-8月第2週-



「はい、というわけで萩原雪歩がここまでお送りしました。やっぱり今年の夏もどんどん熱くなってきましたね。みなさん、熱中症には気をつけて下さい。小さい子やお年を召した方はもちろん、私は若いからーなんて思って油断するのが一番危ないですよ。この前、私の大学でも倒れちゃった娘がいました。外で大祭の大道具を作ってたらしいです。無理してはダメですね。私もよく気合いで頑張ろう! って考えてしまうんですが、気合いだけでは危ないですからね。水分、塩分、休憩をまめに取る事、これが大事ですよ。
 え、と、それと、そして、最後にお知らせです。なんとですね、来週はサプライズゲストが登場、の予定です。あはは、今告知してるから全然サプライズではないですね。でも、本当に急な話で、実は私自身もびっくりしているところです。ちょっとまだ確定ではないので……誰なのかはいえないんですけど、期待してて下さいね。私も、とても楽しみにしています」


 ― ― ―

 ゆれる車内で彼がひとつ、大きなあくびをする。
「ガム、噛みますか?」
「いや、いいよ。ありがと」
 そうですか、と私はミントの香りが強い板状のガムをポーチへ戻す。彼は少し疲れた顔をしていて、目の下に隈も見える。さっきの収録中も、スタジオを出入りして、どこかへと連絡を取っていたみたいだ。大変だなぁ、申し訳ないなぁと思うが、それを口に出すと彼に怒られるので黙っておく。代わりに胸の中で一言、すいません、と呟く。
 いつもの細い路地は、珍しく渋滞になっている。どこかで道路工事でもやっているのかもしれない。でもそれくらいは日常に含まれる内の珍しさだ。プロデューサは大儀そうにサイドブレーキを引く。
「雪歩はさ、車の免許はとらないの?」
 いつもは停車しない様な場所で車は止まり、渋滞の先はとてもじゃないがここからは見えない。
「免許ですか?」
「あぁ。周りとかそうでもないか?」
「そう、ですね」
 大学の友人達を思い浮かべる。そういえば学科の娘の何人かで集まって免許合宿へ行くって行っていた。私も誘われたけど、流石にこんな時期に夏休みはとれないから断ったっけ。
「えっと、だいたい半分くらいの娘はとってますね。男の子は、結構、とってるかな?」
「はは、男は見栄っ張りだからな。俺が学生の頃は、車があれば女にもてるんだって、本気で思ってたよ」
 その言葉に首をかしげる。車を持っているとどうしてもてるのだろうか? お金持ちに見えるから? いや、でも車なんて持ってたらお金がかかるだろうに。
 そんな私の反応をみて、プロデューサは寂しそうに眉尻を下げてこちらを見る。
「あれ? 今の学生ってそんな事はないの……?」
「えっとその、凄いとは思いますけど……。って、前、前見て下さい」
 私は何台か先の車が動き出したのを指さす。おう、といってプロデューサは視線を戻すが、やはりその表情は寂しそうだ。
「そうですね。友達との間で、あいつって便利だよねーみたいな、そんな話にはなりますけど。その、恋愛感情というのはちょっと……」
「便利道具扱い……」
「いえいえ! そういう感じなだけであって、別にそんな、物扱いみたいな訳じゃないですよ! すいません、私の言い方が悪かったです……すいません」
「いいよいいよ。というか、俺に謝ってもしょうがないだろうに。ははは」
 プロデューサは乾いた笑い声をあげる。どうやらいたくプライドが傷つけられた様だ。というか元々あった傷を突いてしまったのかもしれない。私は、言葉や思慮が足らない自分が恥ずかしくて顔を伏せる。
「はは、あっちこっちに借金してまでさ、ぼろの中古でさ、結局は就職するときに二束三文で売り払うっつうのにな。……本当に男は見栄っ張りだよな」
 自虐をしている様で、でも何となくそこには自慢げな含みも感じられた。本当に見栄っ張りだなぁ。
「えっと、そうですね。学生の内にとってしまいたいとは思いますけど」
「何が?」
「免許」
「あぁ、そうだ、ごめん」
「いえ、はい、とりあえず今はあまり気が乗らないです」
「なんとなく?」
「はい、なんとなく」
 ふむ。と彼は息をついて左手をカーオーディオに伸ばす。いいですよ、といって私がラジオをつけて適当に周波数を合わせる。
 耳障りなノイズの後、ポップなジングルがスピーカーから零れる。綿菓子が夏の日差しで溶けた様な声。またあのアイドルか。リスナーからのメールを読んでいるが、不自然な話題のつながり方が耳につく。編集が多めに入っているなぁ。
「双海姉妹がな」
「亜美ちゃんと真美ちゃんですか?」
「ああそう、亜美真美。あいつ等は2人とも免許とってたぞ」
「へぇ」
「なんか次の企画で必要だからとか何とか」
 2人とも私なんかよりずっと忙しいのに。大変だなぁ。
「でさ、あいつ等は別々の自動車学校に行ったんだけどな。そしたら何故か真美だけ二輪の免許も合わせて取ってな」
「はぁ、そういう事が出来るんですか」
「そうそう。でさ、なんか親と色々揉めたらしいけど、結局、今はなんか可愛らしいバイクを乗り回してるぞ。俺はよく分からないけど、外車らしい。なんか蜂っぽい奴。すげー自慢された」
 今まで真美ちゃんがバイクに乗っているところなんて想像した事はないけど――うん、似合っている。西日射す海岸沿いをとことこと走る真美ちゃんと揺れる髪留め。いや、ヘルメットがあるから髪留めは見えないのか。とにかくそんなイメージだ。
「真美ちゃんだけですか?」
「そう、真美だけ。ははは、あんなに頬を膨らませた亜美は初めて見たよ俺」
 確かに、そちらの方も簡単に想像できる。頬袋一杯に餌を貯めたハムスターみたいになった亜美ちゃんを想像して思わず吹き出してしまう。
 車の動きはとてもゆっくりで、時折、自転車があっさりと私たちを追い抜いていく。前の車のブレーキランプは何度も点滅する。これなら歩いた方が速いんじゃ――あ、ウォーキングのおばさんに追い越された。
「雪歩は最近あいつ等に会ってないのか?」
「そうですね……ゴールデンウィーク開けぐらいの頃に三人でお茶しました」
「そうなの? 知らなかったなぁ。何処で?」
「いえいえ、事務所内でです。あまり時間もありませんでしたし」
 もちろん彼女達が、だ。進学をせずにアイドルに専念している彼女たち。スケジュールはパンパンなんだろう。自由な時間だってきっとわずかしかない。けれど、その少ししかない自由な時間を私とのお茶に当ててくれる。本当にいい娘達だ。友達で良かったな、と本当にそう思う
「なんだ? ニヤニヤして」
「だから前を見て下さいってば」

