ココロノカタチ 暫定まとめ

TS長編小説第二弾のまとめverです 暫定なので少々読みづらいです




 ずっと、ずっとキミが好きだった。  そんな、ありきたりでとてもシンプルな愛の告白が、放課後の静けさを断ち切る。  秋空に浮かんだ夕日が差し込む教室で、俺は告白相手の顔をじっと見つめた。目を見開き、夕焼けよりも鮮明な朱色の顔をして福山雛菊(ふくやまひなぎく)は口をパクパクと動かしている。  長い沈黙を挟み、彼女は大きなリボンでくくった二つの長い髪を振り回すようにして頭を下げた。 「あ、ありがとうございます。ヒナ、嬉しいですっ」 「いや、ちょっと待てぃ」  ろくでもないアドリブで返されてしまった。 「カァーーーーーット!」  俺が頭の中でカチンコを鳴らすと同時に、告白シーンを見守っていた男が椅子から立ち上がり絶叫する。 「福山ぁっ。てめぇ、自分で書いた台本をもう忘れてんのか!」  手を伸ばせば噛み付きかかってきそうな彼の目つきは、相手の防衛本能を働きかけるには十分すぎる鋭さを持っていた。普通の人間より何十倍も凶悪な目つきに凄まれてしまっては、白旗を揚げる以外の手段はない。それがか弱い女の子なら尚更だ。 「あはー、ごめんなさいです。ヒナ、つい……」  だというのに、雛菊はまるでソレを気にした風でもなく、苦笑いで頭を下げている。 「ついじゃねーだろ。ここは、告白してきたカズキを振るシーンだ!」  男は恫喝じみた口調で俺の名を呼び、雛菊のおでこをビシビシとつつく。トサカ頭のツンツンと堅そうな髪は、心なしかいつもよりやや上を向いていた。 「ひぅ、はぅ、にゃうっ」  つつかれている少女は少女で、加虐心を煽るような喋り方でオタオタとしている。  後輩二人のいつもの戯れにこんな評価を下すのはアレだが、その光景は、いたいけな少女を不良が脅している、という風にしか映らなかった。 「まぁ、そんなカリカリするな。ヒナちゃんに悪気がないことぐらい、直哉(なおや)だってわかっているだろ?」 「……そりゃあ、まあな」  直哉は雛菊をつつく手を止め、自分のツンツン頭をくしゃりとする。その顔には、少しばかりの不満が残っていた。彼女のボケ具合はわかってはいるものの、人よりいくらか気性の荒い直哉にしてみれば怒りをすぐ爆発させなければ気が済まないのだろう。  いや。たぶん、それだけが理由じゃない。 「なあ、カズキ。このシーン、俺いらなくね?」 「いやいやいや。俺がヒナちゃんに告白して、振られて、それからお前の登場だから。ハケる理由ないから」  仮にたとえ出番がなくても、他にもやることは沢山ある。総勢四名の演劇部は常に人手不足だった。  それでも直哉は、どこか居心地が悪そうな顔を続けている。 「……お前の気持ちもわかるよ。ヒナちゃんが他の男から告白されるシーンなんて、何度も見たくないよな」 「んなっ」  肩に腕を回して耳打ちしてやると、途端に顔が風呂上りのようになった。目つきの険しさも取れ、あわあわと動揺している。 「し、しつけーなお前も。俺は、福山のことなんざ別に……」  言いつつも語尾は弱々しいし、声の大きさだってガッシリとした体躯に似合わないほど小さくなっている。さらには急に内緒話を始めた俺らを不思議そうな顔で見ている雛菊にチラチラと目をやり出した。  見た目は完璧にヤンキーなのに、少しからかってやればこのざまだ。硬派を通り越して純朴少年のレベルじゃなかろうか。自分より一つ年下だというのが、さらにいけない。つまり、どういうことかというと。  俺、森実一樹(もりざねかずき)は、佐川(さがわ)直哉にすっげぇ萌えている。  オタクくさい単語だが、それ以上しっくりくる言葉が思いつかんのだから仕方がない。俺は男だが、それがどうした。男が男に萌えちゃいかんのかと逆切れだってしてやるさ。 「早く告白しないと、誰かに取られるぞ。いやいや、フられたその時は俺がヒナちゃんの代わりになるから、安心しろ」 「なにその欠片も嬉しくねーアフターケア。……あ、いや、だから、俺は福山なんて好きじゃねぇしっ」  諸君、これが巷で噂のツンデレという奴ですか? 「おふたかたー、ヒナも混ぜてくださいー」 「うっせ、あっち行ってろ!」 「にゃぅっ。ひ、ひどいですぅ」 「……あ、いや、悪ぃ」  ツンデレヤンキーの性か、好きな相手に対しても直哉は凶暴な面を惜しげもなく晒してしまう。普通の女の子だったらとっくに怯えて近づかなくなっていそうなものだが、この能天気そうな後輩は一度だってそういう素振りを見せたことがなかった。  とはいえ、こんな態度を取り続けていればそのうち直哉が彼女に嫌われてしまう可能性だってある。 「意地悪するナオくんなんか、ツーンです」 「拗ねんなよぉ、福山ぁー」 「はぁ……」  自分の好きな相手だからこそ、そいつには幸せになって欲しいと思うわけで。  いっそ、俺が初めから女だったら話は簡単だったのにと。  夕焼けの空を見上げながらそんな願っても叶わないことを胸の中でつぶやいた。  当然、というか言うまでもなく、俺は女の子が大好きだ。健康な思春期男子なのだから、もちろん性欲だって有り余っている。つまり俺は別にホモでもなんでもない、いたって普通の男子学生だ。  ああ。直哉のことは好きだし、自分がもし女だったら間違いなくアタックをかけている。そこは認めよう。しかし俺は男であることをちゃんと自覚しているし、男である以上、佐川直哉と恋人関係になりたいとかそういうことを積極的に思ってはいない。  たとえるのなら友情以上愛情未満が妥当な気持ちじゃなかろうか。  まぁどう言葉を取り繕ったところで、俺がこのツンデレヤンキーに萌えてしまっていることは確かだ。  『萌えの前には倫理観など無力!』と声を大にしていた前部長の台詞をしみじみと思い出す。まさか彼女の引退後にその言葉の意味を噛み締めるとは考えもしなかったが、実際その通りだった。 「先輩、早くリテイクしましょうよー」 「ん、ああ」  過去の思い出に浸っていると、雛菊が芝居の続きを促してきた。  ふいと教室の隅に目をやれば、直哉がひざを抱えてなにがしか呟いている。 「女に嫌いって言われただけだぞ? 慣れっこじゃねぇか、いつものことじゃねぇか……へ、へへ……」  ガタイのいい男が部屋の隅でぶつぶつぶつぶつと。……あの男は、俺を萌え殺す気らしい。可愛すぎる。 「どうしたの、あいつ?」 「知りませんっ」  頬をぷぅっと膨らませながら、雛菊はわざとらしく怒った声を作った。貴重な演劇部メンバーであり直哉の想い人でもある少女だが、あえて言おう。ちょっとウザイ。  自分のことをヒナとあだ名で呼び、無垢っぽい笑顔をいつも見せている彼女は、必要以上に可愛い女を演出しているようでどうも好きになれなかった。もっとも、それらの挙動が無自覚なのか意識的なのかは彼女のみぞ知る領分であり、踏み込むつもりもない。 「せんぱーい? またボーっとしてますよー」 「ああ、うん。なんでもない」 「本当ですか? ……もしかして、私にみとれてました? なーんて」  諸君。この女、ウザくね?  仮に本人が意識的ではないのだとしても関係ないねこりゃ。もう、見慣れた外見すらうっとうしく思えてきた。長いツインテイルとか、それを結ぶ大きなリボンとか、甘ったるい声とか笑顔とか。どれをとっても男に媚びているような気がしてイライラする。  俺、これでもフェミニストのつもりだったんだけどな。 「むー、だんまりですか先輩? ヒナ、寂しいです」 「いや、もっと女の子入らないかなーって、考えてた」 「な、なんでヒナと話をしててそんな考えが出てくるのですかっ」  雛菊タイプ以外の女の子がもっといれば、少しは俺のイライラも改善されるような気がしたからです。という本音はさておいても、実際のところメンバーの増員は切実だった。  二学期に入ると同時に先輩方は俺に部長を押し付けてさっさと引退し、残ったのはたった四人という悲惨な状況だ。このままでは来年の新入生を待たずに廃部、なんて可能性もある。  演劇部に愛着があるわけでもないが、ここが潰れてしまうと直哉と会う機会がぐっと減ってしまう。それは、出来れば避けたかった。 「先輩ってばぁ。はやくテイク2に入りましょうよー」 「うん、でもリテイクする原因はヒナちゃんだからね。少し反省しなさい」 「えへー、すいませんでしたぁ」  まったく反省の色が見えない笑顔を撒き散らされる。…………ホント、フェミニストのつもりだったんだけどなぁ。俺。  手のひらが痛いし、爪は小まめに切っておこうと決めた。 「すみません。遅れました」  俺が小さな決意をしていると、何の前振れもなく教室のドアが控えめな音を立てて開いた。待ちに待った、もう一人の女子部員のご登場だ。 「よ、沙耶歌(さやか)。生徒会に行ってたのか?」 「……ええ」  俺がそう言葉を投げると、セミショートの女の子はつまらなそうな顔で小さく返す。無愛想、というのとも少し違う、他人への興味自体が希薄な印象だった。  表情の起伏も乏しく、相変わらず何を考えているのかよくわからない。子供の頃はもう少し活発だったはずだが、いつのまにやら高瀬(たかせ)沙耶歌といえばこのアンニュイな空気がトレードマークになっていた。中学に上がったあたりから疎遠になっていたため、再会当初は彼女の変わりっぷりにかなり困惑したものだ。 「暗ぇな、副会長」  いつのまにかこっちの世界に戻ってきた直哉は、威嚇するように沙耶歌を睨みつけた。おそらく普通に目を向けただけなのだろうが、威圧的な語調と相まってどうしても悪い風にとらえてしまいがちになる。  だが、不良生徒の眼光一つでどうにかなるようでは生徒会副会長は務まらないのだろう。 「性分ですから」  平坦な口調でさらりと返し、長机に並んだパイプ椅子に着席した。 「あ、あの。また、生徒会長さんに何か言われたのですか?」  沙耶歌の気だるそうな雰囲気をいつものごとく勘違いしたらしい雛菊は、よせばいいのに余計な気を回し始めた。 「会長に?」 「はい。演劇部なんてさっさと辞めればいいのに、とか。いろいろ言われたんじゃないかなーって」  その言葉は確かにあの会長が言いそうなことではある。しかしそれは爆弾同然の台詞でもあった。 「会長の御心がまだ伝わらないのですか、あなたは!」  案の定、沙耶歌はクールらしさなど欠片も残さずに激昂してきた。会長信者がいまの発言を見過ごすはずがないのだ。 「何度でも言いましょう。演劇部員は速やかに生徒会長に隷属し、この部室は生徒会の別室として再利用すべきだというあの方の主張は正しいのだと!」 「あ、あの、えと」  多少ウザイとはいえ、元々がおとなしい性格の雛菊は彼女の剣幕にすっかり呑まれてしまっている。こんな風にキレさせたのは一度や二度じゃないというのに、学習しない子だ。……わざとか? 「え、演劇部を潰してまで生徒会が力をつける必要はないと思うのですが……」 「そう思うのなら、まずは会長を崇めなさい。あの方の礎になる喜びを知るのです」 「ひ、ヒナは会長さん嫌いです」  爆弾愛好家ですか雛菊さん。いや、俺だって別に崇めたいわけじゃないが。 「一樹」 「なんだよ」 「世界一腕の立つ殺し屋を呼んでください」 「呼べねぇよ! お前、俺をどういう風に見てんだよ!」 「史上最低の女ったらし」 「幼馴染にそんな風に思われていたのかっ! 地味にショックだ」 「一週間も続かない恋愛を繰り返す男には、的確すぎる評価かと」 「ぐっ」  なぜか矛先が俺に向けられている。が、言われていることは事実なだけに何も言い返せなかった。  確かに沙耶歌の言うとおり、俺は一週間も続かない恋愛ばかりしている。弁明が許されるのならば、別れては付き合ってを繰り返すようになったのは今年に入ってからだ。  男の俺が直哉を好きだなんて、そんなのはおかしいと自分でもわかっている。だから、いままでは断ってきた女の子からの告白を、とにかく手当たり次第に受け入れて普通に戻ろうとした。  それでもやっぱり、直哉のことばかり考えていて。結果、カノジョからは他の女がいると疑われたり呆れられたり、あるいは俺自身が、どうしても相手を恋人として見ることが出来ず、気が付けば一週間も経たずに別れるのが当たり前になってしまっていた。  そんな男でも好きだという女はたくさんいる。たとえば、本人は隠しているようだが雛菊が俺に好意を持ってくれているのはまず間違いない。  ならば告白をされたら俺は彼女と付き合うのか。直哉が好きな相手と、一週間も続かないからといって恋人関係になることが出来るのか。……そんなこと、無理に決まっている。  では彼女を振ってしまうのかといえば、そういうわけにも行かない。雛菊はこれ見よがしに落ち込み、直哉もまた、自分の好きな女を傷つけた男として俺を見る筈だ。情けない話だが俺は直哉に、どんな形でもいいから嫌わないでいて欲しいと思っている。 「どうしました。何も言えませんか」  沙耶歌の眼差しは冷たい。まさか心を見透かしているわけでもないだろうが、その瞳には傷つきたくないと尻込みする臆病者を責め立てるような冷ややかさが感じられた。  いやな汗が浮かぶのをぐっとこらえていると、思わぬところからフォローが来る。 「せ、先輩は、最低な男なんかじゃありません! ヒナにとって先輩は……先輩は……っ」  ちょっと待て、そこの人工天然娘。もしや、フォローにかこつけて告白する気じゃないだろうな貴様。 「先輩は、女の子にだらしないだけです!」 「プガハッ!」  フォローとみせかけた告白かと思いきや、トドメだった。……油断も隙もないな、大ボケ後輩め。 「……さて、女にだらしない一樹のことは、まぁどうでもいいとして」  俺の心をえぐる行為が、どうでもいいの一言で済まされた。雛菊は雛菊で、さっきの台詞が何のフォローにもなっていないことにいまさら気付いたのか、珍妙なうめき声を上げてすまなさそうに俺を盗み見ている。 「あぅぅ……」  『あうう』じゃねぇよ。人を傷つけたら『ごめんなさい』だろ。別に傷ついてないけど。 「生徒会長から、演劇部の皆さんへ伝言があります」  そういって沙耶歌は、小さく咳払いをして台詞にタメを作った。 「『生徒会のイスは、快適だぞ』とのことです」 「けっ、誰が生徒会なんざ」  両足を机の上に投げ出してふんぞり返る男が、威圧するような声で沙耶歌を睨む。お約束といってはアレだが、とかく不良と生徒会は相性が悪いものらしい。 「会長はこうも言ってました。『不良に用はない』だそうです」 「ハッ、こっちから願い下げだっつうの」 「んー、俺は直哉がいるなら、生徒会でもゲキ部でもどっちでもいいんだけど」 「いますぐ部活抜けたくなった」 「一樹、その手の冗談は人によってはドン引きしますよ」  冗談じゃないんだけどな。 「ひ、ヒナはそれぐらいで先輩を嫌いませんっ」 「あーうん、アリガトー」  できればそういう台詞は黙っていて欲しいけど。  直哉から恨みがましい目を向けられるのは、あまりいい気分じゃない。 「とにかくだ、こっちの返答はいつも通りだよ。俺らは生徒会に興味ないし、来年になれば部員も十倍に増えているかもしれないだろ? 演劇部を見捨てるにはまだ早い」  実際、そのためにいろいろと準備をしている。沙耶歌の登場で中断することになったが、さっきの芝居だってその一環だ。  少人数でもここまで完成度の高い劇が出来るのだと全校生徒に知らしめてやれれば、おのずと部員増強にもつながる。……というのが俺の計算だ。我ながら、やる気のない方程式だと思う。 「……あくまで、会長に楯突こうというのですね」 「ヒナ、会長さんのこと嫌いですから」 「俺も気にいらねーな。あんな野郎、拳一発で言うこと聞かせられるだろ」  後輩二人が勝手に敵対意識を表明してくれた。 「ふふっ……いいでしょう。次の暴言が、戦争開始の合図です」  ぞっとするような笑みで、沙耶歌も何やら静かに熱くなっている。会話という高度な意思疎通の手段を持つ人類がなぜ戦争をやめないのか、ちょっとわかった気がした。 「いやいや、お前ら落ち着け。楯突くとかじゃなくてな、俺の代であっさり演劇部が潰れちゃ先輩達に合わせる顔がないだろ。それだけだ」  もちろん直哉と離れたくないというのが一番の理由だが、さっきの様子を見る限りじゃどうせ冗談としか受け止められないだろうし黙っておく。というか、この場でその台詞を言える勇気がない。 「だいたい、沙耶歌だって演劇部員だ。積極的にここを潰したいわけじゃないよな?」 「………………はぁ」  逡巡。葛藤。そういった思いが込められた、それでいてそんな感情を吹っ切るようなため息だった。 「わかりました。この話はここまでにしておきます」 「あ、ああ。サンキュ」 「お礼の必要はありません」  言葉を締めくくった沙耶歌の顔は、この部室に入ってきた直後よりもどこか疲れて見えた。 「よし、沙耶歌も来たし最初から通して本読みするかっ」  わざとらしく声を張り上げ、芝居の仕切り直しを全員に促す。 「一樹」 「ん?」 「そろそろ下校時刻です。五時以降の居残りは、原則認められていません」 「……あそ」  取り直した気持ちが、くたくたと萎れていった。  俺の幼馴染は、とことんドライだ。  ……とまぁ、こんな感じで一日を過ごしたはずだ。  部活メンバーと一緒に帰るなんてシーンはなく、俺を含め四人ともそれぞれ別々のタイミングで校舎を後にした。道すがら、今日も直哉は男のくせに可愛かったとか、雛菊はウザかったとか、沙耶歌は苦労してそうだったとか。そんなことを考えながら信号待ちをしていたことも覚えている。  断じて言おう。別にいきなり超能力が開眼したわけではないし、宇宙人にスーパーパワーを与えられた覚えもなければ、謎の集団にさらわれて改造された覚えもない。  では、どうして。  俺は「俺」を見下ろすことが出来るんですか? 「……ってかグロッ。俺、グロ!」  なんつーか、足とか腕とかがありえない方向に曲がっていた。アスファルトの上にはどうどうと赤色を撒き散らしているし、目は気持ち悪いぐらい大きく見開いている。  「俺」を取り囲む連中も、見た瞬間口元を押さえて視線を思い切り逸らすのが大多数だった。野郎にはともかく女の子にそういう反応されるとちょっとショックだ。いや、目の前にはそれ以上のショッキング映像がいまだどくどく赤黒い水を地面に広げているわけだが。 「えーと……」  普通なら慌てるべき状況だが、あまりに衝撃的過ぎるせいか、ただ棒立ちになる以外何も出来ない。携帯でどこかに連絡を入れているギャラリーや、歩道に乗り上げて小破した乗用車を唖然と眺め、ようやく、これだけはハッキリさせなきゃならないことを呟く。 「もしかして俺、死んだ?」  答えは返ってこない。  集団の一人一人にも同じような台詞を投げかけてみるが、完全に無視してくれた。だがむしろ、その無反応という反応こそが、質問の答えのような気がしないでもない。 「じょ、冗談……」  乗用車が歩道に突っ込む──よく耳にする事故だが、まさか実際にそれが自分の身に起こるなんてことを考えられる人間が、世の中にどれだけいるだろう。  仮に起こったとして、納得できるはずがない。 「冗談じゃないっ! 俺は……」  直哉と結ばれたかったなんて贅沢な願望を漏らすつもりはないが、せめて、あのツンデレヤンキーの恋路が成就する瞬間を見届けるぐらい、許されてもいいはずだ。それがなんだ、この結末は。男が好きという少し特殊な事情を除けばごく普通に生きてきた俺に、こんな展開が認められるはずがない。 「……うわあああああああああーーーーーーーー!」  血を流し、ピクリとも動かない自分の身体をそれ以上見続けることに耐え切れず。  誰にも聞こえない叫び声をあげて、俺はその場から逃げ出した。  どれだけ走っていたのか。そもそも走っていたのかさえ定かではない移動を繰り返し、ようやく俺は足を止めた。集合住宅の界隈に迷い込んでしまったのか、似たような外観をした20m程の建築物が自分を包囲している。  ムチャクチャに走ってきたせいで、どこをどう行けば「俺」がいた場所に戻れるのか見当も付かない。驚くべきは、そこまでワケがわからないほど無心で走ったというのに、息切れ一つしていないことだった。  いやでも実感してしまう。いまの身体は幽霊であり──俺は、森実一樹は死んだのだと。 「……嫌だ」  死をあっさり受け入れられるほど、俺は潔くなれなかった。思い残したことがないはずがない。もっと生きたいと願わないはずがない。  そんな些細で当たり前のような願いは、絶望に取って代わられた。 「森実……か?」 「え?」  ふいに自分の名を呼ばれ、声のしたほうへ振り向く。自転車を手押しする女性が足を止め、怪訝そうな顔で俺を見ていた。  そう、俺は見られていた=B 「なんだ、本当に森実か」  どこか呆れたようにそう呟き、女性は自転車の脚を下ろす。三つ編みにした長いお下げをしっぽのように背中で揺らし、彼女はまっすぐ俺の方へ近づいてきた。 「部ちょ、あ痛ァ!?」  いきなりデコピンされた。  どうやら見えるどころか触れることも出来るらしい。 「何するんスか、部長!」 「元、だ。演劇部は君に任せたはずだろう」 「そんなこと聞いてません! なんでいきなりこんなマネを!」 「決まっている。除霊だ」 「デコピンで!?」  聞いたこともない霊退治の仕方だった。 「安心しろ。次で終わらせる」 「アンタに情ってものはないんですか!」  部活の後輩が幽霊になっているのに、驚くどころか迷いなく攻撃してくるなんてとても人間のやることじゃない。そもそもこの人に特殊な能力があること自体、聞いたことがない。なのに彼女は手馴れた様子で、こうするのが当たり前だとでも言いたげに、俺の目の前に力を蓄えた指先を差し向けてくる。 「未練がましい霊は生きてる人間に取り憑いたりするからな。そうなるといろいろ面倒なんだ……よ!」 「あぐぁっ!?」  語尾と共に弾かれた部長の指が、俺の額を撃った。なんらかの超能力的なパワーが込められていたのか、それとも単純にその威力が絶大だったのか。  夕暮れよりもさらに暗い景色が、視界を暗闇に閉ざしていく。 「さようなら、森実。嫌いではなかったよ」  ……俺はあんたが、たったいま嫌いになりました。    *   *   *  しとしとと慎ましく控えめな雨の音が、耳を撫でる。幽霊となり演劇部の前部長によってデコピンされるという、えらく刺激的な夢を見た割には穏やかな目覚めだった。  部屋の中は薄闇に包まれている。カーテンの隙間から差し込んでいる光も太陽ではなく街灯のようだ。遠くの空で、今夜中に通り過ぎるはずの雨雲が不機嫌そうな唸り声を上げていた。  机の上に置かれたデジタル時計を見ると、二度寝をするには十分すぎる時間を示している。が、その隣に表示された日付を見た途端、眠気よりもさらに重い気持ちが降りかかってきた。 「月曜か……」  土日は出来る限りこの家から出ず人との接触を避けて過ごしたが、それももうおしまいだ。制服を着て、学校に行き、授業を受けるという、当たり前のようにこなしてきた日常へ戻らなければいけない。  どれも、いまはとても難しく思えることばかりだった。  それでも、やらなくてはいけない。服の着替えについては部長からレクチャーしてもらった。違うクラスとはいえ同じ学年なのだから、授業内容にもついていける。問題なのは人間関係だが、何とかなると思うしかない。  とにかく俺は、可能な限りお前≠轤オく振舞ってやる。 「だから、安心しろ」  二日が過ぎようやくある程度の違和感を覚えなくなってきた自分の声を聞き、ベッドの匂いと、仰向けになることでわずかに感じる胸の重量感にやはり今日も戸惑いながら。 「お休み、沙耶歌」  俺は、今は自分のものでもある少女の名前を呼び、まぶたを閉じた。  高瀬沙耶歌は生徒会の副会長であり、弱小演劇部の一人であり、女にだらしない森実一樹の幼馴染だった。とはいっても彼女が演劇部員になったのは二年生になってからの話で、それまでは生徒会のみに力を尽くしていた。  演劇部に入った理由は誰も知らない。日記でもあればそうした本心に迫れるのだろうが、あいにく最近ではそうした書記活動を行う学生は少数派であり、彼女もまたその一派だった。  本当、世の中はうまくいかないことばかりである。  車にはねられてわけもわからないまま死んでしまった男もいれば、その哀れな男に身体を乗っ取られてしまった女だっている。というか俺と沙耶歌のことだ。  幽霊になったことも、先代部長にデコピンされたことも。気がつくと自分が制服を少しはだけた――おそらく着替え中だったのだろう――沙耶歌の姿になっていたことも、全部、現実だった。 「これが、取り憑くってやつか?」  鏡の中に映る女の姿と向かい合わせになり、男だったときとは比べるべくもない小さな白い手を眺めながらそんなことを呟いた。  取り憑く。憑依。  人間には魂があり、その魂が自分の肉体を離れ別の身体に宿る現象を、そう呼ぶらしい。らしい、というのはその知識は前部長からの受け売りであり、加えてオカルト分野は俺の興味の外だったために話を聞くまで寡聞にして知らなかったからだ。  まさか、そんな自分が幼馴染の女に取り憑いてしまうなんて想像だにしなかった。そうした状況下にいること自体、すぐに理解できるはずがない。  しかしするべきことは決まっていた。むしろ、それしか頭になかったといったほうが正しい。慣れない身体でうろ覚えの道のりを行き、スカートの頼りなさとわずかにかかる胸の重みに戸惑いながら、やっとの思いでついさっき見た集合住宅の界隈に辿り着き。  俺は、彼女と再び出会った。  妙な方面に博識で、幽霊を相手に物怖じするどころかデコピンを決めた先代部長は、まるで俺が尋ねてくるのを見透かしていたように棟の入り口にいた。さっきと違うところがあるとすれば、制服姿から私服姿に変わっているぐらいだ。  腕を組んだその佇まいは、どこか頼もしささえ感じさせる。 「森実」  外見は彼女も旧知である沙耶歌なのに、こちらが何か言う前に部長はまるで当たり前のように俺の名を呼んでくれた。  この人は俺をわかってくれる。生きているときには特に何も思わなかったことが、いまはとても嬉しかった。 「ぶ、部ちょ」  俺の言葉が終わらないうちに、視界が手のひらで覆われる。 「おあらいあたぁっ!?」  間髪いれずに、額が指先で弾かれた。……またデコピンされた。  肉体がある分、食らったソレは幽霊のときよりも強烈な痛みを伴っていた気がする。というか、一応この身体は沙耶歌のものなんだから、もう少し躊躇とかそういうのがあってもいいと思う。 「どうして高瀬になっている。お前は死んだんだぞ? だめじゃないか、死んだ奴が出てきちゃあ」  ひりひりする額を押さえる俺に、本音では絶対に楽しんでいるだろう顔で部長はお説教を始めた。 「望んでこうなったわけじゃないんですが」 「……無粋な後輩だね」  なんでだ。  幽霊状態どころか憑依状態にあっても、この人は俺の存在に気付いてくれた。その慧眼には感謝したいが、やっぱりこういう自由人は好きになれそうにない。 「まぁいい。それで? 迷える子羊よ。お前はどうしたい?」  偉そうだった。 「子羊に躊躇なくデコピンかましたんですかアンタ。……とりあえず、何が起こっているのかさっぱりわかんないんですが」 「帰れ」 「いきなり見捨てないでくれませんかっ!」 「無に還れ」 「消滅しろと!?」  非道い。 「仕方ないだろう、幽霊とは消えるべき存在だ。それとも何か、森実は高瀬の身体を乗っ取り彼女の人生を奪うつもりか」 「い、いや、そんなつもりは」 「できるか? できるわけがない。なぜならお前はチキンだからだ」 「アンタ見え見えの挑発して俺に何を言わせたいんです!」 「女の口から言わせるつもりか? キミは、本当に無粋だね」 「違う! 少なくともそんな頬を染めて言うような色気づいた台詞は出てこない!」 「『ククッ、これからは俺がお前として生きてやるよ』。……いいね。萌えるよ」 「頬染めたままダークな性癖をいきなりカミングアウトしないでくれませんか!」  全っ然、話が進まないし。本当に自由だ。 「冗談はさておき、森実。お前の未練はなんだ?」 「は?」 「これをやらなきゃ死に切れない。そういった強い想いがあると、死んだ人間はごく稀にだが死後、幽霊になる。その想いを成しえたとき、あるいは想いを振り切ったとき、幽霊は心穏やかに¥チえることが出来るんだ」 「はぁ……詳しいですね、部長」 「元部長、だ。受験のため、いろいろ勉強しているのさ」  その知識を活かせるような進学先はおそらくないと思いますけど。  しかし、未練ねぇ……。やっぱり直哉のことか? あの男が幸せになる瞬間を見届けたい。それが心残りで、俺は沙耶歌に取り憑いたのだろうか。  惚れた男のためにこの世に舞い戻り、恋敵のキューピッド役を買うだなんて、我ながらずいぶん健気じゃないか。 「ふむ……頬を緩めてニヤニヤする美少女は萌えるね。中身が男だと知っていても──いや、中身が男だからこそか」  部長は自分のあごをさすりながら、まじまじと俺を観察して妙なことを呟いていた。  そういえばこの人、俺が幽霊だったときは有無を言わさず除霊しようとしていたくせに、沙耶歌の姿のときは普通に会話している。このやり取りを普通といえるかどうかはかなり微妙だが、とりあえず話し合いをする態度は取ってくれていた。 「どうした? 『レズプレイとかしてみたかったんだよな〜、ぐへへ』みたいな目で私を見るんじゃない、このケダモノ」 「言いがかりにも程がある!」 「私は百合もBLもTSもイケるクチだ」 「受け入れる気満々ですねぇ!」  この人、さっきから自分をさらけ出しすぎだ。学校ではもうちょっと大人しかったと思ったけど……。