悪と物質文化の発展について 3


明主様御講話 「悪が必要だった」 (昭和27年8月1日)

「今「文明の創造」を、以前に書いたのをよほど訂正して書いてます。

病気は、必要があって神様が病気になるようにして、そうして弱らせるようにしたということを書いてます。

で、キリストの言った禁断の木の実は薬のことです。

禁断の木の実をもって悪を発生したということがバイブルにある。

で、薬によって悪を発生したのです。

ですから禁断の木の実は悪なのです。

もうその時分に、神様はちゃんと知らせてあるのです。


だから、人間から悪をなくするには、薬をなくす・・・悪の発生は薬によるのです。

つまり薬毒は霊を曇らせるから、霊が曇るから動物霊が人間を自由にする。

こういうわけなのです。悪が必要だったのですから、神様はうまいことをやったのです。

神様が人間を瞞した・・・だから、神様が瞞すのだからうまいに違いない。

私は、神様は今まで人間を瞞したのだ、本当はこうだということを書くのです。

そういう悪は不必要だ、だからして悪をなくさなければ本当に幸福な世の中はできないということを知らせる。

ということは、そうするとつまり悪というものは、神様に瞞されてできたものだということは、今までは知らせてはまずいからで、

そこで今度は悪の必要がなくなった、悪があってはかえっていけないという時期になって、初めて知らせるのです。

だから今まで、善悪一致だなんて言ったが、それは真理だったのです。

そういうことを今すっかり書いています。

私も驚いたのですが、書きかけるとドンドン出てくる。

共産主義もいろいろ騒いでいるが、共産主義の根本は悪だから、悪がもう少し必要だからそれで共産主義に走っている。

しかしもう長いことはない。共産主義というものはもう数年くらいのものです。


今度の「文明の創造」はつまりエホバの聖書なのです。

キリストが作ったのは、自分は天の父の子であるとしてバイブルを書いた。

だからその聖書というのは伜(せがれ)のバイブルです。

今度は親父のバイブルです。

だから息子だからして善性だけだった。

そこで悪のほうが解らなかった。

親父のほうは善と悪と両方作ってあるから、そこでその関係がすっかり分かるわけです。

で、親父が悪を作ったのですが、悪があんまりのさばりすぎるから、

少し・・・ある程度にしておかなくてはいけないというので、

それで、息子の・・・キリストを出して、それで悪ののさばりを防いだわけです。

それがキリスト教です。

それから娘のほうを・・・お釈迦さんは娘のほうみたいですが、それを出して、

悪のために非常に苦しむから大いに慈悲を施すということをして、人間を慰められたわけです。

しかし悪をなくすることはできない。

どうしてもある程度文化を発達させなければならないから・・・。

だから聖書のほうは、何をするなかれという非常に厳しい正義を説いている。

キリストの内部を説くというと、結局修道院に入るよりしようがなくなる。

キリスト教のごく徹底した人は非常にー清教徒といって禁欲一点張りです。

キリストがそういう・・・まあキリストの性格です。

それでああいう風になったわけです。

ところが仏教のほうの難行苦行というのはキリスト教のほうとはまるっきり違うのです。

禁欲主義というのは、あれは先にも書いた通り仏教の建て前ではなかった。

難行苦行するのはバラモン教のほうです。

バラモン教によっていろんな神通力やそういったことを・・・そういう一つの能力を生んだ。


今しがたラジオで聞いたが、今度英国の学者が皆寄って一人のインド人を試験した。

そのインド人は目隠しして町中を自転車に乗って回ったというので、

そこでそんなことはないというので学者が大勢寄って、

目にゴムみたいな物を当ててその上にセメントか何か塗って、その上に布か何かで絶対に見えないようにした。

そうすると少しの間座っていたけれども、まもなく室内を歩き始めて、

ドアを開けてドンドン行く、そうして門の所にある自転車に乗って町の中をドンドン十分間回って、そうして帰ってきた。

それが科学ではどうしても解らないというのです。

そのインド人はまだ若いらしいようだが、聞いてみると生まれてからそういった目の作用が普通とは違っていた。

ところが自分はインドのバラモンの行者で・・・何とかいう行者の名前で・・・