 大通りに出ると、渋滞は綺麗になくなった。底の抜けた砂時計みたいだなと思った。さっきまで前後で寄り添い合っていた砂粒は、何事もなかったかの様に風に吹かれて離ればなれ。きっと二度と会う事はないだろうし、もし出会っても、互いの事は気づかないだろうし、気づこうともしない。そんな事には何の感傷も抱かない。当たり前だ。
 そして私たちの乗る小さな車は国道3車線の一番左側をとことこ走る。どんどん右から車が追い抜いていく。時々は左からバイクが追い抜いていく。きっと私が運転したら、追い抜く事も追い越す事も出来ずに、周りに合わせて走ろうとするんだろうな。たぶん、そんな気がする。
 ラジオからは元気の良い声が、これからのイベントの予定を報告している。私でも参加した事のあるイベントがいくつかあって、ちょっと懐かしくなる。残っている思い出は、失敗談ばかりだけど、今では笑い飛ばせる。まぁ、それは、私の中だけであって、他人に話して笑い話に出来るほどではないけれど。膝小僧をデニムの上から左手でちょっと抓った。
「あのさ、雪歩」
 私はぱっと左手を膝から放して右を向く。
「あのさ」
 彼は申し訳なさそうに口を開こうとするが、次の言葉が出てこない。あぁ、あのことか。私はすぐに察して苦笑いをする。別に私にそんな顔する事ないのに。
「やっぱりダメでしたか」
「――ああ、ダメだった。言い訳みたいだけど、ついさっきまでなんとか粘ってたんだけど。ダメだった。取りつく島もない」
 私はふぅん、と視線を前に向ける。
「そうですか」
 あのチョコレート好きだったのにな。
 
