「私が決めました」

「誰にも迷惑をかけなくて、みんなが幸せになれる」

「これはそんな選択肢です」

「最善の妥協点です」

「私が、決めました」


「……それで、君は幸せなのかい?」

「君にとっては、一番の幸せなのかい?」


「わた」

「私」

「私は――」



TORI TORI TORI




「雪歩ちゃんの様子がおかしい?」
 朝の目覚めが寒さから始まるようになってきた季節。事務所内の暖房が昼夜問わず働き続ける季節。寒空に雪がちらつくのも珍しくない。そんな季節。
「はい。なんか、時々物思いに耽っているというか。いつもは普段通りなんですけど、気を抜いた時に遠くを見るというか」
 小鳥さん、何か知りませんか? そう真ちゃんが言いにくそうに口を開く。その後ろで千早ちゃんも心配そうな目をしている。
 結成されたばかりのトリオだというのに、メンバーにこれだけ心配されているのだから、彼女は幸せなリーダーだ。そして、この子達も幸せな後輩だ。
 ふむ、と椅子の背もたれに体重を預け、足を組む。……腰にぴきりと電気が走った。いたい。――いや、気のせいだ。私はまだ若い。
「またボクらが変なことしちゃったのかなぁ、とか」
 真ちゃんが伏し目がちにそう言うと、千早ちゃんは心外だとばかりに腕を組んで憮然とした表情をした。
「ら、って私まで混ぜないでちょうだい。どうせまた真が考えも無しに適当な事を言ったりやったりしたんでしょう」
「いってないしやってない!」
「ほらまた考えも無しに返事した」
「考えてる!」
「……もしかして、アナタわざとやってるの?」
 被せるように即答した真ちゃんに対して、千早ちゃんは呆れた顔をした。
「何の話さ」
「なんでもないわ。真はとっても頭が良いのね。私、びっくりした」
「よくわからないけど、喧嘩売られているのかな、ボクは」
「あら、今頃気づいたの?」
「千早ぁ!」
 あーはいはい、と手を叩いて止めさせる。この2人は放っておくと、いつでもどこでもいつまでもじゃれあっている。さすがは女子高生だ。
「「じゃれあってません!」」
 ……声に出てしまっていたらしい。最近こういう事が多い気がする。年を取るって怖、いや、なんでもない。
「それで、小鳥さんは何か知りませんか?」
 期待するような真ちゃんから目を逸らすようにして、ふむ、と顎に指を添える。そこまで最近雪歩ちゃんを注意して見ていた訳ではないので、ちょっとわからない。というか。
「プロデューサさんは何か言ってなかったの?」
 そもそもただの事務員である私には専門外だ、そういう話は。
 すると真ちゃんが居心地悪そうに身をよじる。えっと、その、と要領を得ない。
「私もそう言ったんですけどね」
 それまで後ろにいた千早ちゃんが前にずずいと出てくる。
「もしプロデューサと萩原さんの間柄に関係する何かだったら聞きづらいとか、よく分からない事を。真が」
 首筋を赤く染めた真ちゃんが、まだぶつぶつ言いながら胸の前で手を合わせている。
「いや、その、ほら。ねぇ」
 あぁ、そっちの意味。それなら何を言いたいかはわかるけど、まぁそれはないだろう。持っていたペンをくるりと回す。
 ――今更この期に及んでそんな可愛らしいやりとりをするような二人であるならば、私だってこんなに気をもんだりはしないのだ。
 そんな自分勝手な欲求不満を胸に、今はラジオの収録に向かっている二人の姿を思い浮かべる。いい絵ではあるけれども、ただそれだけの絵だ。萌えというか、若さというか、そういうものが足りない絵だ。
 私の懐疑的な姿勢を打ち消すように、だってだって、と真ちゃんが両腕を振り回す。
「ほら、もうすぐクリスマスですし」
 そういって、真ちゃんはぴしりと壁に掛かっているカレンダーを指さした。