そこに行って十年間とか十何年間とか修行してそういうふうになったということを言っている。

それはバラモンの行者から修行受けると、そういうふうになるわけです。

いろんな能力があるわけです。

しかし、その修行というのは、断食したり山にこもったりして、いろいろやるわけです。

これはキリスト教のほうでいう禁欲生活とは根本的に違うわけです。

仏教のほうはそういう点はよほどゆるやかなのです。

そこでお釈迦さんは「嘘も方便」と言って、ある場合には嘘を吐いても良いというが、

キリスト教のほうでは絶対にそういうことはならんと言う。

だいたい釈迦、キリストなんていうのは、そんなような性質だということを話したわけです。


そこでメシヤ教のほうは、そういう意味のことをみんな包含しているのです。

そうしてその中心の柱というものが真理なのです。

それは、人間なら骨です。

メシヤ教が骨とすると、キリスト教なんか筋みたいなものです。

そうして仏教が肉と皮膚みたいなものです。

それに、今までは夜の世界であったから、それ以上はどうしようもなかった。

で、だんだん昼の世界になりつつある。

この頃は著しい奇蹟が多いでしょう。

お蔭話なんか読むと、ずいぶん素晴しい破天荒のがちょいちょいあります。

これは、それだけ霊界が明るくなってきたわけです。

治り方もだんだん良いでしょう。だんだん良く治るでしょう。

今まで一時間かかったのが三十分で同じくらいの結果がある。

しかし、その代わり信者や資格者や何かで浄化が起こる人もずいぶん出てきます。

昨夜聞いたけれども、信者でもないのですが、ブラジルのほうの日本人だと思うが、

長い間夜尿症か何かで、私の本を送ってやったが、御神書を読んだだけで夜尿症が治ってしまったというのです。

今にそういうふうになります。「栄光」でも「地上天国」でも、ああいうのを読んだだけでもたいていの病気は治ってしまう。そうなります。」




明主様御講話 「神は文化発展のため薬で人間を弱らせた」 (昭和27年9月5日)

「それからこれは「文明の創造」の一駒で、先にも話したことがありますが、はっきり書いてみたのです。ちょっとおもしろいですから読ませます。

(御論文「文明の創造 救い主と贖い主」発表)


これから医学を説くのですが、これは医学を説く前提の理由なのです。

ただ「悪」はいけないとか「医学」がいけないとかいうだけでは人は納得しないのです。

やっぱり今までは必要であって、今までは人間を弱らせなければいけなかった。

なにしろ百歳以上まで作ってある人命をだんだん弱らせて、

とうとう今は大体平均六十歳くらいでしょうから、約半分に寿命を縮めたのです。

それでみんな病気で苦しんでアップアップやっているわけです。

ですからこれだけ文化を進歩発展させるために何千年もかかって人間を弱らせたのです。

ちょうど寿命半分まで弱らせたのです。

もうこれ以上はいけないのです。

いけないのではない、必要がないのです。

そこで神様はこのくらい弱らせておいて、

今度は元作ったように百二十歳まで生きるという人間に立て直すわけです。

その根本を分からせるのがメシヤ教の使命なのです。

だからそこをあくまで分からせるように書くのです。

ところがそこまではみんな分かっていないから、

今までは一生懸命に医学に齧りついてやっているのですが、

本当のことが分かれば、危なくてかわいそうで見ていられないのです。

そうかといって、むやみにそういうことを言っても、かえって気違い扱いにして逆効果になりますから、

そこで時期といろいろな事情・・・今このくらいメシヤ教が発展して、それから言うと人は耳を傾けます。

昔私が始めたての時分に、そんなことを言うと気違い扱いにして、かえって発展もしないのです。

だから今までは、はっきりと強く言わないで、ぼかしたりいろいろに弱めたりして言っていたのですが、

だんだん社会もメシヤ教というものを認めつつありますから、

それにちょうど合うくらいに、医学なんかのことも発表しているわけです。

ですから本当のことを言えば、それはたいへんなものです。

最近はそういうような具合で、だんだんはっきりしてきたのです。

これはそのうちの一つですが、薬について、薬の効能について、はっきり言ったわけです。

(御論文「医学断片集 薬と名の付くものは全部麻薬なり」)


