satellite girls


- smile -



「止めて!」

 旧社屋のレッスンルームによく通る声が響く。うん、やっぱり綺麗な声を持っている娘は、怒声でも綺麗なんだなぁ。窓ガラスがビリビリと震えてるよ。あの細い身体の何処にこんな力が詰まっているのだろう?
 っと。私は慌ててステレオの音を落とす。たっぷり十秒はたって、真ちゃんが眉をひそめ、喉の奥で唸りながら千早ちゃんを見やる。猫みたい。いつか彼女の喉を擽ってあげようと胸に誓う。
「……なにさ」
「なにさ? そんな事も自分でわからないの?」
「なっ!」
 と、その前に二人を止めないと。今このレッスンルームには先生も、プロデューサもいない。私たちだけで歌の練習中だ。
「千早ちゃん、なんでかな?」
 私は精一杯大人っぽく問いかける。千早ちゃんはこちらをちらっと見て、視線を真ちゃんに戻す。ジャージの前をがぱっと開け、腰に手を当てて一言。
「真の歌が下手」
 わお、ストレート。
「千早ぁ!」
 室内とはいえ晩秋だというのにTシャツ一枚の真ちゃんが腕をまくるようなそぶりをする。身長こそ千早ちゃんの方が高いけれど、真ちゃんの方が筋肉質だから、結構迫力がある。
「私何か間違ったこと言った?」
 しかし、それに動じない千早ちゃんもたいしたものだ。
「千早ちゃん、もう少し、言い方があるんじゃないかな?」
 私はそこでもう一度口を挟む。千早ちゃんはまたこちらを向いて、目を反らした。
 彼女はとてもプライドが高いけれど、頭がいいから物事の道理や礼儀はしっかりと理解している。私の方が業界でも人生でもずっと先輩なんだから、建前だけでも言うことを聞かなければならない、とかね。この一月で彼女について理解することができた数少ない事のひとつだ。
 何度も逡巡する彼女に、ね? と重ねる。
 くっと漏らしてから――彼女の癖だ――口を開く。
「――わからないなら、別に構いません」
 彼女はそう言ってふいっと顔を横に逸らした。真ちゃんも、同じようにそっぽを向く。どうしようもなくなった私は、さっきからまったく先へ進んでいない手元の楽譜へ情けなくも顔を落としてしまう。
 正確には先週末から、だ。今月の初めに顔合わせをして、プロデューサから渡されたトリオデビュー企画。その一発目としてのデビューシングル。とりあえず形にしようという結論なり、年頃の多感な女の子(一応、私も)が三人四脚、ぎこちないながらも最初はそこそこ順調だった。
 しかし、歌の事になるとまったく妥協しない千早ちゃん。どうやら『とりあえず』の認識が私たちと違ったらしく、どうにも私と真ちゃんの歌に我慢ならない。本人は精一杯譲歩しているつもりみたいだけど。
 文句をいうだけあって千早ちゃんの実力はびっくりするくらい高い。歌だけなら今すぐにでもそこそこ売り出せるんじゃないかな。そんなわけで最初は初対面から日が浅いのもあって、うんうん従ってたんだけど。