 ――あ。


 ― ―


「誕生日ーーっ!?」
 私は手帳を確認しながら頷く。そういえば、そうだった。失念失念。いくら若くてもこういう事はあるある。ペン先で頭をかきながら、あははと枯れた笑みを浮かべる。雪歩ちゃんの、えーっと、21才の誕生日だ。
「うわぁぁぁ絶対にそれだよぉぉ。みんな気づいてないから寂しがってたんだよ!」
 真ちゃんは何か叫びながら頭を掻き毟る。この娘は本当に感情表現がストレートな娘だ。ちょっとばかしすれた大人の私にはそれが眩しく見えてしまう。
 けれど千早ちゃんは冷静にそれを眺めているだけ。どうしたの、と問いかけると。
「あ、いえ。誕生日を祝う、という習慣がよく分からなくて」
「お祝いした事ないの?」
「……昔は。遠い昔は、ありましたけど」
 目を伏せてしまった千早ちゃんに、私はなんて声をかけて良いのか分からなくなる。それでも何か、大人の義務感のようなものを感じて、口を開く。
「千早!」
 が、そこに割り込んで、私たちの話をまるで聞いていなかった真ちゃんが飛び出す。そして、両手で彼女の肩をつかんで真っ正面から見る。
「ま、真?」
「お祝いしてあげよう」
 そのまま前後に千早ちゃんをゆらす。
「サプライズだよ。先パイのためにサプライズパーティをしよう! なんならクリスマスパーティを一緒にしたっていい!」
「だから、私よく分からなくて」
 千早ちゃんは迷惑そうな声をあげる。それはさっきまでの親しさの混じった言葉ではなく、はっきりと拒絶の意志を含んだものだ。しかし、けれど、やっぱり真ちゃんは相手の言葉を遮るように、大声を上げた。
「分からないならボクが教えて上げるからー!」
 泣き出しそうな勢いで、やろうよーと叫びながら、千早ちゃんの肩をいっそうゆらす。
 がくがくと揺れる千早ちゃんの顔が、呆然とした後、少しだけ微笑んだように、そう見えた。
「――そうね、そこまで言うならやりましょうか」
 だけど、そう言って真ちゃんの両手を払った時の顔は、やっぱりいつもの不機嫌そうな顔だった。
 よぉし、と2人はさっそく近くの机を陣取り、計画を練り始める。可愛らしいカラフルな筆記用具を取り出し、事務所内に散らばっていた不要な書類の裏紙にぐりぐりと絵やら文字やらを書き連ねていく。
 おそらく雪歩ちゃんが落ち込む理由は別にあるのだと思うのだけど、私はあえて何も言わなかった。なんだかとても暖かい気持ちになってしまったのだから、仕方がない。その弛む口元を隠すように、コーヒーを一口飲む。
「あ、もちろん小鳥さんも手伝って下さいよ!」
 突然の名指しに、持ち上げたコーヒーを降ろせずに目を丸くしてしまう。
「わ、私も?」
 当たり前じゃないですか、とこちらを見るのは真ちゃんだけでなく、千早ちゃんまで何をそんな当たり前なことを、と言いたそうな目をする。もちろん、別に嫌なわけではないけど、かといって自分から喜んで参加するような立場でも年齢でもないのだ、私は。
「いや、ほら、そういうのは若い人だけで」
「他の人にそういう風に言われたら怒るくせに、こういうときだけ……」
「音無さん、もうあなたは共犯者です。いまさら逃げないで下さい」
 二人がじとっとこっちを見る。私はあははっと笑いながら照れを隠すようにコーヒーをずずっとすする。こんな年上の私を同年代の友達のように扱ってくれている彼女達。失礼だなって思わなくもないけど、その何倍も嬉しいなと思ってしまう。もう一口、コーヒーを飲もうとして。
「それにほら、あの噂」
「噂?」
 千早ちゃんが胡散臭そうに真ちゃんを見る。
「昔の話。小鳥さんがアイドルをしていたっていう。ボク、聞いたことあるんですよ。だからアイドル仲間としてもって」
 カップを口につけたまま固まる。
「……なにそれ」
「あ、千早は知らないかな。候補生の間で噂になったことがあってね。なんかちょっとリアリティがあってさ。昔はそれはそれは有名なアイドルで。でも諸事情でアイドルを止めなくちゃいけなくて――。あ、ここにもすっごい泣けるラブロマンスがあったっていう話で。聞きたい?」
「興味ないわね」
「そう。じゃあまた今度暇なときに教えてあげるよ。でね、色々紆余曲折あって、引退の日が来た。でもスーパーアイドルの彼女は世間みんなに顔を知られてしまっているから普通の職場じゃ働けない。なので事務所の計らいによってこの旧社屋で、一般人と顔を合わさなくてもいい事務の仕事をしている。いや、むしろ旧社屋というのはその彼女を隠すためにこそ作られた制度なのだ!」
「……どこから突っ込めばいいのかしら」
「で、僕たちも気になっちゃって。事務所に昔からいる人達に聞いてみたんだけどさ、誰も知らなかったり教えてくれなかったり。旧社屋七不思議でも一番人気がある話の1つだよ」
「似たような不思議が後六つもあるの……?」
「ま、残りも追々教えてあげるからさ。ね、ね、小鳥さん本当のところはどうなんです?」
 波も渦もない、真っ黒なコーヒーをじっと見つめる。水面は静かで何の変化もない。だから飲まずとも見るだけで安心できるのだと、彼は言っていた。
「小鳥さん?」
 ――そんなコーヒーばかり飲んでたら、お肌までコーヒー色になっちゃいますよ?
