「えっと、そんな訳で、私からいえるのはそんなところですね。どんどん熱くなっていって大変だとは思いますけど、頑張って下さい。私も応援しています」
 ミキサー室にいるディレクタへ、ガラス越しにちらっと目をやる。手でぱぱっと合図が送られ、部屋の奥の方を指さす。そこにあるのはこのスタジオには部不相応な大きいソファ……で大口を開けて寝ているプロデューサ。私はマイクに入らないように口元だけで笑ってから手元の資料をめくる。
「はい、じゃあ今回はここまでですね。皆さんの疑問質問提案相談、なんでもお待ちしております。どしどし、メールに葉書、送ってきて下さい」


 水を一口飲んで息をつく。熱くなった喉に優しく水が流れて気持ちが良い。ブースを仕切るドアが音を立てて開き、、そこからひげ面のディレクタが顔を出す。
「お疲れさん、今日も普通にほどほどで。っていったら不味いか。いやーこっちとしては本当に助かるというか、とにかく良かったよ」
 お疲れ様です。と座ったまま頭を下げる。片手をひょいっと上げてディレクタはミキサー室へ戻っていく。入れ替わりでプロデューサが顔を覗かせる。
「雪歩」
 私は視線を戻して机の上の荷物をまとめる。
「お疲れさん。よかったよ。いつも通り、安心してみていられた」
「そうですね、あんなにぐっすり眠れるくらいですから、相当安心されてたんですね」
「……あはは」
 プロデューサが身を譲り、代わりに入ってきたスタッフさんに頭を軽く下げてからブースを出る。迎えるプロデューサは両手を合わせて私を拝んできた。
「いや、本当にごめん。一生の不覚だ。いくら雪歩が安心だからって気抜きすぎだった」
 私はわざと頬を膨らませてプロデューサを睨む。……ちょっと子供っぽすぎるかな?
「今は色々と忙しいって言うのは聞いてます。新しくアイドルをプロデュースするんですよね? でも、それはそれ、これはこれです。担当アイドルがブースの中で孤独に戦っているというのに、ひどいです」
「あぁ、いや、ほんとごめん。この通り」
「気をつけて下さいね。さもないと私、とんでもない事口走ってしまうかもしれませんよ?」
「それは勘弁して下さい」
「……ふふっ」
 演技が苦手な私はそこで耐えられずに吹き出してしまった。それでもプロデューサは相変わらず拝み続ける。私は笑ってしまって、やめて下さいよぉ、と肩を叩く。と、その肩が震えている事に気づく。なんだ、プロデューサも笑っているじゃないか。
「おーい、お二人さんも、仲が良いところ悪いけど、ちょいと来てくれるかい?」
 2人でくすくす笑ってるとディレクタから声がかかった。はいっと声を上げて、これまたこのスタジオには似合わない巨木から切り出したような長机へ向かう。ぱしっとプロデューサが私の頭を軽く叩く。私はそれを笑顔で返す。もう、彼が担当プロデューサになって3年目だ。こんなやりとりだって普通に出来る。
 私の苦手なモノは犬と男の人。という事になっているが、流石にこの年になれば両方ともなれてきた。今はあまりそのネタは使わない事にしている。
 三代目の担当プロデューサである蕪野さんとはもう3年のつきあいで、うちの事務所としてはかなり長い方だ。プロデューサとしては中堅どころ。まぁ私がアイドルヒエラルキーの縁の下を支える大多数のアイドルのうちの1人だという所から察して欲しい。
 そう、この前互いの三十路、二十歳を称え合って2人だけでパーティー(という名の飲み会)を開いたのだけれども、あれは中々面白かった。色々と珍しい話も聞けたし、傑作だったのが途中から事務員の――いや、話がそれた。
 とにかく私たちは、適当に頑張っても上に届かず、かといって足をすくわれても転落するほどの高さではない場所で、ふわり、ふわりと生きている。