「最低限のラインもクリアできてないんだから。次に進めるわけがないじゃない。その為には、100回でも1000回でも」
 その意気込みは素直に偉いなと思うのだけど。
「場合によっては万回でも」
 これが比喩ではない、というのはちょっと、困るかなって。
「でも千早、練習しなきゃいけないのは歌だけじゃないんだからさ」
「他がうまくいっても歌が失敗したなら意味がないでしょう? 逆に他が失敗したって、歌さえうまくいけばみんな納得してもらえるわ」
「そんな乱暴な……」
「乱暴? 歌は繊細よ。大雑把な誰かさんと違って」
 千早ちゃんは普段無口な癖に、こいうときは何故か一言多い。そして真ちゃんも負けず嫌いだから一言言われれば二言返す。
「誰が大雑把だって?」
「言わなきゃわからない? だから大雑把だと言ってるのに」
 千早ちゃんが大げさに肩を落とす。それを真ちゃんは頬をひきつらせながら睨みつける。
「は、はん! 千早だって人のこと言えないさ」
 ぴくん、と千早ちゃんの眉が跳ね上がる。
「歌、はともかく、ダンスを見ればわかるね。千早は独り善がりなんだよ」
「なんですって」
「ま、わからないなら別に構わないけど?」
「……そう。確かにどうでも良い事ね。歌以外の事なんて」
「だから歌だけじゃ困るんだよ!」
 真ちゃんが一歩どしんと足を踏みならした。けれども千早ちゃんは動じる気配もない。私はちょっと驚いてしまったのだけど、ばれていないだろうか。
 問題は(少なくとも表面に見える部分では)単純なのだ。千早ちゃんは歌を歌いたい。でも真ちゃんは歌が苦手だし、さらにダンスレッスンの方が明らかに熱が入るもんだからそれがまた千早ちゃんの癪にさわる。
「歌に合わせれば自然と合うものでしょう」
「そんなのわからないじゃないか!」
「わかるわ。そういうものでしょう」
「なんだよそれは!」
「わかりなさいよ」
 表面に見えない部分での問題。それもすごく単純だ。
 つまり、千早ちゃんと真ちゃんは、馬が合わないのだ。。
 顔を合わせればいつもこういう風に、2人は言葉を投げつけ合って口論を続ける。いや、口論じゃなくてただの口喧嘩か。もうなんか論点も主張しっちゃかめっちゃかで全然議論になってない。なんの生産性もない言い争いだ。こういうのは、すごくよくないと、私は思うのだ。
 で、私はというと。
「先パイ!」
「萩原さん!」
 私は、というと。
「えっと」
 というと。
「と、とりあえず、お茶にしない? ほ、ほら。紅葉がきれいだなぁ、なんて」
 曖昧な笑顔で誤魔化す自分が一番よくないな、と自己嫌悪なのである。


 僕が買ってきます! そう言って真ちゃんは風のように飛び出していった。体育会系の性質というのもあるんだろうけど、きっとこの空気に耐えられなかったのだろう。素直なのか打算的なのかよく分からない。
 しかし、さしあたって今の問題は。
「これは、どうやって再生するのかしら……」
 私が千早ちゃんと二人っきりという事だ。

 幾ら大人になっても、相手が5つも年下でも、私がチームのリーダーだとしても、人見知りなのは変わりないのだ。どうか許して欲しい。それに千早ちゃんからの人を寄せ付けまいとするオーラは、人一倍、いや十倍はあるんじゃないだろうか。きっとこういう形ではなかったら、一生話す事はなかっただろうと心から思う。それは客寄せ商売のアイドルとしてどうなんだろうか、と思わなくはないけど、そういうのが“うける”こともあるというのがこの業界の分からない所だ。――私には縁のない話だ、という事実が情けなくは思えない所が実に情けない。
「ここを……こう」
 私が悶々としている間に、千早ちゃんは中腰で必死になってオーディオ機器と格闘している。あれは結構古い物で、弄るのになかなかコツがいるのだ。私が何もしなくても彼女は文句を言わないだろうけど、それはマイナスにはならないけどプラスにもならない訳で。とかなんとか少し手を貸すだけなのにこう悶々と考えてしまうのが私の悪い癖だ。反省。
「千早ちゃん、大丈夫?」
 勇気を出して――だから勇気を出すのがダメなんだ――こちらにあまり肉付きの良くないお尻を振っている彼女に声をかける。
「はい、いいえ。あんまりこういう最新の機械には強くなくて……」
「あはは、そんな新しくもないんだけどね」
「新しくない? こんなにボタンがいっぱいついてるのにですか?」
 身体を起こして目の前の鉄の塊を指さす。
「旧社屋が出来た頃から使ってるものだからね。うんと、何年だろう?」
 首を傾げる私に、はぁ、と首を縦に動かす。
「それに、こういうのはボタンが一杯ついてる方が、それっぽいっていうか、可愛いっていうか」
 だから、つまり、そう。
「ファッション。そう、ファッションみたいなもので、本質的にはあんまり意味がないというか」
 私は自分の改心の例えにぱしん、と胸の前で両手を合わせる。私だってやれば出来る。だてに6年間もアイドルを続けていないのだ。一歩だけ千早ちゃんに近づく。
「……ファッション」
 けれど、千早ちゃんは眉根を寄せてうむむと唸る。

