「だから真ちゃんは、プロデューサをなんだと……」
「いえだって」
 なんとなく姿が思い浮かぶような浮かばないような。
「先パイは経験あるんですか?」
「それはもう。色々御馳走になりました」
 ふむ、ともう一回思い浮かべる。プロデューサと先パイが二人で、ちょっと高めのレストランで……。ふたりっきり?
「ーーっ!?」
 と、そこまで想像して、急に頬が熱くなってしまった。いい年をした男女が二人っきりで、その。あぁ、なんでボクは経験、だなんて言葉を使ってしまったのか!
「だからね、真ちゃんも、プロデューサが遅刻しそうなときは期待しながら――」
「ぼ、ボクっ!」
 がたんっと大きな音をさせて立ち上がる。そんなはしたないことをして恥ずかしいけど、それとは別の理由で耳が真っ赤だ。
「ま、真ちゃん?」
「ボクっ飲み物とってきます! 先パイは何飲みますかっ!?」
「へ? え、えっと、じゃあアールグレイをお願い」
「はいっ! 任せてください!」
 そういってボクは小走りでそこから離れた。


 ― ― ―

「真ちゃん、大丈夫?」
「は、はい」
 何を動揺していたんだボクは。勝手に一人で変な妄想して、恥ずかしい。とってきたオレンジジュースをがぶりと飲む。先パイは不思議そうにカップを口元に持っていく。
「さ、さっきの話ですね。えっと、他には――」
 ボクと先パイの共通の知人、といえば。ザッハトルテを手前に持ってきて、ぶすりとフォークを突き刺した。そのままの勢いで二等分にする。例えば事務員の――。
「それじゃぁ、――千早ちゃんとか」
 そして一気に食べようとしたその塊を、ボクは口に含むことが出来ずに、そっとお皿に戻した。ボクが意図して口に出さないようにしていた名前をさらっと出されて、動揺する。
「千早は――」
 あのボクを意に介さない、小馬鹿にした顔が思い浮かぶ。
「千早は分からないです」

 千早は今日、来なかった。
 せっかく先パイがセッティングしてくれた三人の食事会だったのに。何日も前から約束していたのに。仕事上だけでなく、もっと仲良くした方がいいって、みんなが思ってる。なのに、なのに。
「直前になって断るだなんて」
 ――個人的に通っているボーカルレッスンの教室に急に空きが出来たので、そちらを優先します。
 午前中のレッスンが終わった後、そうあっさりといって、そのままスタジオから千早はスタスタと姿を消した。
 なんなんだ。なんなんだアイツは。ボクや先パイの気持ちを、なんだと思っているんだ。
「そうだね。結局来そうにないね、千早ちゃん」
 先パイが携帯電話を覗く。何回か、間に合うようだったら、とメールをしていたらしい。優しい。本当に先パイは優しい。だけど。
「いいですよ、あんな奴」
 ボクはぶっきらぼうにいって、ザッハトルテを口に放り込む。くどいくらいの甘さがボクの舌を貫く。
「先パイは優しすぎます。いいんですよ、あんな奴。ボクたちの事なんて、何も分かってない」
 どれだけ先パイやボク、プロデューサが千早のことに振り回されているのか、心配しているのか。何も分かっていない。
 氷が溶けて薄くなったオレンジジュースを一気に煽る。

「真ちゃんはさ」
 うーん、と先パイが唸る。
「千早ちゃんの事を、分かってるのかな?」
 ザッハトルテのもう半分を口に運ぼうとした、その手を止める。
「真ちゃんは、自分の事を千早ちゃんが分かっていない、って言うけれど、じゃあ真ちゃんは千早ちゃんのことを分かってるのかな」
「そんなことっ!」
 思わずどしんっとテーブルを叩いて立ち上がってしまう。先パイが、しーっと唇に人差し指を手を当てる。ボクは周りにぺこぺこと頭を下げて腰を下ろした。恥ずかしい。
「そんなこと、わかりませんよ」
「なんで?」
「なんでって」
 それは、千早が。
「千早が、何も言わないから」
 どうしてダンスレッスンをいやがるのかとか、どうしてそんなに完璧な歌に固執するのか、とか。喋ってくれないから。
「千早が、なんにも言わないから」
「そうだよね。何もいってくれないから、分からないんだよね」
「そうなんです!」
 先パイはやっぱり同意してくれた! 流石先パイだ! あの千早のせいでどれだけボクらが迷惑していることか――!
「難しいよね、人と人。言葉と言葉って」
 先パイはカップを両手で撫でながら一言一言噛み締めるように言葉にした。それはやっぱり先パイらしい、とても可愛らしくてふわりとした空気だ。でもなぜか、ボクはその声を聞いて、なんだか自分が今立っている場所がぐらぐらと不安定になっているような、そんな不安な気持ちになってしまった。
「口に出してしまうと軽くなってしまうから、言葉にしない方が伝わる事ってたくさんある。でもそれは裏返しの意味では、言葉にすると衝突が生まれるから、それがとっても恐ろしい、という事でもある。私、すごく身に覚えがある。きっと、真ちゃんにもあると思う」
 それはつまり例えば、友達と心理テストをしたとき。友達に褒められていい気になったとき。なんでそういう風に思うの? って言えなかった。真ちゃんらしいってどういう事? って口に出せなかった。
「それはそうだと思う。人間って、そういうものだと思う。それだけで人間が出来上がるのならば、すごく美しいものだと思う。でもね、人間って、美しいものだけじゃ出来ないんだ。口に出して、直接相手にぶつけないと、伝わらないこともたくさんある。ううん、そっちの方がずっと多い。それはすごく醜くて痛くて辛いんだけど、仕方ないよね。そういうものなんだから。ぶつける事も、ぶつけられる事も、すごく怖い。でも、それから逃げてるばかりじゃ何も始まらない。私は、それもすごくすごく、身に覚えがある」
 聞けていたら、ボクはそう思われるのは嫌だなって、こう思われたいなって言えたかもしれない。言えなかったかもしれない。とにかく、ベッドの中でひとり涙を流す、だなんて事にはならなかったはずなんだ。
「いい、真ちゃん」
 先パイはそこで目を瞑って、何故か大きく深呼吸した。そして、くっと顎を引く。
「独りよがりはダメ……です。だよ? 悪いのが相手だけ、なんて事は絶対にない。千早ちゃんは確かに横暴な所があるのかもしれない。でもだからってこっちも同じように押さえつけるように対抗しちゃ、ダメ。それじゃ何も先に進まない。歩み寄らなきゃ。真ちゃん。アナタは彼女の先輩なんだからら」
 先パイは、時々逸らしそうになる目をそれでも我慢して、こっちを真っ直ぐ見つめる。だから、ボクも逸らす事が出来ない。
「真ちゃんは、とっても頭がいいから」
 私なんかよりずっと、といって軽く笑う。
「だから、ここまで言えば、わかるよね」
 ボクは押し黙りながら、せわしなく指を組み替える。あぁ、これは千早についての愚痴なのだと、そういうのを二人で言い合うのかと思ってたけど。違う。全然違う。180度違う。ボクはなんて思い上がり甚だしいんだろう。