「おーい」
 彼は、そんな私の言葉になんと返事をしただろうか。もう、どんな声だったのかさえおぼろげだ。私の名前をいったいどんな声で呼んでいただろうか。私の、名前を――。
「小鳥さーん?」
 目の前に、黒真珠みたいな真っ黒な瞳が二つ。はっと息をのんで身を仰け反らせる。いつの間にか真ちゃんが私の目の前にまで来ていたらしい。千早ちゃんの方を見ると彼女も心配げな様子をしている。
「大丈夫ですか、音無さん?」
「えっ――あ、うん」
 二人の伺うような視線から逃げるように、真っ黒なコーヒーを一息に飲み下す。ほうっと一息をつく。そして。
「こらっ」
「あいたぁっ!」
 マグカップの底で真ちゃんの頭を小突く。……軽くね?
「なにするんですか」
「なにするんだはこっちの台詞です」
 カップを机の上に置いてその手を腰に当てる。
「あのね、女性の過去をそんな無闇に詮索するもんじゃありません。それもこんな美人で妙齢な」
「自分でいいますか……?」
「ほらそこ千早ちゃんも」
 腕を組んで足を組んでふんぞり返る。
「それにさっき千早ちゃんも言ってたけど、突っ込みどころがありすぎです。なんですかラブロマンスって。あるなら私の方が教えて欲しいぐらいよまったく。そもそも、自慢じゃないけどね。休日に私が町中を出歩いても、声をかけてくるのは胡散臭いアンケートのおばさんとティッシュ配りのお兄さんだけです。サインや写真どころかナンパの1つもありゃしません」
 じろりと真ちゃんを見る。彼女はばつが悪そうに顔をそらした。
「……ごめんなさい」
「わかればよろしい。あと、これ以上変な噂を広げないこと」
「はい……」
 真ちゃんはすごすごと千早ちゃんの元へ戻っていく。
 まったく、誰がそんな噂を流すんだろうか。迷惑な話だ。本当に、迷惑な話だ。
「真、あなたはもうちょっと他人の心を気遣う事を覚えるべきだわ」
「……その台詞は世界で一番千早にだけは言われたくなかったよ」
 二人はいそいそと計画の続きを進める。でもその手はさっきよりも遅い。さっきよりもちょっと空気が悪くなってしまって、申し訳なくなってくる。
「もちろん手伝うわよ」
 えっと二人がこっちを見る。
「監督する大人は必要だしね。プロデューサさん一人じゃちょっと頼りなさ過ぎるわ」
 二人の顔がぱっと明るくなる。
「あっ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
 ありがとうだなんて言って貰う資格は私になんかなくて、どちらかというと、私の方がごめんなさい、ありがとう、と言うべき何だけど。申し訳なくて照れくさくて、コーヒーを飲んでごまかすことにする。……そういえばもう飲んでしまったんだっけ。
 二人はさっきのように、いや、先ほどよりも賑やかに話し合いを進めていく。私もその後ろからちょいちょいと口を挟む。きっと雪歩ちゃんが喜んでくれる、いいパーティになるだろう。間違いない。
「でも、これならもうちょっと人数が欲しいわね」
 千早ちゃんが髪を払って、顎に手をあてる。そうねぇ、と再び手帳に目を落とす。
「あ、珍しい。律子ちゃんが時間空いてるかも」
「って事は…………伊織とやよい!」
「も、空いてるんじゃないかな」
「ボク、ちょっと呼んでくる!」
 言うか言わないか、真ちゃんがトナカイもビックリな勢いで部屋から飛び出していった。なんというか、切り替えが早いというか、あんまり何も考えてないというか。それが彼女の良いところで羨ましいなと私は思うのだけども。千早ちゃんはそれを見送った後、ため息をついて立ち上がった。
「音無さん。あの三人は今どこに?」
「そろそろ営業から帰ってくる頃かな」
「じゃあ、真を捕まえてから迎えに行ってきます」
 雪歩ちゃんにばれないようにね、と手を振ると千早ちゃんはこくんと頷いて、部屋から出て行った。少しだけその足取りがいつもより軽く見えたのは、気のせいじゃないと思う。
「やっぱり私には若さが足りないのかなぁ」
 と、そんな独り言を呟いてしまうところが、若さが足りないなによりの証拠だ。
 首を伸ばして二人が書き込んでいた紙をのぞき込む。上の方で一番目立つように置かれているのは。
『HAPPY BARTHDAY YUKIHO !!』
 色彩豊かなペン使いで、そんな文字が躍っている。時系列も何もかもむちゃくちゃな予定表に、ケーキが食べたいだの、出来るだけ大きいのだの、流すべきBGMだの、しっちゃかめっちゃかにコメントと矢印が入り乱れている。余白には、可愛らしくデフォルメされた似顔絵が、3つと1つと。
 そして、もう1つ。
 不意にまた緩みそうになってしまった口元を慌ててひき結び、手に持っていたペンで『A』の文字を消して、『I』と訂正した。そこだけ黒い文字なので、なんだか水を差してしまったようで申し訳なくなってしまう。かといって上から色を足したらもっと汚くなってしまうことは目に見えている。それくらいがわかる程度には、私は大人なのだ。
「なんてね」
 とりあえず、五人分の暖かいコーヒーを用意する為に、腰も軽く私は席から立ち上がった。