つまりこういう意味です。

今の人間は全部麻薬中毒になっている。

ただふつうの薬は、麻薬のようにすぐ効かないというだけのもので、病気の苦しみというものは、薬を飲むと一時楽になりますから、そこでそれを薬で治るとこう思ってしまう。

治るのは、ちょうど麻薬を、苦しくなるとちょっと注射すると楽になりますが、あの理屈です。

ですから麻薬はすぐ効くが、他の薬は麻薬のようにすぐ効かないでだんだん効くと、こういうわけです。

薬によると少しずつだんだん飲んで、半年も一年も飲んでいる。

その結果麻薬と同じように、いくらか楽になるというわけです。

楽になるということは、溶けかかったものを麻薬で固めるわけです。

ですからそういうふうに説明すると、一番分かり良いと思います。

みんな麻薬中毒になっているから、その麻薬が溶け始めるとそれが病気なのです。

それが分かれば別に難しいことも、なんでもないのです。

患者に説明するのに、麻薬を例にして説明するのが一番良いと思います。


それで今の第三次戦争ですが、これは戦争ばかりでなく、そのころになると病気も非常に増えてくる。

なぜならば、あらゆる浄化が一緒になりますから、そこで人間はどうして良いか分からなくなる。

それが最後ー世の終わりです。それが非常に近寄ってきているのです。

これは今度「栄光」に出しますが、多賀さんの奥さんに、いろいろな有名な坊さんが近ごろ憑ってくるのです。

法然上人だとか伝教大師だとか・・・。そうして「いよいよ仏の時代は終わりになってきた。だから明主様に、自分たちが今まで間違ったことをしてきた、そのお詫をしてもらいたい」ということを、しきりに頼んでいる。

これは本当なのです。今までは間違った考えだったのです。

だから今仏界はたいへんなのです。

しかし最後の足掻き(あがき)ということがありますが、最後の足掻きで活動している仏に関した宗教がありますが、これはしかたがないです。

最後の足掻きをやっている宗教はほとんど狐です。

それから龍神・・・そういった霊というものは、非常にしつこいですから、いつも言う通り決して諦めるということはないのです。

だからそういうふうにみると良く分かるのです。」




明主様御講話 「神様が人間をだましていた」 (昭和28年9月5日)

「医学に対しては始終いろんな角度から批判していますが、いくら書いても後から後から出てくるのですから、内容によほど種々雑多なものを含んでいるのです。

これも今までの見方と違った見方で書いたのですが、つまり医学というものはすばらしい封建的のものです。

ところが今はすばらしく進歩したものと思っているのです。

そこにおそろしい食い違いがあるのです。

ではいったいどこが封建かということを書いたのです。

(御論文「医学封建」発表)