 あぁ、そういえば、今日ここに来た時から彼女はジャージ姿だったなぁ。まさかそれで電車に乗って往来を歩いて通勤したの? と聞いたら。
『えぇ、今日はレッスンだけでしたので。それが何か?』
 なにがって千早ちゃん、と声を上げかけた時。
『おっはよーございまーす! 今日もがっつーんと頑張りましょう!』
 上下ジャージを見事に着こなした真ちゃんが扉を開けた。
 これが若さなのだろうか。私はえもいわれぬ敗北感に包まれた。
 最後に、プロデューサがよれよれのスーツとノーネクタイで入ってきた。私は泣きそうになった。というか少し涙目になった。

「それはつまり、意味はないけれど意味があって、自己満足でありモラルでもあって……」
「あ、あはは。えっと、ほら、千早ちゃんは音楽が好きなんでしょう? じゃあおうちにはもっと立派なオーディオ機器があるんじゃないの?」
 まだ深く考え込んでしまっている千早ちゃんはとても愛らしいのだけど、とりあえずあからさまに話題を逸らしながらもう一歩近づく。少しは会話になっている。良い感じだ。もう少し、もう少しお話を続けよう。
 けれど、千早ちゃんはぎゅっと顔を顰めた。
「家……は――」
 すっと表情が顔から消える。
「家に置いてるのは使えますよ。昔から使ってましたから」
 ――やってしまった。私が何か声をかける前に千早ちゃんはすくっと背を伸ばす。
「萩原さんには、関係ない話です」
 その場を離れて自分の荷物の場所へ歩いていく千早ちゃんの背中に、私は何も話しかける事が出来なかった。彼女の汗の臭いがぷんっと香った。
 会話が終わってしまった。
 彼女にばれないようにため息をつく。またダメだった。
 事務所に所属してそのままデビューが決まった千早ちゃんに対して、真ちゃんは1年ほど候補生として旧社屋に通っていた。なので顔くらいは何回か見た事があって、そのせいかわからないけど真ちゃんは私にそこそこ懐いてくれている。
 だから、千早ちゃんと真ちゃんがどうにも仲良くなれないなら、私が仲良くなって取りなそう!
 そう思っていつも頑張って仲良くしようとしてるのだけど。どうにも会話が続かない。
 いや、だからそういう理由で仲良くなりたいとか思ってるからいけないのだ。そういう所を千早ちゃんに見抜かれているのだ。多分そうだ。私は、彼女の先輩なのに、そんな事も分からない。袖をぎゅっと握って、唇を噛み締めた。
 ――はぁ。いくら人見知りでも、ある程度の処世術は身につけてきたと思っていたのだけど。
 でも、そういえば大学に入学した時はなんとなく集団に巻かれて知り合いが増えていった。
 仕事の時は、そう、プロデューサがいつも近くにいた。
 それで、それで今は。