◆◆

「音無さんに聞いた俺が間違ってました」
 そういって大きなため息をつく彼に、後ろを振り向いて憮然とした視線を肩越しに送る。
「なんですか、それは。何が言いたいんですか」
「音無さんに、若い女の子がほしがるプレゼントについて相談しようだなんて考えた俺が間違いだったって、そう言いたいんです」
「しっつれいなー」
 溜まったフラストレーションを手元のキーボードにかたかたとぶつけ、足りないゆとりを口に咥えたゼリー飲料からずずっと吸い取る。
「私は欲しいけどなぁ、ギフトカタログ」
「結婚式の引き出物じゃないんですから……」
 見慣れた事務所の見慣れた昼下がり。他の同僚達は、みな昼食をとるために席を外している。イマイチ進行のよろしくない仕事をなんとか午前中に納めた――という事にしたくて彼と私だけがこうやって背中合わせでパソコンとにらめっこをしてロスタイムに挑んでいる。平日なので所属しているアイドルの娘達もほとんどおらず、このとても落ち着いた空気の所為で気を抜けば眠ってしまいそうになる。なので、眠気を覚ますために――かどうかはわからないけれども、こうやって同僚の相談事に乗ってるわけだ。本当に私って出来る女だなぁ。
「一番無難ですよ。失敗がない。安定感がある。十代の頃は宝石とかアクセサリとかにキラキラした夢を見ますけどね。もう20を超えたら安定感。これです」
「だから音無さんと一緒にしないで下さいよ。相手は現役ばりばりの女子大生ですよ?」
「私だって現役ばりばりのOLです」
 ふふんと得意げに鼻を鳴らす。
「つまりね、結婚と同じなんですよ。昔は白馬にのった王子様が迎えに来てくれることを夢に見ます。少し立つと、白馬には乗ってなくとも王子系のイケメンが迎えに来てくれないかななんて想像します」
「妄想ね」
「同じ意味です。で、次は、やっぱり白馬みたいなロールスロイスに乗っているような王子系お金持ちが良いな。まぁ顔の方は金持ち度合いによっては平民レベルまで我慢しましょう、ってな感じに」
「上から目線ですね」
「そう、そうなんです。十代ってのは基本的に上から目線なんですよ。しかし、この資産と顔面偏差値の比率がだんだんと崩れていって視点が下がっていき、最終的にはカローラに乗った公務員に落ち着くわけです」
「音無さんは公務員と結婚したいんですか?」
「一般論ですよ。場合によってはお腹の出方も目をつぶります」
「やっぱり上から目線じゃないですか……。俺は嫌ですよ、雪歩がお見合い写真そっちのけで年収の部分だけ見比べていたりしたら」
 確かに、その光景はちょっと嫌かもしれない。もうあの歳だし特に夢見がちな娘って訳じゃないけれど、かといって現実全部を受け入れて生きていくほど人生経験を積んでいるわけでもない。きっと彼女にも、何かしら夢見がちな妄想が、夢見がちな夢があるはずだ。
「でもね、蕪野さん」
 はいはい、と適当な返事が返ってくる。
「雪歩ちゃんはどんなものでも喜んでくれると思いますよ。あなたからのプレゼントなら」
 ちょっと返事が詰まらせてから、彼はため息をついた。
「……二束三文で投げ売りされてそうなありふれた助言ですね」
「真実とは得てしてそういうものです。私はそう思ってます、本当に」
 彼は返事をしなかった。かといって私からも今の助言を押し売りする気は起きなかった。相手がすでに持っているものを売りつけることはできないから。キーボードのスペースバーを秒針に合わせてぱしん、ぱしんと叩き、天井を睨みつけながら咥えたゼリー飲料の袋をプラプラと動かす。
「音無さん、昼食はそれだけですか?」
 ちょっと落ち込んできた空気を変えるように彼が問いかける。
「えぇ。ダイ――美容の為に。蕪野さんは?」
「この後外に出るので、そのときに適当にとります」
「不健康な。体力が一番の仕事なんですから、身体には気を遣った方が良いですよ」
「そんなもの吸ってる音無さんに言われたくないですよ……」
「欲しいなら一つあげますよ?」
 私は三段構えの机の引き出しの二段目をがらりと開ける。今度は彼の方が肩越しにこちらを振り返った。
「うわ……、全部同じ奴ですか……?」
 引き出しにみっちりと詰まったゼリー飲料を見て、彼はげんなりとした声をこぼした。
「私、凝り性ですから」
「ああそうででしょうとも、凝り性なんでしょうね」
「あ、プレゼントはこれでもいいかも」
「……音無さんのその時には、考えておきますよ」
 ま、それは冗談として、と私はまっすぐ彼の目を見つめた。私が珍しく――自分で言うのも何だけど――真面目な雰囲気なせいか、それに押しとどめられるように、彼は元に戻そうとした顔を再びこちらに向ける。
「私はそれでいいと思いますよ」
 にこりと微笑む。私の心からの笑顔だ。
「プロデューサさん。私はね、“それでいい”と思っています。お節介ながら」
 私がこんなに笑顔なのに、彼の顔をぴくりとも動かない。
「確実性と安定感とちょっぴりの向上心。その線が交わる部分よりちょっと下あたりで妥協するのが、大人というものです」
 ね? と肩を竦めて首をかしげる。
「それでいいとか、そこで妥協するとか、そういう言い方はすごく失礼な話だと、俺は思いますけど?」
 数秒の沈黙の後、彼はそう苦々しげに言葉を絞り出した。けれど私はそれを意に介さず笑顔で続ける。
「でも、実際そういうものでしょう?  クリスマスプレゼントにギフトカタログ。結婚相手に公務員。アイドルを恋人にするなら低ランク。自分の身の丈にあった場所で地に足をつけて生きていく。それが長生きの秘訣ですよ。自分のファッションがわかっているのに、わざわざ似合わないコーディネートをする人なんていません。そんな事をするのは、本当はわかっていないか、ひねくれているか、ただの馬鹿です。つまり、子供です」
「もう一度言います。そういう言い方は失礼です」
「もう一度言いましょう。実際そういうものです。そして、あなたはそれがわかっています」
 蕪野さんは口を引き結んだ。言いたいことはいっぱいあるんだろう。その10倍は思ってることがあるんだろう。納得は出来ないけど、理解は出来るんだ。
「あなたはそれをわかっています。そしてあなたは呆れるほど真っ直ぐな人だという事を私は知っています。だから――」
 もう一度、盛大に肩を竦める。――だから、あなたが馬鹿ではないといいなと、そう私は願っているんです。お節介ながら、ね。
「…………すいません、そろそろいかなきゃならないんで」
 ふいと目をそらし、彼は立ち上がり荷物をまとめだした。
 うーん。ちょっとキャラじゃなかったかな。反省。きっとこの暖房の熱気の所為だ。思考能力が奪われて、言わなくても良いことがふいと口から飛び出てしまう。開けっ放しにしていた二段目の引き出しを静かに閉じた。
「あ、そうだ。帰りに折り紙買ってきてくれますか? クリスマスパーティの飾り付け用なんですけど」
 彼はコートを羽織ると、無言でこくりと頷いた。
「雪歩ちゃんには、ばれないようにして下さいね」
 大きくため息をつき、唇をゆがめた。
「隠し事は、得意ですから」
 彼が去っていき、部屋の中には私一人だけになってしまった。がらんとした室内に暖房のうなる音だけが響く。
「なーにが『隠し事は、得意ですからキリッ』なんだか。かっこつけちゃってもう」
 男の子っていくら年をとっても男の子だ。女の子はあっという間に女性に成長するというのに。私は咥えていたゼリー飲料の容器を、7、8メートル離れた壁際に置いてあるゴミ箱へ投げ捨てた。それはいびつな放物線を描き、ゴミ箱にかすりもせず床にぽとりと落ちた。足下にある自分用の小さなゴミ箱を横目で見る。
「ほら、やっぱりこういう事になる」