Radio Time


-8月第1週-




 かちちっとクーラーの風量を調整する。ぬるく、曇った匂いのする風が車内にながれる。
「よしっと、ベルト締めろよー」
 私は手慣れた動作で助手席のシートベルトを締める。
「んじゃあ、とりあえず、事務所に帰るぞー」
 プロデューサの白い中古軽自動車が軽いエンジン音を上げる。そのままのろのろとラジオスタジオの地下駐車場から走り出す。
 駐車券を取り出すついでに、カーオーディオを適当にいじる。じゃりじゃりとした音の後、適正周波数よりも若干ずれて選曲されたその番組は芸能ニュースを垂れ流す。北欧を中心に活動している世界的有名歌手が今年中にも来日するのでは? しかもなんとその理由が、日本に恋人がいるからだ! という情報を週刊誌がスクープ。名前も知らないアイドルとゲストらしいお笑い芸人がその検証をしているそうだ。興味もないので聞き流す。もったいつけて検証とか、噂とか。本当にただの噂だったらいくらラジオでも訴えられるに決まってるじゃないか。
「わざわざ海外からネタを引っ張ってくるかねー」
 彼は気怠そうにぼやく。
「そうですね。とりあえずの話題作りとしては良いんじゃないですか?不況不況で暗いネタばかり取り上げられる今ですから。日本以外からの明るい話ならきっとすんなり受け入れられますよ」
「いやでも、あい、どーも。お疲れ様でーす」
 出口のゲートを開けてくれた守衛さんに軽く頭を下げる。とても暇そう。きっと、定年後の再雇用なんだろうな、せめて道路への誘導くらいしてくれてもいいのに、とどうでも良い事を考えた。
 車は細い路地に出て、とりあえずはのろのろと近くの国道を目指す。午後の麗らかな日差しがガラス越しに私の膝の上に横たわる。どこか寄るか? と聞かれたので私は首を横に振る。
「だからほら、海外からの人気が高まってさ、国内のアイドルいらねーって状態になったらさ」
「なりませんよ」
 私はあんまりな考え方にくすくすと笑ってしまった。
「外国の人に対しては、憧れはあっても親しみはわきませんから。日本のアイドルっていう職業は日本人だけですよ」
 だから代わりに外国では売れませんけど、と小さく付け加える。前を走る車のブレーキランプが信号に合わせて灯る。ゆっくりと車は止まり、ウィンカを上げる。私はかちっかちっという規則的な音に合わせて首をゆらす。プロデューサはそれを見てくすりと笑い、CMに入って音量が上がったラジオのつまみを調整する。
「それはそうだけど、なんつーかそれ以前にさ」
 プロデューサはハンドルの上で組んだ腕にアゴを載せてぼーっと、点滅する歩行者信号を見つめる。
「わざわざかわいそうじゃん。海こえたところで見せ物なんてさ。ほっといてやれよって思わないか?」
「……? 仕事ですよ? プロデューサ。一応業界人なんですから、そんな元も子もない事言わないで下さい」
「……このように国内では、雪歩が年々と可愛げがなくなっていくしな」
「うぅ、ごめんなさい。ちょっと調子に乗りすぎました」
 信号が青になる。前の車に合わせてそろそろと発進する。
「いや、いいさ、言ってる事は正しいんだし。そうだよなお前もこいつも、仕事だもんな」
 プロデューサはこつんこつんとカーオーディオを叩く。CMが開け、2人組は最新のヒットチャートランキングを話題にしている。たぶんこのアイドルの曲が上位に入っているんだろう。そこでなにか一芝居打つのかな? そればかり気にしてるようで、アイドルはあまりMCに心が入っていない。そしてそれを芸人が必死にフォローしている。
「プロデューサ、私たちのお仕事は世間の皆さんに夢を送る事ですよ」
 私は揺れている首を止め、プロデューサへ顔を向けてにこりと笑う。
「雪歩、満点」
 車は大きく左へと曲がり、国道へ入っていった。