◆◆◆

「プロデューサー!」
 新ユニットとして初めての雑誌取材が終わった後、だったと思う。どうしても話したい事があってプロデューサを追いかけ、廊下をすたすたと歩いていく彼の背中に声をかける。すたすたというよりは、だらだらというか、どうにも覇気のない歩き方なのだけど、いかんせん私と彼では体格が違いすぎる。早足になりながら、必死にもう一度呼び止める。
「プロデューサってば!」
 んぁ? と、急に彼が立ち止まってこちらを振り返る。
「むぎゅっ」
 あまりに急なものだから、私は早足の速度のままプロデューサの胸へ突っ込んでしまう。
「おっと、すいません」
 彼は慌てて体を離し、目線をこちらに合わせた。
「うぅ」
「ってなんだ雪歩か」
「なんだじゃないですよぉ」
 私とわかった途端に態度をあからさまに変えてきたプロデューサが気に入らなくて、私はむっとする。彼は頭をかきながら大きな欠伸をする。
「最近なんか眠くてな。ぼーっとしてた悪い悪い」
「心がこもってません」
「悪かったってば」
 まぁ呼び掛けたのは私だし、彼だけが悪いわけではないのだけど。私だけ妙に扱いが軽いのはなんだか納得いかない。ちょっとだけ唇を尖らせる。
「なんだ雪歩。ドジっ子になったり拗ねたり。お前ってそんなキャラだっけ」
「違います」
「そういうのは――」
 プロデューサが宙を見て動きを止める。
「プロデューサ?」
「あぁ、いや、ちょっと思い出し、うん。いや、駄目だな。完全に睡眠不足だ」
 ため息を吐くようにそう漏らしながら、胸元から万年筆を取り出して頭をこつこつと叩く。
「あは、年ですね」
「おう、雪歩もいい年してドジっ子や拗ねっ子なんてキャラはほどほどにしておけよ」
「……プロデューサー?」
「すいません」
 自然と出てきた貫禄のある自分の声に、やっぱり私もいい年だな、なんて思ってしまった。