アレか、勉強疲れか。大変だなぁ受験生。 「まぁ、未練を話したくないのなら話さないでいいさ。聞いたら聞いたで面倒だしね。自分で勝手に解決して、一人で勝手に成仏しろ」 「つ、冷たいですね」 「ふふふ、優しさのサービスタイムは終了したのさ」  俺はいつ優しくされていたのだろう。一瞬たりとも覚えのない記憶を無駄とわかっていながら探っていると、ひゅぅっと強めの風が吹いた。 「……風が出てきたね」 「え、あ、ああ。そうですね」  ひらひらと中身を見せびらかそうとするスカートの裾を握り締め、半分ぐらい上の空で部長に相槌を打つ。本当に頼りないな、スカート。 「そろそろ私は行くよ。早くしないと卵のサービスタイムまで終わってしまう」  部長はそう言って話を打ち止めにすると、腕組を解いて歩き始める。雰囲気的に俺を待ち構えていたっぽかったが、別にそんなことはなかったらしい。  しかし自分で解決しろといわれても、どうしたものか。それに沙耶歌の魂はどうなったんだろう。俺が取り憑いたせいで身体からはじき出されてしまったのか、それともこの身体の中で眠っている状態なのか。 「森実」  呼ばれて振り向くと、部長は自転車にまたがり、すぐにでも発進できる体勢のまま余裕ぶった笑みをこちらに向けていた。 「行き詰ったときは私を頼りなさい。アドバイス程度ならしてあげよう……百五十円で」 「有料ですか!」 「同じ部にいたよしみで二回も除霊を試みたんだ。これ以上のただ働きはごめんだね」  労働だったのか、アレ。もう進路は霊能者とかにすればいいのに。  そういえば霊能者ってどうやったらなれるんだ? 明らかに神社仏閣とは無関係っぽい人間もそう名乗っているし自称で良いのかもな――って今考えることじゃないだろ。部長の妙な言動に引っ張られて、こっちまでどうでもいい事を考えてしまっている。 「それじゃあ、せいぜい頑張るがいい」  人の内心を好き勝手引っ掻き回して満足したのか、部長は背中のお下げ髪をひらりと風に踊らせ、自転車を漕ぎ始めた。 「あ……ちょっと、待って!」  慌てて呼び止めると、ほとんどスピードの乗っていなかった自転車が鈍い悲鳴を上げる。完全にもう話は終わらせたつもりだったのだろう部長は、少しばかり文句の言いたそうな顔で再度俺を振り向いた。 「なんだ」 「いや、あの……いきなりですけど、アドバイスください」 「スタート直後にBダッシュはやめたほうがいい。慌てずに最初のエネミーを踏むんだ」 「なんのアドバイスですか! そうじゃなくて、女の服の着方とか、いろいろ……」  なぜか気恥ずかしさを感じ、少しずつ声が小さくなってしまう。でもしょうがない。俺は十七年間ずっと男として生きていたわけだし、いまさら女としてスムーズに生活できるはずがないのだから。 「ああ……」  これまで一度たりとも崩さなかった薄ら笑いが引っ込み、大変珍しいことに目を丸くしている。と思ったら何がおかしいのか、いきなり優しげな顔で微笑まれた。 「いいよ。私が君を『高瀬さん、最近変わったな』『でも、いまの副会長の方が好きだなオレ』と言われるよう指導してあげよう」 「そこまで頼んでいません!」 「とりあえず、女らしくするためにワイシャツのボタンは第三ぐらいまであけておけ。スカートはもっと短めにな」 「アンタ、ドライで真面目な生徒会副会長を何キャラに改造する気ですか!」  そんな経緯があったのが、いまから二日前のことだ。  部長にも言ったが、俺はこのまま沙耶歌として生きるつもりはない。速やかに未練を晴らし、一日でも早く本人に身体を返してやるのがベストだ。  土日は自分の葬式への参列や、高瀬沙耶歌として不自然なく過ごすための勉強などで費やしてしまったが、おかげで基礎知識はだいたい頭に詰め込んだ。とはいえ、もちろん不安はある。  たとえば、うっかり入るトイレを間違ってしまったり、イスに座るときに脚を開いてしまったり。一番ありえそうなのが自分のことを『俺』と言ってしまうパターンだが、それらは実際、大した問題じゃない。何度もそれを繰り返すのはさすがに怪しまれるが、一度や二度くらい勢いや下手な言い訳で乗り切れるはずだ。  しかし、直哉と会った時に平然としていられる自信はこれっぽっちもなかった。  沙耶歌のように生徒会長を悪く言われた程度で対立できるわけがない。俺自身、少なくともあの会長に好意を持っていないのは確かなのだから。  何より俺はいま、女だ。もし自分が女だったら、直哉にアタックをかけていただろう。いつもいつも考えていたその「もし」が、悪趣味な神様のおかげで叶ってしまった。 「直哉……」  沙耶歌の声色で、一番好きなツンデレヤンキーの名前を呼んでみる。それだけで胸が締め付けられるような切ない気持ちが襲ってきた。  もう一度言うが、俺は沙耶歌の人生を奪うつもりなんてない。ただ、理性とは別の箇所にあるこの想いが表面化したとき、果たして俺は、自分を保てるのだろうか。  つーか、無理っぽい。    *   *   *  二度寝をしたにもかかわらず、朝の七時ごろにはスッキリ目が覚めた。沙耶歌になって三日経つが、どうもこの身体には早起きの習慣が染み付いているらしい。  寝る前に聞いた気象予報士の予言は珍しく当たったようで、カーテンを開けるまでもなく今日は快晴であるとわかる。惜しむべくは、そんな青空を見上げる俺の気分が大して良いというわけではないことぐらいか。 「愚痴ってても仕方ねーよな」  個人の気持ちに合わせた気候にしてやる義理など、天気には何一つない。どうしようもないことを考えてないで、さっさと朝の支度を済ませよう。 「あー……」  部長のレクチャーによれば、朝起きたらまずシャワーを浴びるべきだと教えられている。もちろんこの二日間、トイレにも行ったし風呂にも入った。女の裸が見れて浮かれもした。だが、罪悪感を抱いていないわけじゃない。むしろ、そういった行為のたびにいたたまれなさは強くなっていく。  トイレは生理現象だからどうしようもないが、風呂ならば自分の気持ち一つでその回数を減らせられる。沙耶歌のイメージを出来るだけ崩したくなかったが、この身体を間借りしている以上、バスタイムは一日一回にするべきじゃないだろうか。 「沙耶歌だって、俺に何度も裸を見られたくないよな」 「『当たり前です。男は変態でも紳士であれ、という格言があります』」 「ハハハーだよなー」  朝っぱらからベッドの上で胡坐をかき、急に一人二役を演じ始める少女の姿が鏡の中にあった。っていうか俺だ。  ぶっちゃけいうと朝から風呂なんて面倒くさいとか、そんなこと決して思っていない。 「にしても意外と演技派だな、俺」  最初こそうまく沙耶歌になりきれるのかと懸念していたが、やってみれば実際なんとかサマになっている。伊達に演劇部で部長を任されたわけじゃないってことか。  しかし、衣服に関してはもうちょっと度胸を必要とした。 「……やっぱ、着替えなきゃなぁ」  風呂、トイレに次いで俺の心に申し訳なさを植えつける生活習慣である。  沙耶歌本人の意識がないというのは、ある意味ラッキーだった。もし二心同体みたいな状態だったらと思うと、どれぐらい騒がれるか想像に難くない。 「許せよ、沙耶歌」 「『仕方ないですね。とでも言うと思いますかこのスケベ』」 「デスヨネー」  自分で自分の傷口を作り、鏡の中の沙耶歌はパジャマの上着に手を伸ばした。男のときとは左右逆のボタン配置にももう戸惑うことなく、割合スムーズに外していく。が、上から三つ目のところで手のひらに柔らかな触感を得た途端、指先が止まってしまった。  これ以上の開放は即ち、第二次性徴期を迎え年相応に隆起した少女の胸の露出を意味する。いい加減に慣れろよと思うが、土台、無理な話だ。ナマ乳を拝む機会など生きていた頃にもあったが、それが自分についているのといないのとじゃ緊張の度合いがまったく違う。かといって目を瞑ったまま着替えを行えるほど手馴れてはないしむしろそんなことをすればいらん所まで触ってしまうのは実体験済みだった。  母親に手伝ってもらおうにも、高瀬家はすれ違い生活らしく滅多に顔を合わせない。そもそもいい歳した娘が母親を呼びつけて着替えを手伝って欲しいなんて頼めるかっ。だがこのまま硬直していたら遅刻どころか夜になってしまう。沙耶歌として違和感なく過ごしてやるつもりだったのに、初日からサボりなんて意志薄弱もいいところだ畜生。  ならば、どうするか。  テレビならば放送事故が起こったときのように。危ない発言には銃声がかぶさるように。 「ラーララララーララララー」  美しい風景を心に描き、さわやかな歌を口ずさみながら。  俺は無心のまま、着替えを敢行するのだった。  …………おっぱいやーらけぇー。  煩悩との戦いにからくも勝利し、下着のときよりはパニックせずに着替えた女子の制服姿でいつもの通学路を歩く。  休日の間は基本的にパンツスタイルで過ごしていたせいで、スカートの頼りなさにはいまだ緊張してしまう。生徒会役員だけあって丈の長さはキッチリしているが、恥ずかしいものはどんな長さだって恥ずかしい。こんなありふれた日常風景の中での女装というのはかなり精神的に堪えるものがあった。  自意識過剰なのは十分に理解しているが、同じように学校へ向かう生徒達の視線が妙に突き刺さっている気がする。諸君、これが話に聞く針のムシロというやつだ。たぶん。 「ん?」  落ち着かない気持ちできょろきょろとせわしなく視線をさまよわせていると、道路の脇にポツンと供えられたスミレの花が目に入った。 「ああ……」  曲がったガードレールや、アスファルトに刻み付けられたタイヤ跡を見るまでもなく、直感的にわかる。  ここは、俺が死んだ場所だ。  葬式にまで参列しておいて言うのもなんだが、事故現場を再び目にしたことで初めて、ようやく自分が死んだことを実感する。むにゃむにゃと湿っぽいお経を唱える坊さんの声を聞いていても、泣いている親やクラスメイトを見かけても、どこか自分とは関係のない出来事のように思っていた。  だが無自覚でいれば現実が変わるわけでもなく。  森実一樹という男の生涯は、間違いなく、ここで終わってしまったのだ。 「あー……やめだやめ」  暗く沈みかけた気分は、ぶつけどころのない苛立ちを生む。そんなどうしようもないネガティブに付き合う暇があるなら、もっと違うことを考えていたほうが有意義だ。  たとえばこの、電柱に添えられた花を置いた誰かの姿を思い描いてみる。いつも無愛想なツンツン頭の男子高校生が、朝もやの中でスミレをそっと供え一人涙していた。 「へへ〜……直哉のツンデレめっ」  朝の通学路で急にニヤケたと思いきや妙なことを口走る。男だった俺がやるとアレな光景だが、美少女の姿ならば不思議と許される気がした。可愛い女の子は得だね。 「どうして、笑っていられるんですか?」 「ほへ?」  突き刺すような声が後ろから聞こえ、緩んだ頬のまま振り向く。そこにいた女の子が誰だったのか、俺は一瞬本気でわからなかった。  トレードマークの大きなリボンが外され、束ねられていた髪を下ろしているから? いつものはじけるような笑顔ではなく、まるで一睡もしていないような荒んだ顔つきだったから? それもある。だがそれ以上に、いまの彼女には普段の彼女を思い出させない決定的な違いがあった。 「先輩が亡くなった場所で、どうして笑顔でいるのかとヒナはそう聞いているのですっ」  外見でも表情でもなく、憎しみや苛立ちを積み重ねたようなそのトゲトゲしい声が、俺の知っている雛菊とあまりにも違いすぎていたからだ。  まるで別人、いや、もしかしたらこっちが雛菊の本性かもしれない。「無垢で可愛い後輩」が演技だったとまでは言わないが、あくまでもそれは表の顔でしかなかったわけだ。  誰だって表と裏の二面性は持っている。雛菊も普段はそれを上手に使い分けているのだろうが、今回ばかりは冷静さを欠いたらしい。好意を持っていた男の事故現場でニヤケるような女を、許せるはずがない。たとえそれが美少女だったとしてもだ。 「そうだね、不謹慎だった。ごめん」 「ヒナはそんな言葉いりません。この場所で、何を思い出してあんな顔になったのか、それを聞いているのですよっ」 「…………」  彼女が、本気で怒っているということは伝わってくる。目元に作られたクマが、泣きはらした顔が、気を遣われた形跡のない下ろしたままの髪型が、雛菊の傷心を如実に物語っている。  けど、言っていいかな。  うぜー。詰問女うぜー。  ニヤニヤしていた理由聞いてどうするんだよ。事故現場で笑っていたのは確かに不謹慎だったけど、世の中は自分の価値観が基準じゃないんだ。他人に、お前の悲しい気持ちに付き合うことを強要しないで欲しい。 「何を睨んでいるのですっ。ヒナ、正しいことを言っています!」  正論で全員がはいそうですかと納得できればみんなハッピーになれる。やったね、世界平和の完成だ。  本来なら無視しておきたい相手だが、このギャップのありすぎる雛菊の二面性に直哉がショックを受けてしまわないだろうか。受けそうだよなぁ、結構メンタル弱いし。  となるとあまり気は進まないが、彼女を落ち着かせてやったほうが良さげだという結論に行き着いてしまった。 「ヒナ……福山、さん」  思わず彼女のあだ名を呼びそうになり、慌てて修正する。こんな激情に身を任せた相手に正体を悟られてしまっては、どうなるかわかったものじゃない。  呼吸を整え、俺は出来る限り確実に、高瀬沙耶歌のイメージへ近づいていった。 「『睡眠はしっかりとったほうがいいですよ。寝ないと、人はイライラしやすくなります』」 「何を言って……」 「『寝不足のせいで可愛らしい顔も台無しです。きっと一樹も悲しみます』」 「先輩が?」 「『ええ。こんな風に、福山さんのいつもの優しい笑顔が消えてしまったと知れば、きっと』」  我ながらよくもまあ口が回る。ほとんど嘘だけど。  「一樹」の名前を出したのが効いたのか、雛菊の表情はだいぶ落ち着きを取り戻した。 「……ごめんなさい。ヒナ、確かに少しイライラしていたかもです」  小さな声だったが、そう言ってしっかりと頭を下げる。どうにか沙耶歌を演じきることが出来、彼女をクールダウンさせることに成功したらしい。 「先輩が亡くなって……ヒナ、悲しくて悲しくて」 「……うん。ありがとう」  あまり好感を持っていなかった相手とはいえ、慕ってくれていた女の子を無下にするわけにもいかず、つい「一樹」としての言葉が出てしまった。  俯いていた顔を上げ、涙を溜めた雛菊の瞳がじっと俺を見つめてくる。 「えへへ。なんで、さーちゃん先輩がお礼を言うのですか」  十分に梳かしていないくたくたの髪で、泣きはらした顔が、涙をこぼして目を細めた。  死んでからようやく、上っ面でない雛菊の笑顔を見れた。そんな気がした、朝の登校風景だった。  という具合にちょっといい感じの話っぽく一日の始まりを過ごせればよかったのだが、とにかくお空の神様は悪趣味らしい。 「……っ!」  サイコロを積み重ねたような形をした、アイボリー色のどこにでもありそうな靴箱を開けた瞬間、俺は呼吸を忘れてしまう。  沙耶歌のロッカーには、正六面体すべての面に、悪意が刻まれていた。  小学生でも思いつける簡単な一言。それが黒のマジックで大小問わずぐちゃぐちゃに、びっしりと書きなぐられていた。  死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。 「……マジかよ」  品行方正でクールで、現在は俺の身体でもある生徒会副会長の少女は、どうやら、陰湿ないじめを受けているらしかった。 「はぁ〜……」  ため息をつくと幸せが逃げていくとよく言われるが、別人の口を使って吐き出すため息の場合、果たして幸せを逃すのは俺自身なのか沙耶歌なのか。幸せなんて主観でどうとでも変わるものだし、もし仮に沙耶歌としての幸せが逃げていくのだとしても俺にとってそれは取るに足りないことかもしれない。  よろしい、ならば昼休みの学食はいまからため息セールを開催する。ホラー映画の幽霊よろしくハアハア言っていれば、気分もそのうち晴れるんじゃないだろうか。……たぶん、余計に憂鬱になるだけだからやめておこう。周囲にも迷惑だ。 「いじめって、意外と堪えるなぁー……」  生きていた頃はそれなりに皆様から好かれていた人生だったので、こういう経験をするのは初めてだった。呪いか何かと疑いたくなるような靴箱の落書きに度肝を抜かれたが、あんなものまだまだ序の口だ。  上履きの中にはガムの屑が吐き捨てられ、それを拭いて教室に行けばクラスメイトにあたかも部外者が来たかのような視線で出迎えられ、机の上には花瓶に生けられたキクが供えられていた。  まぁ、おかげで沙耶歌の席がわかったのだし、皮肉も利いている。眠っているのか身体からはじき出されたのかは知らないが、高瀬沙耶歌としての意識は現状死んでいるようなもんだし、俺自身は肉体的に間違いなく死んでいる。そんな心境だったからか、花が置かれていたこと自体はあまりショックじゃなかった。  ただ問題なのは、その花瓶が机の上に置かれたままになっていたってところだ。普通は、教師なり委員長なり友人なりが本人の目に触れる前に片付けるのではないか。実際にいじめられた経験があるわけでもないのでただの都合のいい考えかもしれないが、そういう良識のある人物の一人や二人ぐらいいていいと思う。  しかし、花瓶は片付けられなかった。クラスメイトのほとんどから微妙な視線を受けたことといい、どうもこの身体の持ち主は二年B組全体から総スカンを食らっているっぽいことがわかる。  元に戻ったときのために出来る限り本人らしく振舞おうとしたが、その思いは早速挫けそうだ。まるで自分がいじめられているような居心地の悪いこの環境の中で、沙耶歌のように黙して語らずを貫ける自信がない。 「はぁ……」 「鬱陶しいな」  隣の席から、握手を求めたくなる苦情が飛んできた。なるほど、昼食戦争真っ只中の活気あふれるこの学食で、テーブルにつきバカみたいにため息を繰り返すようないじめられっ娘はトイレにでも引きこもっていればいいのにという気持ちは十分わかる。気分を害するのは当然だろう。 「さっきからハアハアハアハアといやらしい。悩ましいため息が聞こえるたびにムラムラする私の気持ちがわかるか?」 「いやらしいのはアンタだっ!」  なんだその生きるのがつらくなりそうな性癖。 「うん、元気そうで何よりだ森実」  渾身のツッコミを軽く流し、長いおさげ髪の上級生は涼しい顔をして俺の隣でかけそばをすすっていた。  見た目だけならば純和風のお嬢っぽく見えなくもない部長が、どんぶりを抱えながら音を立てて麺をすする光景は、なんというか少しばかりシュールな感じがする。別に、何を食べていようがいいんだけどさ。 「話は変わるが、ざるそばは正直ぼったくりだと思わないか? 少量の刻み海苔があるか否かで値段がかけそばより百円増しだ」 「すっげぇどうでも良いです。っていうか、いつからいたんですか」 「私はずっと傍にいたよ? キミがため息をつきながら券売機のボタンを押し、キミがため息をつきながらこの席に座り、キミがため息をつきながら食事をしている間、ずっと」  怖ぇ! 「最初に見かけたときに話しかけてくださいよ」 「あまりにも良いため息だったからね。ついさっき、これ以上は私のたぎる獣欲を抑えることができないっという気持ちに達するまで声をかけるのを忘れていた」  なんでわざわざ官能小説っぽい言い回しをする。 「性欲を持て余す」 「どストレート!」  思わず身体を両腕で抱き、イスから立ち上がる。冗談だとは思いたいが、この部長はとにかく規格外だ。その気になれば人の視線があろうとなかろうと、抑え切れなくなったたぎる獣欲とやらを俺に差し向けてくるような気がした。 「私は淑女だよ? いきなり肉体関係を強要する外道と一緒にして欲しくはないな」 「淑女はため息で性欲を持て余したりしないと思います」 「私は変態という名の淑女だよ? 外道とは格が違う」  ヤな感じに上方修正した! 「それで、暗い顔をしてどうした? アノ日か」 「ぶっ!」  変態の名に恥じない、デリカシーゼロの質問だった。  この淑女は小声なら何を言ってもいいとか思っていそうだ。 「ではオンナノコの日についてレクチャーしてあげよう。その前に授業料百五十円をよこしなさい」 「たかり方が雑すぎませんか。そもそも来ていませんっ」 「え。その歳になっても来ていないって、キミ……」 「その『うわぁ』って感じのヒいた目はやめてくれませんか。そういう意味じゃないし!」  この人との会話はどこに着陸するのかさっぱりわからない。ツッコミって意外と精神力削るんですよ、部長。 「……はぁ〜」 「ため息の質が変わったね。悩ましさがなくなった」  そんなことまでわかるのか、このため息フェチめ。 「その代わり、すっげぇ疲れましたよ」  もう、いろんなことが段々どうでも良くなってきた。突っ込むから疲れるのだから、いっそあるがままを受け入れてしまえばいいんじゃなかろうかとさえ思う。──いやいやいやいや、駄目だって絶対。防衛本能のストライキは認めません。 「……うん、だいぶ回復したみたいだ」 「は?」  またよからぬ話題が出てくるのだろうかと身構える。その予想を裏切ったことが楽しいのかそれとも別の理由かは知らないが、部長はうっすらと笑みを浮かべるだけで特に何も言ってはこなかった。  気が付けばトレイの上には、さっきまで彼女が抱え込んでいたどんぶりが空になって置かれている。あれだけ無駄話を振っていたのにいつの間にか完食したらしい。 「まったく、メンタルにかかわる問題はいつもいつも面倒くさい」  独り言とも愚痴とも取れる台詞を呟き、イスから立ち上がる。食事が終わったらすぐ席を立つというのは学食慣れした人間なら当たり前の行動だが、俺にしてみれば散々からかわれた挙句いきなり会話を終了されたような気分だ。 「トレイは片付けておいてくれ。今回はそれでチャラだ」  一方的に言いたいことだけ言って、部長はヒラリとお下げ髪を翻すと人ごみの中に身を隠した。感謝のかの字も出てこないが、もしかして何かを察して元気付けようとしてくれていたのかもしれない。その証拠に、落ち込んでいたことをいまのいままで忘れていた。むしろツッコミまくっていたからか、やけに気が大きくなっている。  すべて部長の手のひらの上、と考えるのは癪だが、おかげでネガティブ以外の考え方を思いつくことが出来た。 「……うん」  いじめられっぱなしでいるのは、やはり気に食わない。本人にとっては余計なお世話かも知れないが、この状況をほったらかして自分のことに専念できるはずもなかった。  それに、彼女が一人で悩み続けていたと決め付けるのはまだ早い。俺が知らなかったからといって、他の人間に相談していない可能性がないわけではないのだ。  沙耶歌が一番信頼しているだろう相手ならば――とここまで考えたところで、一人の顔が思い浮かぶ。 「……会いたくねーんだけど」  部長との会話でずいぶんポジティブになったつもりだが、あの男とこれから話をするのかと考えただけで、気持ちに影が差し込んできた。 「はぁ〜」  ため息をつくと逃げていく幸せは、どうやら俺にとっての幸せだったようだ。  今日最後の授業が終わり、十年もの間ずっと耳にしてきた放課後のチャイムが鳴る。単調なそのメロディをこんなに嬉しく思ったのは小学校以来だ。それほどまでに、俺は居心地の悪いこのクラスからの解放を待ち望んでいたらしい。 「さぁ……行くか」  これから死地へ赴く男の台詞を意識して渋くささやくが、それを喋っているのは女の子の澄んだ声だというのだからバランスの悪い話だ。しかしそのぐらいの覚悟でなければ、生徒会長に会おうという気にはとてもなれなかった。 「遅かったな、高瀬」  「生徒会執行部」というプレートの掛かった教室のドアを開けた瞬間、覚悟も何もかも放り捨てて回れ右をしたくなる言葉が飛んできた。長机を二つ並べた上座、いわゆるお誕生日席を当たり前のように陣取る我が校の生徒会長様は、相変わらず傲慢無礼の代名詞だった。 「ふん……いつにもまして寡黙だな」  見た目は丸メガネのがり勉タイプのくせに、会長はまるでバックに巨大組織でも控えていそうな、そんな小物くさい自信による威圧感をこれ見よがしに醸し出している。それでも顔良し能力高しカリスマ性有りといった三拍子が揃っていれば、会長目当てで生徒会入りを希望する人間は後を絶たないそうだ。実際、俺の目から見てもいい男だとは思う。  ただし、喋らなければ。 「森実一樹が死んだことで調子が狂ったか? だが、君は感情を処理しきれん人間ではなかったはずだぞ」  芝居じみた台詞回しで、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。本人はこの上なく真面目に本気でやっているのだろうが、とにかく会長のセンスはこれ以上ないってぐらい演劇向けだった。  無駄に偉そうなオーラとか、人を見下しきった喋り方とか、大げさな身振り手振りとか、それらすべて素のままだというのだから一演劇部員として天賦の才を感じずにはいられない。 「まぁいい。実際問題、高瀬が感情を処理しきれん人間であろうとなかろうと、僕には興味のないことだ」  普通なら思ってても言わないようなことを、この会長さんは惜しげもなく口に出す。良くも悪くも素直な人間だ。  しかしこの分だと、どうもアテは外れたらしい。相談役になっているどころか沙耶歌がいじめられていることすら知らないのだろう。 「まずは今日の報告を聞こう」 「報……告?」 「うむ。Fはどうだった?」 「…………」  何この展開。生徒会役員とは仮の姿──その実態は物体Fを調査するために組織から送られたエージェントである。なんて話になるとはさすがの俺も予想していなかったんだけど。 「どうした、報告せよ」  さすがに知識ゼロの単語を軸にして話を作れるほど俺は優秀じゃない。かといって、ここで素直に質問をしてFとやらの正体を知るのも恐ろしい気がする。  何やってんだよ、沙耶歌は。まだ生徒会の雑務に手間取って正体を怪しまれる方がマシだ。 「えーっと」  逃げ道のない状況に追い詰められ、それなら自分で逃げ道を作り出そうと後ろ向きにポジティブなことを考えていたときだった。  コンコン、と教室のドアが叩かれる音がし、俺と会長の間に走っていた妙な緊張感がほんの少しだけ緩む。 「チッ……入れ」  渋い顔をしながらドアの向こうにいる人間を促すと、会長は手元の資料に目線を戻した。もしかしたら、あまり他人の耳に入れたくない話題なのかもしれない。となると生徒会全体がFに関わっているわけではなさそうだ。  関わっているのは会長と沙耶歌だけか? ……ホント何やってんだ、沙耶歌。 「失礼します」  生徒会室に入ってきたのは、いまどき珍しい日本人形のようなおかっぱ頭をした女生徒だった。ご丁寧にも「書記」と書かれた腕章までつけている。おかげで彼女が何者なのか一発でわかった。この生徒会に腕章をつけるシステムは存在しないはずだが、まぁ些細だ。 「遅かったな、書記よ」 「申し訳ありません、清掃にてこずってしまいまして」 「問題ない。学校美化に尽力する生徒をどうして責められよう」 「ああ、会長っ。もったいないお言葉です」  いつのまに俺は舞台の上に立ったのだろう。生徒会はどうも演劇部が欲しいようだが、むしろ役員丸ごと演劇部員になればいいのに。 「では高瀬。本日の雑務を」 「は?」 「生徒会役員が全員揃っていなくともこなせられる雑務の一つや二つ、あるだろう?」  言っていることはわかるが、どうしてそれを俺(=沙耶歌)に聞くんだ。 「何を呆けている。雑務の仕分けや案件の提唱はいつも君がやってきたことだ。我々で処理可能な案件があるのならば、速やかにそれを伝達しろと言っている」  わかりづらいが、つまり沙耶歌は生徒会の仕事をほとんど把握していて、その上で役員達に議題を出して生徒会を動かしているらしい。たとえるならアイドルのマネージャーのような立場だろうか。 「まさか、それすら忘れてしまったというのか」 「え、えぇと」  忘れる忘れない以前に初耳ですよ。優秀すぎだろ、生徒会副会長。 「はぁー……副会長よ」  深い深いため息をこれ見よがしにつき、生徒会長は重い腰を上げ俺を睨み付けた。高身長なのは知っていたが、女の視点で180pの人物を見上げるのは想像よりもずっと威圧を受ける。 「廊下に出ろ」 「た、立たされますかッ?」  予想外の迫力に恐怖してしまったのか、口調が教師に怒られたときの生徒だった。 「いいから、来るんだ」 「った! ちょっ、かいちょ、うで、痛い」  長身の男に強引に腕を取られ、なすがまま生徒会室から引きずり出される。抵抗もままならない女の身体のか弱さとか、そういったことを実感する以前に、ただただ恐怖感だけが全身を支配した。  こえー。男こえー。 「君が感情を処理し切れん無様な人間だということは、理解した」  廊下に出るなり、生徒会長は相変わらずの見下し目線でいきなりそんなことを言った。 「しばらく休め。君がいても効率が上がりそうにない」  どうやら、学校生活一日目にして沙耶歌の評判を落としたらしい。いじめに悩まされた挙句、この身体の持ち主が最も信頼している相手には相談できないどころか見放されてしまった。  仕事のわからない俺にしてみれば、生徒会を休めという会長の言葉は渡りに船だ。しかし高瀬沙耶歌ならば、ここで食い下がらなければ嘘になる。 「『申し訳ありません、会長。もう一度、もう一度だけチャンスをくださいっ』」  本当は生徒会で仕事がしたいなどと欠片も思っていないくせに、不思議と台詞がすらすら出てきた。