「よう、久しぶり」
「はい、お久しぶりです」

 助手席のドアを開けて最初の会話はそれだった。この2週間、別に全く合わなかったわけではない。何回も事務所で挨拶をしたし、2回くらい短いミーティングだってした。それでも、プロデューサのやる気のなさそうな顔を見るのは随分と久しぶりだなと感じる。
 車内から熱気を追い出した後、私はいつも通りにシートベルトを締め、彼はいつも通りに車を発進させた。



-8月第5週-




「それで、どうだった? 電車通勤は」
 ゲートの守衛さんはいつもより機嫌が良い様で、わざわざ道路まで誘導をしてくれた。私が軽く頭を下げると、気取ってキャップを軽く持ち上げて不器用にウィンクをする。思っていたよりも、なかなか陽気な人みたいだ。
「はい、新鮮でした」
「それだけ?」
「えっと、はい。やっぱり人が多いのは苦手です」
 プロデューサがちょっと嬉しそうにしてハンドルを人差し指でとんとん、と叩いた。
「やっぱり移動はこれがいいか」
「はい、専用の運転手がついていますし」
「知ってたか? その運転手はアイドルをプロデュースする事もできるらしいぞ」
「それは初耳ですね」
「そっか、じゃあ言い忘れてたよ」
「3年間もですか?」
「3年間もだな」
「それは――」
 それは、随分と長いなぁ。それだけあれば知っていることは忘れてしまうし、何を知っていたかも忘れてしまうには十分だ。
「――うっかりさんですね」
「まったくだ」
 プロデューサは運転しながら器用に肩を竦めた。
「そして、そのままうっかり、こんな駄目アイドルを見放し忘れていたんですよね」
 ちょっと車のスピードが落ちて、前との車間距離が空く。プロデューサは咎める様に呻き声を上げた。
「雪歩、そういうのは――」
「でも」
 私はそれを制して、胸のシートベルトを親指で弾く。私の貧相な胸の上でぽわん、と間抜けな音がした。
「でも、私もうっかりさんです。ぼーっとして、気がついたら3年です。私が何をやっているのか、すっかり聞き忘れていました」
 私はフロントガラスの向こう側を見ていた。見えてないけど、きっとプロデューサも前しか向いていない。車を運転しているのだから、当たり前なのだけれど。そんな沈黙が久しぶりで、嬉しかった。
「そっか」
 結局、プロデューサはそんな適当な相槌を打った。
「そうです」
 そして、私も。
 車は信号で止まることなく左折し、ゆっくりと大通りへ入った。


 車はマイペースで進む。やっぱり左側で、バスにトラックに自転車にさえ追い抜かれながら。以前より、午後の日差しが柔らかな気がする。まだ強気ではあるけれど、だんだんと秋に近づいているんだ。そっか、もう8月も終わりなのか。
「秋がやってきますね」
「あぁ」
「そしたら、私のラジオも終わりですね」
「あぁ」
「最終回の件、ありがとうございます」
「まったくだ」
「すいません」
「コネというコネは使い果たしたぞ」
「はい……」
 でも、とプロデューサは目を細めて続ける。
「流石に3年もやってればな。色々な人が好意に協力してくれたよ。みんな、雪歩のこと応援してくれるってさ」
「……」
 私は頬が熱くなるのを感じて、顔を下げた。スカートの裾をぎゅっと握る。
「それとな、そのついでに、この前ちょっと言ってたネットラジオのあれも話して回ってみたんだ。うん。スポンサー何とかなりそうだぞ」
 そんな話もあった。
「どこ、ですか」
 彼がぼそっと呟いたその会社は――
「……っ!」
 頭が熱くなる。耳たぶが熱くなる。そして、目の奥の方が熱くなる。
「まぁなんか向こうの弱みにつけ込んだ気がしないでもないけどな。出来るだけ協力してくれるってさ。まぁ、これからミーティング中の茶菓子はしばらくチョコだな。番組内でも宣伝よろしくぅ」
 そっか、私がやってきた事って、少しは意味があるんだ。こうやって前に前に繋がっていくんだ。ぽん、と昔の私に後ろから肩を叩かれた様な、そんな気がした。
「どうだ雪歩。意外と人情ってのも馬鹿に出来ないだろ」
 ――馬鹿にしたことなんてないですよ。そう言おうと思ったけど、言葉にならなかった。
 でも、そうですね。悪くないですね。いい感じです。

 私ははーっと大きく息を吐いて、息を止めた。ごとんごとんと数回車が揺れた。すーっと息を吸いながら身体を持ち上げて前を向く。もう、大丈夫だ。
「はい。じゃあ、期待に添える様に頑張らなきゃ、ですね」
「おう、よろしく」
 プロデューサが強めにアクセルを踏んだ、ような気がする。
 目指すは頂点、アイドルマスター! とか、そこまで考えが変わったわけではないけど。うん、私のことをアイドルだと思ってくれる人たちのためにも、もう少し頑張ってみようかなと、そう思った。
 自分の肩を、ぽん、と強めに叩いた。

 それだけで再び車内には沈黙が降りる。プロデューサはそれから逃げる様に左手を泳がせた。私はひとつ頷いてカーラジオをつける。流れてくる声はいつものアイドルのいつもの番組。楽しそうにリスナーからの手紙を読んでいる。
「噂なんだけどな」
「はい」
「このアイドルといつかゲストに出てた芸人がな、付き合ってるっていう。毎週のリスナーである雪歩さんはどう思う?」
「業界内の噂で終わるのなら、本当で、世間の噂になるのなら、ネタです」
「まったく、雪歩はそっち方面が静かなのは助かるよ」
「ありがとうございます……って言っていいんでしょうか……?」
 プロデューサはからからと笑って膝を叩いた。私も何だかおかしくなってしまって、お腹を押さえる。箱の中には2つの笑い声と、スピーカー越しに陽気を振りまく声が響いた。

「あー、それとな、雪歩」
 言いにくそうにプロデューサが切り出す。
「そのー、なんだ。ユニット組まないか?」
 いつもなら飛び上がるほど驚くんだろうけど、今日はもう十分すぎるくらいに感情が揺れてしまったから、そんな気にはならなかった。
「今な、新人2人で計画してたんだけどさ、どうも不安でな。経験豊富なアイドルにまとめて欲しいんだ」
 こんなタイミングで話を持ち出すんだから、空気が読めてないのに読んでしまっている人だな。
「何歳ですか」
「15と16」
「平均年齢が急に上がっちゃいますね」
「……で、どうかな?」
 私は視線をサイドガラスに移す。向こう側に透ける逃げていく夏の日差しと、近づく秋の風。そして、そこに映る私の表情は――

「そうですね、それも良いかもしれません」