 休憩所に場所を変えて、丸テーブルと椅子に腰を落ち着ける。休憩所といっても、階段脇に古い自動販売機2つとプラスチック製の安っぽいテーブルと椅子が一組あるだけなのだけど。駆け出しのアイドルや事務の人、あまり有名どころではない記者さん達なんかが私達の脇を行き交う。
 以前友達が、「なんか旧社屋って学校の休み時間っていうか、放課後っていうか、そんな感じだよねー」なんて言っていた。私もそう思う。いつもの自分とは異なる浮ついた感触なのに、どこか好ましい緊張感と無言の連帯感がある、そんな雰囲気だ。けれどそう言っていた二人はとっくの昔に本社の方に栄転してしまっているのは笑い事なのだろうか。
 わかる人はその場にはいられないのだ。というか、その場にいないから分かるのだろう。分かってしまうんだろう。私はどうなんだろう。分かっているのになんでここにいるんだろう。もしかしたら、分かってないのかもしれない。
「雪歩は?」
「あ、じゃあお茶を」
 私が答える前に、がちゃん、とペットボトルの落ちる音が聞こえた。
「ほい、さっきのお礼」
 彼が私の対面に座りながら、緑色のラベルのペットボトルを差し出す。
「すいません。ありがとうございます」
「いや、俺が悪いし」
 わたしは眉を八の字にしながら、苦笑を浮かべる。
「全然悪くないんですけど。じゃあ、素直に頂きます」
 本当は私が悪いのだけど、そういう事は口に出さなくてもいい。伝わることは、口に出さなくてもいい。
 ペットボトルを受け取り、それを額にあてる。まだ秋だというのにこの建物は暖房が効きすぎている。だからプロデューサから受け取ったお茶が冷たくて、心地良い。ほうっと息をもらす。
「で?」
 彼は缶コーヒーを一口だけ飲んで、私に視線を寄越す。
「何の話?」
 何の話なんだろう。何かどうしても話したい事があったはずだ。
 このチームの方向性。
 未来。
 そして私がリーダーの理由。
 分かっている事。分からない事。分かっているつもりな事。色々とあるのだろうけど、結局問題の根っこは。
「千早ちゃんは」
「ん?」
「すごいです」
「また簡潔な感想だな」
 プロデューサはくっくっと笑った。
 けれど、本当にそういう感想しか出てこない。歌も、ビジュアルも、私なんかとは全然違う次元にいる。この業界全体を見回したって、トップレベルだ。まだ新人でさえないデビュー前だというのに、だ。あの子に先輩として頼られても、私なんかに答えられる事は全然ない。気がする。ため息。
「けど、千早ちゃんは、人付き合いが、苦手な感じがします」
 まだ少ししか顔を合わせていないけど、なんとなく二人の性格はわかった。もちろん、私の観察眼が優れているとか、全然そう言う訳ではない。ベクトルは正反対だけど、二人とも凄く分かりやすい性格だ。
「もちろん、私がそういうのが苦手っていう所もあるんですが。でも、あの」
 ペットボトルについた水滴を指で撫でる。
「真ちゃんの方が体育会系で、その、なんというか」
「扱いやすいか?」
「いえ、そういうわけでは」
 私は慌てて首を振る。プロデューサはそれに合わせるように缶コーヒーを左右に振った。
「いい、いい。そういうリーダーもありだ。個個人の能力は把握して、効果的に差別するんだよ。そうやって人を動かすのだって技術の一つ、方法の一つだ。――っとっと」
 彼は零れそうになった缶を慌てて抑える。安っぽくて、薄っぺらい香りがふわっと鼻を擽った。
「ま、恨みは買うがな。だけどそれが」
「仕事、ですか?」
「あぁ」
 彼はずずっとコーヒーをすする。私はぎゅっと強くペットボトルを握った。小学生くらいの新人アイドルらしき子達が、きゃいきゃいと騒ぎながら私たちの脇を通過する。
「寂しいですね」
「だなぁ」
 そういうのは、嫌だ。
 もう大人になってなんでも出来ると思ったのだけど、世の中知らない事ばかりだ。後輩二人を諭して上げる事も出来ない。思いつくのは、結局不器用な方法だけ。そしてその覚悟もなくて、嫌だ嫌だと首を振って耳をふさいで怯えるばかり。
 ペットボトルの口を開け、お茶を一口飲む。――それっぽい味。偽物ではない、これはこれで、こういう本物の味。私の知っている何かと、とてもよく似ている。
 俯いて、ペットボトルの天辺に頭を載っける。
「私、こんなんで大丈夫なんでしょうか」
 自信がありません、という言葉はすんでの所で飲み込み、こつん、と頭をペットボトルにぶつける。
 無言になる時間。
 でも、この間は嫌いじゃない。はっきり言ってしまえば心地良い。なぜなら、彼が四苦八苦しながら言葉を選んでいる事を知っているから。
「お前、ちょっと不安になってるんだな」
 たっぷり数十秒おいて、彼が口を開く。
「千早はな」
「はい」
「社長の、事務所の一押しだ」
 缶が机から持ち上げられる音。
「歌唱力、ルックス、そしてあのキャラクタ」
 幼い頃からの弛まぬ努力で鋭く磨き上げられた歌唱力。見る物が気後れしてしまうような研ぎ澄まされた美貌。そして、私が苦手な、人を寄せ付けないあの性格。
「これだけの物を併せ持ったアイドルなんて、今までいなかった」
 置かれる音。
「あいつには、才能がある」
 それは分かっていた事なので、あまり驚きはない。それよりも胸に残ったのは、あぁじゃあやっぱり私は、という、ちょっとした期待の反動からくる自虐的な安堵感だ。
「私や、真君よりも、ですか」
「ああ。お前と、真よりもだ」
 ぐりぐりと額を蓋に押しつける。やーめーろ、と彼に頭を叩かれた。
「このチームはな」
「はい」
「千早が」
「千早ちゃんが」
 分かってるんです。
「千早ちゃんのためだけに作られたチーム、なんですよね」