まるで自分が本当に沙耶歌になったように、必死に、声に憐れさえ滲ませて懇願する。 「ふっ、焦るんじゃない高瀬。僕が君に期待している仕事は、まだある」 「え?」 「そう、Fだ」  その言葉と、強くつかまれていた腕が解放されるのは、ほとんど同時だった。 「生徒会を休んでいる間は、Fに専念しろ。報告は君がいつもの調子を取り戻してからでいい」 「は……」  ニヤリと悪巧みっぽく言われたところで、おいてきぼり感はますます加速する。  だから、Fってなんだ。 「あれ、さーちゃん先輩?」  ぶっちぎりな生徒会長に放心していると、お花畑までもが加わってきた。今朝とは違い、両サイドを大きなリボンできっちり結んだ、見慣れたヘアスタイルをしている。 「お前は……」 「あれ、会長さんも一緒でしたか。失敗しました」  生徒会長を出会い頭に失敗扱いしやがった。 「ふ、ふふふ。いい、いいぞ福山雛菊。いやさマイハニー!」  会長は会長でさらにギアを上げている!? 「もっとだ。もっと僕をなじるがいい! マイ・スイート・エンジェル!」 「うわ……近寄らないでください。気持ち悪いです」  その台詞にはまったく同意するが、彼女も彼女で演劇部にいるときとはかなり態度が違う。誰だって表と裏の顔を持っているとはいえ、生徒会長も雛菊もその落差が激しすぎるわっ。 「この僕を憂えるような眼差しで見つめておきながら、まだそんなことを言うのか? 素直じゃない……が、そこもいいっ」 「憂えているのは会長さんに出会ってしまったヒナ自身にです。もう、不愉快なのでサヨナラします」  言葉に遠慮がないなぁ後輩。 「ではでは。部室でお会いしましょう、さーちゃん先輩」 「う、うん……」  会長のハイテンションを投げっぱなしのまま、雛菊は小走りで俺達から離れていく。  沙耶歌ならば『廊下を走るのは感心しません』とでも言うのだろうが……今の俺にはそんな余裕などない。 「くく、キュートだ…………話は戻るが、感情を処理し切れん無様な高瀬よ」  自虐か。 「なんでしょう」 「福山……Fのデレ期がまだ来ていないようだ。早急にアプローチしたまえ」  とうとう部長みたいなこと言い出した! 「君が演劇部にいるのはなんのためだ? そう、Fに僕の魅力をアピールするためだ。……くくっ、次に君がこの生徒会執行部に来るときは、その隣に恋するFがいることを僕は期待してやまない」 「…………」 「では、頼んだぞ」  好き勝手言って満足したのか、会長は俺を残し生徒会室へと戻る。  呆れてものが言えないというか、開いた口がふさがらないというか。  演劇部に入った理由とか、無意味に謎めかされたFの正体とか、あんな生徒会長を慕う沙耶歌の気持ちとか。 「……お前、苦労してんだな」  窓ガラスに映った少女の顔は、どこか疲れたような顔で、そんな労いを呟いた。  朝起きたときは一番頭を悩ませていたのになぁ。と、俺は演劇部部室の前で小さなため息をつく。  直哉に、女として出会える。その喜びを抑え切れるかどうかが最大の心配事だったはずだ。ところがいざ学校に来てみれば、後輩の女の子は二重人格の勢いで本性をさらけ出すわ、クラスメイトからはいじめを受けているわ、頼りにするつもりの生徒会長は性根の腐った変態だわで問題が山積みだった。  ただでさえ女の身体になって戸惑っている上にここまで面倒ごとが重なってくると、もはや恋する気持ちの一つや二つぐらい大した不安要素ではないんじゃないかとさえ思う。 「はぁ……」  沙耶歌がどうしていつもアンニュイな空気を背負っているのか、なんとなくわかった気がした。 「こんにち……わ……」 「フッ、フッ、フッ、フッ!」  重い気持ちのまま演劇部のドアを開けると、上半身裸の男が物凄い勢いで腹筋をしている光景が飛び込んでくる。 「ほら、あと十秒以内に腹筋十回。でなければまた二十回追加だ」  その傍らには、パイプ椅子に座り足を組んで読書をするおさげ髪のエセ文学少女もいた。……立て続けにショックを与えるの、やめてもらえないかな。 「何、してんです、か?」 「やぁ、高瀬か。佐川はしばらく続けていろ、あと百回追加」 「てっめぇ……フッ、フッ! いい加減に……フッ、フッ!」  文句を言いながら、それでも腹筋をやめないのだから根が真面目な直哉らしい。彼女もそんな後輩の反応に満足しているのか、どこか楽しげな表情で本をたたみ、イスから立ち上がった。 「引退前にもう少し可愛がってやればよかったかな。素直でいい後輩じゃないか」 「ですよねぇ、そこが直哉のいい所……って、そうじゃなくてここで何しているんですか、部長っ」 「大きな声を出すな。高瀬らしくないぞ」 「うぐっ」  部長の言うとおり、確かに沙耶歌の演技を忘れ、つい素のままつっこんでしまった。  幸いにも直哉は腹筋に集中しているらしく、特に気にした様子はない。……それはそれで少し寂しいなぁ、くそ。 「ンンッ――『失礼、取り乱しました。しかしなぜ引退したはずの貴女がここに?』」  咳払いを一つし、この二日間で培った「高瀬沙耶歌」の役に入り込む。  クラスでは孤立していたし、生徒会では戸惑ってばかりで発揮する機会がなかったが、我ながら会心の演技だ。それほど親しくない相手ならば、ほぼ確実に俺が沙耶歌本人だと信じさせられるだろう。 「そこの佐川に頼まれてね。一時的にだが演劇部に戻ってきた」 「なお……『佐川君が、ですか?』」 「うん。信じられないのなら、彼の声色を使ってそのときのシーンを実演してやろうか」  腕組みなどを決め、さらりと冗談のようなことを余裕ぶって言ってくれる。声帯模写だろうがなんだろうが、この人ならあっさりやらかしてくれそうだから計り知れない。  相変わらずわけのわからないハイスペック持ちだ。 「私の声は、七色を超えるぞ」 「怪盗ですか、アンタは!」 「つーか、その話は内緒にしとけって言ったよな先輩よぉっ!」  腹筋は終わったのかそれとも中止したのか、ツンデレヤンキーが慌てた様子でツッコミに回った。少なくとも直哉が部長を呼んだのは本当らしい。 「内緒? ああ、そういえばそんな心にもない口約束をしたな」  まったく悪びれもせずに白状し、それどころかよりいっそう笑顔に怪しさを纏う。……今度は何を企んでいるんだ。 「見た目とは違い、なかなかピュアじゃないか。とても私好みだ」  言葉の端々に含み笑いを滲ませながら、部長は伸ばした腕の指先で直哉のアゴを撫でる。 「さ、さわんな」 「この程度で顔を赤くするか。ははっ、ますます好みだ」  まるで年上の女性が背伸びをしている少年をからかうような構図だな、と俺はそんな光景を冷静な目で眺めていた。いたはずだった。 「うん?」 「お?」  ところが、気がついたときには部長を押しのけ、ぐぃっと二人の間に割り込んでいる自分がいた。 「な、直哉にちょっかい出さないでください」  あまつさえ、そんな嫉妬丸出しの台詞を口にしていた。  呆れるほどの鈍感野郎でもない限り、どんな気持ちでソレを言ったのか容易に想像がつく。相手が部長ならば尚更だ。 「…………ははぁん」 「うっ」  望まない期待通り、部長の目が思いっきり楽しげに輝いた。面白いネタ見つけたと言わんばかりに、口元を三日月にしている。 「くっくっ、なるほどね。どうしてなかなか、愉快なことになっているじゃないか」 「あ……ぅ」 「愉快なって何がだよ。先輩も副会長も、さっきから様子がおかしいぞ」 「……」  諸君、呆れるほどの鈍感野郎がここにいましたよ。俺の好きな男でした。 「よし佐川。私はいまからお前のことをギャルゲ主人公と呼ぶことにした」 「急にわけのわからねぇあだ名つけられたっ!」 「手始めにその個性的な髪型をやめて、前髪で顔を隠せ。むしろシルエットのみになれ」 「部長、少し黙りましょう」 「しかしだな、ピュアな乙女心にも気付かない唐変木は」 「いーから黙ってください」  あと、乙女心言うな。 「わかっていないな。私はキミのためを思って」 「部長」 「元、だ」 「少し黙れ」  俺のためというか、絶対アンタからかいたいだけだろ。 「そうイライラするな。アノ日か」  一秒経たず喋り始めたっ! 「そのネタはもうやりましたからっ! あと少しは空気読んでください」 「ふぇ〜、さ、さすがに校内一周は疲れますですぅ〜」  部長の相手だけで手一杯だというのに、今度は重力など完全に無視したふわっふわの台詞と一緒に雛菊が現れた。  ふぇーってなんだ、アルパカの鳴き真似か。なんだか少し疲れているようにも見えるし、たぶんため息なんだろうが意図しなきゃ絶対に出てこないよな、ふぇー。 「あれれー? なんで部長さんが?」 「よぅ、福山聞けよ。こいつら、さっきからおかしいんだ」 「部長さんがおかしいのは前からですよー?」  ……しれっと言うね。まったく同感だけどさ。 「それもそっか。やるな、福山」 「えへへー、褒められましたぁ」  直哉も直哉であっさり演技女のペースに丸め込まれている。てゆーか騙されてる。  離れろ直哉ー。そいつの本性は間違いなく腹黒だぞーっ。 「…………あぁ、可愛いなぁー」  俺の心の訴えは届かず、それどころか小声で萌えていた。なんか、この女が直哉に好かれているんだなと考えるとムカムカとさえしてくる。  生徒会長といい、なんで雛菊ばかりモテるんだ。魔性の女かコイツは。 「さ、さーちゃん先輩? なんでヒナを睨みますか?」 「え、あ、ああ、うん。なんでもない」 「えぅ……?」  疑わしそうだ。まぁ、なんでもないって言う奴ほど何かあるものなのだから、当たり前といえば当たり前の反応だけど。 「じー……」  擬音を口にしながらこっちを見るのはやめてくれ。いろいろウザイ。 「コホン――『それより、さっきから二人とも何をしているんですか?』」 「あ? 腹筋」 「校内ランニングです」 「いやそうじゃなくて……っていうか校内ランニングって何?」 「説明しよう。校内ランニングとは、校舎内の端から端までを小走りで駆け抜ける鍛錬の一種である。教師に見つからぬよう細心の注意を払う必要があるため、必然と集中力も高められるまさに一石二鳥のトレーニングなのだっ!」  水を得た魚のようにべらべらと部長が得意げに喋り始めた。つーか何、その各方面からクレームの来そうなトレーニング。 「……だ、そうです」  興味のなさそうな相槌で雛菊が部長の言葉を締める。 「はぁ。でもなんで急にそんなトレーニングをやらせているんですか」 「愚か者めが。良い舞台を仕上げるのに必要なのは台本でも演技力でもなく、体力だ。これがなければ話にならん」  言われてみれば、この人が現役だった頃はよく筋トレをさせられていた。大きな声や、激しい動きを淀みなくこなすには、それなりの体力が必要らしい。 「ところが森実はその重要性を理解してなかったのか、後輩二人のスタミナは役者にとって致命的なまでに低下していた」  それで、腹筋やら校内ランニングやらを二人にやらせていたってことか。マイクなど頼らずとも体育館中に響き渡るような声と、メリハリのはっきりした動きで、素晴らしい舞台を仕上げるために。 「でも……」  言いたくはないはずなのに、口が勝手に言葉を続けてしまう。 「たった三人で、何が出来るんですか」  ネガティブで場の空気を乱す、俺らしくもないシビアな台詞だった。きっと沙耶歌ならば、涼しい顔でさらっと同じことを言っただろう。バカバカしい会長命令に従って、そんなことより生徒会に入ったらどうだと雛菊に畳み掛けるはずだ。 「…………」  だが俺は、やっぱり沙耶歌になりきることはできなかった。後輩二人の、どこか居心地の悪そうな視線を浴び、それ以上の言葉を詰まらせてしまう。  たった三人という頭数自体が問題ではなく、たった三人になったと指摘してしまったこと自体が、いやな沈黙を生んだ。 「『カズキは、この部を潰したくないって言ってた』」  沈黙を破ったのは、直哉の声だった。が、本人もなぜか驚いたような顔をして声のする方を見ている。 「『残された俺達はこの思いに応えてやらなきゃならねぇ。だから、頼む!』」  直哉の視線を追い、同じように驚いている雛菊を一瞥し、ありえないほど完璧な男声をノドから出す女の姿を捉える。 「『少しの間でいい。俺達に力を貸せっ!』」  腕組をして、眉一つ動かさず、直哉そっくりの声で熱演をする部長の姿が、そこにはあった。……マジで出来るんだ。声帯模写。 「ふっ、久々に心を動かされたよ。このような熱い台詞を台本もなしに言える男、そうはいない」  あっけに取られている俺達をしたり顔で見やり、いつもの部長ボイスが小さな笑い声を漏らす。 「そのお返しというわけでもないが、私も一つクサイ芝居を見せてあげよう」  ゆっくりとした仕草で腕組をほどき、部長が直哉を指差す。 「森実の遺志は、彼に受け継がれている。ならば君らは三人でなく、以前と何も変わらない四人組のままだ」 「遺志……ですか」  直哉と一緒にいたいだけの建前が、そんなご大層な言葉で飾られてしまった。  しかし部長はさらに続ける。 「穴自体は私が埋めよう。だがそれは部員が四人いればこその話だ。……さて高瀬よ。君はまだこう言うか? たった三人で何が出来るのか、と」 「いえ……」  部を潰したくなかった自分の本音はともかくとして、直哉は直哉なりにこの演劇部を立て直そうとしてくれている。ならば俺だって、これ以上失言を重ねるつもりはない。もとより口が勝手に動いて出た言葉だ。 「ありがとうございます。ご指導、よろしくお願いします」 「違う。そこは『別にあなたなんていなくても……でも、ありがとう』と言うところだ」 「そんな指導はよろしくしてませんっ!」  感謝する気持ちを即効で踏みにじりやがった! 「私だって、彼が動かなければ今ここにいなかったさ。なあ、佐川」 「うう……」  直哉へ視線を移すと、当人は奇妙なうめき声を上げながら腕をボクシングの防御姿勢にしている。 「内緒にしておけって……言ったじゃねぇかよぉ」  恨めしげな唸りが腕の隙間から漏れ聞こえるものの、その語調はふやふやだ。愛らしい要素など一つもないはずの男子高校生が、人の胸を高鳴らせることが出来る瞬間を目撃した気分だった。  あー、やっぱコイツ大好きだ。 「ありがとう、直哉」 「な、なんだよ。名前で呼ぶんじゃねぇよ副会長」  ガードを解除し、真っ赤な顔が鋭い目つきをよこす。しかしこのタイミングでそんな真似をされてしまうと、怯むどころかむしろ愛らしさがいっそう募ってくるわけで。  気がつけば。 「直哉」 「だから、名前っ……」 「俺は、一樹だ」 「……は?」  とんでもないことを、口走っていた。 「大バカ者が」  演劇部に残っているのが俺と部長の二人だけになるや否や、自覚済みの非難が浴びせられる。 「軽挙妄動め」  返す言葉もない。いくら感極まったからといって、沙耶歌のフリをしようとした初っ端に自分から正体をバラすだなんて間抜けすぎだ。 「この淫乱」 「ちょっと待て。アンタそれ言いたいだけだろ」 「ふっ……嘘をつけ森実。健康な男子学生が、可愛い少女の肉体になったんだぞ? 夜な夜なふしだらなことをしていてなんの不自然もない。いやむしろそれが普通っ」 「あー、じゃあ俺はアウトローってことで」  故意を持ってこの身体に触れた事などない。正体の秘匿は無理だったが、そのぐらいのモラルは保ち続けるつもりだ。そうでないと沙耶歌に申し訳が立たない。 「……残念だよ。本当に残念だ。君は憑依という最高の自由を許された境遇にいながら、その利点を自ら拒否するのか」  心底がっかりとしたため息をつきながら、首を左右に振られる。  この人、もし自分が沙耶歌と同じ立場になってもそんなことを言うのだろうか。……言いそうだから困る。 「…………」 「な、なんですか。見てたって、俺は何もしませんよ」 「せいゃ」 「きゃっ!」  部長の小さな掛け声に反応し、意図せず可愛い声が出た。  身体にくすぐったさが走る。視線を下にずらすと、彼女の手は人並みに隆起している沙耶歌の胸に宛がわれていた。 「くっくっく、いい声で鳴くじゃないか」 「ぶ、ぶぶ、部ちょ……んっ」  部長の指先に力が込められ、制服を押し上げる胸のラインが変形する。何で俺は脈絡もなく上級生からセクハラされているんだ。 「くくっ、電気が走ったか? 濡れたか? 背徳感を抱く裏で更なる快楽への期待に胸を高鳴らせたか?」 「エロ漫画の読みすぎじゃないですかねぇっ! とっとと放して下さい!」  悪党面してセクハラ行為をする部長の腕を叩き落すようにして乱暴に振り払い、二、三歩ほど離れる。この人の行動が読めないのは十分知っているつもりだったが、さらに警戒のレベルを上げたほうが良さそうだ。 「考えてみろ。肉体の主導権は誰にあるのかを」 「それと、胸を揉むこととどう関係があるんですかっ」 「高瀬の意識がない今、君がその身体で何をしたところで誰にも咎められないのだ。わかるか? 女の快楽を自由に貪ることを「憑依」というシチュエーションは全面的に許してくれる。むしろエロ行為に及ぶのは憑依する側の義務だっ。いやさ摂理だっ!」 「そんなわけのわからんテーマでテンションあげないでくださいっ!」 「森実。私は百合もBLも、TSも全部好きだと言った。それがどういう意味か、考えたことはあるか?」  じり、と部長が足を前に踏み出してくる。不穏な気配を感じ、俺の脚も一歩後ろに下がった。 「じょ、冗談、ですよね?」 「そう思うか?」  また一歩、じり、と近付いてくる。  同じように、俺も一歩下がる。 「女の快感は、男とは比べ物にならないらしいな」  じり。 「あ、あはは、そうなんですか」  じり。 「君も男だし、本当は知りたいだろう? 女の、快感を」  じり。 「え、遠慮します」  トン、とカカトが壁にぶつかる。もうこれ以上、後ろに下がることは出来なかった。 「安心しろ。優しくしてやる」 「ひっ」  部長の手に両腕を捕えられ、嗜虐的な表情が目の前に迫ってくる。──唇を奪われる。そう思った瞬間。 「きゃああああああああああああああああああああああッ!!」  ノドが張り裂けんばかりに、耳をつんざく女の甲高い叫びを上げていた。 「うるさい。放課後とはいえ、残っている人間はいるんだぞ? 人が来たらどうする」  悲鳴を上げさせた諸悪の根源はいつもの口調でそんなことを言い、パッと俺の両腕から手を放す。それどころか何事もなかったかのように身を離し、演劇部の出入り口へと向かった。 「まぁ、これも想定内だ。ここが演劇部の部室で本当に良かったな、森実」 「ぶ、部長?」 「うかつに正体を漏らすと、こういう展開もありえる。「本当は男」という境遇は、モブ男どもの性欲開放スペルだと覚えておけ」  背中を向けたまま淡々と部長は語る。ようやく、自分が騙されていたことに気付いた。 「え、演技だったんですか……」  一気に足の力が抜け、へにゃあと床に座り込む。さすが演劇部部長だ。本気で襲われるかと思った。 「せっかく君に協力して正体を隠してやったのに、自分からばらすからだ。面白いネタを提供していなければ、本気で快楽漬けにしていたところさ」 「台詞はマジだったんですか!?」 「何度でも言ってやろう。私は、女同士の愛も男同士の恋も性転換モノも、全部大好きだ」 「…………」  改めて、思う。  最重要危険人物だ、この人。 「とにかく君は、自分の立場を十分に理解しておけ。その上で佐川との恋を育むなり、彼の片思いを応援するなりするといい」 「う……や、やっぱり気付いていたんですね」 「森実も佐川もわかりやすいからな。あれで君達の恋心に気付かないのは、よほどの鈍感か……」  高いところから人を見下すような部長の喋りは、廊下から響くバタバタという足音と、幾人かの話し声によって遮られた。 「悲鳴はこの辺りからか?」 「はい。女の子の声でした」 「くく、誰よりも早くここに駆けつけられるとは運がいい。その女子生徒を探すぞ、書記。うまくいけば僕の名声に繋がる」  どうやらさっきの悲鳴を聞きつけて、生徒会の二人がやってきたらしい。というか正直すぎるぞ会長。なんでわざわざ言わなくていいことを言うんだ。 「ほぅ、生徒会長のおでましか。これはまた、随分と与しやすい相手が来たものだ」  アレが取るに足りない相手だと!? 「どんだけ上位存在なんですか、部長」  俺が半ば呆れたような声を出しても、部長は背中を向けたまま、生徒会長とよく似た笑い声を上げて肩を揺らすだけだった。どうでもいいが、会長と部長の喋り方はよく似ている。この学校の上級生は、尊大な喋り方がデフォルトなのか? 「戸締りは任せたよ、森実。私は、少し遊んでくる」  そう言って軽く手を振ると、悠然という言葉の似合う足取りで部長は演劇部のドアを開け、そのまま振り返ることなく廊下へ出て行った。背中でひらひら動くおさげ髪は、まるで犬の尻尾のように、どこか楽しそうに揺れていた。 * * *  今日という日ほど、神様がドSだと確信した日はない。遥か上空で指をさして笑っているだろう相手を睨みつけながら、俺はそんなことを思った。 「あー……くそぉ」  後ろ髪から滴る水が背中に落ちるたび、身体にヒュッと冷たさが走る。突然の雨、ではない。ピンポイントで文字通りバケツをひっくり返したような水量が真上から降りかかり、一秒も経たずに止むようなスコールがあるのなら是非教えて欲しいぐらいだ。 「ひでぇなこりゃ」  スカートの裾を握っただけで、面白いほどに水が絞れる。沙耶歌の家まではどうしたって人通りのある道を避けては通れないから、このびしょ濡れの姿を衆目へさらしてしまうことにまず間違いはない。たった一日の間にいったいいくつトラブルをぶつければお空のドS様は満足するのだろう。 「ってか、嫌われすぎじゃねえ? 沙耶歌」 「『水も滴るいい女、ということでいかがですか』」 「沙耶歌が壊れた……」  間違ってもアイツはこんな気の利いた冗談を言わない。どうやら相当余裕がなくなっているらしい。夕暮れの校舎の外で、びしょ濡れのまま一人芝居をする女子生徒の姿は、滑稽を通り越して憐れでさえある。俺のことだけど。 「何してんだ、お前」 「直哉」  マイスウィートヤンキーが現れる。……いかん、俺自身のキャラも壊れ出した。冷静なつもりだが、やはり内心穏やかではないらしい。 「さ、先に帰ったんじゃなかったのか?」  演劇部で俺の正体を明かした後、当たり前だが後輩二人はかなり困惑をしていた。  沙耶歌の中身が一樹、という状況を受け入れるのに時間が欲しかったのだろう。帰る、とだけ呟き先に部室を出たはずだが。 「俺のことはいいだろ。それより、何で水浸しなんだよ」 「う、その、突然のスコールが」 「雨雲一つねぇよ」  バッサリ突っ込んでくれる。  部長レベルのボケでないと、この男を自分のペースに乗せるのは難しいようだ。 「っていうか……ああ、もぅっ!」  急に顔を赤らめたと思ったら物凄い勢いで身体を背けられてしまう。それどころか、今度は苛立った様子で制服の上着まで脱ぎ始めた。 「そらっ」  つっけんどんな声で、脱ぎたての制服を投げつけられる。 「着ろ」 「へ?」  背中を向けたまま、いつもの三割り増しぶっきらぼうな調子でそんなことを言われてしまった。 「着てろってんだよ。そのまま歩く気かてめぇは」 「着てろって……――――ッ」  なんで? という疑問は、自分の姿に視線を落とした瞬間、即座に消え失せる。  受け取ったばかりの制服を羽織ると、俺は急いで胸元を隠した。  服のままびしょ濡れになると、困ることは沢山ある。しかし、ことコレに限っては男には無縁だった悩みなわけで。そしてこの身体が女である以上、無頓着でいるわけにはいかないわけで。  要するに、この濡れたワイシャツは、ブラの柄やら胸の形やらを盛大に浮かび上がらせる裏切り者に成り果てていた。 「……うぅ」  言いようのない気恥ずかしさが顔を中心に熱を帯びる。ただ胸を見られたという男にとってはなんでもないはずのことが、とんでもないほどに羞恥心を掻き立てていた。 「俺の家、すぐそこだから」  制服を羽織った頃を見計らったのか、いつのまにか俺に視線を戻していた直哉は不機嫌そうな顔つきで言葉を続ける。 「寄ってけ」  不良くずれの後輩が、透けた制服の美少女を自分の家に招いた。その意味を頭の中で整理整頓するより先に、すかさず部長の忠告がリピートされる。 『本当は男という境遇は、男どもの性欲開放スペルだ』  ……いや、まさか、直哉に限って、なあ? 「何、黙ってんだ。そのままで帰ったら、家族が心配するだろうがよ」 「か、家族?」 「ああ――びしょ濡れになって帰ってきて、『なんでもない』じゃねぇっての。わかったんならさっさと付いて来い」  相変わらずぶっきらぼうな口調で吐き捨てるように言い、歩き出す。  この男が何に苛立っているのか正直わからなかったが、確かなこともあった。  直哉はきっと、俺なんかよりもずっと紳士的だ。ヒザ上まで隠れてしまう大きな制服を握り締め、一瞬でも部長の妄言を信じた自分を恥じる。  そうだよ、女の中身が実は男って知ったらむしろ萎えるだろ、普通。家に呼ばれたからって、ちょっとトバしすぎだ俺も。  ……家。直哉の家かぁ。 「へへ……っ」  そういえば行くのは初めてだったことを今更ながらに思い出し、頬が緩む。 「おら、さっさと来い」 「あ、ああっ」  どうやら奴はアメとムチの上手な使い方を知っているらしい。悔しいが認めてやる。  サンキュー神様!  ピンク脳。という言葉は、何かの本で読んだのか、それとも部長から聞いて知ったのか。ともかく、単語の一つ一つをいちいちエロい意味で捉えてしまう、健康的な思春期男子ならありがちな思考回路のことをそう言うらしい。  では女の身体でありながらそのピンク脳を発動させてしまった自分は、もしかしたらそこらの男よりもエロいのか。 「いま、誰もいないから」  そんな台詞で一瞬とはいえ男女の営みまで妄想してしまった俺に、その反証はできそうになかった。まずいことに、さっき家に来いと言われたときに感じたのは貞操の危機だったが、『誰もいない』という言葉で浮かび上がったのは期待だった。生徒会長ではないが自分がここまで感情を処理しきれない人間だったことに軽くショックを受ける。  俺は自分が信用できなくなっていた。そのうち、溢れる気持ちの命ずるまま沙耶歌の身体で直哉を押し倒してしまうんじゃないかと不安すら覚える。 「そっち姉貴の部屋だから。服乾かしている間適当に何か……」 「直哉」  家に入り、間取りの案内を淡々と説明してくれている直哉の袖をひっぱる。  怪訝な顔をして俺を見下ろす男を、俺は真剣な面持ちで見つめ返した。 「もし俺が俺でなくなったときは……そのときは、お前が止めてくれ」 「何だそのカッコイイ台詞。お前まさか、内なる獣が潜んでいるのか?」 「……」  きらきらした目で、そんなことを言われてしまった。いや、冷静に振り返ってみれば俺の台詞もちょっとファンタジーっぽかったよ。うん。  でも直哉のはなんか、普通の発想の斜め上をいってる。 「な、なんだよ。その生暖かい目は」 「いや、お前可愛いなって」 「くっ……また、お前は。副会長の顔と声で、そういう冗談はやめろ」  童心に返っていた瞳は一瞬でもとの不機嫌さを取り戻すと、顔ごとそっぽを向いてしまった。 「おーい、冷たいじゃんかよ」  俺が一樹だったときは、こういう冗談に容赦のないツッコミを食らわしてくれていた。  つーか冗談ではなく本気だけど。直哉マジ可愛い。 「うっせぇ。そういう冗談を女に言われるのと、男に言われるのとじゃ違うんだよ」 「いや、だから俺は一樹で……」 「さっさと着替えて来い、高瀬」  背中を向けたまま、名前の部分をやたら強調してそう呼ぶと、直哉はそのまま振り返らずに俺から離れていった。 「……なんだよ、それ」  どうも、沙耶歌の中身が一樹だと認められていないような気がする。  直哉の姉の服に袖を通しながら、俺はさっきの冷たい態度を思い返していた。  すぐに信じろという方が無理な話だということぐらい、一応は理解している。だが沙耶歌が一樹の演技をして何の得がある。それとも、気が狂っていると思われた? 「『彼は死んでいません。一樹はこの身体に乗り移り、私の中で生きているんです』」  鏡に映る自分に「幼馴染の死を認められず精神崩壊した憐れな少女」を演じさせる。なかなかサマになっていた。ただ悲しいかな、俺は人一人を狂わせられるほど魅力的な男じゃない。特に沙耶歌の場合、自分は生徒会長の信奉者であると公言している。  幼馴染が一人死んだところで、オカルトを持ち出して性格を豹変させるような女ではない。少し付き合ってみればそのぐらい誰でもわかるはずだ。 「うーん……」  着替え終えた俺は、部屋から出ると天井に視線をさまよわせながら直哉の待つリビングへ向かった。正体をばらした以上は、以前のように接して欲しい。だがぶっちゃけた話をすれば、自分が沙耶歌でなく一樹であると強く主張する必要は実はどこにもなかった。  そんなもの、俺の遂げるべき目的とはまったくの別問題だからだ。  直哉と雛菊を恋人同士に。そのバックアップをするはずが、気が付けばさまざまな問題に振り回されている。 「どうすればいい?」 「『そんなの、一樹が決めることです』」 「ははっ。だよなー」  空しすぎる一人芝居に淀みはない。まるで本当に沙耶歌と話しているかのように、スラスラとそんな会話が出来た。 「悪い。お前が何をしているのか、さっぱりわからない」 「へ?」  声を掛けられた方を振り向くと、ちょうどリビングのドアを開けたらしい直哉が呆れ顔で俺の前に立っていた。 「よくやってんのか? そういう一人コント」 「コント!?」  会心の出来だと自負していた情緒溢れる一樹・沙耶歌の一人二役も、この後輩にしてみればコントになるらしい。 