これは「医学革命の書」の中の一項目です。

今読んだとおり医学というものは文明の一部なのです。

それを全部と思ってしまったところに誤謬があるのです。

文明を進歩させる全部と思って、実は一部の城郭に楯籠(たてこも)って、

そうしてその城郭の中に入っていない人間を自由にしようとする、そこにたいへんな間違いがあるのです。

地平線の下にあるのが万物ですから、それはどんなにでも自由にできるのです。

人間は地平線であるからして、地平線の上に人間を救うべきものがあるのです。

つまり地平線が人間とすれば、下に行くほど獣になって行き、上に行くほど神に近くなるのです。

結局最高は神であり、人間は神と獣の間にあるのです。

それで人間を救うというのですから、人間以上の存在でなければ人間を救う資格はありません。

それを今の医学は獣の救いを人間に当てはめようとしているのです。

医学は猿やモルモットや兎や二十日鼠を試験して、それをそのまま人間にもってゆくのですから、

つまり地平線にいる人間としたら、それより以下は獣ですから、獣を材料とするのはあたりまえですが、

それをもってきて人間の病気を治すというのは、およそ見当違いです。

今読んだのはそういう意味のものです。

だからして医学がいかに一生懸命にやっても、ぜんぜん見当違いを一生懸命にやっているので治るはずがありません。

それでは今までなぜそういう愚かなことをやっていたかというと、地平線の上にあるものが見えなかったのです。

見えなかったというよりか、実際は見せなかったのです。

これは実際神様も人が悪いのです。

しかし、見せては神様の方で都合が悪いからです。

これを見せては、今までの物質文化を発達させるに都合が悪かったのです。

どうも人間は、物質文化を発達させるには、神様のような最高のものを見せない方が、物質を進歩させるという精神力は非常に強くなるのですから、神様はそういう手段を選ばれたのです。


しかし神、仏と、宗教は出しましたが、あんまり上のものを出しては物質的の進歩は形式がちになるから、

どこまでも最高の神ということは隠して、二流三流のものを出して、これが神であり、これから生まれたのが宗教だというわけで、

悪く言えば人間は神様に瞞されていたのです。

しかしそれはしかたがないので、そうでなかったらこれまで物質文化は発達しなかったのです。

ですから非常にすばらしいトリックというわけです。

そして今までの人間が神をみる、神観というものも間違っていたわけです。

キリストでも釈迦でもマホメットでも、偉いには違いないが、やっぱり二流三流の地位だったのですから、本当のものはぼかしてはっきりはしなかったのです。

ただそれでよかったのです。

そこで私は宗教では救えないということを言うのですが、宗教で救えれば、今までに天国になっているのです。

宗教があれだけたくさん出ても相変わらず地獄ということは、つまり今までの宗教では救うことができなかったわけです。


これは超宗教でなければ救えないわけです。

そこでメシヤ教というものは超宗教であり、これが初めてできたわけです。

そこで宗教というから他の宗教と同じに見られるのですが、今のところは致し方がないが、いずれはだんだん分かってきます。

そういう意味ですが、それを分からせるのが仕事なのです。

それはなかなか難しいのです。

やっぱり本物のダイヤモンドは今まで見せなかったので、つまりガラスに角度をつけて、これがダイヤモンドだと言っていたのですから、

本物を分からせ、信じさせるということは、なかなか骨が折れます。

しかしその代わり、今までにないような奇蹟や、いろいろなものを見せるからして、信者になる人はそれが分かるから入信するのです。

ですから非常におもしろくもあるし難しくもありますが、

しかしどうしてもこうしなければ、こういう時期を越さなければ救えないのだからしかたがありません。」




明主様御講話 「無神論は緯、有神論は経」 (昭和29年1月6日)

(御論文 「浄霊は科学療法なり」 栄光 二四七号) 