「――そうだよ。千早をトップアイドルにするための、その助走だ」
「そういうこと、本人の目の前で言っちゃうんですか」

 トップアイドル。
 千早ちゃんが、トップアイドル。この事務所では、3人目か。
 そんなもう気にもしていなかった言葉がこんなに近くて遠い場所に来るだなんて。なんか可笑しくてしょうがない。
「しかしまぁご存じの通り、あいつには色々と問題がある。知らないことも多すぎる。それを学んでもらいたいと、そのために組まれたトリオだ」
 正反対の直情型の新人。
 経験だけは豊富の引っ込み思案なベテラン。
 なるほど、なるほど。
 確かに。天才肌な彼女を成長させるためには完璧な布陣だ。ちょうどいい踏み台じゃないか。
「そしてトリオ内でも特に人気があった如月千早は、解散後にソロデビューしてトップアイドルの階段を駆け上る、と、まぁシナリオはそんな所だ」
 自由度があるように見せかけて、その実、遠く遠くから監視しながら道筋もゴールも誘導している。大人が子供に強要する、吐き気がするほど汚いやり方。
 でも、一番汚いのは。
 そういうものなんだって。これが誰もが最低限の利益を保証する最高の期待値をはじき出すんだって。それなら悪くないんじゃないかなって。そうわかってしまう、自分だ。
 ペットボトルを強く強く握りしめた。この握力でこのペットボトルを割ることができればいいのに。弾けて、飛び散り、その飛沫が硫酸のようにこの汚れた肌を焼いてくれればいいのに。
 でも、残念ながら私にはその握力がないのだ。
 いっつもそうだ。

 ぺこり。
「と、いうのが、まぁ建て前だな」
 スチール缶のへこむ音が聞こえた。
「へ?」
 私が顔を上げると、それに合わせて彼が万年筆の先っぽで私の頭をつついてきた。
「大人を説得するには、大人のやり方じゃないとならない。でも、俺らの仕事は子供みたいな夢を見せること。ままならないな」
 まぬけにぽかんと口を開ける。
「そんな感じの計画書で、俺は千早のプロデュース権を勝ち取った」
「嘘、ついたんですか」
「嘘じゃないさ」
 彼は不器用に肩をすくめた。
「社長の期待には応える。仕事だからな。でも、トップアイドルにするのは一人だけ、とは言っていない」
 私は話がよく分からなくなって、彼の瞳をまじまじと見つめる。
「つまり、どういうことですか?」
「つまり、踏み台のつもりだったトリオは思いの外人気がでた。解散させるには惜しい。じゃあ仕方ない、三人まとめてトップアイドルとして売り出そう。みんな幸せでめでたしめでたしって所かな」
 三人。千早ちゃんと、真ちゃんと……。
 ……えええええええええええええ!?
「えええええええええ!?」
 思わず勢いよく立ち上がったら、椅子が大きな音をたてて倒れてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
 あわあわと椅子を直す。なにやってんだか、とプロデューサの声が聞こえた。

 改めて座り直して、ひとつ咳払い。
「その」
「もう一人新しい子が加入するんですか? とかはやめろよ」
「思ってません」
 ちょっと思ったけど。
「私なんかが無理です〜、とかもやめろよ」
「思ってません」
 結構思ってるけど。
「でも、そんな裏事情みたいな、話さなくてもいいことを、わざわざ言わなくても」
「お前が最初に言い出したんだろう。千早の為のチームだのなんだのって」
「……そうでしたっけ?」
 なにをやってるんだろう、私は。一口お茶を飲む。なんだかすごくのどが渇いていて、味もなにもわからなかった。
「ま、それを抜いても、お前だけには話しておくつもりだったけどな」
 彼がテーブルの上でを三角形の形に何度もなぞる。
「千早がエース、お前がリーダー」
「真ちゃんは?」
「特攻隊長、かな」
「怒りますよきっと、真ちゃん」
 肩を竦める彼に、私は少し呆れてしまう。
「月ってのはな」
 三角形の頂点をつんつんと叩く。
「地球の重力に捕らわれている、地球の付随物だ。地球があるから月がある」
 残りの2つの頂点をさっと指で払った。そう、きっとそうなんだろうな。私はすごく納得してしまった。
「でもな。一方的にどっちがどっちの付随物、なんて事はない。月があるから地球の海には満ち引きがあるし、公転の周期もずれる。それによって、地球上の生物は多大な影響を受けている」
 くるくると3つの頂点で円を描く。
「確かに重要なのは地球だ。いいか雪歩、重要なのは絶対に地球だ。でもな、こいつらは互いに影響を与え合っている。それで、ようやくひとつの地球なんだ」
 わかるか、と問いかける彼に、こくこくと必死に頷いた。