「まぁいいや。入れよ」 「いや、よくないよくない! 直哉。お前、この沙耶歌の演技がどれだけハイクオリティかわかってないよっ! 演劇部員ならもうちょっと注目しようぜ!」 「コーヒー淹れてあるから飲め。あ、砂糖とって来るけど、お前は?」 「二つ。じゃなくてだな! 聞けよ俺の話っ」 「あーあー、まずは座って落ち着こうな、副会長」 「年上を子供みたいにあやすなーっ!」  口で激しく騒ぎ立てる間も、ぐいぐいと背中を押されテーブルに導かれる。一応それなりに力を入れて抵抗したはずなのに、ほとんど相手のなすがままだった。  ……沙耶歌、よえー。 「で、まず聞きたいんだけどな」  コーヒーと砂糖を俺との間に置き、直哉が口を開く。人の話は聞かないくせに、自分の話は聞いて欲しいようだ。 「あーもー、何でも聞け」  男女における筋力差を頭の片隅で思案考察しながらコーヒーをかき回し、やけ気味に応える。 「……なあ、お前カズキなんだよな?」 「そう言ったろ? 見た目はこんなだけど中身は一樹。正真正銘、お前の知っている男、森実一樹だ」  黒い液体の中にある抵抗感をスプーンで潰し、糖質の向上を図る。試しに一口含んでみるが、甘いのは二つでなく三つにすればよかったと後悔した。 「ならよ……なんでそんな服を選んでんだボケッ!」  口の中に広がる苦味を消すためツバを飲み込んでいると、急に直哉がキレだした。  カフェイン水との戦いを一時取りやめ、自分の姿を見下ろす。胸の辺りに控えめなサテンリボンが付いたブラウスと、やけにひらひらとして柔らかい手触りのスカート。足が冷えるので悪いと思いつつニーハイも借りている。……別に変な格好ではないと思う。 「あのな、姉貴の服は男物の方が多いんだよっ。私服でスカートはいているときなんてほとんどねぇよっ」 「え? じゃあこれ、よそ行きか?」 「そーじゃねぇ! お前、男なのになにフツーに女物選んでんだよっ!」 「…………ああっ!」  指摘されるまで気にも留めなかったが、たしかに上下とも言い逃れ不可能なレベルで女物だった。ズボンなどもちゃんと視界に入っていたはずなのに、なんでナチュラルにこの服を選んだんだ俺っ。 「お前さ、俺に信じさせる気あんのか? 副会長の中身がカズキだって」 「信じるも何も、本当のことだけど」  説得力ないねこれじゃ。ははっ。 「女装趣味があったのか」 「違うわいっ! 気がついたらこの服に着替えていたんだよっ」 「嘘くせー……」  もっともなことを呟き、コーヒーを口に運ぶ。やっぱりというか、直哉は俺の話を疑っていたようだ。 「ま、今はいい。それで本題だけどな」 「うん?」 「お前、いじめられているのか」 「…………」  やっぱ、聞かれるか。そりゃそうだ。びしょ濡れの先輩を自分の家に呼んでおいて、事情を聞かないってことはない。 「助けさせろ」  直球だった。コイツの中では、沙耶歌がいじめられているのはもう確定済みらしい。 「いや、でも申し出はありがたいけど、これは沙耶歌自身の問題で」 「もう一度言うぞ。助けさせろ」  繰り返し使った言葉は、いっそう語気が強められていた。  暑苦しいほどのお節介なのか。暴走しまくった正義感からなのか。いずれにせよ、その台詞はあまり直哉らしくない。 「俺は、姉貴を助けられなかった」  こちらの戸惑いが伝わったのか、幾分かトーンダウンし語り始める。 「お前みたいにびしょ濡れのまま帰ってきたときもあった。けど姉貴は『なんでもない』って、笑ってごまかすだけだった」  悲痛に顔を歪ませ、テーブルの上に投げ出された拳が固くなる。……直哉の姉さんも、いじめられていたのか。 「お姉さんは、いま?」  あの部屋には生活感がちゃんとあった。だから、いじめを苦に自殺なんてくさくさする結末ではないと思うが、それにしたって直哉の落ち込みようは気になった。 「元気に走り回っているよ…………バルンバルンうるっせー音を立ててな」  いじめられっ娘を通り越して不良化している! 「あの大人しかった姉貴が髪を染めて、峠を攻めるだの風になるだの、わけわかんねーこと言い始めて……」 「あああ、もういいっ。もう話さなくていいからっ」  言葉尻がだんだん弱々しくなり、ついには頭を抱え込んでしまった。姉がバイクを乗り回すようなキャラに変貌してしまったのがショックだったのか、それとも、いじめられているのに自分が力になれなかったことが悔しいのか。いずれにせよ、トラウマになっているのは確かなようだ。 「だから俺は、もういじめを見過ごさねぇ。お節介でも、ウザがられてもっ! 絶対に力を貸すって決めたんだっ」  高らかに熱い宣言をしてくれるが、俺の心は冷めていた。 「沙耶歌は、救えなかった姉さんの代わりか?」 「なんでそうなるんだよ」  ムッとした目で睨みつけてくる。直哉が心根の優しい奴なのは知っている。けれど、望まない人間にまで強引に手を貸したいというのはただのエゴだ。  頼る人間など一人もいないこの状況で、直哉が味方になると言ってくれたことは本当は凄く嬉しいはずなのに、まるで本物の沙耶歌みたいな皮肉った考え方をしている自分がそこにいた。 「いじめから救ってやるなんて、思い上がりだよ。そもそもお前はただの後輩だろ? クラスどころか学年も違うのに、その救いの手はちゃんと俺に届くのか?」 「……ハッ。俺は、救いたいなんて言ってねぇよ」  意識しているのか、鋭い直哉の目つきがいっそう研ぎ澄まされる。 「いいか? 俺は、姉貴みたいに自分でいじめを解決して、その結果バイク乗り回してハードラックとかなんとかワケのわかんねぇ台詞を聞かされるのが嫌だから助けさせろって、そう言ってんだよ」 「いや、お前の姉はかなり特殊なパターンだよっ!」  コイツ、世間狭ッ! 姉が基準なのかこのシスコンは。 「断言できるのか? 副会長がある日突然、特攻服着てバイク乗り回すようにならないって、そう言えるのか?」 「言えるよ! 沙耶歌の壊れっぷりが半端ねぇよそれ!」 「へへっ、俺の姉貴だって前はあんなんじゃなくて、明るくて一生懸命で、でも少しドジでよ……可愛かったなぁ」  なにやら遠い目をして天井を見上げながら昔に思いを馳せている。俺の好きな男は、筋金入りのシスコンだった。 「とにかく、お前が望もうと望まないと関係ない。助けさせろ」 「もういっそ清々しいぐらい自己中なんだな、お前」  深い脱力感に襲われるまま、テーブルに上半身を預ける。何だかどっと疲れてしまった。もうコイツの納得するようにさせてやるしかないと、諦めの入った気分で直哉の顔を見上げる。 「なんだ、やっと気付いたのか?」  いたずらを成功させた子供のような笑顔で自己中を認め、ニッと顔を綻ばせるシスコン男にキュンと胸が締め付けられたのは、一生の秘密にしておくべきだと改めて思った。    *   *   *  【生徒会副会長の知られざる裏の顔! 副会長、放課後はケモノ?】 「ゴシップ記事かよ」  直哉の協力を得たその翌日。いまどき三流雑誌でもお目にかかれない見出しの記事が、学校新聞の一面を飾っていた。マスコミにネタにされる芸能人の気分というのはまさにこんな感じなんだろうなぁ、などと人ごとのように考えながら内容に目を通す。  いつの間に撮られたのか、先日の濡れネズミ状態になった沙耶歌の姿が記事の添え物としてでかでかと載せられている。書いてあることを要約すると、高瀬沙耶歌は変態女で、わざとびしょ濡れになり直哉を誘惑したらしい。  写真に目を凝らせば、なるほどなかなか際どいアングルでびしょ濡れワイシャツの透けブラが確認できる。検閲っつーか教師達がまったく機能していないことを窺わせる、そんな新聞だった。 「先輩……」  体調不良を疑わせる暗い声に振り向くと、怪獣の名を冠するヘアスタイルの後輩がうろんな目つきで俺を見ていた。 「ああ、ヒナちゃん。おはよう」 「おはようじゃありませんっ。さーちゃん先輩がエロ魔人って、どういうことですか!」 「誰のことだよそれっ!」  そんな称号は記事のどこにも書かれていない。っていうか後輩。こんな新聞を鵜呑みにするな。 「どうしてこんなこと書かれているのか、こっちの方こそ知りたいよ」 「え? じゃ、じゃあ、全部ウソなんですか?」 「……いや、写真は本物だけど」 「やっぱり先輩はビッチ化しちゃったんですねっ! サヤカズキビッチですか!」 「人をロシア人みたいに呼ぶんじゃない!」  フェミニストのつもりだったけど、このアマになら手を挙げてもいいと思う。いまの俺は女だし、ちょっとぐらい叩いてもノーカンだよな? 「あわわ、そ、そんな怖い顔しないでくださいよぉ。冗談ですから。ヒナ、最初から先輩のこと信じていましたよー」 「……」  その台詞の真偽はさておき。コイツ本当に、うざい。 「でも写真が本物なら、どうしてこんなずぶ濡れに……?」  雛菊は壁新聞を見上げながら、アゴに人差し指を添えて小さく首を傾げる。これ以上彼女の所作を眺めているのは不健康と判断し、俺は目を逸らしつっけんどんに応えた。 「関係ないだろ。ほっとけ」 「ヒナ、報道部にお友達いますよ?」  こちらの態度にめげることなく、この新聞を作った部活動の情報を口にする。恐ろしいことに、視界から追い出したはずの顔が頭の中でニコニコしていた。 「この記事を誰が書いたのか、聞いてきてあげてもいいんですけど」  つまり、俺の知っていること洗いざらい喋って自分に協力を頼めと言っているわけだ。直哉といい、強引なお節介屋ばかりか俺の周りは。 「いや。俺が直接聞く」 「会うだけ無駄ですよぉ。記事に書かれている本人が、これは誰が書いたのかって聞いても普通は答えてくれませんから」  そんなことはわかっている。だがそれでも、雛菊に頼み事をするというのはシャクだし、何より貸しを作ってしまうのが恐ろしかった。どんな形で返すことになるのか、まったく想像つかない。 「せーんぱい? どうしましたかー」  甘えるような声色で、笑顔の腹黒娘が廊下の景色に割り込んでくる。ただの思い過ごしならいいが、その笑みは事情を話すまで逃がさないとでも言いたげだ。 「どけ」  俺と雛菊の間に走っていた奇妙な緊張感を打ち破ったのは、そんな不機嫌な言葉だった。 「けっ」  露骨に苛立った声を上げ、普段よりずっと凶悪そうなしかめ面の後輩が壁にかかった新聞をつかむ。何をするつもりなのかという一瞬の間に、紙が勢いよく引き裂かれる音が廊下に響いた。 「いつまで貼っとく気だ、こんなムナクソ悪いモノ」  破り取ったばかりの新聞の残骸を握り、鋭い目つきが俺達を睨む。いきなり記事を破るという行為を目の当たりにしたせいもあってか、少しだけ怯みそうになっ――。 「おはようございます、ナオくん」  ったのは、俺だけだったらしい。雛菊の度胸が据わっているのか、自分がビビリすぎなのか。なんとなく後者のような気もするが、それはとりあえず棚の上にでも置いておく。 「おっす。……にしても、なんでこんな新聞が出回っているんだよ。昨日の今日だろ?」 「鋭いな、お前」  言われてみればその通りだ。俺が水害を被ったのは下校時刻間近の放課後だった。それなのに、次の日にはもう新聞の一面を飾る記事が出来ている。  プロならいざ知らず、学生の部活動にしては行動と情報が早すぎだ。 「こうは考えられないか? つまり」 「ナオくんナオくん。どうして先輩はびしょ濡れだったんですか?」  まるで無垢な少女が老婆に質問をするかのような調子で、腹黒娘が推理パートに入ろうとした空気をぶち壊してくれた。……わざとか、貴様。  雛菊は相変わらずニコニコするばかりで、その真意は読み取れない。 「記事の内容が本当なら、ナオくんは事情を知っているはずですよね」 「さぁな。知らねぇ」 「!」  直哉が、雛菊に嘘をついた? 好きになった女のためならどんなことでも喜んでやりそうな、あの直哉が? 「ふーん。二人だけの秘密ってワケですね。ヒナは仲間はずれですか」  望ましい回答を得られなかったのが不満なのか、いつもの人懐こい眼差しに心持ち冷たさが宿る。笑顔を常時貼り付けている彼女にしては、かなり珍しい変化だ。 「じゃあ、寂しいヒナはバイバイします。おふたかたも、早く教室に入ったほうがいいですよー」  そう言って小さく頭を下げると、雛菊は小走りに階段を昇っていった。 「……よかったのか?」  二人きりに戻り、横目で直哉の機嫌を窺う。さっき思い浮かんだ推理パートをリトライするよりも、この男がどういうつもりであんなことを言ったのかが気になった。 「仕方ねぇだろ」  仏頂面のまま固定されていた顔が、その台詞を皮切りにして融解していく。 「下手に話して福山まで巻き込んじまったら、今度はアイツがやられそうだ」 「あー……」  確かに、一理あった。  いじめをする側は、いじめから救おうとする人間さえも攻撃対象にする。特に雛菊はいろいろと恨みを買っていそうだ。というのはさすがに自分の主観が強すぎるが、なんとなくいじめられやすそうなタイプには見える。そんな少女がいじめの渦中に飛び込んできて巻き添えを食らわない保障は、さすがに出来なかった。 「優しいんだな、直哉」 「べ、別に福山のことが心配だからとかじゃねぇしっ。いじめがこれ以上増えるのがヤだっただけだしっ」 「はいはい、ツンデレツンデレ」 「先輩みたいなこと言ってんじゃねぇっ!」 「……え、マジ?」  心と耳が痛い。やっぱ部長の影響受けているのかな、俺。 「ったく、緊張感のない野郎だ」  呆れたようなため息を吐き出される。 「とにかく、これからどうするかは決まったな」  破り取ったばかりの新聞を強く握り、直哉が意気込みを表明した。  即ち報道部への突撃だ。雛菊は会うだけ無駄だと言ったが、それでも手をこまねいて頭を悩ませているよりはずっとマシだろう。  行動しなければ、何も始まらないのだから。  白い目。蔑みの眼差し。同情的な瞳。憐憫を含んだ眼。お世辞にも好意的とはいえないそういった視線が、直哉と別れてから昼休みに至るまでずっと向けられていた。  例の新聞による不名誉な宣伝効果は、早くも全校生徒へ行き届いたらしい。 「きっつぅ……」  連中が信じているような後ろ暗いことは何もないのに、ギスギスした空気を浴びているうちになぜだか追い詰められている気になってしまう。それは学食でも同じで、いくら俺0でも周囲の注目を浴びながら優雅にランチタイムを過ごせる自信はなかった。  人目を避けていじめられっ娘の定番、便所飯――といきたいが、やはり女子トイレに入るのはいまだに抵抗感を覚えるため、校舎の裏庭に設けられた石垣に腰を下ろし購買の戦利品を広げる。  コッペパン一個を頬張りながら、今朝掲示板に張り出されていた新聞の縮小版に再度目を通す。朝は雛菊に中断されてしまったが、考えをまとめるためにももう一度コレには目を通す必要があった。 「むぐ……」  マーガリンとイチゴジャムの香りで口の中を満たし、限りなく真実に近い捏造記事を読む。普通、放課後に起こった事件を一晩で新聞に纏め上げられる生徒がいるとは考えにくい。  だが、記事があらかじめ用意されていたとしたらどうだろう。すでに完成した原稿に現場で撮った写真を貼り付けるだけならば、一時間もかからずに出来る。自分がこれからやることに捏造をくわえて記事を作り、実際に書いた内容を行動に移せばあっという間にこの新聞は本物として扱われるわけだ。  つまり。 「いじめの主犯は、報道部の中にいる!」  某探偵っぽくスタイリッシュに言ってみる。関係ないが、漫画などの探偵はどうしてあれだけ自信満々に内部犯の仕業だと言ってのけるのだろう。通り魔が跋扈するこの世の中、外部犯の場合が内部よりもずっと多いのにな。  しかしもし俺の状況が探偵漫画だったなら、きっと報道部はフェイクで真犯人はやはり内部の人間というパターンかもしれない。 「……」  演劇部の面々の顔を思い浮かべる。直哉は暑苦しい正義感で協力を名乗り出た。雛菊も一応、解決のための情報を寄越してくれた。部長は性格が捻じ曲がってるものの、こうして裏から手を回すような陰湿ないたずらはしない人だ。  結論。俺の内部は、全員シロ。 「『おめでたい人ですね』」 「やかましい」  ドライな沙耶歌らしい台詞を紡ぐ自分の口に、パンを突っ込んで黙らせる。無意識の表れなのかなんだか知らないが、俺が沙耶歌として口にする言葉はいちいちシビアだった。 「ここにいたか、高瀬」 「ふぉいひょふ?」  威圧感を相手に与えるような声に顔を上げると、生徒会長と書記のセットに食事の中断を強制された。まさかこんな場所で、しかも会長の方から話しかけてくるとは思いもよらず、もともとの苦手意識とも相まって惜しげもなく怪訝な顔を浮かべる。 「なんだ高瀬、その態度は。物を口に入れながら喋るんじゃない」  ……そっちかよ。意外と寛大だ。 「ふん。しかしその様子ならば大して気に病んでいるわけではない、ということか」 「?」 「取り越し苦労だったようだな。行くぞ書記」  自分の世界が他人にも共通認識されていると信じて疑わない生徒会長は、勝手に何かを納得して背中を向ける。……結局、何をしに来たんだ? なんて、考えるだけ無駄なのでただその後姿をぼぉっと見送った。 「その、逆境に遭っても平静を乱さない心は実に好ましい」 「はあ」  わざわざ首だけ振り向いて不敵な笑みを見せ付けられる。  よくわからんが、褒められたらしい。 「君の復帰を、僕は昨日の僕以上に期待して待っているぞ」  相変わらずの口調で芝居じみた台詞を残し、会長は今度こそ歩き去っていった。やれやれとため息をつきたい気分だが、まだその時ではないことぐらいわかる。  なぜなら、腰巾着みたいに会長に引っ付いていた書記の女の子が、物っ凄い冷たい目で俺を睨んでいるからだ。 「えっと。なん、ですか?」 「…………」  俺から声をかけても、書記はじっと相手を凍えさせるような瞳を向けてくるだけで何も語ってこない。 「あの、会長、行っちゃうけど?」 「……会長は」  ようやく口を開いてくれた。 「会長は、好ましいと言いましたが」  確かに言われた。ちっとも理解できなかったけど。 「スカートのまま脚を組んで座る女性は、どんな人間だろうと好ましく思えません」 「…………ぬわっ」  無意識に太ももを重ね合わせていたことにいまさら気付き、慌てて脚を閉じる。  これか。冷たい目を向けられていたのはこれが原因か。というか、なんかすっげぇ恥ずかしい。丈の長さが長さだからどれだけ屈もうともスカートの中を拝める確率はゼロに等しいが、この顔の熱さはもうそんな問題とはまったく別のところにあった。  書記や生徒会長に脚を組んでいる姿を見られてしまった。そのこと自体がとんでもない後悔と赤面を引き連れてくる。何もそこまで恥じ入る必要はないだろうと心の片隅では首をかしげているが、そういった気持ちを冷静に分析できるほど俺は落ち着いていない。 「気をつけなさい。ただでさえ、副会長はふしだらだというウワサが広まっているのですから」 「あ、ああ……うん。ありがとう。平気」 「まあ会長の言うとおり、余計な心配でしたが。副会長があんなウワサ程度で傷つくはずがありませんよね」 「心配、してくれたんだ?」 「……」  書記の女の子は眉一つ動かさないまま、冷たい視線をやっと逸らしてくれた。 「では、また」  身体を翻し、遠くなった会長の背中を追う。その足取りはまるで、列から少しはぐれてしまったひな鳥が親鳥の傍に行こうとしているような、そんな微笑ましさを想像させてくれた。 「……悪い奴らじゃ、ないんだよな」  少しだけ。ほんの少しだけだが。  生徒会への評価を変えることのできた、有意義な昼休みだった。 「ブカツノジカンダ」  ホームルームが終わり、まず目指すは直哉の教室へ。と息巻いていた俺の前に、カタカナっぽい発音で部長が立ちはだかった。 「つーか、行動早ぇっすね」  担任によって多少の差異はあるが、だいたいホームルームが終わる時間はどのクラスでも同じだ。ましてや部長はフロアすら違うのに、なんで教室を出たばかりの俺を待ち構えられるんだろう。 「くくっ、そう買いかぶってくれるな。縮地法なんて体得しているはずがないだろう?」 「いや、そこまで考えていませんでしたけどっ」  せいぜい、瞬間移動でもしているんじゃないかって疑った程度だ。……うん? 「とにかくそこ通してください。俺、これから用事があるんです」 「報道部は壊滅した。残った部活動は我々演劇部だけだ」 「いまどんな世界が部長の中で構築されているんですかっ」 「ある日「部活動」は自由を求め「生徒会」に反旗を翻した。だが第三勢力「委員会」の卑劣な計略により部活動一派は軒並み壊滅。唯一残ったのは、四人の演劇部員だった――」  なんか、イキイキと現代ファンタジーっぽいシナリオを語りだした! 「ごめんなさい、やっぱ説明いりません。むしろしないでください」 「ここから面白くなるのだが……残念だ」  そこから部活動一派の逆転劇は無理だろ、どう考えても。 「っていうか、なんで俺が報道部に行こうとしているってわかったんです」 「以心伝心はロマンだ」 「たまには真面目に答えてください」 「不出来なゴシップ記事に目を通したせいで、気分が優れないんだよ。心のケアは君の役目だろ?」 「メンタルケアが必要なのはむしろこっちの方っすよ……」  部長との会話は、とにかく疲れる。 「ゴシップ記事って、やっぱ部長もあの新聞を読んだんですね?」 「ああ、酷い話さ。私の後輩を弄っていいのは、私だけなのにな」  果たしてどっちが酷いのか、よーく考えてみてはくれないものか。 「人のオモチャで勝手に遊ぶ輩には、相応のお仕置きが必要だ。そうは思わないか?」 「まるで、もう犯人がわかっているような口ぶりですね」  この際、オモチャ扱いされたことは置いておく。  彼女の万能っぷりを鑑みれば、犯人の目星をつけていてもなんら不思議はなかった。 「知りたいか? 犯人は誰か」  けれど、これは俺が何とかしなければいけない問題だ。 「俺にやらせてください」 「む?」 「このことは、俺が自分で片付けます。悪いけど、部長は手を出さないでくれませんか」  自分自身のトラブルを他人に解決してもらったところで、後に残るものは何もない。助けてくれる人が傍にいなければ、また同じようなことが起こった時に立ち止まってしまうからだ。 「ふぅん。私を蚊帳の外に置こうと言うわけだ?」 「そういうわけじゃ」 「まぁ、何にせよ可愛い後輩の頼みだ。要望通り、私は手を引く。君が責任を持ってトドメを刺せ」 「トドメって……ま、まぁいいや。ありがとうございます」  まさか本当にこちらの要求が通るとは思っていなかったため、少し拍子抜けする。なんだかんだと難癖つけられて、結局最後は丸め込まれてしまうのかとも思っていたのだが。 「だいぶ高瀬としての振舞いが板についてきたな」 「え?」 「彼女もまた、自身の問題を人に投げるやり方を好ましくしない、まっすぐな人間だった。君の今の演技は、口調こそ男だったがなかなか堂に入っていたぞ」 「そりゃ、どうも」  これは俺自身の正直な気持ちだ。ましてや演技であるはずがない。  だが、どこか違和感もある。本当に、俺はこんな主張をするような人間だったのだろうか。森実一樹として生きていた、たった数日前の自分が、いまはもうおぼろげで不確かになっていた。 「しかしなんだな。私は君のお願いを聞いたのに、君が私のお願いを突っぱねるというのは不公平のような気がしないか?」 「へ?」  俺のマヌケな反応に、部長は心底楽しそうな笑みを浮かべた。 「さあ後輩。部活の時間だ」 「あ、あはは……」  その言葉はある意味、予想通りで。手のひらの上で踊らされているのに気付かず、一瞬でもこの人を説得できたと思い上がった自分が滑稽で。  俺は、小さな違和感も忘れ、乾いた笑いを漏らすのだった。  演劇部に連行された俺は、部室に入るなり腹筋を命じられた。その最中のことである。 「それ、ふっ、ホント、んっ、なんっ、ですか?」 「私は冗談と屁理屈は言うが、嘘はつかないよ?」  目標回数の折り返し地点に差し掛かった頃、もはや基本スタイル化したイスの上の文学少女は、まるで世間話をするようにある女の名前を呟いた。  報道部の発行した、沙耶歌の中傷を目的とした捏造記事。その、作成者の名前を。 「でも、アイツが犯人だなんて……」 「犯人とは人聞きが悪いな。彼女はただ報道部の一員として、執筆活動を行ったに過ぎないのだから。ほらほら、喋ってないで腹筋を鍛えろ。あと二十回」 「す、少し休ませてください」 「ははは、こいつめ。君ならあと五十回はいけるだろう。甘えるな」 「一樹だった時と、比較、しないでください」  ただでさえ、同世代の女子と比べてもこの身体は体力がない部類に入る。……よくいままで演劇部としてやってこれたな、沙耶歌。 「まったく、しかたのない。では休憩。四十秒で回復しろ」 「何気にスパルタですよね、部長って」 「こんな心優しい美少女に向かってなんという評価を」 「自意識過剰も行き過ぎれば芸術ですね」  確かに悪い顔立ちじゃないけどさ。 「ところで突っ込んでくれないのか? 『なんで犯人の名前言っちゃうのよっ。もうバカっ、知らない!』って」 「『手は引いたが口を出さないと約束してはいない』とでも言う気でしょう、どうせ」  屁理屈は言うって、ついさっき堂々と宣言しやがったし。  まぁ、解決は早い方が良いに決まっているけど。 「私の熱演に突っ込めよぉー、寂しいぞー」 「自分のキャラ崩してまで俺をからかいたいんですか、あなたはっ」 「……呼び方」 「な、なんです?」 「いや、いい。では真面目に語り合うとするか」  それまでのテンションを切り替える合図のように、部長は持っていた本を閉じ、イスから立ち上がる。……なんなんだ、いまの間は。 「改めて言うが、あの記事を書いたのは報道部二年、日立優生(ひたちゆう)。高瀬と同じクラスで、森実が夏休みの始めに交際していた相手だ」 「一週間で別れましたけどね」 「それも知っている。しかしなんだな。生前の君は本当にロクデナシだね」 「言葉もありません」  そもそも付き合った動機からして、自分が直哉に抱く想いを拭い去るためのものだったし。純粋な想いで告白してきた女の子に対し、俺は、不実な理由でその気持ちに応じたのだ。 「しかし、解せんな」 「え?」  名探偵が謎解きをするように、腕組をしてゆっくりと部室の中を無目的に歩き回る。その足取りは小芝居じみていて、それでいてどこか緊張感をにおわせていた。 「調べたところ、高瀬が日立に敵視される要因はどこにもない。なのになぜ彼女はあのような記事の作成に着手したのか? 私にはそれがわからない」 「……俺には、まだ信じられません」 「うん?」 「ユウは、捏造記事を作るなんて真似が出来る女じゃありません」 「ほぅ、庇うね。モトカノの欲目かい」 「……バカ、ですから。アイツ」  たった一週間の付き合いでしかなかったが、優生のことはだいたい理解できた。そのぐらい彼女は単純だった。  それこそ、机の上に花瓶を置くことの意味を理解してるかどうかも怪しいぐらいの、バカだ。俺の行動を先読みし、あらかじめ記事を作るなんてやり方など思いつきもしない単純バカだ。靴箱に「死ね」と書き殴るぐらいのシンプルな手段ばかりが続いていたのなら納得できないでもなかったが、裏に手を回すような攻撃は彼女には不可能だと思う。  なぜなら、日立優生はバカだからだ。 「……くくくっ。はーはっはっはっはっはっはっ!」  何がおかしいのか部長は手のひらで顔を覆い、悪党っぽさをにおわせる高笑いを上げた。 「なるほどな。元恋人をつかまえて、君は彼女がバカだから犯人ではないと信じられるわけか。はっはっはっ!」 「とりあえず、その変な笑いを引っ込めてもらえませんか」 「くくっ、いや失礼。しかし君は普段大人しそうな顔をしているくせにそういうことを考えているわけだ。このムッツリめ」  エロ方面に受け取れるようなニュアンスでさらに忍び笑いを重ね、ゆったりと動いていた足取りがロッカーの前で立ち止まる。 「さて、君らはどう思うかね」  部長がロッカーの戸を思い切り引き寄せ。  同時に。 「うにゃんっ」 「……ッ」  見覚えのある後輩達の顔が、将棋倒しのようにボトボトと床に落ちてきた。 「ヒナ、ちゃ……な、お……」 「え、えへへー。こんにちわです、先輩」 「…………アガガガ」 「ふははっ、いい顔だぞ諸君。期待通りだ」 「部長……アンタ……」  言いたいことは、たくさんあるが。  とりあえず、年頃の男女を一緒くたにしてロッカーに閉じ込めるその神経を疑っておいた。 「さあ先輩、説明してください。どうしてヒナを仲間はずれにしていたのですか?」 「まず俺に質問させてよ。なんでこの二人をロッカーに入れていたんですか、部長!」 「その前に私は聞きたい。狭い場所で福山と過ごす時間はどうだった? 佐川よ」 「……あが」  直哉は真っ赤な顔をして、奇妙なうめき声を上げる。ロッカーから出てきたばかりのときと比べればだいぶ回復したようだが、しばらくマトモに会話はできそうになかった。 「なんだ、つまらん。あれしきのことで、ここまで取り乱すとは」 「直哉は純情なんです。そんなことより説明」 「ヒナは純情じゃないって言うんですか? ヒドイですっ。ヒナだって、いつナオくんにエッチなことされるのかってビクビクしていたんですよ?」 「もうちょっと友達のこと信用してあげようよ!」 「カオスだね。なかなか心地良い喧騒だ」  この人は本ッ当に歪んでいるな。 「それで、どうだ? 福山。それに佐川。モトカノをつかまえて平然とバカ女だと断ずる先輩を目の前にした感想は?」 「んな……っ」  なんでいま、そんなことを聞くのか、理解ができなかった。  