「今読んだ中で肝腎なことは霊と体です。

体にある毒素が霊に写って曇りとなるということは、つまり緯の作用であり、

それから霊の曇りを取ると、それが体に写って、体の毒素が出るということが経の作用です。

だからこの点をよく知っているとよく分かります。

それで緯に写る作用は、つまり体的であるからして、それでは解決はできないのです。

それから経は霊主体従で、霊さえ良くすれば体はきれいになるのだからして、病気は解決されます。

経の作用は霊的作用であり、それから緯の方は体的作用だから悪の作用であり、経の方は善の作用ということになります。


今の世の中は地獄の世の中ということは、緯の文明のために悪が発生するのです。

そして今まで経がなかったのです。

無神論というのは緯で、有神論というのは経です。

だから、つまり緯だけでは体的だから魂がないのです。

経は魂があるのです。

それで経というのは天から地軸まで抜けるのですから、これは大変な力です。

緯だけではそういった経の骨がないようなものですから、そこで本当の文明はできないわけです。

しかし緯がなければ物質文化は発達しない。

要するに経だけでは人類は世界に拡がらないです。

そこで経と緯と両方が必要なわけです。

だからごく昔は経の文化だったのです。

文化というよりも、経の働きだったのです。

それから神様は、物質文化を発達させるために緯の働きをされたわけです。

だからどっちも本当ではないから、経と緯を十文字に結ばなければならないので、それが本当の文明になるのです。

この経と緯を結ばせるのが私の仕事であるし、メシヤ教の仕事というわけです。

だからいろいろな仕事をやるわけです。

農業をやるかと思うと、美術館を造るというのですから、およそ反対ぐらいに違います。

そういうようなわけで、なかなか大変な仕事なのです。

非常に難しいようでいて、また非常にやさしいのです。

このことを知るにはどうしても既成観念があると、邪魔して分かりにくいのですが、

それを捨ててなんにも囚われないで考えてみれば、なんでもなく分かります。

話は学校の講義みたいになってしまいました。」




明主様御講話 「神様のトリック」 (昭和29年3月5日)

「それから薬を解剖してみたのですが、解剖してみると、薬というものはぜんぜん科学ではないのです。一口に言えば迷信です。

「そんな馬鹿なことはあるものか」と、第三者としたら思うわけですが、そういうことを言えないように書いたつもりです。

(御論文「薬剤は科学?」) 