◆◆


 街路樹の葉っぱはもうずいぶんと落ちてしまっている。冬の寂しいというイメージは、きっとこういう光景から来てるんじゃないかと思う。だからクリスマスツリーは葉の落ちないもみの木なんだ。君がいるから暖かいねって。爆発しろ。
「小鳥さん、どうしたんですか」
 道端で木を眺めながら感慨に耽っていると、少し前を歩いていた雪歩ちゃんが立ち止まり、声をあげた。制服の上に羽織ったコートの襟をなおしながら、ごめんごめん、と言って、でもゆっくりと歩き始める。
 事務所から一番近いこの繁華街まで歩いて20分くらい。でも今日はたっぷり40分はかかっている。出たときにはまだ日が出ていた。夏場ならまだ明るい時間帯なのだけど、この季節だともう日が落ちている。これも、寂しいイメージの理由の一つだろう。
「なんでそんなにゆっくりなんですか?」
「荷物が重くって。ごめんね、わざわざ買い出し手伝ってもらっちゃって」
 いえ、ぜんぜん、と雪歩ちゃんは首をぷるぷると横に振る。それに合わせてニット帽から垂れている耳当てもプラプラ揺れる。かわいい。
 私が彼女を連れ出している今の間、事務所ではサプライズパーティの準備でてんやわんやになっているはずだ。
 隣で私に合わせてゆっくり歩いている雪歩ちゃんの唇から、真っ白な息が漏れる。ため息? と聞くと、首を傾げて愛想笑いを浮かべた。
「この前、真ちゃんと千早ちゃんがね」
「はい」
「雪歩ちゃんの様子がおかしい、って相談に来たの」
 へぅっとおかしな声をあげて、彼女は縮こまった。
「なんで?」
「な、なんでもないです」
「なんでもないことないでしょう?」
 雪歩ちゃんは身をよじりながら私を上目遣いで見る。
「お、怒りませんか?」
 なんで怒るのか。私は笑いながら、マフラーのずれを直した。
「えっと」
 と私の顔をちらりと見てから、申し訳なさそうにもっと小さくなる。
「その」
「うん」
「私、今日、誕生日なんですけどね」
「へぇ」
「その、もう21になってしまって」
 また申し訳なさそうに私を見る。
「年を取ってしまったなぁって」

 …………。

「ご、ごめんなさい!」
 謝らないで欲しい。申し訳なさそうにしないで欲しい。
 というか、私は怒らない。ええ、怒りませんとも。
「何歳で、年を取ってしまったって?」
「ごめんなさいごめんなさいぃ!」

 ― ―

 いつのまにか結構歩いた。事務所まで、あと10分くらいだろうか。
「でも、それはもういいんです。なんか1人で色々考えてたら納得したというか、仕方がないというか、諦めたというか」
 そうだ。そういうものだろう。残念ながらも嬉しくも、私たちの感情とは関係のない場所でそれはそういうものなのだ。納得は出来ないのだけど、理解はしている。それを理解してしまったときは、きっと私は自分の加齢を認めたときなんだと思う。だから、わたしはまだ、だ。ましてやこの娘なんて。
「それはいいんですけど」
 そういって、事務所の方をじっと見つめる。そして、また白いため息を吐く。私はおかしくなってくすくす笑ってしまった。
「ゆっくり歩いてた理由、知りたい?」
「……小鳥さんは、意地悪です」
 唇を尖らせる彼女を見て、私はもっとおかしくなってしまった。
 仕方がない。真ちゃんも千早ちゃんも、嘘をつくのが下手だ。あんなあからさまにクリスマスの予定を聞いたりしていたら、それは気づかない方がおかしい。雪歩ちゃんの『気づいてはいけないものに気づいてしまった』微妙な笑顔といったらもう!
 そして彼女も今日のために予定を空けてくれたのだ。きっと家族や、他の友人達との約束もあるだろうに、二人が計画してくれているであろうサプライズパーティーの為に、彼女にとって一番大切な日を空けたのだ。気を遣わせてしまったのかな、と思ってしまう。でも、よっぽど楽しみにしてくれていたんだろうな、とも思う。
 とにかく今日はパーティーで、みんながうきうきしている。それが唯一の事実だ。
「今、戻ったら、なんですよね?」
 何も返事をせずに荷物をよいしょと抱え直した。
「すっごく嬉しいんですけど、でも気づいてしまったらなんか申し訳ないですし。だから驚いた方がいいかな、とは思うんですけど、演技をするのもなんか失礼な気がするし、そもそも私そういうのは下手だし」
 どんどん尻つぼみに声が小さくなる。
 互いの事を思っているから、互いの悩みを増やしてしまっている。とても、胸が温かくなる悩みだ。
「だから笑わないで下さいよぉ」
「ごめんごめん」
 星の少ない夜空を見上げる。ユニットとしてののデビューから一月ほど。一時期はどうなるかと思ったけど、結果的には成功だった。きっと、これからもアイドルとしての成功を収めていくのだろう。でも、それよりも。
 人として、女の子として、彼女達はこれから成長していくんだなと思うと、私はとても嬉しくなるのだ。
「年を取っていくのも、そんなに悪くない事かもしれないわね」
「そう、なんですかね?」
 うっかり漏れてしまった言葉に、律儀に返事をしてくれる彼女の頭を、ぽんぽんと叩く。
「おっと、電話」
 震える携帯を取り出す。誰ですかと聞きたげな雪歩ちゃんに、参謀役の律子ちゃん、と返事をする。彼女は反応に困って、また俯いてしまう。
「もしもし」
『もしもしー。音無さん、こっちなんですけど――』
『伊織! だからそうじゃないって言ってるだろ!』
『はぁ? そんなだっさい飾り付けなんてしないわよ、恥ずかしい』
『あ! できまし……、あれ? うー?』
『高槻さん、ここはね、こうやって、こう。で、こう。……あれ?』
『秋月ー? お前今日は飲んでいけるのかー?』
『……めんどくさいのでもう来ちゃって下さい』
 携帯を閉じて、彼女の肩を叩く。
「さ、頑張れアイドル。諦めるにはまだ早い!」
 雪歩ちゃんは、寒さでほんのり赤くなった頬を緩ませたのだった。