いつから雛菊達をロッカーに忍ばせていたのか、それはわからない。だがおそらく、二人の姿を隠した理由は、いまの質問をするための布石だったのだろう。もし直哉や雛菊が目の前にいたなら、俺はきっとあんな風に素直な気持ちを吐き出さなかった。優生がバカ女なのは確かだが、もっとオブラートに包んだ言い方に変わったはずだ。  部長相手だと、なぜか隠し事や誤魔化しをする気が失せる。どうやら俺は、そういった気持ちを完全に見透かされ利用されたらしい。 「どうって……」 「こんな男に手を貸す義理はない。違うか?」  部長の目的は、まったくわからない。言葉だけを聞いていれば、俺を孤立させようとしている風にしか受け取れなかった。 「……ヒナは、先輩が女の子にだらしない人だって、ちゃんと知っていました」 「ふふ、そうか」 「いまの話を聞いて、女の子にだらしがないだけでなく、薄情な人だっていうのもわかりました」 「賢明だ。では福山はここで手を引──」 「でも、ヒナは先輩のお手伝いをします」 「え?」  俺と部長の声がハモる。それぐらい、雛菊の言葉は意外なものだった。 「先輩の悪いところも、もちろん良いところも、ヒナは全部好きなんです。悪いところが一つ増えたぐらいで、ヒナは先輩を嫌いになんかなりませんよぉ」  ニコニコといつもの純粋さを演じているような笑顔で、さらりと告白じみた台詞をあてられる。  どうやら俺が思っていた以上に、この子は、俺のことを好きでいてくれていたらしい。  その気持ちを直哉に向かわせるのは、かなり骨が折れそうだ。 「……佐川はどうだ?」  硬直から復活した男に視線を移し、部長は雛菊にしたものと同じ質問を向ける。 「いじめられている奴をほっとけって言うのか? バカ言うんじゃねぇぞコラ」 「やれやれ。ずいぶんと後輩に親しまれているな、森実」  呆れているのか、それとも面倒になったのか。どこか疲れたようなため息を天井に向かって吐き出し、部長は小さな声で何かを呟いた。 「……で……かれが……のに」 「何です?」 「いいや、なんでも。君らがその気なら、私も問題の解決に手を貸すことはやぶさかではない、と言ったんだ」 「?」  気のせいかもしれないが、今さっきいつになく憂いを含んだ顔つきになっていた。すぐ普段の調子に戻ったし、やっぱりただの勘違いだろうか。 「解決も何も、犯人はわかったんだろ? ならそいつをシメれば終わりじゃねぇか」 「直哉、それは」  発想がヤンキーそのものだった。 「佐川。君は右の頬を叩かれたら左の頬を殴り返す主義か? 私もそういうのは嫌いではないが、あまり褒められたやり方ではないぞ」  嫌いじゃないって宣言している時点で説得力ない。 「じゃあこのまま黙ってやられてろってのか? ああん?」 「そう凄むな。私だって泣き寝入りは嫌いだよ」 「なら、俺の言っていることもわかるだろうがっ!」  台詞を徐々にヒートアップさせ、同時に常日頃から危うい険相もよりいっそう強まっていく。それに対して、部長はあたかも小鳥のさえずりを眺めているかのような表情を崩さなかった。 「わかるとも。しかしな、私の場合、右の頬を叩かれたら相手の両頬に油性ペンでナルトをあつらえてやるさ」 「……は?」  意外というよりも突拍子もない部長の言葉が、この場の空気をガラリと変える。 「渦巻きほっぺの生活は、さぞかし恥辱にもだえるだろうなぁ。ああ、もちろん録画するとも。永久保存だ」 「……あっそ」  さっきまでの気勢がしぼみ、へなへなと机の上に崩れ落ちていく。別に言い負かされたわけでもないのに、もう話すこと自体が嫌になってしまったような幕引きだった。 「あのー、いいですか?」  火花を散らすこともなく終了した口論を見届け、雛菊がおずおずと手を上げる。 「なんだ、福山。ナルトが欲しいか」 「それは遠慮しておきます。えっとですね、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが……先輩は、日立先輩とお付き合いされていたんですよね?」  部長にではなく、俺への質問だった。 「え、う、うん。まぁ」 「つまり、恋人同士だったわけです」 「? そうだけど」  何を言わんとしているのか理解できず、首を傾げる。  すると雛菊は、相変わらずの笑顔で。 「なら」  ニコニコと。 「弱みの一つぐらい、握っていますよね?」  どすっ黒い確認を、当たり前のように、さらりと言いやがるのだった。 「…………」  なに、コイツ。怖え。  恋人同士なら相手の弱みを握っているって、俺には想像も付かない前提だ。なんていうかこの女、人として大事な部分が歪んでいる気がする。 「なるほどな。弱みを武器にして、日立へ報復しようというわけか。今後の牽制にもなるし、いい手じゃないか」  悪ノリしているのか本音なのかはわからないが、部長はその真っ黒な提案を絶賛していた。たしかに『恋人同士なら〜』という部分さえ聞き逃せば、弱みを使うことそれ自体は悪い手段ではないように思える。が、その聞き逃したい部分を平然と受け入れられるとは、さすが捻じ曲がった性格の第一人者だけあった。 「やるな、福山。俺もそこまでは考えられなかった」 「えへへ〜、褒められました」 「…………」  まっすぐな性質のはずである直哉も、その意見を普通に支持していた。  もしかして俺だけか? さっきの言葉がどす黒くて異質でイビツに見えたのって、俺だけなのか? 「さて、では森実」 「カズキ」 「せーんぱい?」  六つの目が、何かを期待するように俺を見る。何かも何も、求められているのは一つだけだということぐらいわかっている。  どうやらもう方向性は雛菊の一言で固まってしまったらしい。その指針を得るまでの過程はさておいて、これといった妙手も思いつかない愚鈍な知識の持ち主でしかない俺は、唯々諾々と求められるままに応じるべく、過去の記憶をほじくり返すのだった。 「弱みって言っても………………あ」  すんなり見つかった。少なくとも優生にとって絶対に他人の目に触れさせたくないだろうアレは、間違いなく彼女の弱みだ。 「あるのか」  頷く。しかし、アレを使うには二つの覚悟が必要だった。 「準備、しますから」 「ふむ?」 「だから、また明日」 「先輩?」 「お、おい、カズキ?」  それだけ三人に伝え、俺は部室を出て行く。  一つ目の覚悟は、幼馴染を助けるためにモトカノの恥を公開すること。  そして、もう一つは。 「……葬式以来、か」  高瀬沙耶歌として。他人として。  自分の家を訪ね、自分の家族と話す覚悟だった。  道に迷ってしまい、結局、家にはたどり着けなかった。  そんな言い訳を考えたが、通わなくなって一週間も経っていない、そもそも今現在自分が寝泊りしている高瀬家の近所に存在する森実家への行き道を間違えられるはずもなく、学校を出てさほどの時間を要さない内に俺は目的地の門前へ到着してしまった。  久々に見る元・我が家は、沙耶歌として「俺」の葬式に参列したときのまま、住宅街の一角に相応しい平凡な一戸建ての外観を保っている。……当たり前か。  むしろ俺がこうして再び訪ねるまでの間に、家が奇才の建築家にでも再構築されたのかと疑わせる外観に変わっていたほうが問題だ。 「ちょっと見てみたい気もするな」 「『アクロバティックな住居は住みにくいと思います』」 「意見が合うねぇ」  さて、そろそろ空しい一人芝居と思考の迷走というか遁走はやめにして、現実と向き合わなくてはなるまい。自分の家族と会うのにここまで緊張を必要としなければいけない状況は、なかなかに得がたい機会だ。できれば一生得られなくて良いと思う。  今回ばかりは、後輩達に口を滑らせてしまったときみたいにうっかりで正体を悟らせるわけにはいかなかった。  一樹はすでに死んでいる。もういない人間が他人に取り憑いて戻ってきた、なんてファンタジーな話を信じるのはさすがに少数派だろうし、いずれにせよ死者の残影をわざわざ家族に思い出させるべきではない。  俺がこの家に戻ってきたのは。  葬式中、俯いたまま一度も顔を上げることのなかった母親に。  十年ほど老け込んでしまったかのように、覇気を失った父親に。  ぼろぼろと涙を流していた妹に、別れを告げるためではなく。  モトカノをおとしめるための材料を引き取りに来た。ただ、それだけなのだから。 「あら、沙耶歌ちゃん?」 「あ……」  覚悟を中途半端に完了させた俺の前に、ここ数年ろくに会話を交わさなかった相手が玄関から出てきた。 「こ、こんにちわ。……おばさん」 「はい、こんにちは。今日はどうしたの?」  おっとりした足取りで家の入り口から離れ、十七年間見続けた顔が近付いてくる。  母さんの「か」の字も唇に働きかけることを許さず、俺は一演劇部員として、題目「高瀬沙耶歌」を演じ始めた。 「『よければ一樹にお線香を上げさせてもらえませんか……こんな短い間隔でどうかとは思いますが、まだ、整理がつかなくて』」  顔見知りの少女が悲愴な顔でこう述べれば、拒む人間はまずいない。 「まあ……でもおばさん、これからちょっと用事があってでかけなくちゃいけないの」 「『そう、でしたか』」 「あ、そうだ。もうすぐ二葉(ふたば)が帰ってくると思うから、良ければそれまでの間、留守番お願いできるかしら」 「二葉……『さん、が。はい。わかりました』」 「ごめんなさいね」  そう言い、かつて母親だった女性は俺とすれ違う。演技が上手くいったのか、正体に気付くことはなさそうだった。 「…………少し、やつれたな」  小さくなる背中を見送りながら、あんなに俯き加減で歩く人だっただろうかと思い返しても益体のない考えを振り払う。  鍵の開いたままになった玄関のドアをゆっくりと引き、俺は久しぶりに、我が家へと足を踏み入れるのだった。  仏壇の前に座り、自分の遺影に向かって形ばかりの焼香をする。それにしても、どうしてこんな写真が選ばれているのだろう。この歳にもなってバカ面で満たされた笑顔の写真を飾られるのは、なんだか気恥ずかしい思いがあった。 「……さて、ちゃちゃっと済ませるか」  もうじき妹が帰ってくるとはいえ、こうして一人で自由に動ける時間を得られたのは好都合だった。母さんは沙耶歌のことを随分と信頼しているらしい。幼馴染さまさまだ。  階段を上り、二階へ向かう。視線の高さや足の長さがいつもと違うせいか何度か段差でつまずきかけたものの、惨事には至らずどうにか目的の部屋に到着した。 「ノックは、必要ないか」  無意識に伸ばした腕を引っ込め、ドアノブに手を掛ける。扉を開けば、男子高校生の肩書きに恥じない適度に散らかった部屋が俺を出迎えた。 「変わってないな」  あの日の朝、出て行ったとき、そのままの状態だった。唯一違うところを挙げるとするのなら、起床と同時に開いたはずのカーテンが閉じられていることぐらいか。それ以外は全て、俺がこの部屋で過ごしていた頃と変わっていない。  死んだ子供の部屋をそのままにしておく、なんて話はよく聞くが、それはどうやら本当だったらしい。 「『感傷に浸ってないで、やることやってください』」 「ですよねー」  対話をする一人芝居が、自分を当事者ではなく傍観者に仕立て上げる。  まったく、その通りだ。いまは余計なことなど考える必要はない。 「確かここに……あったあった」  机の引き出しにしまいこんだ旧型の携帯電話を取り出し、およそ半年振りに電源を入れる。液晶画面に浮かび上がったメール欄には、当時付き合っていた少女達の名前がずらりと表示されていた。どれもこれもが違う女の子の名前で、それぞれ数通ずつ受信している。  この頃は、付き合っては別れ別れては付き合っての移り変わりが一番激しい時期だった。部長に言われるまでもなく本当に自分はロクデナシのタラシ野郎だなと自覚し、心の中で猛省する。 「これだ」  履歴を過去にさかのぼらせ、「ユウ」と登録されたメールに行き当たる。たった一週間にも満たない付き合いだったのに、他のカノジョ達と比べてやたら件数が多かった。  それらのデータを一括してメモリーカードにコピーする。これで、沙耶歌の携帯からでも優生のメールが閲覧できるようになったわけだ。  満足感とは程遠い目的の達成を果たし、携帯を元の場所に戻す。もうここに足を踏み入れることはないだろう。思ったよりうら寂しさを感じることもなく、俺はかつて自分の部屋だった場所のドアを静かに閉じた。 「あれ? 沙耶歌さん」  一階に戻ってくると、ちょうど帰ってきたらしい妹の二葉と玄関で鉢合わせた。 「『お邪魔しています、二葉さん』」  思いがけない遭遇に戸惑うよりも先に、沙耶歌としての対応が口を動かす。そのおかげか、妹も家族以外の人間が家の中にいるという状況の他に不審を表すことはなかった。 「どうして、ウチにいるんですか?」 「『お焼香を。それと、二葉さんが帰って来るまでの間、おばさまから留守を預かりました』」  幼馴染で、真面目が取り柄のような「沙耶歌」の言葉に、二葉はもともと薄っぺらだった警戒心をさらに薄弱にした。 「そうでしたか……ありがとうございます」  礼を言い、頭を下げる。両手に持ったビニール袋が、彼女の身じろぎにあわせてガサリと音を立てた。 「『買い物してきたの?』」 「え? ええ、まぁ。今日の夜と、明日の朝ごはんの材料です」  近所にある大手スーパーのロゴが印刷された袋を掲げながら、二葉は力なく笑う。 「あたし、まだぜんぜん料理へたくそですけど、少しでもお母さんの助けになれたらいいなって」 「……『偉いね』」 「偉くなんか、ないですよ」  力なく笑った顔が俯き、目線の高さに持ち上げられた買い物袋がぶらん、と落ちる。 「お母さん、お兄ちゃんがいなくなってから、ずっと無理してますし」  ぼそぼそと、抑揚のない乾いた声で呟く。いつも通りに振舞おうとする母の姿をいたましく思う心や、自分がしっかりしなければという決意を、翳りのある表情のままで妹は語った。 「そっか……」  たとえ、母が辛そうだと言う彼女の方こそが辛そうに見えていたとしても。  「沙耶歌」である俺には、かけるべき言葉がなかった。 「『そろそろ、お暇しますね』」 「あ、お引き留めしちゃってすいません。えと、お線香は……」 「『もう済ませました』」  靴を履き、妹とすれ違う。 「またいつでも来てくださいね。沙耶歌さん」  ドアを開ける間際に掛けられたその言葉が、なぜかとても悔しくて。  腕を伸ばし、ついぞ自分の手で触れることのなかった妹の頭を撫でる。 「…………二葉」 「え?」  沙耶歌ではなく。  一樹として、兄として。 「元気でな」  弱い部分を見せまいと気丈に振舞う妹へ、最期の言葉を贈るのだった。    *   *   *  俺がいまからやろうとしていることは、おそらく外道の所業といっても差し支えのないことだろう。モトカノの弱みを他人に教えただけでも十分にひどいことだが、あまつさえそれを利用して相手を陥れようというのだからまったく救いがたい話だ。無事に成仏した後は、地獄行きになるのが相応しいと思う。 「何の用よ。高瀬」  家族との別れを済ませた次の日。夕暮れ時が間近に迫った校舎の裏に俺は日立優生を呼び出した。付き合っていた頃と比べるべくもないほどにトゲトゲしい態度で、一ヶ月前の交際相手は外見の変わった彼氏を睨み付ける。  呼び出した目的は当然、沙耶歌の置かれている状況をひっくり返すためだ。  手に入れた彼女の弱みを武器に直接対決へと持ち込む。部長にしては随分と性急なプランだが、解決は早い方が良いという気持ちは俺も同じだった。 「『これを書いたのは、あなたですね』」  購買部で売り出されていた壁新聞の縮小版を優生の前に突き出す。すると彼女は眉を不機嫌そうにひそめ、直哉には到底及ばないもののそれなりに険しさが宿った眼差しを向けてきた。 「はぁ? なにそれ。アタシだって証拠があるの?」 「『報道部に知り合いがいます』」  正確には知り合いの知り合いだが。もっと言うなら、別にその知り合いから話を聞いたわけでもないが、そんなことを知らない彼女は、報道部の誰かがリークしたというイメージを抱かせるような俺の返答を素直に受け取ってくれたらしく、聞こえよがしに舌を打ち鳴らした。 「『でも、どうしてもわかりません。なぜ、あなたにこんなことが出来たのですか?』」 「ハッ、アンタがウザイからに決まってんじゃん」 「いや、動機を聞いているわけじゃ。……『この記事は、あなたが一人で作ったものではない。そうですね?』」 「そりゃあね。一つの新聞を一人の力で作れるわけないでしょ」 「いやだから、そういうことじゃなくて」  しらばっくれているのか、それとも本気で言っているのか。考えるまでもない。後者だ。  含んだ物言いは彼女に通じないと悟り、ストレートに訊ねることにする。 「『あなたに、この記事を書くようにそそのかした人間がいる。私はそう考えます』」  その言葉でようやく俺の意を汲んでくれたのか、優生はつまらなさそうに開いていた口をきゅっと結んだ。 「『日立さん。知っていることを教えてください』」 「……アタシはそう簡単に規則を破ったりしないわ」 「規則?」 「記事に関わる情報を部外者に漏らさない。それが、報道部の鉄則なのよ」  胸を張って言うが、すでに黒幕がいると白状しているようなものだった。 「……素直に話すつもりはない、と」 「当たり前じゃん。だいたい、アタシは高瀬がウザイって言ったよね? いつもいつもツンと澄まして、誰に対してもそんな喋り方して。……ムカツクのよ!」  台詞の脈絡が面白いほどに破綻していた。とはいえ、ここで笑うわけにもいかない。 「そんなアンタに質問をされてアタシが素直に答えると思ったの? バカじゃないの?」  予想していたことだが、やはり部長の計画通りにするしか、まともに話し合う道は作れないらしい。気の進まないままにスカートのポケットから携帯電話を取り出し、今日£ヌ加したばかりのデータを開く。 「人が話している前でケータイ? ナメんのもいい加減に」 《七月二十一日。ばんわ〜☆ できたてホカホカのカノジョ、ゆーちんでっす♪ カズくんって呼んでいいよね? うわはっ、恥っず! あー、えっと、今日はアタシの告白にオッケーしてくれてマジありがとう! これからよろしくね!》 「…………は?」  さて。  自分の声が、自分の声帯を介さず、過去に自分が恋人へ送ったメールを朗読されるのは、いったいどんな気持ちだろう。喋っている内容が乙女チック丸出しの痛々しい台詞とくれば、そのショックは想像することすらはばかれた。 「なん……それ……」 「え、演劇部に、声真似の上手い先輩がいて、な」  沙耶歌の演技も忘れ、恐る恐る次のボイスデータを再生する。  真似なんてレベルではない、本人と寸分の狂いもない完璧な日立優生の音声が、俺達の間に再び流れた。 《七月二十二日。はっよー!! カノジョからのモーニングコールだよ〜ん。本当は電話したかったけど、朝は忙しいからメールにしたよ! アタシはいまからお風呂に入ります☆ あ、いまアタシの裸、想像したよね? も〜エッチ♪ でも、カズくんになら》 「ぎゃああああああああああああああああーーーーっ!」  優生の雄叫びが、声帯模写の達人による朗読をかき消す。俺もこれ以上聞いているのが恥ずかしくなり、すぐさま停止ボタンを押した。  文書で読むのと声として聞くのとでは、ここまで威力が異なるものかとしみじみ恐れる。本来なら俺がいまのメールを優生に読み聞かせるはずだったが、部長のおかげでその破壊力はさらに倍増していた。 「なんで……それが……」  窒息寸前の魚のようにパクパクと唇を開閉させながら、震える手で携帯を指さす。当たり前の疑問だが、その反応や台詞は完全に予定調和だった。 「そ、そんなことより、もっと、他の事に口を使ってみないか?」  指示をされた通りの台詞を言い、こちらの要求を暗に伝える。 「何よ、他の事って?」 「いやだからお前……じゃなくて『日立さんをそそのかした犯人……です』」 「うっ」  さすがにこれ以上、自分の過去メールを音読されたくはないのだろう。観念したように頭を垂らすと、優生はぼそりとただ一言呟いた。 「知らない」 「……」 「ほ、本当に知らない! アタシはただ、メールの指示通りに記事を書いただけよ!」  携帯を操作する素振りを見せると、慌てて言葉を付け加えてきた。  どうやら本当に知らないらしい。 「メールって?」 「あ、アンタをいじめてやれって。アタシが一樹君と別れた次の日ぐらいに、そういうメールが届いたの」 「……どうしてそんなメールに従った?」  さらに追及すると、キッと鋭い目つきが俺を射抜いた。 「一樹君と、アンタが、本当は付き合っているからって」 「はい?」 「そのメールに書いてあったのよ! アンタは一樹君と隠れて付き合っていて、一樹君に指示してアタシをもてあそんだんだって!」  語彙がみるみるうちに荒くなり、それまでボイスデータの恐怖によって萎れていた優生の気力があっという間に最高潮に達していくのがわかった。 「言われてみれば、思い当たることはたくさんあった! だって、アタシと付き合っていたときの一樹君は、いつだって上の空だった! アタシが隣にいても、他の誰かのことを考えていた! それが高瀬だったんだ!」  再び湧き上がったボルテージに身を任せるように、ずんずんと俺に詰め寄ってくる。  その言葉は確かな、純然たる事実だった。頭の中にあったのはいつも別の人間のことで、俺は、すぐ隣を歩いていた恋人のことを軽んじるような態度ばかりで。  しかしだからといって、それが他の誰かを傷つけてもいい理由にはならない。まして沙耶歌は森実一樹という不誠実な最低男の幼馴染というだけで、無関係もいいところだ。 「本命のカノジョがちゃんといるのも知らずに、一樹君とイチャイチャしようとしてたアタシの姿を陰で見ていたんでしょっ? この無表情女!」  あと数歩で身体が触れ合う程にまで俺との距離を近づけると、優生は右手を高く振り上げた。  叩かれる。そう把握し、同時に自分はそれを避ける権利がないと悟る。 「っと、穏やかじゃねぇな」  緊迫した一瞬を止めたのは、優生の細腕を握る大きな手だった。 「な、直哉?」 「おう」  相変わらず不機嫌そうな眼光のまま、ポカンとする俺の呼びかけにつっけんどんな調子で応える。 「は、放せよバカ! 痛い!」  腕をつかまれた少女はじたじたと控え目に身じろぎをし、憎しみの顔を背後の男に向ける。そんな動きではどう考えても拘束から逃れられそうにないが、それでも暴れられずにはいられないのだろう。 「なぁ、コイツひねっていいか?」 「直哉ー? 暴力はだめだぞ、暴力は」 「手を出してきたの、こいつが先だろ」  それはそうだが、直哉のおかげで事なきを得ているのだからノーカウントにしてもらいたい。 「っていうか、なんでお前がここに」 「相手が手を出してきたら、俺が止めに入れとよ」 「……部長か」  どこまで先を読んでいるんだろうな、あの人は。神か。 「気づきなさいよ! この女は、男をタラシこんで自分の思うままにする最低女だって! あんただって利用されているだけなのよ!」  直哉に動きを封じられてもまだ勢いは衰えておらず、優生は高々と吠えていた。 「とりあえず、話を聞いてくれないかな」 「何よ、さっきから気持ち悪い! いつもの気取った喋り方でアタシをバカにしないの? バカにすればいいんだわ! 下駄箱に落書きして、上履きを汚して、靴にガビョウを入れて満足していたアタシをバカにしなさいよっ!」 「いやお前、まず落ち着け」  聞いてもいないのに自分の悪事を白状しやがった。っていうかなんか靴ばっかり目の敵にしている。 「よし。殴る」 「いや、押さえててくれるだけでいいからっ」  直哉も直哉で、いじめの実行犯であることが確定した女を危うげな眼差しで睨みつけている。『カオスだな』と楽しそうに言う部長の声が、やけに鮮明に聞こえてきた。 「あのな、ユウ。付き合っているなんて話は完っ全にデタラメだし、そもそも沙耶歌は一樹を恋愛対象として見た覚えなんか一度もないから」 「なによ、それ…………」 「そもそもなんでお前は、そんな誰から送られてきたかもわからないメールを信じるんだよ? バカだバカだって思っていたけど、本当にバカなんだな!」 「さっきから、そん、な、喋り方」 「は? 喋り方?」 「素になってんぞ、話し方…………わざとじゃなかったのか?」 「……」  人のことをとやかく言えないぐらいのバカが、ここにいた。 「男みたいな……一樹君みたいな、喋り……か…………うっ」  俺のマヌケ具合がどんな作用をもたらしたのか、憤怒を刻み付けた形相が、じわりと決壊する。  猛り、雄々しく吊り上がっていた眉が八の字に歪曲し、目じりが水気を帯び始めた。 「う……くっ……」  まなこから零れ落ちた水が、つぅっと頬を伝い。それを皮切りにして、堰を切ったように少女の瞳から涙があふれ出した。 「お、おいおいおい。ああ、もう。泣くなよ」  さっきまで殴るだのヒネるだの言っていた不良男の威勢は、女の涙を前にして影もなく消え失せる。不安そうな顔をして、どうすればいい? とでもいいたげな目で俺に訴えてすらいた。 「……放してやれ」 「お、おう」  直哉が手を離すと、支えを失った少女はヒザから崩れ落ちた。 「一樹君…………何で……なんで、死………………かずきくん……っ!」  嗚咽を混じらせながら、一ヶ月前の恋人はロクデナシで擁護不可能な男の名前を呟き、両手で顔を覆う。 「かずっ、ひぐっ、う、うわああああああああああああああん!」  泣き叫ぶモトカノを見下ろし、俺はやりきれない思いを巡らせる。  恋人関係が破棄されたのは一ヶ月以上も前なのに。  気のない交際しかしなかった一週間未満の彼氏なのに。  どうして彼女は、そんな男のために涙を流してくれるのだろうか。 「…………はっ」  空を仰ぎながら、自分をあざけ笑った。だろうか。じゃねぇよ。わかっているだろ、それぐらい。  彼女は、優生は雛菊と同じだ。死んだ男を、別れた男をいまだに好きでいてくれる、バカ女──いや。 「バカは、俺か」  結局俺がやったことは、すでに予想済みだった黒幕の存在を証明したことと、モトカノの癒えきっていなかった傷口を無駄に広げてしまったことだけだった。  人をとやかく言えないどころか、むしろ糾弾されてしかるべき本物の天下無双バカが、ここにいた。  誰だって言うか、そう、俺だ。 「どうだった?」  部室へ戻ると、待ちわびたとばかりに本を閉じ、今回の仕掛け人が薄ら笑いを浮かべていきさつを聞いてきた。逆恨みであるとわかっていても、その何もかもを見透かしたような笑顔にイライラしてしまう。自己嫌悪で忙しい俺の気持ちも察しているに違いないくせに、どうしてそう無神経な質問と表情を突きつけるのだろう。 「ふむ、不機嫌ロード爆走中。といったところか」 「そーっすね」  どうせ盗聴器なり隠しカメラなりで大方の顛末は把握しているはずだ。それなのに、あえて俺の口から話を聞くつもりなのがまた底意地の悪い部長らしい。 「どうなったかなんて、全部わかっているんでしょ?」 「そうか。爆発しろ」 「なんで!?」 「森実三原則というのがある。一つ、私を傷つけないこと。二つ、私の命令には絶対服従。三つ、上記に違反しない範疇で自己を遵守すること。あとリア充は爆発すること」 「三つじゃないっ!」  しかも何だ最後の。一瞬でどんな想像に行き着いたんだ。 「私が熱演までして追い詰めた事件だ。一部始終を聞く権利ぐらいあると思うが?」  気を取り直すようにそう主張し、無回答を却下する。また拒否してもよりいっそうわけのわからない話題が繰り広げられるだけだと悟り、俺は結果だけを伝えることにした。 「とりあえず、もういじめないって約束させました」 「そんな口約束で解放したのか? ぬるいな」 「別に、ただの勘違いだったんで」  優生は、単に利用されただけだ。  沙耶歌に確固とした攻撃意志を抱く、誰かに。 「やはり黒幕がいたか。まぁ想定の範囲内だな」 「ああもう、ホント部長は、なんでもお見通しですね」  これなら、黒幕退治も楽勝だろう。しかしそんな人任せにする思いを責めるように、彼女は厳しい双眸で俺を睨んだ。 「買いかぶるな、と言ったはずだぞ森実。私は神ではない」 「は?」 「この件に黒幕がいることは、君ですら想像していたことだ。しかしその正体を承知し泳がせているほど、私は慧眼策士ではない」 「……はは、まさか。冗談ですよね」 「もう一度言わんとわからんか? 私は神ではない。どこにでもいる普通の女子高生だ」  一般的な女子高生は声帯模写なんてしないし、幽霊にデコピンをかましたりもしません。とは、突っ込める雰囲気ではなかった。  俺を眺める部長の瞳は冷たく、いつも浮かべているはずの人をからかう笑顔は、まるで突き放すようなものになっている。 「私に甘えるな、森実。この問題は自分で解決すると、お前は自分でそう言ったんだ」 「それは、そうですけど」 「ならば約束通り私はこれ以上手も口も出さないから、そのつもりでいろ」  部長の言葉に、俺は何も返せなかった。確かに俺は、この問題は自分で片をつけると、そう言った。自分が最低野郎だと思い知り落ち込んでいるからといって、バトンタッチしてもらうなんて虫が良すぎる。  けじめは、自らの手でつけなければいけない。 「……すいませんでした」  正論すぎる部長の言葉に、俺は頭を垂れて謝った。 「わかればいい」  返事に満足したのか、部長はようやくいつも通りの、やっぱりなんだか腹の立つ微笑を浮かべる。 「げ、元気出せよ、カズキ。俺は協力するぞ?」 「直哉……うん。サンキュ」 「おい待て、なんだこの私が悪いみたいな流れ。