今読んだような具合で、薬というものはぜんぜん科学性がないわけです。

ただ「効くだろう」というわけで、最初動物実験で、服ましてみたり注射してみると、どうも成績が良い。

「では一つ人間にやってみよう」というわけで、人間が第二の実験材料にされるのです。

そうして「良い」というわけです。ところが 「良い」というのが短いのです。

一カ月か半年ぐらい効くと「これは良い」と、売り出したり学界に発表するのです。

ところが、一年も二年も先になって逆効果があるのです。

そうなるとすたってしまうということになるのです。

ところが薬は浄化停止ですから、必ず逆効果になり、効かなくなるということに決まってます。

だから一つ薬が長く続いたということはないです。

それにまだ気がつかないのですから、やっぱり「超愚」の方です。


そういうような具合で、薬というものはぜんぜん科学性はないわけです。

つまりまぐれ当たりを狙っているわけです。

それを、さもさも科学で発見したかのように、ハヤシ立ててます。

やっている御本人自身は実に馬鹿げているのですが、またそれをありがたがって信じる大衆も随分「超愚」です。

そのためによく新聞に出ている「心臓が治った」とか「肝臓が治った」とか、よく発表してますが、

あれらはちょっとした実験の結果良いので有頂天になってしまうのです。

しかししばらくたつと煙になってしまうので、そういうことを年中繰り返しているのですから、実にかわいそうなものだと思います。

つまり、医学ではぜんぜん治らないものを治ったように信じて、ちょっと良いと「これだ」というように思っているわけです。

だからその犠牲になる人間こそ実にかわいそうなものです。

けれどもしかし、それはもう長いことはないです。

ちょうど自然栽培みたいなもので、ある時期が来ると、分かり始めると早いです。


こういう事を知ってなければならないのです。

そういう、人間に害を与えるようなものを、いったい神様はナンデ作ったか、

なぜ今迄人間にそれを分らせなかったかという訳ですが、これは大変な深い意味があるのです。

というのは、物質文明を発達させるには人間を弱らせなければならないのです。

原始時代の、病気もない非常に丈夫ですと、人間はそれに満足してしまうのです。

とにかく神様の目的は、物質文化を発達させて、そうして真善美の世界を造るのですから、

それにはどうしても人間を弱らせなければならないのです。

交通機関の発達も、人間が弱るから発達するのです。

どんなに遠い所へでも、山野を跋渉しても、足が丈夫なら交通機関を発明しようという心も起こらないのです。

文明の発達という事は、前に外国の科学者が言ったように「文明の発達というものは、人間が無精になるから発達するのだ。

何かやるにも億劫だ、面倒くさいというそのために発明や発見が現われるのだ」という事を言っているのを読んだ事がありますが、なるほどと思います。

それには体を弱らせなければならないのです。

だから、体を弱らせるほどいろんな便利な物や、それから美しいと感じる感覚、一つの、神経が鋭くなるとか、あるいはものに感じ易いという事になるので、

それには、体を弱らせなければしかたがないのです。

それで弱らせるには毒を服せるのです。

しかしそれを毒と言ったら人間は服まないから、それを薬に思わせようという神様のトリックです。

薬というものは良いものと思った人間は、神様に瞞まされた訳です。

神様は酷いと思うかも知れないが、しかたがないです。


神様の経綸というものは、人間の、二、二が四とか、二、四が八ではないので、二、二が八にも、二、三が九にもなるのですから、霊妙不可思議なものです。

ところがその為に文化が発達したのですが、今度はこれ以上文化を発達させるとマイナスになるという訳です。

ちょうど、発明発見が進んでいって原子爆弾のようなものが出来たようなものです。・・・

原子爆弾は神様が作ったという事を、娘が霊憑りになって言っていますが、面白いので、今度出します。・・・

そういう様な事で、今迄の人間にはちょっと不思議に思う様な色々な事柄も、そういったような深い意味があるのです。

唯物文化を発達させるために人間を弱らせておいて、今度は薬は毒だという事を言って、反対に健康を取戻す訳です。

それがメシヤ教の一番根本の仕事なのです。


そういう訳だから、薬という毒をどういう訳で人間が服むようになったかという事の根本を話したのですが、そこで薬というものは神様が作ったものです。

その一番の証拠は、薬師如来と言って、観音様が薬師如来に化けられるのです。

そうして大いに薬を奨励した訳です。

もっともその時分には科学はないから、草根木皮を大いに服まして弱らせた訳です。

その観音様が今度は「あれは毒だ」と言うのですから、観音様もなかなか・・・つまり瞞したり本当の事を言ったり、要するに千変万化、虚虚実実という訳です。

観音様はあらゆる面に働きをされる。化けると言う訳です。

そして観音様は悪魔にもなるのです。

馬頭観音というのは悪魔です。つまり動物の働きです。

そういうような具合ですから、人間の智慧やそういったもので分かるという事は難しいのです。


今度の神憑りの中にこういう事があります。共産主義者などに対して、悪の役をするのは随分骨が折れたので、御苦労だったという慰めの言葉もあります。

確かマレンコフなども、神様が御苦労だったと言ってました。

悪を通すとそういうようで・・・

スターリンもそうですが、スターリンは今霊界の最低地獄、極寒地獄にいて、結局六千年苦しんで滅びるという事を言ってましたが、そこは私は○○年としておきました。

そういうようで、悪い事を仰せつかってやっている霊もあるのです。

だから神様のやり方は実に深いのです。」




明主様御講話 「神様は文化発達のため人間を弱らせた」 (昭和29年3月6日)

「結局問題は薬ですが、では神様はどういうわけで、そんな悪い物を作り人間に服ませるのを許していたかというと、これはまた理由があるのです。

前になにかで書いたことがありますが、原始時代は人間が非常に健康で、ぜんぜん病気はないのですが、そうすると文化の発達ができないのです。

どうしても人間の体を弱くしなければならないのです。

その必要から毒を薬として、薬のように思わして人間にウンと服ましたのです。

これは神様の経綸なのです。

人間が健康で、いくら歩いてもくたびれないというのでは、便利な交通機関というものも発達しないし、立派な家も造らないで、つまらない家で「これでたくさんだ」ということになります。

そこでそういったような意味において、文化を発達させるために人間を弱らせたのです。だからこれは必要だったわけです。

神様の経綸というものは、人間が考えても到底分からないものであって、実に深いものです。


私が薬や医学の方をこういうように言うが、薬や医学のような間違ったものがあるために、メシヤ教というものが出て発展するのです。

薬をやれば病人が治るし、医者がやればドンドン健康になるというのではメシヤ教というのは発展しないし、また現われる必要がないのです。

そうするとメシヤ教を発展させたものはやっぱり医者や薬なのだから、それを今悪いことを言うということは非常に矛盾してます。

本当いうと大いに感謝して褒めなければならないのです。

そういうように考えると、神様の経綸というものは実に深いもので、人間の理屈で簡単に片づけようと思っても駄目なのです。

善が悪になり、悪が善になり、ということで、そうして世の中がだんだん進歩発達してゆくのです。

しかしてそれを本当に分かるには、やっぱり見真実でなければ分からないのです。」




明主様御垂示 「霊を信じない人がいる理由」 (昭和24年2月8日)