◆◆


 よいしょ、と一声いれて、真美ちゃんは妹を背負いなおした。もちろん亜美ちゃんの体重が軽いのもあるのだけど、それにしたって逞しいものだ。特にあれだけぐっすり眠ってるとなると、それはまぁ重くなるというのに。
「じゃ、小鳥さん。悪いけどハッチは置いていくね」
「邪魔にならないところになら全然大丈夫よ」
「片付けも、ごめんね。手伝わなくて」
「いいのいいの。まだ蕪野さんもいるしね」
「使い物になるの? 相当酔っぱらってたけど」
 そうね、と苦笑いして、気持ちよさそうに姉の背中に張り付いている亜美ちゃんの頭を撫でる。仕事が終わった後に駆けつけて、さんざんに暴れ回ったと思ったら次の瞬間はこの通りだ。よっぽど疲れていたんだろう。
「んむむ……。ぴよちゃんなら、まだ食べられるよ……ぜんぜん……雪ぴょんも……」
 もにゃもにゃと訳のわからない寝言が涎と一緒に流れてくる。いったい何の夢を見てるのかしら、と笑いながら口元をハンカチでぬぐってあげる。真美ちゃんも申し訳なさそうにしながらも、幸せそうにくすくすと笑う。
「本当にタクシーは呼ばなくていいの?」
「うん、歩きながらちょっと熱冷まして、それから道の途中でひろう」
「ちょっと寒すぎるんじゃない?」
「ほら、私たちってまだ若いから」
 こんにゃろう、と亜美ちゃんとは逆の手で今度は真美ちゃんの頭を押さえつけるようになで回す。真美ちゃんはくすぐったそうな声を上げた。
「でも本当に風邪引いちゃうからね、すぐに拾ってね」
 そうする、と彼女が答える。
「じゃあね、今日は本当に楽しかった。誘ってくれてありがと! 雪歩にもよろしくね」
「こちらこそ、きてくれてありがとう。勉強で忙しいのに」
「ま、そこそこね」
「あんまり気を張りすぎないようにね」
「気を張らないでもなんとかなるような状況と頭を持ってたら、そら張らないけどさー」
 真美ちゃんは気持ちの良い笑い声を上げた。私は、それでもね、といってまた二人の頭を両手でそれぞれ撫でる。
 うん、と一声返し、真美ちゃんは再び後ろの妹を背負いなおす。パステルカラーのスニーカーの踵をきゅきゅっとならしてドアまで駆け寄る。なんだかその背中がちょっと寂しそうで、思わずもう一度声をかけてしまう。
「また遊びに来てね。もうアイドルじゃないけど、変な気とか使わなくて良いんだから」
 ドアを開ける前に、ほんのちょっとだけ足を止めて、頭をぽりぽりと掻いた。
「――なーにいってんの。真美、そんなキャラじゃないっしょー」
 一拍あけてそう言うと真美ちゃんは、二人は飛び出していった。
 逞しいなぁ。本当に逞しくなった、二人とも。二人が二人の道を選んでそれほど時間がたったわけでもないというのに。私はそれを見守るので精一杯だ。
「さーてと」
 ひと伸びしてから片付けを再開する。私だってパーティを思う存分楽しんでもう疲れた。この余韻に浸っていたいし、面倒くさいなぁとは思うけど、明日だってこの部屋は使うんだ。放っておくともっと面倒くさいことになる。
 祭りの後はどこかもの悲しい。楽しさが心の幅を広げてくれた分、それがなくなると広くなった分だけ喪失感になってしまう。あれだけ心を込めて飾った飾り付けが、ただの燃えるゴミなってしまう。それを丸めてゴミ袋に詰め込む作業のなんと心苦しいことか。
 最後のゴミ袋の口を縛って、立ち上がる。腰を叩きながらそこそこ片付いた部屋を見回す。と、そこでようやく、今日のメインゲストが見あたらないことに気づく。そういえば、別室の片付けをお願いしていたはずなのだけど。
 持ち前の出歯亀根性がむくむくとわき上がる。息を潜め、抜き足差し足で隣の部屋へと続くドアへ忍び寄る。静かにドアをあけて、そのソファがある部屋をこっそりと覗く。
 一番手前のソファで、真ちゃんと千早ちゃんが寄り添って寝ているのが見えた。身体には一枚の毛布が掛けられていて、互いに頭を預けるようにして静かな寝息をたてている。起きているときはあれだけいがみ合っているというのに、今はまるで姉妹みたいだ。
 そして奥の方では、すっかり酔っぱらって顔を真っ赤にしたプロデューサがひっくり返って大きないびきをかいている。いくらなんでも、あれはちょっと飲み過ぎだ。そんなに楽しかったのだろうか。大人のくせに。『なれていますからキリッ』なんてかっこつけていた人はいったい何処へ行ったのか。
 そこに毛布を持った雪歩ちゃんが近づいて、彼に毛布をそっと掛ける。そして、彼のあごに手を伸ばし、少しだけ伸びた固い髭を撫でる。そのざらざらとした感触が面白かったのか、眠ったまま迷惑そうに眉をひそめるプロデューサの顔が面白かったのか、雪歩ちゃんはくすくすと笑った。
「ゆ、き、ほ、ちゃん」
 私はにんまりと笑って声をかける。
「あ、はい」
 彼女は軽く返事をして、プロデューサの胸元をやさしくぽんぽんと叩いた。
「今行きます」
 そういってこちらにゆっくりと歩いてくる。
 むぅ。もうちょっとこう、ひゃあ! とか、ちちちちち違うんですぅ! とか驚いてくれたら面白いのに。これではまるで古女房みたいだ。