私は、お前のためを思ってだな」 「はは、わかっていますよ」  味方が傍にいる。自分は、一人ではない。  そのことが、俺の心を穏やかにしてくれた。 「ふにゃ〜、ただいま戻りましたですー」  ガラリと教室のドアを開け、わざとらしい疲れ声をあげながら最後の味方が現れる。てっきり帰ったかと思っていたのだが、どうやら彼女も優生の撃退を終えるまで待っていてくれたらしい。 「あ、先輩。お疲れ様でしたー」  丸めた一枚の紙を抱きしめて、雛菊は笑顔のまま俺達にトコトコと近付く。  ……なんだ、あれ? 「お帰り福山。用事とやらは済んだのかな?」 「はいです」 「用事?」 「なぁ。それはなんだ?」  後生大事に抱えているポスターのようなものを指差し、直哉が雛菊を除いたここにいる全員の疑問を代弁した。 「えへへ〜、これはですねぇ」  もともと笑顔だったフヌケ面をさらに緩やかにして、巻物の両端をつまみその紙面をひろげる。 「な…………」  まず始めに、ことの発端となった壁新聞によく似たレイアウトが目に飛び込んできた。清書されていないのか、荒く手書きで描かれた枠の中には、これまた例の新聞を彷彿とさせる見出し文字がある。  見出しの情報を視覚的に捉えるためか、貼り付けられた写真は話題の人物を被写体に据えていた。いまどき珍しいおかっぱ頭の少女が、「書記」という腕章を装備し、冷然とした眼差しをカメラレンズにまっすぐ向けている。その隣に載る文字はこうだった。  【下克上? 副会長の座を狙い、暗躍する書記!】 「ヒナ……ちゃ、これ……」 「この人がぁ、日立先輩に指示を出していた黒幕さんですー」  まるで百点を取った子供が母親に自慢するように、ニコニコと言う。 「ふふっ。先輩をいじめていたんですから、同じことしてやらないと不公平ですよねぇ」  手柄を褒めてくれといわんばかりに、相変わらずの間延びした声で雛菊は無邪気に微笑んだ。 「これ、報道部が?」 「はい。ヒナ、報道部にお友達がいますから〜」 「でも、一人じゃ新聞なんて」  一つの新聞を、一人で作れるはずがない。他ならぬ報道部員が言っていたことだ。 「一人じゃないですよ? ヒナのお友達が他の部員さん達にお願いしたら、みんな協力してくれました」 「…………」 「人望のある人って凄い。ヒナはそう思いました」  それは、つまり、まさか。 「友達って、報道部の部長……とか?」 「わぁ、先輩よくわかりましたね。さすがですー」 「は、ははは……」  おかしくもないのに、なぜか俺の口からは乾いた笑い声が出てきた。  人は、想像を絶する相手を目の前にすると笑ってしまうらしい。震えるだけが恐怖ではない、ということである。  この女こそ、まさにソレだ。 「…………くっ、くっくっく」  理解を全力で拒否したくなる少女を前にして、ただひとり、部長だけが心底楽しそうに肩を震わせていた。 「森実よ。残念だがお前は自分の責任を果たせないようだ」  心に決めたばかりの意気込みが到達できないものになってしまったことを、口元を歪め意地悪く宣告される。 「良いんですか、こんなの」 「良いも悪いもあるか。納得できないなら、自分なりにけじめを付ける方法を見つけるのだな」 「はぁ」 「いやぁ、感謝するぞ福山。この私が予想外を浴びるなど久々だ! はっはっはっは!」  悪役っぽく笑う部長と、いまだ記事を凝視したまま固まる直哉と。 「これでもう、先輩に意地悪する人はいませんです。よかったですね、せーんぱいっ」  懐いていると錯覚してしまいそうな作り笑いを浮かべる雛菊に。  俺はただただ無言で、やるせない気持ちの着地点を探るのだった。    *   *   *  沙耶歌の身体になってから、もうじき一週間が経つ。レイアウトのまったく異なった部屋で目覚めるのにもそろそろ慣れ、パジャマから制服に着替える際の硬直時間もわずかだが短縮されてきた。ただ、下着に対する羞恥心とか、胸を締め付けられる窮屈な感じとか、スカートの衣擦れとか。そうした男と女の性差をことさらに主張するポイントにはいまだ戸惑いを覚えるわけだが、これもまた日常の一端となりつつあった。 「んっ〜」  身体の筋を伸ばし、男だった時は全力疾走していた通学路をのんびりと歩く。  小鳥がさえずり陽光もまばゆい、うそ臭いほどに爽やかな朝だった。  平穏が破られるのは、学校に着き、落書きの消された靴箱を開けてから、割とすぐのことだ。  玄関から入ってすぐ傍の渡り廊下。おそらく全学年が一日一度は通り過ぎるだろう通路の壁には、新たな旋風を巻き起こす原因がでかでかと貼りだされていた。  【生徒会書記の逆襲! 〜狙われた副会長〜】 「ラノベかよ」  清書前と変わった学校新聞の見出し文字に一瞬目を奪われ、なぜか負けた気分になりながら記事を流し読みする。  かいつまんでいうと、生徒会書記の坂井(さかい)は報道部員の一人を裏で操り、副会長を精神的に追い詰めようとしたらしい。まぁ、ほぼ間違ってはいない。沙耶歌が取り上げられたときと違い、今回は真実を捻じ曲げたような内容にはなっていなかったことを確認し、俺はほっと息をついた。  雛菊は黒幕にも同じ苦しみを味あわせるのだと言い捏造を主張していたが、直前で事実だけを取り上げるようにと説得したのが功を奏したらしい。もっとも、彼女は『先輩がそう言うのなら』と最後まで不満を表していた。おそらく納得もしていないだろうが、こういうのはどちらかが引き際をわきまえておかなければならないものだと思う。  右の頬を殴られたら右の頬を殴り返すのでは、どちらかが倒れるまで延々と傷つけ合うだけだ。 「理想論、かな」 「『さて、どうでしょう』」  自問自答の一人芝居もだいぶこなれてきた。答えてないけど。  俺の言っていることは感情を無視した方便だと、もう一人の自分はそう言っている。右の頬を殴られて左の頬を差し出す聖人君子など、いまの世の中どこにもいやしない。だけど、やられたらやり返す雛菊の主張が正しいとは、どうしても思えなくて。 「……はぁ」  らしくもなく悲観的な気分を抱えたまま、俺は新聞の前から離れようとした。 「サヤカーッ!」  直後、背後からの甲高い声が、そんなしんみりとした空気をぶち壊す。  走り出したら止まらないイノシシでもあるまいに、声の主は勢いに任せるまま背中に飛びついてきた。 「ごふっ」 「マジごめん! もう絶対あんなことしないから! マジ絶対! 私超反省したから!」  語彙の少なさを露呈するかのように騒ぐその声で、急に飛びついてきた相手の正体を直感的に確信する。 「ゆ……日立、さん」 「うん、アタシだよ。っていうか、ユウって呼んでいいよ。そのほうが呼びやすそうだったし」  まるで昨日のやり取りなどなかったように、優生は付き合っていた頃によく見た明るい表情で「沙耶歌」に話をかけてきた。  なんだ、この豹変っぷりは。 「やっぱ、急に仲良くなろうなんて虫がいい? でもアタシ、マジで本当に反省したの。靴箱、綺麗になってたよね? あ、もちろんそれで許して欲しいってワケじゃなくて……アタシ、バカだからさ。たくさんたくさん、サヤカに迷惑かけちゃったけどさっ。でも、これからでも仲良くしたいの! お願い!」  一気にまくし立て、急転した心変わりと懇願を口にする。が、こっちは別のことに気を取られ、彼女の胸中を察するどころではなかった。 「あの、さ」 「ダメ?」 「そうじゃなくて」  おそらくは首をかしげたのだろう。そういった身じろぎを優生がするたびに、俺の背中には柔らかなものがこすり付けられているわけで。 「当たってるんだけど。胸」  今の自分の身体にもついているからといって、背中でこの感触が味わえるわけでもなく、「一樹」のときですら淡白な交際しかしてこなかったせいでこれほどフランクなスキンシップをはかられたこともなく。 「へ? ……女同士だし、気にすることないじゃん?」  するんだよ。めちゃくちゃにな。 「あ……つ、つまりアタシには触られたくもないって、そういうこと?」 「なんでそういうネガティブな発想だけたくましいんだよ、お前はっ!」 「……また、男言葉」 「あ」  またやってしまった。そろり、と首をひねり後ろを見る。意外なことに、優生の表情にかげりは見られなかった。  前は一樹に似ているからという理由で大泣きまでしたのに、いまはむしろ、どこか嬉しそうに俺を見つめてさえいる。 「へへ。そっくりだね、やっぱ」 「えっと、それは」 「ねぇね。もしかして演劇部って、みんなそういうモノマネできるの? アタシの声真似した人もゲキ部なんでしょ?」 「え? ま、まぁ、そうだけど」  妙なことに関心を向ける優生に、わけもわからず曖昧な返事で言葉を濁す。ちなみに他の部員達の演技力が高いなんてことは、もちろんない。 「ふぅん……よし、アタシも演劇部入る」 「はい?」  話の脈絡がフリーダムすぎだ。 「何よ。サヤカだって生徒会と掛け持ちでしょ?」 「り、理由は?」 「アタシも一樹君の真似してみたい」  間近にある顔が、何も考えてないような瞳でさらりとわけのわからないことをのたまう。演劇部はモノマネ集団じゃないんだぞと窘めてやろうか。そう思ったのも束の間、いつになく真面目な口調が俺の気勢を削いだ。 「アタシは一樹君のこと、忘れたくない。覚えていたい。……だからアタシはゲキ部に入って、忘れないために頑張りたいの!」  優生は一瞬だけ笑顔を辛そうにして、しかしすぐに声を張り上げると空元気をアピールした。  人は、誰かに忘れられたそのときこそが本当に死ぬときだ。部長に聞かされた記憶があるのか、それとも何かの本による受け売りか、そんなフレーズが浮かぶ。  ここにも一人、「一樹」を忘れないでいると言ってくれる人間がいた。 「……ユウ」 「と、いうわけでよろしくお願いね、サヤカ師匠!」  言葉にできない感謝の気持ちは、ぺかぺかと笑う少女のその一言であっという間に霧散する。 「ちょっと待て」 「おーっと、いきなりレッスン? サヤカ師匠もやる気だねっ」  見事にわけがわからなかった。 「『日立さん。なんですかその、師匠っていうのは』」 「もー、喋り方変えないでよ。師匠が嫌なら、アネゴにするからさ。あ、それともお姉様って呼ぶ?」 「なんでだよっ!」 「あは、戻った。じゃあお姉様で。……お姉様、レッスンをお願いします」  イケナイ妄想を掻き立てる、艶かしい台詞だった。思春期男子的に考えて。  そこで丁度よくというか、タイミングを計ったかのように予鈴が鳴る。 「ああ、もう話は後だ後。教室行こう」 「はい、お姉様」 「普通に呼んでくれ……」  妙な信頼を植えつけた優生に絡まれながら、俺はどっと疲れた気分で教室を目指した。  ありふれた日常を噛み締めるには、まだまだ問題が山積みらしい。  高瀬沙耶歌に新しいステータスが追加されました。  そんなウィンドウ画面が目に浮かび上がるような気分だった。  黒幕の生徒会書記による「男を誘惑する尻軽女」という噂はいつのまにかカスタマイズされ、いまでは「男も女も食い散らかす淫乱女」という世評に変わっている。書記の特集記事で少しは蔑みの視線も減るかと思ったのに、むしろ悪化しているわけだ。 「ほら、あれ」 「うわぁ、マジだ」  学食へと向かうその道中、見ず知らずの誰かが聞こえよがしに噂話をささやく。  隣の女は何者だ。あれが例のセックスフレンドだ。いや違う性奴隷だ。  声を潜めようという気概すら感じられない下世話な会話をキャッチするたびに、うんざりとした気持ちになる。 「お姉様ー。昼ごはん、何食べるの? おそば?」 「お姉様言うな」  噂の元凶はそんな風聞などまったく聞こえていないようで、のんきに昼食談義などしていた。 「っていうか、腕。離して欲しいんだけど」 「えー? 別に普通でしょ、このぐらい」  俺の常識の中に、まるで恋人がするようにして腕を絡ませてくる女同士のスキンシップなど存在していない。  朝に言葉を交わして以来、優生はずっとこんな調子だった。これで相手が雛菊だったならその笑顔の裏に何か画策があるのだろうと勘ぐるところだが、この少女はそういったはかりごとのできない性質だということはすでに身に染みてわかっている。  相手のことなどお構いなしに自分の好意を捧げ、都合の悪いことは全スルー。さぞや人生楽しかろう。 「高瀬副会長。お話しが」 「ん?」  元カノジョの軽量な脳細胞を羨んでいると、対向方面に俺と同じく注目を浴びる女の子が佇んでいた。短く切りそろえた髪を揺らし、凛とした表情をまっすぐに向けてくる。 「坂井、さん」  今朝の新聞で初めて知った書記の名前を口にして、じっと向かい合う。悪評の看板を背負う二人が揃っているせいか、突き刺さる視線の数はよりいっそう増していた。 「まずはお詫びします。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」 「え……」  深々と頭を下げられてしまい、俺は思わず隣にいる優生を振り返った。彼女もまた書記のその言葉に戸惑っているのか、きょとんと目を丸くしている。  まさか黒幕がこうもあっさり、しかもこんな場所で正面きって謝ってくるとは思わなかったため、腰をほぼ直角に曲げる少女を前に俺達はただただあっけに取られていた。 「ですが、私は副会長のイスを諦めたわけではありません」  殊勝な態度のまま、書記は自らの野心を誇らしげに宣誓する。そうしたアンバランスな発言に対して、ギャラリーは容赦がなかった。 「おい、卑怯者が謝りながら何か言ってるぞ」 「開き直り? 今度はどんな汚い手を使うんだろうねー」  人を傷つけている自覚のない言葉が、本人に届いていないはずもない。しかし顔を上げた坂井の表情は、俺のよく知る先輩のような過剰気味な自信で満ちていた。 「黙りなさい、臆病者」  あろうことか、ケンカの叩き売りまで始めやがった。 「会長は言いました。副会長を目指す私の向上心は認めると。その心、素晴らしくさえあると」 「さ、坂井さん?」 「会長は言いましたっ。学生新聞ごときの低級メディアに振り回される有象無象など、大衆の中でしか声を出せないただの臆病者だと!」  言葉が徐々に熱を持ち、舞台栄えのする発声と共に身振り手振りが激しくなる。どうやら会長抜きでもスイッチのオンオフは可能らしい。瞬く間に、是非ともウチの部に欲しい逸材の全力全開の寸劇がスタートした。 「会長は言いました! 自分の手を汚してでも己を磨けと! 会長は言いましたッ! 自分の足で高みへ行けと! ゆえに私は宣誓するのです! 高瀬副会長、私は貴女を蹴落とし、生徒会の重鎮になります!」  普通に来年の選挙を待てよ。というツッコミは、坂井の妙な迫力にけおされてしまい言葉にできなかった。もっとも、来年度に副会長へ昇格しても彼女にとっては何の意味もないのだろう。  坂井は、いまの生徒会長がいる生徒会で、副会長という地位につきたいのだ。それが会長に対する憧れからなのか恋心からなのかまではさすがに判別できないが、しかしその意志を認めるぐらいはしても良いんじゃないかと思う。  黒幕行為は反省し、今度は正々堂々と副会長の座を狙うと決意表明をしてきた。具体的に何をするつもりなのかわからないが、それならばもう過ぎたことは許し、差し出された手を握るべきだ。  その方が、絶対に良い。 「えっと……坂井? なんでアンタ、そんな副会長にこだわるのさ」  アホの子がマックスギア状態の書記に恐る恐る質問をする。  読めよ、空気。 「ハイテンションうぜぇ」 「会長信者か。キモッ」  臆病者の判を押されたギャラリーも、ざわざわと遠巻きに中傷を口にしていた。……勢いに呑まれ説得されかけたのは、俺だけだったらしい。 「日立さん。あなたを利用したことは謝ります。しかしながら、いざ事ここに至ればあなたはもはや無関係! 質問に答える義務などありません!」  シラフとは考えがたい台詞回しで、坂井は自分が利用した相手を無関係と言い切った。当然、向けられる非難の目はいっそう厳しくなる。収拾のつかない状態というのは、まさにこういう状況をさすのだろう。 《あー……オホン》  空気を変えたのは、校内のいたるところに設置されたスピーカーから漏れ出すわざとらしい咳払いだった。 《生徒会から全校生徒に告ぐ。Fを探せ》  一瞬にして、周囲が水を打ったように静まり返る。  多少雑音交じりだったが、その声は聞き間違えようもなかった。 「会長……?」  最高潮に達していた書記の高揚感もクールダウンし、天の声を探して視線をさまよわせる。  校内放送は、まだ続いていた。 《誰よりも早くFを生徒会に入れることが出来た者には、報酬を与える。予算アップも、同好会から部活動への昇格も、もちろん個人的な肉体労働から勉学のサポートまで、生徒会は可能な限りでお前達の要望になんでも応えよう》 「な、なな、な」  Fというのは確か、雛菊の通称だ。しかし沙耶歌と生徒会長との間でだけ使われていたその単語が、なぜ今このタイミングで飛び出してくるのかさっぱり理解できないし、したくない。 《さあ生徒諸君。Fの謎を解き、栄光をその手につかめ! 以上!》  ブッ、というマイクを切った音を最後にして、放送が終わる。  見上げていた天井から目線を元に戻すと、ギャラリーの目の色がすっかり変わっていた。 「なぁ、いまの放送」 「なんでも……って言ったよな?」  会長の言葉をどよめきながら反芻し、ややあって数え切れないほどの瞳が一斉にある人物へ集中する。 「へ?」  俺だった。 「ねえ、サヤカ」  隣にいる優生が、おそろしく似合わない真剣な面持ちで問いかけてくる。口にされずとも、次に出てくる台詞がなんなのか想像は実にたやすかった。 「Fって、何?」  実際に喋ったのは一人だけのはずなのに、まるでこの場にいる全員がその言葉を発したような錯覚に陥る。ギラギラとした眼差しでここにいる誰もが期待する回答を、果たしてあっさり喋ることができるだろうか? 無理だ。 「いや……知らない」  つーか、怖えよお前ら。欲に目がくらみすぎだろ。 「ふぅん。坂井は?」  優生がそう尋ねると、今度は書記に視線が集中する。さっきまで彼女に向けられていた蔑視はいまや、完全にFの情報に関する期待に代わっていた。 「い、いえ。私も存じません」 「そっか……ごめん、サヤカ。アタシ報道部行ってくるからさ。お昼、先食べてて?」  呼称を一般的な感性に戻し、優生は片手で拝む真似をすると一目散にどこかへ立ち去っていった。それをきっかけにして、集っていた生徒達も思い思いにこの場から離れていく。  めいめい飛び交う彼らの話題は、Fで持ちきりだった。淫乱副会長や暗躍書記のことなど、もう誰も取りざたにしていない。 「……そういうことですか、会長」 「はい?」 「お心遣い、感服しました! 私は、生涯をかけてあなたにお仕えしましょう!」  齢十数年でもう人生設計が完了したらしい。落ち着いたと思ったのに、坂井はまた暴走し始めていた。 「こうしてはいられません。すぐ生徒会に行って会長のサポートをしなければ!」  ラララと歌いだしかねない勢いで誰も聞いていないことを口走ると、踊るような足取りでギャラリー達と一緒に姿を消す。  一人になった俺は、沙耶歌の髪を乱暴にかき上げ、頭皮に爪を立てた。 「つーか、さ」  噂を作り上げた相手は、部長と雛菊が見つけ出した。噂そのものは、生徒会長の強烈で意味深な懸賞問題によって打ち消された。  ならば俺は、何をしたのだろう。 「なっさけねぇー……」  沙耶歌を助けてやらねばと気負っていた結果が、これだ。  重くのしかかる無力感の後味は、とても苦々しかった。  放課後になり、もはや完全に習慣化した部室への道順を、俺はスニーキングミッションさながらにこそこそと進んでいた。  昼に流れた校内放送のおかげで、生徒会役員はFの情報を与えるメッセンジャーだと一般生徒から勘違いをされている。『知らない』と答えるのは簡単だが、一歩進むごとに敵と遭遇する意地の悪いRPGばりにアプローチを食らい続ければ、さすがにウンザリもしてくる。  そういったわけで人目を避けながらやっと部室前までたどり着いた頃には、普段のおよそ倍の時間が経っていた。やれやれと疲労を振り払い、ノックを二回響かせる。返事はなかったが、ノブを回すとドアは簡単に開いた。 「遅かったな。だが安心しろ、お前もすぐに後輩達のあとを追わせてやる」 「あ、先輩おつかれさまですぅ〜」  中に入ると、腕組みをする部長の第一声にさっそく出迎えられる。この人には、目の前でパソコンと向かい合う眼鏡娘が死に体にでも見えているのだろうか。  って、眼鏡? 「ヒナちゃん、どうしたのそれ?」  眼鏡をかけている雛菊など初見もいいところだ。まさか、急に目が悪くなったわけでもあるまい。 「に、似合ってませんか?」  「カワイイと言え!」というカンペを持ったスタッフが出てきそうな質問だった。しかし似合っていないこともなかったので、素直に頷いておく。  眼鏡効果は偉大なもので、いつもの腹黒さは控えめになりその代わりに垢抜けた純朴っぽさを醸し出していた。もし初対面のときにこの形態だったのなら、今とはまた違った評価をしていたかもしれない。 「うん、可愛いんじゃない?」 「きゃうん!」  リップサービス同然の感想一つで雛菊は奇声を上げる。……演技なのか素なのか、見分けがつきにくい反応だ。 「部長さん部長さん。いまいま先輩、ヒナのこと可愛いって。可愛いって!」 「そうか、よかったな。作業に戻れ」  冷たっ! 「はいですぅ。うぇへへへへ〜」  突き放したような部長の態度にもめげず、顔をニヤケさせたまま再びパソコンと向き合いカタカタと音を鳴らす。 「何をさせてるんです?」  作業をする雛菊にではなく、その後ろで佇む部長に尋ねた。  雛菊が眼鏡をかけているのも、パソコンをいじっている姿を見たのも今日が初めてだ。こういった状況の変化には、俺の経験上必ずこの人が絡んでいる。 「台本の手直しだ」  すんなりと、部長は経験則に太鼓判を押してくれた。 「台本……」  思い浮かぶものは、一つしかない。崖っぷちにいる演劇部が起死回生を賭ける、雛菊が作者を買って出た脚本のことだ。 「この数日間でざっと目を通したが、まだまだ改善の余地がある。そこで、いろいろアドバイスを与えながら手を加えさせているところさ」 「というわけですぅ」 「それにしても、既存ではなく自作の演劇をしようという君らの豪胆さは尊敬に値するね。これが若さか」 「はぁ」  普通は「ロミオとジュリエット」などの有名な演劇を使った方が人も集まるし、失敗だって少なくて済む。今年入ったばかりの一年生が書いたシナリオを使うなんて、全国の他の演劇部が聞いたらマジか落ち着けと言われても不思議ではない選択だ。  ではどうして、俺はあえてそんな茨の道を選んだのか。 「ごめんなさい」 「なぜ謝る?」  答えは単純。真剣に演劇部の存続について頭を悩ませていなかったからだ。台本を書きたいというのなら自由に書けばいいぐらいの気持ちだった。 「去年の学園祭でハムレットを演じた私達の功績がこのザマだからね。部員数も違うのだし、オリジナルで勝負してみるのは一つの手だと思うよ」 「うっ」  一年前の演目を耳にし、身体に緊張が走る。劇そのものは当時現役だった部長を筆頭にして、かなりハイレベルな芝居を成功させていた。むしろ必要以上に精度を上げていたのが、部長の演じた「狂気のオフィーリア」だ。  花束を抱えて登場し、わけのわからない歌を歌いながら登場人物の核心をついた花言葉の花を手渡すシーンで、彼女はなぜか舞台から降り観客一人一人に花言葉を囁いた。 『あなたにはスミレをあげる。謙遜の花。自分を殺して、欲しいものを我慢するなんて。まぁなんてお優しいのでしょう』  まるで、初見であるはずの相手の本質を見透かしたように笑顔で花言葉をささやく部長の姿は、今振り返ってみても薄ら寒く感じる。実のところ入部希望者が来なかった最大の原因は、コレのせいではないかと俺は勝手に思っていた。 「ん?」  ふと、妙なことに気がつく。一年前の自分は演劇部で裏方をやっていた。なのになぜ、舞台から降り一人一人の耳元で囁いていた部長の台詞や表情を、俺は思い出すことができるのだろう。 「うぃーっす」  奇妙な記憶の齟齬にひっかかっていると、けだるそうな男の声がノックもなしに部室へ入ってきた。 「遅かったな、佐川」 「うっせ、ってぬおわああああああああああああああっ!」  叫び声を上げ、閉めたばかりのドアに背中から突撃する。ガンッ! と派手な音がした。 「おま、おま、おままままま」  顔をみるみる赤くし、一点を凝視したまま意味不明の単語を羅列する。……この男がここまで慌てふためく理由といえば、ひとつだけだ。 「ふぇ? どうしたんですか、ナオくん」 「めが、がが、めがががが」  ぷるぷると震える指先が、腹黒さ一割減の眼鏡娘を指差す。今日初めて眼鏡雛菊を見たのは、俺だけじゃなかったようだ。 「んん?」  直哉の反応に、雛菊は首を可愛らしく傾げる。その仕草一つで、限界間近だった一線はあっさり切れた。 「あが……」  腰を抜かし、ヒザを折り、床にしりもちをつき。  目つきの鋭い不良男は、湯気でも立ち上りそうなほどに顔を赤くし、撃沈する。 「……萌えたろ?」  部長だけが、相変わらず楽しそうにしていた。 「そうだ、君らにはこれを渡しておこう」  直哉を机まで運びいつもの定位置に座らせると、ご機嫌な様子の部長はスカートから質素な茶封筒を取り出した。 「なんです?」 「良い物だ。受け取れ」 「マジカワイイカワイイヤベェメガネヤベェ」  長机に突っ伏してぶつぶつと雛菊万歳的な言葉を呟く男をチラ見し、言われた通りに従い受け取る。重みはほとんど感じない。封筒をひっくり返すと、茶封筒と同じ形をした白い紙が四枚出てきた。  何気なく裏返し、瞬間、目をみはる。 「……!」  それはいわゆる、ミュージカルのチケットだった。誰もが一度は耳にした事のある劇団名と、タイトル程度ならばやはり誰もが知っているだろう演目名が印刷されている。 「君らは一度、本物の舞台を観るべきだと思ってな。手配しておいたよ」 「で、でもこういうの、高いんじゃ」  というか値段も印字されている。一枚六千円だった。 「気にするな。高瀬のいじめ問題が解決したお祝いとでも思っておけ」 「いや、でも」 「『ありがとうございます。マジ嬉しいッス最高ッス抱いてください』と言ってくれるだけで私は満足だ」 「返します」  チケットを中に戻し、茶封筒をつき返す。多分、言った途端に襲い掛かってきてもなんら不思議じゃなかった。 「冗談だ冗談」  アンタが言うと、全部が全部本気に聞こえるんです。 「公演日はシルバーウィークの真っ最中だが……どうせ予定などなかろう?」  二日後か。また、急な話ではある。……確かに、何もないけどさ。 「ヒナは特にやることないですし、先輩が行くなら」  とりあえず雛菊は問題ないようだ。直哉の意向も確かめたいが、果たしていまの状態で会話ができるのか甚だ疑問である。 「……別に、平気だ」  机に突っ伏したままだが、問いかけると返事があった。  後輩二人が乗り気なら、俺に反対する理由はない。 「ん、じゃあ。ありがたく受け取ります」 「ああ、楽しんで来い」 「あれぇ? 部長さんは行かないんですか?」  雛菊が間延びした調子で疑問を呈する。 「バカめが。私まで行ったらどうなると思う」  わざとらしく首を左右に振る。 「どうなるんです?」 「……佐川がハーレム状態になる。ああくそっ、考えるだけでおぞましい!」  自分の肩を抱き、寒気を全身で表現する。言われてみれば、演劇部全員が出掛けた場合の男女比率はかなり不公平だ。 「俺、先輩に嫌われることしたか?」  ショックを受けているのか、直哉は机の上に頭を乗せジト目で部長を睨んでいた。 「黙れギャルゲ主人公。私を攻略したいのならファンディスクを作ることだな」 「何の話だよ! つーかそのあだ名、認めてねーから!」  ガタッとイスを蹴っ飛ばし、机から身体を引き剥がす。やっと眼鏡雛菊のダメージから回復したようだ。あるいは、ツッコミによる活力が直哉を再び立ち上がらせたのかもしれない。……どうでもいいか。 「でも部長。チケットは四枚ですよ?」 「そうだ。あと一人は自由に誘え……と、本来なら言ってやりたかったが、な」  言葉を濁し、突然、ビッと天井を指差す。 「あと一人は、今回の功労者を指名する」  部長は不敵な笑みを漏らし、そんなことを言ってきた。  わけもわからず指先を視線で追うと、天井と天窓と……校内放送を伝えるスピーカーが、目に入った。 「まさか」 「あ、あうううぅ。ヒナ、実は、その日は用事が」 「『ヒナは特にやることないですし〜』」  雛菊そっくりの声が、部長の口から出てくる。 「……自分の声を聞いて寒気がしたのは、初めてです」  スマイル0円の腹黒娘が、顔をひくつかせていた。 「くっくっく、なぁ森実」 「なんすか」 「生徒会長殿は、Fが欲しくて仕方ないようだな」  ……もーやだ、この人。  お見通し過ぎる部長にぐったりさせられた、その日の夜。 「あれ、これって、デートじゃね?」  淀みなくノートの上を走るペン先をはたと止め、誰にともなく独り言を呟く。  あくまで部活動の一環ではあるものの、学校外で直哉と会うのは初めてのことだった。  好意を抱いている相手と一緒に、街に繰り出す。生徒会長と雛菊もいるのだし、ともすればこれはダブルデートと言っても過言ではないような気がしてきた。  ということは、だ。 「こんなことやってる場合じゃねぇっ」  復習の時間を強制終了し、いそいそとクローゼットに向かう。デートそのものは一桁ではたりないぐらいの経験値を持っているが、ここまで浮き足立った気分は初めてだ。 「うわ、うわ、なに着てこ?」  