「そこまで踏まえて、お前はどうすればいいと思う?」

 彼は励まさない。それを知って、私は彼に辛辣で不器用な助けを求める。何の事はない。結局、私は甘えてるだけなのだ。暖かすぎる室内で、冷たいペットボトルを額にあてるように。
 いつも。
 言葉にしなくて感じる心地よい連帯感と、言葉にするからこそ共有できる安心感。

 私は。

 私はなにも言わずに、プロデューサの目を力強く見つめ返した。

「そうか、がんばれよ、リーダー」
 彼はそういって両手を小さく上げた。
「俺は、お前等のチームワークに関しては何もしないからな」
 千早ちゃんが偉い人たちに期待されているように、私はこの人に信頼されているのだ。
「……何笑ってんだよ」
「いえ、プロデューサがそう言って結局何もしなかった事なんて1回もないなぁなんてことを思い出して」
「……いってろ」
 子供のように唇と尖らせる彼を見て、一つ疑問に思う。
「でも、それがプロデューサの何の得になるんですか?」
 千早ちゃん1人をトップアイドルにする方が、どう考えても確実で、リスクも少ない。彼にしてはちょっと突飛すぎだなと思った。
「まぁ、俺にも目標というか、打算的な所があって」
 彼は顔を伏せた。常に人の目を見て話す彼にしては珍しい仕草だ。
「正直なところ、俺にとってもちょっとしたチャンスなんだ」
 ついでのようにそう付け加えた。本当は、ついでなんかじゃないはずなのに。でも、彼の表情はいつも通りで、本当、なんてわからなかった。
 そこで一つ彼が大きな欠伸をした。
「あぁ悪い」
 彼は缶コーヒーの残りを一気にあおった。彼だってここの所ずっと奔走していて、あまり表には出さないけれど疲れている。
 私もペットボトルを傾ける。舌を刺激するのは、もちろんそれっぽいお茶。
 三角形を描いた場所あたりに、ペットボトルをおく。
 相変わらず、ダメダメな私にとって【トップアイドル】という言葉はどこか現実感がない。だけど、私はプロデューサを信頼している。プロデューサは私を信頼している。
 そして、プロデューサは私の助けを必要としているのだ。

「雪歩、お前が考えたチーム名。俺は好きだよ」
 私もです、といったとき、自然と頬がゆるむのを感じた。


◆◆◆

 ぴしゃり、と自らの両頬を叩く。
 ほんの少しだけ肌寒くなってきた。湿度も低くなっている。空調を調整しよう。負けないために。勝つために。

「戻りましたー!」
 大きな声で真君が戻ってきた。明らかに人数以上の本数を抱えている。千早ちゃんはやっぱり動じずに、組んだ左手の人差し指でリズムを取りながら楽譜の確認をしている。

 そんな2人に、精一杯の、心からの笑顔を送る。
「真ちゃん、ありがとう。千早ちゃん、真ちゃんが買ってきてくれたからお茶にしよう?」
 まだ、何が出来るかはっきりとはしていないけど、諦める事だけはしない。私は信頼されているし、私も信頼している。
 そしてなにより、私はこの2人が大好きなんだ。

 萩原雪歩、20才。
 私がこのサテライトガールズのリーダーだ。