 これは、ボクへのお説教だ。

 千早の言う事が一々癇に障るから、頭越しに非難した。だって、千早がボクの言う事を聞いてくれないから。だから、ボクも千早の話も聞かなかった。悔しかったんだ。怖かったんだ。認めないのが、認められないのが。
 だけど、千早もそうなのかもしれない。
 ボクが聞かないから。千早が聞かないから。
 卵が先か、にわとりが先か分からないけど。
 でも、解決するのはとてもとても簡単な話だ。

「千早と」
「うん」
「もっと話すようにします。喧嘩腰じゃなくて。ボクの思ってること。そして、千早の思ってることを否定するんじゃなくて、ちゃんと聞きたいと思います」
 すいません、とこぼすと、先パイは、何で謝るのって笑いながら苺の乗ったショートケーキに手を伸ばした。
 自分は先パイの理解者だと思ってた。先パイに憧れて、先パイみたいになりたくて、だから先パイの言うことを聞かない千早が許せなかった。でも、先パイは千早について悩むのと同じくらい、ボクについて悩んでいたんだ。いつもあんなに周りを気遣ってくれる先パイなんだ。先パイだってこんな話はしたくなかったに違いない。それをボクはいい気になって。
 雪歩先パイがボクの先輩であるように、ボクは千早の先パイなんだ。
「私はこう思うな」
 先パイは、すごく楽しそうに口を開く。
「千早ちゃんはね、走ると思う。きっと。真ちゃんと同じ」
 想像する。家を出る千早。腕時計を見て、珍しく寝坊してしまった自分を心の中で叱咤する。そして、ひとつ息をついてから走り出す。
 彼女はきっとジーパンを履いている。脚はしっかりとくるまれていた方が安心できるから。ステージ衣装をみんなで考えている時に言っていた。
 足下はスニーカーだ。これが一番動きやすいですから、と記者さんの問いかけに素っ気なく答えていたのを覚えている。
 流れる汗は気にしない。特に化粧なんかしないから。彼女と踊っているとき、その弾けるような滴と、彼女の静謐な表情のコントラストにぼーっと見とれてしまった事があるから。
「それでね、千早ちゃんはスタジオに飛び込んできて」
「千早は」
 先パイの言葉を遮って、顔を上げる。
「千早は、いつもは鉄面皮みたいな表情を崩しながら、ごめんなさい、って謝ると思う。あいつは他人以上に、自分に厳しいから。すごく申し訳なさそうにして、こっちがいいよ、って許しても、それでも申し訳なさそうにすると思う」
 そんな所を見たことはない。あの鉄面皮が崩れるだなんて、自分でも信じられない。でも、そんな気がするんだ。
 先パイは呆気にとられて口をぽかんとあける。その後、何か納得したように頷いた。――やっぱり真ちゃんはすごいなぁ。私は本当にダメダメだよ――そう漏らすのが聞こえて、声を上げようとしたら、今度はこちらが遮られた。
「そうだね、そんな気がする」
「――はい、そんな気がします」
 口に出さなくても伝わることと、伝わらないこと。
「じゃあ、残りを片づけちゃおう。そして、次のケーキを取りに行こう?」
 先パイはそういってショートケーキにフォークを刺し、先ほどまでより大きく切り取り、急いで食べてしまおうとする。それでもボクより全然遅いのだけれど。本当に可愛らしい。でもきっと、先パイがもし世界で一番不細工だったとしても、ボクは彼女のことを心の底から尊敬したと思う。
 ザッハトルテの残りを丸ごと口に放り込む。舌だけでなく、頬の内側が、のどが、甘さを主張して脳をはしゃがせる。
 次は、先パイのおすすめのケーキを選ぼう。
 そして、もし千早がここにやってきたら聞いてみよう。遅刻しそうになったらどうする? って。
 千早はきっと不機嫌そうな顔をするだろうけど、そしたらボクは言おう。
『ボクは、走るよ』って。



 けれど結局、その日、千早は来なかった。



 そして。

 次の日も、その次の日も、千早は来なかった。