 ― ―

「今日は、楽しかったです」
 片付けてしまっていた椅子を二脚再び引っ張り出し、向かい合わせに座る。私が差し出したコーヒーの入ったマグカップを、雪歩ちゃんは両手で受け取る。そう、と私は答えながら、余ったウィスキーを自分のコーヒーの上に垂らす。
 雪歩ちゃんがなんとも言い難い顔をするので、私は、ん? と酒瓶を彼女に示す。けれど彼女はぷるぷると顔を横に振った。
「すごい、楽しかったです。嬉しかったです。こんなに、とは思わなかったくらい」
「そうね、私も。まさか雪歩ちゃんがいきなり最初から泣き出すとは思わなかった」
 耳まで真っ赤にして雪歩ちゃんが俯く。私は笑いながらコーヒーを一口飲んで、味を確かめる。今日は色々飲み食いしすぎてもう舌が麻痺してしまっているけど、とりあえず身体は温まる。
「美味しいんですか、それ?」
「飲んでみる?」
 いえ結構です、とまた彼女は首を振った。
「味はね、どうでもいいの」
「アルコールさえ入っていればそれでいい、っていうのですか?」
「それも違うかな。これはね、大人としてのバランスの問題」
 雪歩ちゃんは不思議そうに首を傾げる。私は肩を竦めて、もう一口、ウィスキー入りのコーヒーをすする。
「あ、プレゼントありがとうございます、小鳥さん」
 傍らから一度包装紙を解いたプレゼントの包みを取り出す。
「アロマオイル、ですよね」
「そ。お風呂の中に数滴垂らしてみて。もう一日の疲れなんか吹っ飛んじゃうんだから。雪歩ちゃんに合いそうな香りを選んではみたけど。気に入らなかったら家族にあげるとか、友達にあげるとかしちゃって」
「そんな、大切に使わせて貰います。ありがとうございます」
 彼女はそういってはにかんだ。
 あんな適当なことを言っておいて、なんで自分は普通に抜け目ないプレゼントを選んでいるんですか、とため息をつく彼の姿が思い浮かぶ。私からすれば、してやったり、といったところだ。そういう大切な人へのプレゼント選びについて他人にアドバイスを求めるだなんて、そんな甲斐性のない男に適切な助言なんてしてやるものか。ええしてやらないですとも。
「彼からはプレゼント貰った?」
「はい?」
「プロデューサさん」
「あ、はい」
 彼女はなんとも幸せそうな表情を浮かべ、胸元をそっと握りしめるような仕草をする。けれど私は、あぁいいのいいの、と手を振る。
「何を貰ったのかは聞かないでおく」
「へ?」
「もう今日はお腹いっぱいだし、これ以上は胸焼けしちゃう」
 はぁ、となんだか理解できないような返事をする。
 雪歩ちゃんは、お酒の所為もあってずっと口元が緩んでいる。
 私はカップを置いて、あのね、と口を開く。
「雪歩ちゃんにすごい欲しいものがあったとしてね」
 右手を頭の上くらいまで持ち上げる。例えばブランドもののバックとか、海外の化粧品とか、亜美ちゃん真美ちゃんみたいにギターとかバイクとか。
「けれどそれを手に入れるには、いろいろな苦労がある。諦めたくなる。そもそも苦労した果てに結局手に入れられないかもしれない。そんなの嫌よね。だから――」
 左手を私と雪歩ちゃんの目の前に置く。
「量販店で売られているバック、薬局に置いてある化粧品、中古のギターとバイク。ここら辺で、手を打とうかな、妥協しようかな。それなら確実に手に入れることが出来るから」
 そういうふうに思わない? 私は、この前蕪野さん向けたような笑顔を作る。
 雪歩ちゃんはまだ不思議そうな顔をしたままぼーっと私の手を交互に見る。お酒が入って、しかもこの時間だ。彼女だって眠いんだろう。変な話を振ってしまった自分がちょっとだけ嫌になる。彼のときは全く罪悪感は沸かなかったのだけど。
 私がごめんね、と言って話を終わらせようかとしたとき、ようやく雪歩ちゃんが、あの、と声をあげた。
「あの、ですね。よくわからないんですけど、でも、ですね」
「うん」
「ある人が――その、教えてくれたんですけど」
 彼女は目を閉じて、そっと胸元を握った。
「自分が何をすべきか、自分が何を手に入れるのか。それを決めるのは今の私じゃないって」
 一言一言を大切そうに、紡いでいく。
「例えば私を支えてくれている大勢の人だったり、例えばかけがえのない仲間だったり、例えば昔の自分自身であったり」
「つまり、主体性もなく、他人の言うとおりに従って生きていくって事?」
 そんなのは嫌だ。私は私が決めたとおりに生きてきたい。二番目の引き出しには、ゼリー飲料をしこたま詰めていたい。
「ううん。そういう事じゃないんです」
 そんな私の不満そうな気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「今までの努力の積み重ね、友人達の言葉、そしてなにより私自身の気持ち。そういうものに耳を傾けて、それから目を開いて周りを見渡すと、結局答えは1つしかないんです。上とか下とか、妥協とか冒険とか、そいうものはないんです。今まで歩いてきた一本の道が、これからも続く一本の道です。辛く立って、泣きたくなったって、諦めたくなったって、私に選ぶ権利なんかありません。だから――」
 彼女は目を開いて、にこりと笑った。
「だから、私が選んだものが、私が一番欲しかったものだって、そう、私は思います」
 自分が選んだものは自分が欲しかったものに間違いない。
 自信過剰もここまでいくと清々しい。いや、いつもどこか小心な彼女だ。自信過剰と言うよりは、他信過剰と言うべきか。
 ふん、と鼻で息をつく。
「ちょっと逆説的すぎる考え方ね。結果論よ、そんなの」
「そう、かもしれません」
 私の意地の悪いというか、諦めの悪い言い方に、彼女はあっさり同意した。
「じゃあ、こういう言い方にします」
 雪歩ちゃんは、マグカップを机の上に置き、立ち上がった。そして、背伸びをして、私の頭より、右手より高いところに、両手を浮かべる。
「ここに、もう一つ選択肢があるかもしれない」
 ――もっともっと高い場所に。
「それは、とても素敵なもので。下ばかり見ている私には絶対見つけられない。私一人だけじゃ、だめなんです。私は本当にだめだめだから」
 ――一人じゃ見つからない、選べない道が。
「だから、私はきっとこっちを選ぶと思います」