沙耶歌の衣装を物色しながら、以前、直哉の姉から拝借した服装を思い返す。  ワンポイントのブラウスにスカートというシンプルなものは、どうもあの男の好みではないらしい。何でそんなものを着ているんだボケと怒られたぐらいだ。雛菊が好きなぐらいだし、もっと女らしさを強調した可愛い服の方がっておおおおおおおおおいぃッ! 「違う! 服なんかどーでもいいし!」  何フツーに楽しみにしてんだよ、俺!  プライベートで一緒に出かけられることは確かに嬉しい。しかし自分がすべきことは恋のサポートだ。  ツンデレヤンキーは素直じゃないし、想いを寄せている相手はといえばいまだに俺のことが好きだと明言している。そんな二人を恋人同士にしようなんて、ずいぶんとまた難易度の高いお節介だ。  それでも、やるだけやってみる。  俺は直哉の笑顔を見たい。いつも尖った表情ばかりの男が、緩みきった幸せな顔を見せてくれたのなら、きっと心穏やかに逝けると思うから。 「だから……もう少しだけこの身体、借してくれ」 「──仕方ないですね」  皮肉めいた台詞を返してくるかと思いきや、出てきたのはお許しの言葉だった。 「──私からの手向けです。せいぜい頑張ってください」 「あ、ああ。悪い」  独白の一人芝居のはずが、まるっきり会話をしているような流れになっている。  俺の演技力が生み出した「沙耶歌」のキャラが勝手に動き始めた……というには、その反応はやけにリアルすぎた。 「……沙耶歌?」  鏡に向かって、見慣れた顔に、親しんだ名前を呟く。当然のように、返事はなかった。  真相は、割とすぐに解明することを、俺はまだ知らなかった。    *   *   * 「あぁん? やんのかてめぇっ!」 「わめかずとも聞こえている。必要以上に大声を出すなど、感情をコントロールし切れていない愚か者の証拠だぞ、不良生徒」 「あー……」  祝日の朝っぱらから、駅前のロータリーでタイプの違う野郎二人が言い争いをしているのを、俺は冷めた目で、半分ぐらい呆れながら観察していた。  片方はいかにも暴力を好みそうな、凶悪な面構えの男。もう片方は頭脳派のアイディンティティーともいうべき小ぶりな丸眼鏡をかけた男である。ワイルド系とインテリ系の二人に親和性などを期待するだけ無駄だが、それが不良と生徒会長にもなればまさに煮立った油に水をさすようなものだった。 「上等だ。だいたい、てめぇは前から気に入らなかったんだよ」 「威勢が良いな、一年生。相対する者の格差すら測れぬドン・キホーテめが」  惚れ惚れするぐらいの偉ぶった態度で、生徒会長は今日も絶好調の言い回しを操り相手を翻弄している。対する直哉はツリ目がちの目元をさらに吊り上げ、いまにも飛び出してきそうな拳を硬く握り締めていた。  雛菊が待ち合わせの時間になっても姿を現さないというだけのことで、どうしてこんな一触即発の状態になるのか。 『おっせーなぁ、福山の奴……』 『たかが一分の遅刻だ。そんなことも許せんのか? 小物め』 『あぁ?』  思い返してみても、発端となった会話はこれだけだ。明らかに会長の方からケンカを吹っかけているわけだが、見え見えの挑発に乗る方も乗る方だった。 「格の違いなんざ、俺の手で埋めてやる!」 「ならば思い知らせてやろう。生徒会の頂点が、貴様の幻想を打ち砕いてくれるっ!」  なんだこのショートコント。  ただの高校生だよな? こいつら。 「『二人とも、少し落ち着いてください』」  口調を沙耶歌モードにして冷静さを促す。直哉はともかく、会長のギアが最高潮に達したら演劇観賞どころではない。 「あぁ? 福山が遅れているんだぞ? お前は心配じゃないのかよ!」 「これだから素人は。彼女が遅れている理由など少し考えればおのずと導かれるだろう」  中指で眼鏡を押し上げ、不敵に笑みを作ったまま言葉を止める。まるで、というか間違いなく相槌が打たれるのを待っているポーズなので、「副会長」としてはその役をこなさないわけにはいかなかった。 「会長。一体どういうことですか?」 「くくっ、わからんか? 福山は僕のために着飾ってくる。ならば、私服の選択に時間がかかるのは当然だ!」 「なるほどー」  棒読みで感嘆の声をお送りする。  世界は自分のために回っていると信じてやまない、実に会長らしい意見だった。 「やっぱ、てめぇだけは今ここで潰す」  目の前の男が雛菊をめぐるライバルだと再認識したのか、直哉の目の色がさらに鋭さを増していた。 「退く勇気を学ぶのだな、若造」  会長も妙なテンションをどんどん高ぶらせている。  そろそろ切り上げてくれないと、本気で収拾のつかないことになりそうだ。 「二人とも、いい加減に……むゃっ!」  止めに入ろうとした瞬間、いきなり視界が暗転する。というか眼球が圧迫されていた。地味に痛い。 「えへへー、だーれだー? です」  人の目ん玉潰す勢いのくせに、やたら可愛らしいソプラノボイスのウザイ台詞が背面から聞こえる。 「……ヒナちゃん。目、痛い」 「えへー、大当たりですぅ」  パッと圧迫感から解き放たれ、網膜に光が再入荷される。相変わらず鬱陶しい真似を平気でやらかす女の子だ。 「あのさ、ヒナちゃん。アレ普通に危ないか……ら」  効果がないとわかりつつお説教のために背後を振り返る。そして、俺は言葉を忘れた。 「戯れはここまでだ。福山が来……た」 「よかった。無事だった……か」  睨み合っていた男二人も、想い人の登場となり頭を切り替えたらしい。が、やはり彼女の姿を確認した途端、口がストライキを起こしたようだ。 「どーしました?」  可愛らしく小首をかしげる雛菊の服は。  白や黒を基調にして、ところどころにフリルが施された、いわゆるゴスロリ系の衣装だった。 「…………」  この場にいる三人が三人とも、開いた口がふさがらない。  まるで魔法少女みたいなふわっふわのロリータファッションは、幼げな顔立ちと舌足らずな言葉遣いをする雛菊に大変よく似合っている。が、それでもあえて言わせてもらおう。  あざとい。あざと過ぎる。 「え……エクセレンッ!」  放心から一番初めに立ち直った生徒会長が、人目もはばからず大声で拍手喝采をゴスロリ少女に浴びせる。この人はさっき自分が不良生徒に何を言ったのか、もう忘れているようだ。 「ブラボーだ。実に美しいぞ福山! エンジェルの君がその小悪魔的なコスチューム身に着けることでギャップ的な魅力が加算されているっ。まさしく至高と呼ぶに相応しい!」 「相変わらずキモイですね、会長さん」  冷たい態度で、不快感をあらわにした視線を無遠慮に突き刺す。だが、今回の雛菊はいつもとほんの少し違った。 「……まぁ、褒められて悪い気はしませんですけど」 「な」  呟いた台詞には、デレの傾向が見え隠れしていた。たった一言と侮るなかれ。少なくとも、いまので彼女の会長苦手意識は八割ぐらい消えたと考えるべきだ。  ひょっとすると、会長はいつか自力で雛菊をオトすかもしれないという危惧さえ抱かせる。 「おい、直哉。直哉」  直哉の袖を引っ張り、会長に負けじと雛菊を褒めるよう促す。 「あが……」  ヘタレヤンキーは、ゴスロリ雛菊に石化されていた。  オーバーヒートした直哉は、復旧作業が終わるまでただひたすら俯き加減で顔を赤らめていた。具体的に言うと、会長のテンションが落ち着き、雛菊が『先輩も褒めて』と目で訴え、電車に乗り劇場に着きミュージカルを観終わるまでの約三時間。  ひとっ言も喋らなかった。 「はぁ……」  劇場備え付けのカフェに入った後も、頭をテーブルに横たえて幸せそうな嘆息をこぼしている。直哉の視線の先には、販促グッズの並んだショーウィンドウを覗き込む雛菊がいた。生でプロの舞台を目にした興奮からか、彼女はさっきからやたら上機嫌だ。  もしかすると芝居の世界に本格的な興味を持ち始めたのかもしれない。だとしたらそれは、演劇部にとってとても良い事である。 「それは、いいんだけどさぁ……」  雛菊の隣に立つ人物へ視線を移す。丸眼鏡の男は、時折ガラスケースから目を離して振り返る少女と楽しげに話していた。 「おい、直哉。お前、アレ見てなんも感じねーの?」 「……福山が可愛い」  駄目だ、コイツ。フィルターでも掛かっているのか、この男には雛菊と談笑する生徒会長の姿が見えていないらしい。  駅前で集合してからずっと固まっていたヘタレ男と違い、会長は雛菊へのアプローチを欠かさなかった。何もしないでただ萌えていた男と、ウザがられても言葉を尽くした男。二人に明確な差がつかないはずがない。 「お前な、いい加減にしろよ。このままじゃヒナちゃん会長に取られるぞ?」 「んな…………い、いや。別に、俺には」  関係ない、ね。ツンデレもここまで意固地だと逆にうざったい。 「素直になれよ。好きなんだろ? 雛菊のことがさ」  このときの俺は、きっと、どうかしていたに違いない。 「あぁ? またそれか」 「ごまかすな!」  らしくもなく、声を荒げてテーブルを叩き、目の前のバカを怒鳴りつけた。何事かと店内の視線がこちらに集まる。しかし、そんなものにかかずらってはいられない。 「遠くからただ眺めていて、お前は、それで満足なのかよ!」 「……っぜぇな。関係ねぇってんだろ、副会長」 「なっ」  最近、無意識に「沙耶歌」として振舞うことが多くなった自分に、言い知れない焦りを抱いていた。そのせいもあってか、直哉にそんな呼ばれ方をされたことが、俺の引き際を完全に見失わせる。 「……ことあるか」 「は?」 「関係ないことあるか! このバカ!」  苛立ちがあった。  行動を起こさない直哉に。笑顔で雛菊と話す会長に。  嫌っていたはずの相手にあっさり心を許した雛菊に。  何よりも、恋敵のために黙って身を退く、できた人間を気取る自分が、大っ嫌いだった。 「俺は、お前が好きなんだよ!」  少女の告白が、たいして広くもないカフェ全体に小さなエコーを響かせる。  水を打ったように静まり返る店内のおかげで、暴走した感情はすぐに落ち着きを取り戻した。 「あ、ぅ……」  冷静さの次は、羞恥心が甦る。取り囲む視線は、一点に集中していた。  直哉も、雛菊も、生徒会長も、見知らぬ他人も、一様に目を丸くしてたった一人を見ている。 「……ッ、……ッ、か……帰る」  なんとかそれだけを口にして、直哉に背中を向ける。お勘定は、申し訳ないが会長に立て替えてもらおう。混乱しているはずの頭でなぜかそんなことを考え、俺はバタバタと逃げるように店から出て行った。 「最っ低だ……」  夕日を背にして、とぼとぼと通い慣れた道を歩きながら自己嫌悪を口に出す。  沙耶歌の身体に住み着いてから、これまで何度となくバカな真似をやらかしてきた。だが、いくらなんでも今回は酷すぎる。  聞かせるべきではない想いを聞かせてしまった。  他人の、女の子の身体で、あまつさえキレながら告白してしまった。 「バカ……バカバカバカバカバカ!」  自分をいくら罵っても足りない。俺は沙耶歌になりきって生活するどころか、次々に人間関係をムチャクチャにしていた。  こんな状態で、本人に身体を返せるはずもない。 「ごめん……ごめん、沙耶歌」  図々しくも許しを求めて、返事のない相手に謝る。いつもみたいに沙耶歌のフリをして『仕方ないですね』とでも言いたいのだろうか。だとしたら、つくづく最低の男だ。 「どうして俺は……うん?」  侮蔑するはずだった言葉は、低い唸りを上げる携帯の駆動音に遮られる。ディスプレーを開くと、「福山さん」の文字が明滅していた。 「……はい」 《あー、先輩ですかぁ? ヒナです》  スピーカーからは、普段と変わらない舌足らずな雛菊の声が聞こえてきた。  外にいるのか、車の走行音がちょくちょくと混じる。 《あのですねぇ、ヒナちょっとお尋ねしたいことがありましてぇ〜》  わざとかというぐらい、間延びした声だった。  イライラする元気もない俺は、黙って話の続きを促す。 《さっきの、アレ。冗談ですよね?》  公衆の面前で告白した直後だ。アレが何を指しているかなど、考えるまでもない。 「そうだって言って、信じられる?」  怒鳴り散らすように好きだと叫んで、醜態をさらして逃げ出して。  それが冗談でしたーで通じる人間が、果たして何人いるのやら。……最近になって旧交を温めたモトカノの顔が浮かんだが、そこはその辺にうっちゃっておく。 《あ、あはは。だって、先輩は男の人で、いまはさーちゃん先輩で女の子ですけど、ナオくんは男の子で》 「そうだね」 《ですよね? じゃあ、やっぱり》 「冗談なら、全部丸く収まるよね」 《…………》 「…………」  お互いに沈黙する。  これ以上、言葉を交わす必要はないようだ。 「切るよ、ヒナちゃん」 《せーんぱい?》  声のトーンは変わっていない。  なのに、その台詞はいままでのきゃぴきゃぴしたものから一転して、暗い雰囲気を纏っていた。 《もう、お芝居は終わりにしましょうよぉ》 「何の話?」 《だからぁ。もう一樹先輩の真似はやめませんか? って、言っているんです。高瀬せ・ん・ぱ・い》 「…………」  息が止まる。  そのぐらい、雛菊の言葉は予想外だった。 《もう十分騙されてあげましたよね? そろそろ止めにしませんかぁ?》  電話は不便だ。相手がどんな表情をしているのか、判断する材料がほとんどない。 「……俺が一樹だって、信じて、なかったんだ」 《ヒナ、おとぎ話はあまり好きじゃないのですよ〜》  雛菊はいつも通り、笑顔が目に浮かぶ甘ったるい調子で喋っている。そのはずなのに。 《でも、先輩が好きだったのはナオくんですかぁ。可愛いヒナちゃんでもなくて、ミステリアスな部長さんでもなくて、真面目なさーちゃん先輩でもなくて、愛想の悪い男のナオくん? うふふっ。冗談にしては、お粗末ですよぅ》  電話口の向こうにいる少女からは、口を三日月形に歪めて不気味に笑うイメージしか、出てこなかった。 《さーちゃん先輩の演技、物凄くお上手でしたよ。このまま騙され続けてもいいと思いました。……なのになんで、一樹先輩が男を好きだなんて嘘つくんですか?》 「本当、だから」 《あははははははははははははははははははははっ!》  甲高い笑い声が、耳をつんざく。  たまらず携帯を遠ざけるが、少女の笑い声はそれでも聞こえてきた。 《せぇんぱぁい? 来週ぅ、楽しみにしててくださいねぇ? キャハハハハッ》  常軌を逸したような哄笑がしばらく続き、やがて通話口は単調なノイズを最後にして音を閉ざす。 「な、なんだったんだ……」  まるで恐怖映画のワンシーンだ。ふと振り返れば電柱の陰に雛菊の姿があったとしても、まったく不思議ではない。怖いけど。 「来週?」  連休は終わり、学校が始まっている。  何をやるつもりだ、あの腹黒ホラー娘は。 「……あれ?」  直哉に告白してしまい、雛菊の不気味さが片鱗を見せた。  そしていよいよ、極限的な問題が満を持して表舞台に立った。 「手が……」  携帯を持つ手が勝手に動き、いつの間にか起動していたメモ帳欄に文字を入力していく。一分ほどかけて完成したそのメッセージを見て、俺は今度こそ間違いなく確信した。 『話する 書く物 用意する    沙耶歌』  神よ。  お前は敵だ。 『私の数奇な運命に感謝を。一樹には呪いを』 「ひでぇっ!」  机にノートを広げた瞬間、右手が俺の意思を介さずにペンを握り、いきなりこんな文書を書き出した。 「一言目だろ? 一言目でいきなり呪いとか書くなよ!」 『人の身体を乗っ取る悪霊には、適切すぎる言葉かと』  いや、悪霊はむしろ呪いを生む側じゃ……っていうか誰が悪霊だ。 「あのさ、とりあえず確認したいんだけど。お前、沙耶歌だよな?」  右手に向かって話しかけると、さらさらと静かな音を立てながらインクが紙の上を走る。几帳面に並ぶ文字列が人の言葉を形作り、俺は口には出さず胸の内でその台詞を読み上げた。 『はい。爆発しません』 「知ってるよ! そんなこと誰も聞いてないから!」 『つまらない質問には予想の斜め上を行った対応をしろ。会長のお言葉です』 「ウチの部長が言いそうなことを!」  あの二人は本当に良く似ている。実は兄妹か? 『苗字が違います』 「いや、そうだけど…………あれ?」  いま俺、思っていること口に出したか? 『一樹の考えは、全部、私の中にも流れています』 「もしかして、頭ん中だだ漏れ?」 『同性愛者に身体を奪われたのは、不幸中の幸いです』  私の数奇な運命に感謝を。と、少し前に綴った文字をペン先で指す。  つまり、俺が直哉を好きだということもバレているわけだ。 「でもとりあえず認識改めろ。俺は、好きになった奴がたまたま男だったってだけで」 『(笑)』 「いや、笑うなよ! たしかに使い古されたフレーズだけどさ!」 『ねむいです』 「話の流れがめまぐるしい!」 『またあとではなしま』 「……沙耶歌?」  綺麗に整えられていたフォントが草書体に変わり、ややあって右手が失速する。  身体の一部分を操られていた奇妙な感覚が抜け落ち、沙耶歌の腕は再び俺の思い通りに動いた。 「おーい?」  手のひらを握り、開く。グーの敗北を二回ほど繰り返し、ようやく自分に主導権が戻ってきたことを実感した。 「また後で話ましょう、か」  ノートに記された会話を読み返し、書きかけとなった言葉を口にする。  沙耶歌の意識は、この先も今回みたいに表立って出てくるつもりらしい。本人にもそれがわかっているのだろう。だからこそ、この書置きだ。 「……どうするかな」  沙耶歌が再び起きるのはいつになるのか。明日か、一週間後か、もしかすると一時間後かもしれない。  誰かに相談するにしても、直哉や雛菊とは顔を合わせづらい状況だ。もちろん事情を知らない人間など問題外であり、そうなると適任は一人しかいないわけで。 「……頼りっきりだな、俺」  彼女が逆に頼もしすぎるせいだと、責任転嫁してみる。  余計に情けなくなった。    *   *   *  月曜日。  今日も姿見に自分ではない自分が映り、本来ならば一生袖を通すことのなかった女子用の制服に着替えていく。  こんなちぐはぐな朝を繰り返して、気がつけばもう一週間が過ぎていた。交通事故であっけなく幕切れとなった俺の命だが、なんだかんだで七日間も生きながらえているわけだ。人生、何が起こるかわかったもんじゃない。 「――あなたの人生は一週間前の時点で終わっています」 「おおぅ、そういやそうだ」  鏡の自分との虚しいやりとり……と言いたいところだが、実はちょっと違う。  はたから見たら確かに一人芝居だが、いまのは「一樹」と「沙耶歌」の会話だ。  例の書置きから沙耶歌本人の再覚醒はそう遠いことではないと思っていたが、どうやら俺は彼女を見くびっていたらしい。  筆談してから一夜明け、目覚まし代わりとばかりに平手が飛んできた。  そればかりか口までが勝手に動き、起床をせかしやがったのだ。 『おはようございます。さっさと起きて支度してください』  最初はいつもの自作自演かと思ったが、さすがに眠りながら自分で自分の頬を叩き、ヒリヒリした痛みをまるで無視したドライな声を出せるほど俺は役者じゃない。 「おー……」 「――どうしました?」 「いや、なんつーか……沙耶歌だなぁって」  鏡に映る女の子は、いままで見てきた中のどんな姿よりも高瀬沙耶歌らしさがあった。  見た目はこれまで俺が再現してきたものと大差はない。しかし朝からシャワーを浴び、時間に余裕を持ってしっかりと身だしなみを整えるだけで、こんなにも雰囲気がガラリと変わるかと驚きを隠せなかった。 「女ってすげぇな……」 「――戯言はこのぐらいにして、そろそろ学校に行きましょう」  右手が耳の後ろの髪をさらりと梳き、淡々とした口調ですべきことを言う。  俺はそれと同じ声を使って、対照的な明るい口調を返した。 「りょーかーい」  沙耶歌は、少しずつ身体の主導権を取り戻していた。  新品同様に磨き上げられた靴箱から上履きを取り出し、廊下を進んでしばらくした頃だった。 「ユウ?」  向かい側から紙筒を抱えた優生が俯き加減でトボトボ歩いてくるのを見て、声をかける。 「さ、サヤカ……」  顔を上げた彼女はなぜか怯えた反応をし、じり、と一歩下がった。 「あああ、あの、アタシ、悲しいけど報道部で……でも、これはいじめじゃないってウチの部長も言ってて」  優生は可哀想なぐらいに身体を震わせて、要領を得ないことを喋る。  力が抜けたのか、抱えていた紙がスルリと腕から抜け落ちた。  丸められていた大判がころころと回り、紙面を明らかにする。 「……ご、ごめんなさい! サヤカーッ!」 「あ、ちょっ」  荷物を放り出し、野ウサギのように俺の前から姿を消す。なんなんだと思いながら目線を落としたその先に、答えがあった。  【『呆れた性癖! Fが見た生徒会長の真実!』『副会長が騙る死者への冒涜!』『三年前の学び舎で起きた乱闘騒ぎの主犯はなんとあの男だった!』】 「二時間ドラマかよ」  やたらと長いタイトルを載せた紙が、俺の目をひきつける。すでにお馴染みとなった、報道部による特集記事だった。  矢継ぎ早に三回も新聞を更新した報道部のマンパワーに妙な感心を抱きながら、記事を拾い上げ中身に目を通す。  【噂のFによるリークで、生徒会長がドMでることが判明した。会長はFに入れ込み何度もその性癖を吐露しており――】。……間違ってはいないな。うん。  【生徒会副会長は、やはり糾弾すべき少女だった。彼女は先日多くの人間に悼まれながら逝去した森実一樹を騙り、無垢な少女を毒牙にかけようとした疑いが――】。……無垢な少女って誰?  虚実の入り混じった文章を読み進めていくと、やがて内容は三年前の事件について触れられる。  【この学校で過去、小規模な乱闘騒ぎがあった。不良グループと呼ばれた素行の悪い連中が、当時中学生だった佐川直哉(現・一年C組)と派手に殴りあったらしい。グループ二名と佐川本人が病院送りになり、この事件は特に騒がれることもなく収束したものの、佐川の目的はいまをもって不明。在校生諸君は彼に細心の注意を払い、腫れ物のように扱うべきだと情報提供者は語る――】。……さて、これはウソか本当か。  今回の黒幕は誰だと考える前に、雛菊の台詞が思い出される。  来週を楽しみにしていろ、とはこのことだろう。ただわからないのは、なぜ生徒会長や直哉まで標的にしているのかだ。 「無差別攻撃か?」 「彼女は憎いのさ。自分に不愉快を与える全てがね」 「……部長」  おさげ髪の女が、密着すれすれの距離で背後に立ち、涼しい顔をして俺の手元を覗き込んでいた。 「あのですね、黙って人の後ろに立たないで下さいって、あなたにはもう何度も言いましたよね」 「そうだな。高瀬には、よく言われていた」  高瀬、と呼んだ部分をやけに強調し、部長は一歩分の距離を下がる。顔はいつもどおり不敵にニヤケているが、目は笑っておらず、かといって厳しさがあるわけでもない。 「だいぶ高瀬本人が表面化したようだな、森実」 「わかるんですか?」 「もちろんだとも。お前は次に、『これからどうなるんですか?』と言う」 「──おそらく、一樹は消えてしまう。そうですよね?」 「……ノリの悪いコンビだね、ホント」  突然、「沙耶歌」が口を利いたことにもそれほど驚いた様子はなく、部長はつまらなさそうに首を横に振った。ノリで会話する空気ではないことぐらいわかっているだろうに、どうしてもこの人はボケたいらしい。 「重い話の前に軽いジャブをいれるのは談笑の基本なのだがね。つくづく真面目キャラは度し難い」 「談笑する気、ありませんし」 「森実がこの世にとどまっていられる時間は残り一日、もって二日。もともと一つの身体に二つの魂が入っている状態なんか、長続きするわけがないのさ」 「い、いきなりですね」 「無駄な会話がお嫌いのようだからねぇ。君も、君の相棒も」  悪い顔で、皮肉めいたことを言われてしまった。 「……あと一日、ですか」  わかっては、いた。  沙耶歌の意識がハッキリしていくたびに、一樹としての意思が希薄になる。文字通り以心伝心で通じている沙耶歌にそのことを隠せるわけもなく、俺達はだいぶ早い段階からその覚悟を決めていた。  幽霊である俺は、やがて消える。わかっていたはずなのに、部長の口から明確に告げられたことで心が騒いでしまった。 「君の願いは叶ったか?」 「願い?」 「まぁ記事を読む限り、未練を果たすどころか余計にこじれてしまったようだ。……心穏やかに逝かせてやりたかったんだが、叶いそうにないな」  憂いを含んだ声で呟き、壁に貼られなかった壁新聞を俺の手から奪い取る。  部長の言うとおり、状況はこじれにこじれまくっていた。  願い。未練。  俺の未練は何だ? 本当に直哉の幸せを望むのなら、なぜ告白なんかした? 「……俺は、どうしたら?」 「私に聞くな」  冷たい台詞と、チャラ、という小さな音が、沈みかけた俺の頭を持ち上げる。  目の前には、見覚えのある鍵が部長の手からぶら下がっていた。 「選択肢を増やすぐらいのことはしてやる。これは好きに使え」  部長の手が沙耶歌の右手を包み、手のひらの中に鍵を握らせる。  態度とは裏腹に、彼女の手はとても暖かかった。 「せいぜい悩み、最後の瞬間まで悔いを残さぬよう努力してみろ。森実」  ほんの一瞬はにかんだように笑い、かと思いきやすぐにいつもの不遜な薄ら笑いに変わる。全てを悟っているようで、相手を小ばかにするようで、それでいて頼もしさと優しさを織り交ぜたような、奇妙な、しかし慣れ親しんだ微笑みだった。  包んでいた手が離れ、彼女は棒立ちの状態から動かない俺の脇をすり抜ける。 「部長……」 「元、だ」  すれ違いざま、常套句のように言っていた台詞を久しぶりに呟き、丸めた新聞で肩を叩きながら部長は悠々と立ち去っていった。  これが彼女なりの今生の別れ方なのだろう。なんとなくだが、そう思う。 「──あっさりとしていましたね」 「部長らしいよ」  あの人には、たくさんフォローをしてもらった。行き詰ったときは頼れと言っていたが、実際に助けてもらったのは一度や二度ではない。 「結局、一度も払わなかったな……料金」  相談一回につき百五十円。けち臭い話で、ドリンク一回分の値段を踏み倒し続けてしまった。 「──私の財布を勝手に使わないで下さい」 「そうは言うがなー……っと、そろそろ行くか」  独白モドキのショートコントをしているうちに、昇降口に人だかりが見えてくる。ざわざわとした喧騒に耳を傾けながら、俺は手のひらの上に乗った部室の鍵を握り締めた。  俺がすべきことは……いや。  森実一樹が本当にしたいことは、なんだろう。  残り時間はわずかだと宣告をされたにもかかわらず、俺は普通に授業を受け、気がつけば一日の半分が終わっていた。  疑問の答えは、もう出ている。というよりも最初からわかっていた。ただそれを認めることが出来ず、結局こんなギリギリになるまでお人好しのフリを続けていただけだ。 「ホント、バカだな俺」  自嘲もそこそこにして、昼休みの校舎をさまよう。この時間ではターゲットの捕捉も難しいが、じっとしてなどいられない。沙耶歌の腹がいやしくも空腹を訴えているが、現在の俺はラマダン月間なので断食中だ。もちろんウソだが。宿主の知識とリンクしているせいか、ボケのレベルが高いね、ハハハー。 「――焦っていますね」  焦ってないよ? うん、ぜんぜん。っていうか人の多いところでいきなり喋るな。 「――そんなわけのわからないテンションで、まともに話が出来ると思いますか?」  …………。 「悪い。ちょっと、イラついていた」  やっぱり沙耶歌はドライだ。  幼馴染の余命があと十二時間を切っているのに、こうして冷静な判断で俺を諭してくれる。正直な話、ありがたかった。  落ち着いた今なら、自分がしようとしていたことの無謀さが自覚できる。もし一人でこの局面を迎えていたらと考えると、ぞっとした。 「……飯、食いに行くか」  沙耶歌の返事はない。だがきっと、いつものつまらなさそうな顔で『そうですね』とでも言っているに違いない。  俺は苦笑いを浮かべ、学食に向かって歩き出した。 《あー、オホン》  天井から、スピーカーのハウリングとわざとらしい咳払いが聞こえてくる。 「……前もこんなこと、なかったか?」  相棒の返事は沈黙だった。きっと、俺と同じく首を上に向けてハテナでも浮かべているに違いない。 《生徒会から全校生徒に告ぐ。Fの捜索を終了せよ》 「は?」  既視感が、一挙に襲い掛かってくる。  周囲のざわめきは息を潜め、皆あっけに取られた顔をして天の声に耳を澄ましていた。 《僕は今、一人の天使を失った。至純な想いを、Fは冷笑をもって打ち壊したのである! 彼の者はもはや天使ではなく、魔性の者だ! 僕が愛し、諸君らが捜し求めたFは死んだ! なぜだ!》 《ひとつの夢が終わったのです。それだけのことです、会長》 《おお、坂井よ。従順なる生徒会書記よ! ……そうだな。僕はこの悲しみを乗り越え、新たなる情熱の炎を胸に宿し立ち上がろう! 生徒会役員こそが、この学園の生徒達を正しき道へと導けることを……ん? ああっ、何をする放送部!》 《以上、生徒会によるお知らせでした》 《おいまだ僕は語り足りな――――ブッ》  放送はものの一分かそこらで終了した。  ほんのわずかな時間でしかなかった。  それなのに。 「なん、なん、な……」  シリアスな空気も、十二時間後の絶望も、パートナーに抱いた信頼感すら。 「――さすがです、会長」 「っておおおおおおおおいいいいいっ!」  ぜんっっっっっぶ、かっさらわれてしまったようだ。  淡い金色に彩られた演劇部の部室で、俺は一人イスに座ってパソコンのモニターをみつめていた。耳を澄ませば、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。