 しばらく、車中は言葉もなく、車は左側の車線をたらたらと走る。何台もの車が力のない軽を追い越してどんどんと前へ行くが、相変わらずこの車はマイペースだ。ゆらゆらと目的地へ漂っていく。特にこの後は仕事はないし、少なくとも私には急いで戻る理由なんてない。戻ってミーティングとレッスンだ。ミーティングで話し合う事柄なんてほとんどないけれど。
 少し傾きかけた日差しが前から射すので、私はグローブボックスからサングラスを2本取り出す。1本を運転席へ差し出すが、プロデューサは左手で軽く制する。私はこくんと頷き、少し考えてから――結局2本とも元に戻す。プロデューサが肩を竦めた様な気もするが、私は気にせず姿勢を元に戻し、ぼーっと前を、というか、どこかを見つめる。
 ラジオはリスナーからの手紙を読み始めた。アイドルは肩の力が抜けたのか、用意してあった解答に自らのアドリブを加えて饒舌に答えていく。芸人はそれに適度に突っ込みを入れている。
「そういえば、来週はあそこでミーティングかな?」
 プロデューサが思い出したように呟く。あそこ、私がイメージキャラクターをしているチョコ菓子、その製菓メーカーの事だ。私の数少ない固定された仕事の内のひとつ。世間の人が私を知っているとすれば、まず間違いなくこの仕事経由だ。
「はい、そうですね。そろそろ冬のマイナーチェンジの時期ですしね。ちょっとだけ、例年よりも遅めですけど」
「そーだなー、お前からもなんか意見いえよー? 俺からだけじゃ弱いんだから」
「で、出来るだけ、がんばりますぅ」
 とはいっても、きっと私からの意見は通らない。向こうには販売戦略を熟知したプロが何人もそろっているのだ。いったい私の意見が何の役に立つというのか。それに、もうこんな時期なのだ。きっとだいたいの要旨は決まっているんだろう。私たちのやる事は、その確認。
「うん、頼むぞ」
 プロデューサは口をつぐみ、両手をハンドルから離さず、ぼうっと前を向いている。
 私も彼も口には出さないけれど、でも何を考えているか分かる。来週の予定はそれだけだって事。あ、このラジオもあるけれど。それ以外は何にも予定無し。
 夏はアイドルのかき入れ時だ。日本全国津々浦々でイベントをやっている。それこそ人員が足りなくて、ひよっこアイドル一掴み幾らでかき集められるくらいに。なのにこの時期これだけゆっくりしているという事は、私の実力不足なんだろう。プロデューサに聞けば、俺の能力不足だっていうんだろうけど。たいして名前の売れていない成人アイドルの現実はどうなのかなんて、私だって分かる。
 まぁ、いいさ。誰が好きこのんでこの貧相でちんちくりんな身体を水着で見たがるものか。そもそも名前が表すとおり私をもっとも売り出せる季節は冬なのだ。自分でも着物姿はそこそこ似合ってると思うし、おそらく年をとったら美人になるタイプだ……であって欲しいですぅ……。あと、去年の新年、成人式シーズンはかなり頑張ったのに、正月休みをたっぷり取れたというのは秘密だ。とにかく、私はそういう風に長期プランで生きていけるはず。そう自分に言い聞かし、ため息をつく。
 ラジオからは私の気持ちを知っているかのように、今をときめく超人気トップアイドルの紹介をしようとしている。一応、同じ事務所だが、話をした事もなければ会った事もない。
「雪歩」
 プロデューサがラジオの音量を落として、私に声をかける。
「は、はい」
「あー、その、あのラジオ番組、結構長いよな」
 急に話しかけるから何の話かと思ったらただの雑談か。私は少し微笑み、人差し指を顎に添えて中空をみる。
「そうですね、プロデューサさんが担当になってからずっとですから、わ、もう丸二年ですか」
「そうかー長いなー」
「そうですね、スタッフさんの入れ替えはいくらかありましたけど、ずいぶんとあの枠をもらってますよね」
「なー、普通ありえないぞ、そんな事」
 プロデューサは目を細めて口元を緩めた。きっと私もそんな表情をしている。
「でもこれだけ続けば逆に終わりづらいですね」
「あぁ、おばあちゃんになっても続けてくれ」
 私はさっき想像した年を取って美人になった自分をブースに座らせてみた。うん、なかなか様になるじゃないか。
「80くらいまで続ければ、70年間かー。ギネス記録は何年間だろ?」
「その時はプロデューサさんは90ですか。そこまでいくと年の差があんまり意味がなくなってきますね」
「どっちもおしめが必要な要介護老人だな」
 もうやだ、といって私はプロデューサの肩を軽く叩く。プロデューサも片手で運転しながら応戦してくる。
 最近の私は、この、事務所とラジオスタジオの往復が全てだ。
 この仕事はプロデューサが担当になってすぐにとって来た仕事だ。確かその時は1クールのみの契約だったはずだ。最初の頃はなれなくて、もう何もかもがぼろぼろで、何回も取り直した。当たり前だ。ラジオのゲストには呼ばれた事はあったけども、MCだなんて、考えた事もなかった。新鮮味がなくなった味気ない本放送を聞いて落ち込んだ。ブースの中で泣いてしまったことも一回や二回ではない。
 今はどんな状況でもきっと対応できる。よくメールを送ってくれるリスナーは名前を見なくても誰か分かる。ネタにしたりもするけど、身内ネタに走りすぎないように気をつける。怖くてしょうがなかった熊みたいなディレクタとも仲良くなった。スタッフの女の子とは仕事以外の話をよくメールする。スタジオはもう何がどこにあるか自分の部屋のように分かる。
 そういう風にやっていたら、業界の隙間を縫うようにして、何故かこんな長い間続いている。固定リスナーはそれなりについているといっても、局内で比べてしまえば看板どころか中堅さえ危うい知名度だ。
 仕事があるときもないときも、ラジオだけは外した事がない。
 そして、この道を。毎週末、もう何度たどっただろうか。晴れの日も、雨の日も。仕事のある日も、ない日も。親と喧嘩した日も、仲直りした日も。プロデューサがだらだらと運転する隣で、私はいつもぼーっと時間を過ごしている。事務所に出没する野良猫とか、流れの速い雲と遅い雲の違いとか、コンビニに売っている雑誌の品揃えとか、たまには、仕事の事も、そんなどうでもいい事ばかり話している。そうして、時間は過ぎている。良くも悪くもない、私の日常だ。
 車は相変わらずゆっくりじっくりと走っていく。