 ここ数年、あるチョコ菓子のイメージキャラクターをしていたが、それが突然降板になった。先日のミーティングでの突然の話だ。今年はイメージを一新して新しい客層を得たいそうだ。本当に突然で、プロデューサの顔が真っ赤になったり真っ青になったりして、ちょっと面白かった。もちろん契約上の問題が色々あって、それを盾にプロデューサが色々かみついた。だけど、そこは大人の素敵な交渉があったのだろう。彼の訴えは製菓会社にも、私たちの事務所にさえ届かなかった。
「だって、糞っ、俺たちに何の話も通さずに……」
「やめて下さい」
「ごめん」
「やめて下さい、なんでプロデューサが謝るんですか」
「俺に、力がないから」
「だからやめて下さいってば」
 あまりに彼が申し訳なさそうな様子なので、私まで申し訳なくなる。
「きっとこの件で損をしている人は誰もいませんよ。そうなんですよね?」
 彼は言葉を飲み込む。どういう交渉がなされたか知らないけれど、きっとそれは、いくつもの優秀な頭を付き合わせて、メーカーも、事務所も、そして私たちもが損にならない様に必死に妥協点を探したものだ。そこに悪意なんてない。彼の無言がその肯定だ。
「……そうかもしれないけど、でも、雪歩は」
「私の露出が減るくらい、仕方ないです」
 win-winの関係なんてあり得ないから。
 でもまぁ、あまりにイメージが定着してしまっていたから、しばらくは製菓業界の仕事は来ないだろうなぁ。もしかしたら食品全体が厳しいかも。
「でもほら、その分の時間が増えるわけですし、新しい仕事が出来ますよ。それに、ほら、下世話な話ですけど、ギャラは十分すぎるほど入るんですよね? 飲みに行きましょうか。私、奢りますよ」
 うん、残念会だ。雰囲気の良いお店と美味しいお酒。悪くないじゃないか。思わずゆるむ頬を押さえる。
 プロデューサは返事をせずに、ぎゅっとハンドルを両手で強く握った。表情は、見ないでおく事にした。
 ラジオから流れる声はアイドルではなく、天気予報士の声に変わっている。比較的に小さい番組なのに――だからなのか、細かい所まで丁寧にユーモアを交えて天気の説明をしている。もしかしてこの人もアイドル出身だったりして。

 天気予報からアイドルへマイクが戻ったとき、プロデューサが口を開いた。
「雪歩はさ、なんでアイドルになりたいと思ったのかな?」
「へ?」
 急に予想してなかった質問をされて、口から変な音が漏れる。
「いや、そのさ、失礼な事言うけどさ、最近の雪歩を見てるとなんか――」
 プロデューサはハンドルの上で人差し指をトントンと叩く。
「やる気――はあるのは分かるんだけど、目指している物というか、夢というか……あぁもう!」
 そういってプロデューサは片手で頭をかきむしった。
「とにかくさ、何か思う事はないか?」
 そういってプロデューサは口を真一文字に引き締める。車のスピードが、少しだけ上がった様な気がした。

「はぁ……」
 私はそんな風に見えるのか。驚いた様な、納得した様な。そんなつもりは全くなくて、ごく普通に仕事をこなしているつもりだったけど。自分には分からないところで自分は変わっているのかもしれない。
「えっと……」
 ちょっと今までの自分を省みてみる。私がアイドルになった頃。あの頃は――。
「16才」
「うん」
「高校一年生の時ですね。私がアイドルになったのは。はい。あの頃の私は凄いと思います。ダメダメな自分を変えたくて、小さい頃からの憧れであるアイドルになりたくてこの業界に飛び込みました」
 そういえば小さい頃は思ってたはずだ。アイドルって凄いな、可愛いなって。私もなりたいなって。
「うん、自分で言うのも何ですが、私、勇気ありますね。びっくりです。
 それに後……」
 ちょっと恥ずかしくなって顔を下に向ける。
「その、周りに対する優越感とかもありました。私はアイドルなんだぞー。もう働いてるんだぞー。みんなとは違うんだぞーって」
 あの頃は、失敗して泣いて、失敗して泣いて、時々成功してまた泣いて。いつもいつも泣いていた気がするな。
 ダメダメな私はやっぱりそこでもダメダメで、他の人よりも候補生からデビューするのに時間がかかった。だからその所為だろうか。デビューが決まった頃には、あぁ私デビューするんだ、って特に感慨もわかなかった。それまでにこなしてた小さな仕事が少し増えるんだろうなくらいしか思わなかったし、実際の所も、そうだった。
「……うん」
 プロデューサはラジオの音量を下げるとその先を促した。
「それで、それで今は?」
 私は目をつむり必死に『今』を考える。
 街路樹が日差しを遮ったりしなかったりして、まぶたの裏で光が何度も点滅を繰り返す。
「私、成人式に行ってきたじゃないですか」
「ああ、地元のだろ」
「はい、そこで昔の友達に結構あったんですけどね」
 お仕事が少なかったので、成人式に出席する事が出来たのは、果たして喜ぶべきなのかどうかはさておいて、顔も忘れてしまった様な友人との再会は心振るわせられる物だった。
「もう、本当にみんな変わってて。すっごい仲が悪かった二人が結婚して子供が二人いたり、男の子だったはずの子が女の子になってたり、…………もう、この世にはいない友達がいたり」
 まぶたを開けると、そこにあるのは先ほどと何も変わらない真夏の午後の麗らかな日差しだった。
「本当に、みんな色々変わってて、私の知らない所で色々あったんだなぁって」
「……それで?」
「いえ、ただそれだけです」
 私は少しだけ助手席の窓を開ける。むわっとした、容赦ない熱気と、大音量の蝉の大合唱が車中へ流れ込む。――あぁそっか。もう、夏なんだっけ。知っていた事を、今初めて気がついたような気がした。