早ければあと数時間で今度こそこの世とオサラバだというのに、やけに心は落ち着いていた。  キーボードがパチパチと軽妙な音を立て、開きっぱなしにしているテキスト画面に文字が打ち込まれていく。  〉 本当に、ここで待つつもり?  本来なら自由に口を動かすことだって出来るのに、沙耶歌はあえてパソコンを使い俺とのチャットもどきに励んでいた。誰もいない場所であたかも会話をしているような独り言を続けるよりは、よっぽど冴えたやり方ではある。  〉 あんなことをしたばかりです。部室に来るかどうかは、分の悪い賭けでは。  意図することなく両手が滑らかに動き、沙耶歌の言葉が文字として発信される。平坦な彼女の声を頭の中で再生しながら、俺は腕の主導権交代を意識しメッセージを返した。  〉 来るよ。  ぎこちなく左手を動かし、一字一字を確かめているようなスピードでキーを叩く。  タッチに慣れていないわけじゃない。ただ単純に、手を動かすという行為がひたすら億劫なのだ。  眠いです。と書いて筆談を強制終了した沙耶歌の気持ちが、今ならよくわかる。抗えなくはない感覚だが、そうすることが非常に面倒くさく感じられた。  けれどまだ、その流れに身をゆだねるつもりはない。やり残していることが、俺にはたくさんある。  〉 あいつは絶対に来る。  〉 その自信はどこから。  〉 モヤモヤしたままは嫌いだろ、あいつ。  〉 そうですか。  片方の返信がすさまじく鈍いチャットは続く。ふと思ったが、もしこのまま待ち人が来ない場合、沙耶歌が俺の最後の話し相手になるわけか。  考えてみれば不思議な縁である。幼馴染とはいえ特有の親しさがあったわけでもないし、彼女が演劇部のドアを叩かなければ間違いなく自然消滅していただろう、そんな薄い関係だ。  なのにいまは一つの肉体を共有し、これといった諍いもないまま最期を迎えようとしている。普通こんな状況になったら、バカとかスケベとか散々なことを言われてケンカになってしまうと思うんだが……。  〉 一樹が私のために、いろいろ良くしてくれたことはわかっています。  モノローグに対し、答えが出てきた。  相変わらず俺の頭の中はだだ漏れらしい。こちらから沙耶歌の思考は読み取れないのに、少し不公平だ。  〉 お節介だとも思いましたが、いじめのこと、感謝しています。ありがとう。 「……」  ずっと後ろめたさを抱えていた。  身体を無断で間借りし、裸を見て、会長の評価を下げ、後輩達に正体を明かし告白までやらかし。それでも『ありがとう』と言われたことで、少しだけ気持ちが軽くなる。  俺がやったことは、バカで無駄で迷惑な真似ばかりでは、なかったらしい。  〉 もう一度聞きます。本当に、ここで待つの?  答えなどわかりきっているくせに、沙耶歌はまた同じ質問をする。  アゴを小さく引き、その問いかけに肯定の意を表した。  来ないなら、このまま黙って消える。  来たら、言い残したことをちゃんと伝える。  部長から預かった鍵を使い、このイスに腰をかけた瞬間から、俺の心は決まっていた。  〉 後悔しませんね? 「人のことより、お前はどうなんだ?」  倦怠感が左手の操作を諦め、口を使ってのやり取りに切り替える。  幸いにも演劇部の部室だ。もし誰かが部屋の前を通りかかっても、台詞の練習をしていると勝手に勘違いしてくれるだろう。 「会長に伝えないのか? 好きですって」  どうやら雛菊にこっぴどく振られたようだし、今がチャンスだぞ。と冗談めかして言っても、沙耶歌は無反応だった。でもまぁ、やたら自分の顔が熱いので彼女がどんな気持ちでいるかは、大体想像がつく。  どうしてこの幼馴染に取り憑いたのか、なんとなくわかった気がした。  俺達は、とても似ている。  会長のために演劇部に入り、恋敵の雛菊へ生徒会のアピールを続けた沙耶歌。  同性だからという理由で告白せず、死後も直哉の恋路を応援しようとした一樹。  本音を閉じ込めて、相手のために自分を殺しているお人好し同士で。  だから、こうして引き寄せられたのかもしれない。 「なぁ、勇気を出してみようぜ?」  本気の想いを伝えることで、相手に気持ち悪がられるかもしれない。ひょっとすると、けなされるかもしれない。それは辛い思い出となり、しこりとなって心を痛めつける。  だけど、構うものか。  告白してもしなくても、どのみち後悔するというのなら。  やるだけやって後悔した方が、ずっとマシだ。 「俺は玉砕したけど、お前はまだこれからだろ」  奇妙な因果で再び絆を結んだ相手に、精一杯の激励をする。 「頑張れ、沙耶歌。お前は可愛い」  自分が果たせなかった望みを、叶えて欲しい。  励ましついでに、俺はそんな無責任な言葉を託すのだった。  っていうか。  顔、あっちぃ……。 「……い、おい!」 「!」  締め切られたドアの反対側から、乱雑な男の声が聞こえてくる。 「来たか」  確信が確定に変わり、パソコンを閉じて勇み立つ。  高揚した気持ちを抑えながら、俺はドアが開かれるのを待ち構えた。 「待てっつってんだよ、福山!」 「へ?」 「ヒナ、乱暴されちゃいます〜。助けてください部長さん〜」  必死な声に対し、ふざけきった女の声も近付いてくる。  よくわからんが、直哉は雛菊を追いかけているらしい。 「え、ちょ、ちょっと、ストップ、待って」  二人一緒に、しかもこんな険悪っぽい状況をおまけに付けて部室にやってくるとはさすがに思っていなかった。  いま鉢合わせするのは、非常によろしくない。どう考えても、俺が喋るターンを逃してしまうような気がする。 「どどど、どうすれば」 「──もう、情けない!」  動揺しまくる声とヒステリックな声を間髪いれずに吐き出し、とっさに教室の隅にあるロッカーへ飛び込んだ。  以前、部長がこの中に直哉と雛菊を閉じ込めてから使用されていなかったのか、一人分が隠れるスペースは十分にある。  内側から戸を閉め、覗き口で部室の様子が窺えることを確認し息を潜める。その数秒後に、入り口のドアが派手な音を立てて開いた。 「部長さぁ……ん? おでかけですかぁ?」 「福山! もう逃がさねぇぞコラ!」  雛菊に続いて、直哉が悪漢の決まり文句と共に現れる。  どうでもいいが、もうちょっと言葉は選べ。 「やぁん。ヒナ、マワされますぅ〜」  いつも以上にウザイ口調で、けらけらと笑いながら腹黒娘が部室の奥へ行く。ロッカーの小さな隙間からでは、入り口に立つ直哉の表情を見るのが精一杯だった。 「ナオくんしつこいですよぉ? ヒナ、今日はお話しする気分じゃないのです」 「いや、聞いてもらう。聞け」 「んー……本当に問題児ですねぇ。腫れ物のように、じゃなくて、うじ虫のように扱うべきだ、と伝えるべきでした」  からかうように喋る雛菊が、公開されなかった壁新聞の文章内容を口にする。  直哉を危険視せよと読者に呼びかけたあの記事は、やはり彼女が関わっていたのだ。 「それにしても、どうして新聞は貼り出されなかったんでしょう? ヒナはちゃんと特ダネ提供したのに、これじゃあ契約違反ですよぅ」 「何の話だ」 「高校生を二人も入院させた、ナオくんの、か〜っこいい中学時代のお話です」  明るく言い放たれる一言で、直哉の表情がスッと曇る。 「どうして、それを」 「知っているんだ、ですか? 言ったじゃないですか。ヒナは、お友達がたくさんいるんですよ〜」  のんびりとした喋りで、雛菊は自分の腹黒本性をどんどん露呈していく。  そのあまりの豹変ぶりに、直哉は戸惑い二の句が継げなくなっていた。 「うふふふ。どうしましたか、ナオくん。可愛いヒナちゃんが、実はこんな子だったって知って幻滅しちゃいましたか?」 「……雛菊」 「ヒナ、名前で呼ぶのを許可した覚えはないのですが〜」 「俺は、お前が好きだ」 「ふぇ?」 「────ッ」  両手が口を押さえ、叫びそうになった声をすんでの所で押し止める。  ロッカー越しとはいえ、直哉が『好きだ』と言った。そんな台詞を聞いて、舞い上がるなという方が無理な話だ。むしろいますぐこの戸を開き、俺も好きだったと言って抱き合うべきである! 「──落ち着きなさい一樹。あなたに言ったんじゃないから」  沙耶歌の口が、小声で俺をたしなめる。  …………うん。また、バカな真似をやらかすところだった。  ちょっとは空気読もうぜ、俺。マジで。 「えっとー? どうしてこの流れで、そんなこと言うのかワケがわからないのですが」 「流れなんか知るか。俺と付き合ってくれ、雛菊」  直哉が真剣な眼差しで告白をし、歩を進める。 「ヒナは、あなたのこと嫌いです」 「俺はお前が好きだ」  思いの丈をもう一度口にして、さらに一歩、踏み出す。 「近付かないで下さい」  それまで常に薄ら笑いが付きまとっていた雛菊の声が、初めて怒気をはらんだものに変わった。 「はっきり言わないとわからないんですか? ヒナは暴力を振るうような人を好きになりません!」  隠れている俺にまで苛立ちが伝わってくるような声だった。面と向かった相手に掛かるプレッシャーは相当のものだろう。  なのに、それを微塵も感じさせることなく直哉はきっぱりと言い切る。 「俺はお前を傷つけない」 「不良の言葉を信じると思いますか?」  二人の会話はそこで止まった。直哉は何も言い返せないのだろうか。  実際、過去に暴力沙汰を引き起こしたのは確かみたいだし、現在だってその気性は穏やかなんていえたものじゃない。  けれど、根っこのところはとても優しくて、自己中心的で強引だがいつも誰かを気遣っていて、そしてなによりも、好きな奴を前にしただけでうろたえ、まっすぐな性質をへそ曲がりにするぐらい、ピュアな男で。  そんな直哉のことが、俺は大好きで。  男同士で、やっぱり気持ち悪がられるだろうけど、自分の気持ちを伝えられなかったことが、とても悔しくて。  ……ああ、認めてやるさ。俺の未練は、直哉の幸せを見届けることなんかじゃない。  あいつに、好きだと言いたかった。ただ、それだけだったんだ。 「雛菊」 「まだ何か?」  二人の会話が再び始まる。  見ると、直哉は手を前に突き出し、右手で左の中指と人差し指を握っていた。  何をするつもりだと、そう思う間もなく。 「俺は、お前を傷つけないッ!」  叫びと同時に、指を握った手が外側に向かって一気に力を加えられる。  パキ、と奇妙な音が聞こえた気がした。もしかすると幻聴だったのかもしれない。だが、苦痛を押し殺したうめき声を上げる直哉と、彼の左手の二本指が爪先を手の甲に向けているこの光景は、間違いなく現実だった。 「なお」 「何をしているんですか!」  ロッカーから飛び出そうとした俺の声にかぶさるように、金切り声が部室に響き足音が近付いてくる。  戸の覗き口に、慌てた様子で直哉に駆け寄る雛菊の姿が映り込んだ。 「自分で自分の指を折るなんて! バカなの? 何を考えてるの? それでわたしが動揺すると思ったの!?」  余裕に満ち溢れたフィクサー気取りから一転して、物凄い剣幕で直哉をなじる。  それでも雛菊は、言葉とは裏腹に不良と罵った男に寄り添い、手を取り折れた指にシャープペンとハンカチを巻きつけていった。 「してんじゃねーか。動揺」 「ええそうよ動揺しているわよ悪い? わたしは、あなたみたいな血も涙もない不良とは違うの!」 「言葉遣い」 「何よ!」 「言葉遣い、それが素か?」  雛菊が息を呑むのが伝わる。  無垢な後輩でなく、情報通の黒幕でもない少女の素顔が、そこにはあった。 「いつものフヌケな感じのお前も好きだけど……そっちのお前も、悪くないな」  折れた指がすさまじい痛みを訴えているはずなのに、直哉はそう言って思いがけない宝物を手に入れたように微笑んだ。  わざと自傷行為に走り同情を買おうとした、そんなくだらない算段があったわけではない。純粋に、雛菊は絶対に傷つけないという己の言葉に誓ったまでなのだろう。 「…………どうして?」  自分を痛めつけてでも、直哉はそのまっすぐな想いを相手に伝え、そのひたむきさが彼女の仮面を剥がした。 「どうして、あなたも生徒会長も、簡単に好きだと言えるの?」  素の顔をさらけ出した雛菊は、弱々しい声でそう尋ねる。 「わたしは、ずっと言えなかった。好きな人に本当のわたしがどんな子か知られたらって思うと、怖くて何も伝えられなかった」  ぽつりぽつりと、普段からニコニコしている能天気そうな顔の裏で考えていたことを吐露していく。 「同じ部活だし、チャンスはいくらでもあるからって、ずっと言えずに、ずるずる引き伸ばして……そうして気がついたときには、わたしの好きだった人は、いなくなっちゃいました」 「カズキのこと、か?」  そこまで言われればいくら鈍感でも気がつくのだろう。  直哉が導き出した答えに、雛菊は力無く頷いた。 「わたしの時間は、先輩と別れたあの日から、ずっと止まっています。それなのに、もう他の人を好きになるなんて出来るわけがない。……考えたくも、ありません」 「いまからでも、アイツに言えばいいだろ」 「あなたは、あの先輩が一樹先輩だなんて本気で信じているの?」  雛菊の言葉が、俺の胸をえぐる。  いまここにいる一樹はまやかしだと、彼女はそう言っていた。 「確かに、仕草も喋り方も完璧だと思う。でも、幽霊? 憑依? そんなことあるわけないじゃない。高瀬先輩は、一樹先輩のフリをしてあなたに近付きたいだけよ。考えても見て? 男だった先輩が、男のあなたに告白なんてする? 先輩はそんな人だった!?」 「……言いたいこと言うじゃんか、腹黒娘」  俺の手は、今度は止まらず、また、沙耶歌に止められることもなくロッカーの戸を開いた。 「え」 「お前……」  戸惑いをあらわにした二人分の視線が、俺に集まる。  今までの会話を盗み聞きしてしまったことには、もちろん罪悪感がある。だが、もう大人しくしていることなどできなかった。 「あのな、雛菊が言った「一樹」はただのイメージだ。本当のヒナちゃんが可愛くて無邪気な子じゃないのと同じで、俺だって本当の自分を隠していたんだよ」  本当の自分を知られるのが怖い、と彼女は言った。それは俺も同じだ。でも、好きな相手にまで素顔を隠していたら一歩も前に進まない。後悔ばかりが残る。  傷つくことや傷つけることを恐れていて、恋愛なんてできるはずもないのに。  俺も、雛菊も、沙耶歌も直哉も。  みんな、心の中にある気持ちを隠していた。 「ここらで一つ。勇気、出しても良いんじゃないか?」 「か、一樹先輩のフリするなって、言ったじゃないですか!」 「──私が一樹の真似をして何の得があると?」  突如として口調を入れ替え、雛菊の気勢を削ぐ。もっとも、狙ってやったわけじゃなく勝手に口の主導権が沙耶歌に移り、結果的にそうなっただけだ。 「──そこの不良に懸想し、近付くための手段に用いた? 何を言っているんでしょうねこの小娘は。私の目には、あの気高き会長の他において好意を抱く対象はいません!」  いや、一人の男として、そうきっぱり言われたら悲しいものがあるんだが。 「──史上最低の女ったらしで、同性愛者! それが、私の知る本当の一樹です」  容赦ねぇな! 相手を傷つけることを恐れてちゃいけないっつっても限度があるだろう! っていうか、誰が同性愛者だ! 「好きになった奴がたまたま男だっただけ……って、あれっ?」  いつの間にか、主導権がまた俺に移っていた。……引っ込むなら引っ込むって言えよ、沙耶歌。 「……えっと、さ。それで、ヒナちゃん」  あー、どこまで話したっけ?  くそ、完全に水をさされたじゃないか。 「レベルの高い一人二役ですね、高瀬先輩」 「だから違うって……ああ、もうそれでいいや」  なんだか、だんだん面倒になってきた。言い残したことを伝えたいだけなのに、なんでこんな風になっているんだろう。 「ああ、そうそう。悔やむくらいなら、ちゃんと伝えるべきだと思うって話」 「何のことです?」 「好きな人に好きだって言えなかったの、後悔しているんだろ?」  俺が一言一言を投げかけるたびに、雛菊の表情は鋭いものに変わっていく。しかし、直哉に比べれば可愛いものだ。もともと童顔なのがさらにいけない。 「……そうですね、その通りですよ。でも、わたしが好きだって言いたいのは高瀬先輩にじゃない」  電話では顔が見えない恐怖も手伝い臆してしまった。だがいざ対峙してしまえば、目の前にいるのは無理矢理気を張ってやきもきする普通の女の子だ。 「俺が本当に一樹かどうか、確認する必要があるのか?」 「はい?」 「──あなたも認めたじゃないですか。私は、一樹を完璧に演じている。なら、あなたの気持ちにも「一樹」として答えることができるのでは?」 「…………」 「これが最後のチャンスだよ、ヒナちゃん。たとえ俺がニセモノだとしても、気持ちを吐き出すことが無意味なわけじゃないと思う」 「……」  雛菊は目を泳がせ、しばらく無言のまま逡巡を重ねる。  一樹と沙耶歌がかわるがわるに背中を押し、その効果がどんな決意を促したのか、再び前を向いた大きな瞳には強い意志がこめられていた。 「わたしは……」  搾り出した声を詰まらせ、少しだけ俯いて首を左右に振る。  もう一度顔を上げると、そこには俺のもっとも見慣れた表情があった。 「ヒナは、一樹先輩のことが、好きです」  飾り気などまるでなく、腹黒さもない、笑顔での純粋な告白。そんなストレートな好意を向けられ、不覚にも、可愛いなと思ってしまう。 「ありがとう、ヒナちゃん」  自分を好きだと言ってくる相手を、邪険にできるはずもない。だが、それでも俺はちゃんと言うべきだった。  これは、俺なりのけじめでもある。直哉に抱く好意をごまかすため、告白をしてきた女の子達を中途半端な気持ちで受け入れてしまった森実一樹という女ったらしの、最初で最後の正直な返答だ。 「でも、ごめん。俺、好きな奴がいるんだ」  ずっと黙ったままの直哉を横目で窺う。何を考えているのか、その表情は複雑すぎて読み取れない。 「ひどい、ですね。フるために、わざわざ告白させたんですか?」  視線を戻すと、さっきまで微笑んでいた目つきが険悪なものに一変している。 「本当に、ひどい…………でも」  いったん言葉を区切ると、雛菊は俺の目に背を向けて、顔をごしごしと制服の裾で擦り小さく息を吸った。  しなくてもいい失恋をさせられて、なのに彼女は晴れ晴れとした声で言う。 「ありがとうございます、さーちゃん先輩。ヒナ、ちょっとだけスッキリしました」  気持ちを伝えることは、どんな結果であれ、無駄ではなかったのだ、と。 「……さて」  今度は自分の番だと意を決し、さきほどからずっと静観を続けるツンデレヤンキーへと足の向きを変えた。  俺も、スッキリさせてもらうとしよう。 「直哉、俺は」 「わかんねぇ……」  一大決心をした人の告白を、鈍感男はいとも簡単に遮ってくれやがった。 「わかんねぇよ。カズキが言ってたのはタチの悪い冗談なんだろ?」 「冗談……」 「雛菊に言われるまでもねぇ。俺だっておかしいと思っているんだよ。カズキが俺を好き? いつもの冗談だろ? それとも、本当はお前はずっと副会長のままで、あいつのフリをして俺をからかっていたのか? どうなんだ!」  いままでグッとこらえていた疑問を怒涛の勢いで俺に浴びせかけ、雛菊とは比べるべくもない凶悪な形相が詰め寄ってくる。 「お前の言葉は副会長としてか? それともカズキとしてか?」  両肩がつかまれ、見上げたすぐ傍に、直哉の顔があった。 「…………『演劇部部長として、です』」  胸の動悸を感じているくせに、「沙耶歌」は相変わらずのアンニュイな顔で、肩に置かれた直哉の手をつまらなさそうに振り払う。 「『演劇部部長として、いまから辞令を下します』」  平坦な声と、何事にも動じていないクールな立ち振舞いを演じて、当たり前のように目の前の男を指差す。  そして、「一樹」はけろりと笑った。 「次の部長、お前な」 「はぁッ!?」 「あとは、全部お前に任せる。受け取れ」  スカートの中から部室の鍵を出すと、行き場をなくし宙に浮いたままになっていた直哉の手を取りぎゅっと握らせる。  そういえば俺も、部長にまったく同じことをされた。もし来年も演劇部が残っているのなら、この引き継ぎ方は慣例にしてもらえたら面白いかもしれない。 「ヒナちゃん」  目を白黒させる直哉から顔を背け、背中を向けたままでいる雛菊にも、部長として残したい言葉を伝える。 「君の演技は、本当に上手かった。できればこれからもこの部に残って、直哉をサポートしていって欲しい」 「…………来年はヒナが部長さんですから、サポートはナオくんの役目です」  就任早々の部長に、さっそく下克上宣言か。だが、堂々と反旗を掲げる部下を前にしても、直哉はまだショックから立ち直っていない。 「はは、頑張れよ。新部長」  愕然として口を開けたまま棒立ちになっているヘタレ男の胸板を叩き、短い激励をし、脇を通り過ぎる。 「お、おい!」  雑な呼び止め声が吐き出されたときには、俺はもう、部室の出入り口にいた。 「じゃあな」  笑顔のままで軽く手を振り、ドアを閉める。  直哉がまだ何か叫んでいたようだが。  残念ながら、全速力で部室から走り去る俺の耳に、その声は届かなかった。 「はぁ、ぜぇ、はぁ、ひぃ」  周りの風景がほとんど夕闇に呑まれた通学路で、一人の少女が息も絶え絶えになって電柱に手を付いていた。学校からこの場所までおよそ五百メートルしか離れていないのに、このザマである。  沙耶歌、お前ホント鍛えた方がいいぞ。 「うる、さい。生徒会副会長は、肉体労働なんて、しないの、です」  いやしろよ。生徒会役員である前に演劇部員だろうが、お前。というか副会長でも普通に雑務ぐらいあるだろ。 「頭脳、労働が、私の本職です。……はぁー」  沙耶歌は一つ大きなため息をついてから呼吸を整え、背筋を伸ばして歩き始めた。 「佐川君に、伝えたかったのでは? 好きだと」  いや、それもう済ませたし。 「はい? まさか、あんな勢いだけの告白で?」  満足だったが、なんか文句あるか。っていうか、俺の考えは読めているだろ? 「……どんどん、聞こえにくくなっているんですよ、一樹の声。周りに人もいませんし、ちゃんと喋ってください」  ああ、それ無理。  正直な話、沙耶歌の口を動かすほどの気力、残ってない。 「………………そうですか」  ドライだな。  いよいよお別れなんだから、普通は泣くところじゃね? ここ。 「さて、泣くのは私でしょうかね?」  沙耶歌に似つかわしくもない余裕ぶった台詞で、淀みなく、本人の意志で足が動く。 「歩くのは、久々です」  感慨深げに呟き、家路へと向かう。おそらく俺にとって、本当に最後の最後になるだろう風景を、沙耶歌の目を通して心に刻み付ける。  同時に、この短くも長かった奇妙な日々を振り返った。  高瀬沙耶歌として過ごした一週間は、カーテンコールみたいなものだったのかもしれない。一度は下りた幕を再び上げ、舞台の人間は観客に何度も何度もおじぎをする。  俺の場合、感謝を表すどころか喜劇を上演してしまったわけだが、その結果は上々だったんじゃないかと思う。  ウケていない客だっていたし、喜劇に戸惑う客や、舞台に無理矢理引っ張り出された客もいた。  でも、最後はみんなが笑ってくれたのだから。  「森実一樹の人生」という演目は、間違いなく上出来だ。 「着きましたよ」  なんだ、早いな。  もうちょっと、自分に酔った締め方を続けたい気持ちもあったが、沙耶歌の家もこれで見納めだと思い頭を切り替える。  そこは、俺の死んだ場所だった。  修復されたガードレールの傍らに添えられたスミレの花や、すっかり薄くなったアスファルトのタイヤ跡を見るまでもなく、以前と同じく瞬間的に理解した。 「一樹」  ガードレールの前にしゃがみこみ、じっと紫色の花を見つめる。 「あのバカな後輩には、先代部長と一緒に私が伝えておきます」  何をだ。 「この世には、女同士で生まれる純愛も、男が男を好きになる恋の道も、男が女になる現象も。全部、有り得るのだと」  元部長と組んでまで、それ、教える必要あるか? 「一人の人間の恋心を終始冗談扱いするような朴念仁には、適切な躾が必要だと思いましたから」  どうやら、声が聞こえていなくても沙耶歌にはお見通しらしい。  俺は、本当は、満足なんてしていないことを。  自分の恋心は、相手に認められさえしなかった。失恋さえ、俺はできなかったのだ。  それが残念で、ひたすら無念で、とても悔しくて泣くに泣けないほど辛くて。 「一樹」  俺に影響されたのか、沙耶歌の声が水気を帯びる。 「ここでなら、泣いていてもおかしくないと思います」  …………。 「私も、そういえばまだ、あなたのために涙を流していませんでした、から」  そうか。 「は……い」  なら、一緒に、泣くか。 「そう、ですね」  それから俺達は、宣言通り一緒に泣いた。  一つの身体で、二人は一心不乱に泣いた。  泣いて、泣いて、泣いて。涙が枯れるほど泣いて。  どっちがどっちの嗚咽だかわからなくなるほど、泣いて。  やがて。  泣いて。泣いて。泣きつかれた、俺は。  静かに、まどろむように、「一樹」の幕を下ろしていった。    *   *   *  子供のように泣きじゃくったその翌朝、鏡に映った自分の顔を見て、どうやって目のはれをごまかそうかと長い間考えた。  だが妙手は思い浮かばずじまいで、あろうことか遅刻までしてしまった。死人に口なしなのをいいことに、全部あの幼馴染が悪いのだという結論に至る。  理不尽すぎる責任転嫁をしても、私の頭の中に声が響くことはなかった。 「珍しいね。サヤカが遅刻なんて」  参加の遅れてしまった授業が終わると、クラスメイトの日立さんが好奇心をあらわにした表情で私に声をかけてきた。ついこの間までいじめていた相手に、彼女は気後れすることなく、まるで前からそうだったかのように接してくる。  一悶着あった翌日に親愛を公言し、かと思いきや裏切り、また次の日には友人という立ち位置に堂々と居座る日立さんの図太さには、もはや呆れるしかない。 「バカ……」 「え、何か言った?」 「なんでもありません」  ふいと目を逸らし、窓の外を眺める。  彼女の元恋人が下した評価は、限りなく的確であったと実感した。 「っていうかなんか、目、すごいね。どうしたの?」 「……」  人の事情にずかずかと踏み込んでくる少女に、呆れを通り越して苦笑すら浮かんでくる。  私はこの同級生と、果たしてこれからどんな友情を育んでいくのか、なんだか楽しみに思えてきた。  お昼休みのチャイムが鳴り、これから何を食べようかと思いを巡らせながら廊下を歩いていたときだった。 「好きだ」  無愛想がそのまま声になったかのような物言いに、私は足を止め壁際に身を寄せた。 「好きだ。好きだ。大好きだ」 「はいはーい。わかりましたから、ヤンデレさんはそれ以上近付くなですぅ」  素っ気無い男の声とは対照的に、媚びを意識した可愛らしい女の子の声色が遠ざかる。  そぅっと曲がり角から顔だけ出して会話のする方を窺うと、一組の男女が私に背を向けて歩いていた。  左の指に包帯を巻いた男の後姿が、ツインテイルの女の子の背中を追いかけている。 「なんだよ、ヤンデレって」 「じーじーあーるけーえす、です」 「……ますますわかんねぇ。けど、そんなお前も好きだ」 「つーん、です」  二人は付かず離れずのまま、歩調を一切緩めることなく進んでいく。  向かう先は、私と同じく学食だろうか。もしそうなら、お昼抜きを覚悟する必要が出てきた。  躾をしてやるという約束は、しばらく果たせそうにない。 「二人がくっついてから、ですね」  壁にもたれかかり、ため息と一緒に独り言を漏らす。  彼の望んでいた未来が、早く訪れますように、と。  空腹を抱えながら放課後を迎えた私は、いままでならまっすぐ演劇部へと向かっていた足に寄り道を命じた。  くぅくぅ鳴っていたお腹は、目的の場所が近付くに連れてドキドキという心臓の音にかき消されていく。  体温がとんでもないほど高ぶっているのがわかる。俯いたままでいる顔が特にむず痒かった。いますぐにでも目的地の変更を要請したい気持ちでいっぱいだ。 「『ゆ、勇気を出してみよう、ぜ?』」  ぎこちなく、自分自身を他人事のように励まし、勇気付ける。  昨日までの私ならすんなりと言えた男口調が、いまはとても難しかった。 「すぅ……」  目を閉じて、大きく息を吸う。  私ではない私が、恥ずかしげもなく言い切った言葉を声にして紡ぎ出す。 「『頑張れ、沙耶歌』」  私は、可愛い。……らしい。 「うあ……」  さらに顔が熱くなってきた。  あのロクデナシは、なんという言葉を残していったのだろう。好きでもない女に向かって可愛いなどと、正気の沙汰ではない。  ……そんな男が嫌いではなかった私も、どうかしている。 「ふん。あの天然ジゴロ」  顔を上げ、足早に進む。  目的の場所、生徒会執行部はもうすぐそこだ。 「見ていなさい、一樹」  好きな相手のために、何かしてあげたい。その気持ちは嘘ではない。  けれど、それは献身的なフリをしていただけだ。  本音では、私も一樹も、同じことを願っていた。  好きですと、愛しい人に伝えたい。  気持ちを吐露することで、迷っていた道に光が差すのなら。  たとえ傷ついても、前に進めるのなら。 「あなたの願った幸せを……いいえ」  私は歩く。  二人で願った幸せを行くために。                                  おわり
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