 目をつぶる。
 波も渦もない、真っ黒なコーヒーのような暗闇。水面は静かで何の変化もない。誰かが叫んでもその声は飲み込まれ消えていく。ここに飲み込まれてしまえば、静寂と平穏を手に入れることが出来るのだろう。それはとっても魅力的で、ある種の魔力的な力さえ感じてしまう。何か別の、よっぽど強い力がなければ、それ抗うことは出来ない。
 思い出す。昔、自分が選べなかった道を。自分が選んでしまった道を。
 それは、きっと最良の選択だったと自分に言い聞かせて、言い聞かせて、言い聞かせて。
 そして今振り返ってみて、どうだろうか。
 彼女のように胸を張って言えるだろうか。
 自分が選んだものが、一番自分が欲しかったものなんだと。

 そんなこと、決まってるじゃないか。

 手を戻して、すっかり冷めてしまったウィスキー入りのコーヒーを一口飲む。苦いなぁ。馬鹿みたいな味がする。
「結局、私のただの八つ当たりなのね」
「はい?」
「ううん。プロデューサさんも偉そうなこと言うようになったもんだなって」
「へっ。い、いやプロデューサがそういうこと言ったわけではなくてですね。というか、誰がとも私は言ってないんですけど」
 なにやら珍しく早口でまくしたて、両手を振りながら、雪歩ちゃんは椅子に座り直す。
「はいはいわかったわかった」
 私はマグカップの中身を一息で飲み干した。頭の先っぽがつーんとする。身を乗り出し、片付けてまとめてあった荷物から、ワインとグラスを取り出す。ほい、とグラスを雪歩ちゃんに渡し、ちょっと奮発して買った赤ワインを注ぐ。
「あ、あの私はもう」
「いいからいいから」
 今度は手酌で自分のマグカップにワインをつぐ。
「ほらほら乾杯しましょう」
 マグカップを掲げる。雪歩ちゃんも、慌てて両手でグラス持ち上げる。
「何にですか?」
「もちろん雪歩ちゃんに」
「それはもう十分だと思いますけど……」
「こういう事に十分不十分はないの」
「なら、クリスマスに、とか」
「爆発しろ」
「……小鳥さん」
 じゃあ、とマグカップを両手で持って、改めて掲げる。
「代わり映えのしない、私たちの毎日に」
「こんなに特別な日なのにですか」
「特別な日だから、よ」

 ねぇ、きっともう私のことなんか忘れてしまったあなた。
 終わらない仕事で頭を悩ましたり、同僚をからかったり逆にからかわれたりしたり、アイドルの子達の成長に一喜一憂したり。
 これが一番なのかはわからないけど。
 私は、幸せですよ。


 ――乾杯