信者の質問
「人間は神の最高の被造物であるにかかわらず、霊を信じない人があるのはなぜでしょうか。」


明主様御垂示
「これはね、神様が物質文化を発展させるためにいままで霊のことを人間に知らさなかったのです。

ところが現代において文明がある程度発達したので、もうこの辺で人間に霊魂の存在を知らせねばならないことになったのです。

で、私はこれを知らせるという使命を持っているのです。」




明主様と為郷恒淳氏との御対談 (昭和27年10月22日発行)

秋風そよぐ十月四日箱根神山荘の応接間において

為郷氏の発言
「明主様これはどんなものでしょうか。だいぶ前から疑問に思っておりましたことですが、

真理とか、正しい教えとかいうものは、世の中には一つしかないのではないでしょうか。」

明主様御発言
「無論そうです。真理というのは一つしかないのです。」


為郷氏の発言
「そういたしますと昏迷してくることになりますが、これが外国のようにキリスト教一本でありますと、宗教は楽なのですが。」

明主様御発言
「そうです。日本くらい多いのはないでしょう。

これはまったく・・・それが日本の特徴なのです。

その点を言いますと、とにかく日本は、世界のあらゆるものを総合して新しい文化を作るという使命があるのです。

ですから日本には宗教でも他のあらゆるものでも一番数多くあります。

それは芸術でも文学、美術、演芸でもそうですし、衣食住もそうです。

というのは、日本から総合したものができるのです。

ですから真理というのは全般にいくのです。

共産主義とか資本主義とかいうのは真理ではないのです。

それが含まれ最高道徳によって律せられるもの、それが真理です。

そこで宗教も、日本には世界中の宗教が総合されたようなものができるに違いないのです。

それで真の文化というのは宗教が中心です。宗教から哲学、科学となっているのです。

ですからアメリカの文化は結局キリスト教が中心です。

最初ピューリタンがアメリカに渡ってそうして開拓したのです。

そうして宗教が中心なるがゆえにアメリカの文化というものは世界中に非常に共通性があると言いますか・・・

それに対して共産主義というものがしきりにやってますが、あれも必要なのです。

あれも手伝ってやはり本当のものが生まれます。

そうして神様というのは結局善悪両方を作って、それを闘わせて本当に良いものを生んでいくのです。

いままでは、唯物文化が発展する時代だったので、唯物文化が善悪の争いによって生まれたのです。

原子科学も飛行機でもそうです。

ですから悪も必要だったのです。

この見方というのは主神の見方です。

主神は善悪両方とも造ったのです。

ところがいままでの宗教というのは、善のほうの神様だけなのです。

それで善のほうの神様だけでは物質文化はできないのです。

発達しないのです。

ところがそういうやり方は無限ではないのです。

ある時があるのです。

というのは、あまり物質文化が発達したためにそれを悪が利用して、人類を滅亡させるような時代にだんだんなってゆくのです。

そうでしょう、原子爆弾を悪が使ったら人類は滅亡してしまいます。

それでこの辺りで悪を止めるという時が来るのです。それは独り戦争ばかりではありません。

あらゆる面がそうなるのです。

それで私のほうで九分九厘と一厘ということを言いますが、九分九厘まで悪が勝つのですが、

一厘で掌を引っ繰り返すということですが、つまり一厘の力です。

一厘の力というのは物質面の力ではないので見えざる霊的の力です。

この力で悪を押し返して今後は善のほうが多くなるのです。

それで悪はぜんぜんなくなるということはないが、つまり善のほうが勝つのです。

そういう時期というものは、いまなのです。

それでキリストが言った「世の終わり」とか「最後の審判」とかいうのは、いままでの悪が勝っていた世が終わるということです。

それをいま私はすっかり書いているのです。

これは文明の創造という本です。

それを世界中へ配るのは勿論、ノーベル賞審査会にも出します。

各国の著名人にも読ませて批判をさせようと思っています。」















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